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公爵家の食卓を十年支えた料理番の私が辞めた朝、坊ちゃまは初めて泣きました  作者: 秋月 もみじ


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第4話 商人の食卓


 商人というのは、食材を見る目と人を見る目が同じなのだろうか。


 エミール・ヴァイスが祖母の食堂に来たのは、窓枠を直した翌日の朝だった。今度は工具箱ではなく、革の鞄を提げている。


「話がある」


 朝市帰りの私を、食堂の前で待っていたらしい。手にはまだ朝露のついた香草の束を持っている。


「……中で聞きましょうか」


 食堂のテーブルに向かい合って座った。彼は鞄から帳面を一冊出して、テーブルに置いた。


「俺はヴェルデンの貿易商だ。この町に拠点を持っている。商館で働く人間が十二人いる」


「はい」


「飯を作ってくれる人間が必要だ」


 (ああ、そういうことか)


 断ろうとした。口を開く前に、エミールが続けた。


「今は近くの酒場から取り寄せている。不味くはないが、うまくもない。揚げ物と塩漬け肉ばかりだ。胸焼けがする」


「それはお困りでしょうけれど、私は――」


「あなたの魚の香草包み焼き、昨日窓から匂いがした。窓枠を直しているとき」


 (あれ、匂っていたのか。換気のために窓を開けたのがまずかった)


「匂いだけで確信した。あれを作れる人間に、賄いを頼みたい」


 まっすぐな目だった。商人の目というより、うまいものを食べたい人間の目だ。


 けれど、私は首を振った。


「生憎ですが。私はもう、誰かのために料理を作ることに……少し、疲れているんです」


 正直に言ってしまった。


 十年間、公爵家のために作った。ヴィクトルは一度も「おいしい」と言わなかった。ルーカスだけが毎朝「おいしい」と言ってくれた。でも、その「おいしい」も、もう聞けない。


 また誰かのために作って、また必要なくなって捨てられるのは、もう嫌だ。


「誰かのために、じゃなくていい」


 エミールの声は静かだった。


「あなたが作りたい料理を食べさせてほしい」


 作りたい料理。


 その言葉が、するりと胸の奥に入ってきた。


 (作りたい料理。そんなこと、十年間一度も考えなかった。公爵家の献立は、格式と栄養と旦那さまの好みで決まっていた。私が作りたいかどうかなんて、誰にも聞かれなかった)


「……一週間だけ、試しに。それでよければ」


 言ってから驚いた。断るつもりだったのに。


 エミールは頷いた。それだけだった。交渉成立の握手もなく、大袈裟な礼もなく、ただ頷いた。


◇◇◇


 翌朝、エミールの商館を訪ねた。


 港から一本入った通りにある、三階建ての石造りの建物。一階が倉庫と事務所、二階が食堂と応接間、三階が寝室だという。


 食堂を見せてもらった。長テーブルが二つ。窓が大きくて、港が見える。悪くない。風通しがいいから、料理の匂いがこもらない。


 問題は厨房だった。


「ここが厨房です」


 案内してくれた若い事務員の男が、申し訳なさそうに言った。


 狭い。竈が一つと、流しが一つ。作業台は小さな板が一枚。公爵家の厨房の五分の一もない。


 (でも、祖母の食堂もこのくらいだった。狭い厨房でも、うまいものは作れる。むしろ動線が短い分、効率がいい)


 棚を開けた。


 息が止まった。


「これは……」


 香辛料だ。見たことのない小瓶がずらりと並んでいる。


 手に取った。蓋を開けて、鼻を近づける。


 カルダモン。これは知っている。公爵家にもあった。


 その隣。赤い粉末。嗅いだ。甘い香りの奥に、じんわりとした辛味。


 (これは……南方の唐辛子の一種だ。乾燥させてから石臼で挽いている。粒子が細かい。上等なものだ)


 さらにその隣。黄金色の粉。鼻を近づけた瞬間、目の奥がつんとした。


「鬱金か。いえ、鬱金より香りが華やかだ。これはヴェルデンの……」


「サフラニカ」


 いつの間にかエミールが厨房の入り口に立っていた。


「ヴェルデン南部の高地でしか採れない。サフランの近縁種だが、香りが違う。もっと花の匂いがする」


 私は小瓶を持ったまま、エミールを見た。


「こんな香辛料を商っているんですか」


「ヴェルデンとこの国を結ぶ航路で、食材と香辛料を扱っている。倉庫にもっとある」


 もっとある。


 (もっとある。この棚だけでも十分に宝の山なのに、もっとある)


 黙っていたら、エミールが少しだけ口元を緩めた。


「見るか」


「……見ます」


 即答した。一週間の試用期間のことなど、もう頭から消えていた。


◇◇◇


 倉庫には、世界があった。


 乾燥ハーブの束が天井から吊るされている。木箱の中には、真空に近い状態で保存された胡椒の実、丸ごとのナツメグ、シナモンの樹皮。


 ガラスの密封瓶には、見たことのない種子や根が漬け込まれている。一つ一つ蓋を開けて嗅いだ。エミールは何も言わず、ただ瓶の名前を教えてくれた。


「これはヴェルデンの山椒。舌が痺れるが、魚との相性がいい」


「これは干した海藻を粉にしたもの。出汁に使う」


「これは――名前がない。南の島の漁師が使っていたものを買い付けた」


 名前のない香辛料。嗅いだ。柑橘のような爽やかさと、海の底のような深い塩気。


 (この香辛料と白身魚を合わせたら、どうなるだろう。レモンの代わりにこれを振って、低温で蒸したら。いや、先に表面に擦り込んで、一晩寝かせてから焼いたほうがいいかもしれない)


「目が変わった」


 エミールが言った。


「さっきまでと、目が違う」


「……ええ、まあ。少し、興奮してしまいました」


 少しどころではなかった。頭の中で十七通りの献立が同時に走り出している。この香辛料とあの食材を組み合わせたら。あの調理法にこの香りを足したら。


 (落ち着け、マーサ。あなたは一週間の試用期間を引き受けただけだ)


 でも、手が震えていた。包丁を握りたい。この香辛料を使って、何か作りたい。今すぐに。


「明日から来ます」


「ああ」


 帰り道、ふと気づいた。


 商館から祖母の食堂まで、まっすぐ歩けば五分もかからない。なのにエミールの商館は、食堂からかなり離れた通りにある。


 朝市で会ったとき、彼は食堂のことを知っていた。窓枠を直しに来たときも、まるでここを見回りしているかのようだった。


 (毎朝、この食堂の前を通っている? 商館からは遠回りなのに?)


 深く考えるのはやめた。今は香辛料のことしか考えたくない。


 サフラニカと白身魚。明日の朝、最初に試すのはそれだ。

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