第3話 空っぽの食卓
ベルタの手紙は、いつも料理の匂いがした。今日の手紙からは、何の匂いもしなかった。
封蝋を見て、最初に違和感を覚えた。いつもベルタは赤い蝋を使う。公爵家の侍女頭として、紋章入りの赤い封蝋。
今日の封蝋は茶色だった。安い蝋燭を溶かして代用したのだろう。急いで書いたということだ。
(封蝋の色で手紙の温度がわかるなんて、十年も一緒にいたからだ)
祖母の食堂の、埃だらけのテーブルで手紙を開いた。窓から朝の光が差し込んで、ベルタの几帳面な文字を照らす。
――マーサへ。
書き出しが「マーサ様」ではなく「マーサ」だった。公的な手紙ではない。ベルタ個人としての手紙だ。
――坊ちゃまのお食事のことで、お伝えしなければならないことがあります。
指先が冷たくなった。
――ソフィア殿は、坊ちゃまのお食事に卵を使いました。
手紙を持つ手が、止まった。
◇◇◇
ルーカスのアレルギーを最初に見つけたのは、私だった。
あれは五年前。ルーカスが二歳になったばかりの冬だった。
離乳食から普通の食事に切り替える時期で、私は慎重に食材を一つずつ試していた。火加減が肝心なように、食材の導入にも順序がある。
卵を初めて出した日のことは、今でも覚えている。
ほんの一口。薄焼き卵を細く切って、粥に混ぜた。ルーカスが口に運んで、三分もしないうちに唇が腫れ始めた。
私は走った。厨房から医務室まで、公爵家の長い廊下を裸足で。ルーカスを抱えて、匙を握ったまま。
あのときの恐怖は、料理の失敗とは比べものにならなかった。焦がした鍋なら作り直せる。けれど、この子の身体は作り直せない。
医師に診てもらい、卵と乳製品のアレルギーだとわかった。
その日から、私の料理は変わった。卵も乳も使わない。代わりに山羊乳のチーズは少量なら大丈夫だと突き止めた。バターの代わりにオリーブの油を。カスタードの代わりに林檎の裏ごしを。
五年間、一度も発作を起こさせなかった。
(五年間の献立が、全部この頭の中にある。書き残さなかった。意地悪で残さなかったんじゃない。書く必要がなかったから。私がいたから)
◇◇◇
手紙の続きを読んだ。
――ソフィア殿に、私から申し上げました。「坊ちゃまのお食事に、何が入っていてはいけないか、ご存じですか?」と。
ベルタ。あなたがそれを聞いてくれたのか。
――ソフィア殿は笑って仰いました。「王宮で学んだ料理に、除外食材などありません」と。
目を閉じた。深く息を吸った。怒りが煮えるのを、ゆっくり火を絞るように抑えた。
(火加減が肝心。怒りも、同じ。一気に沸騰させたら、鍋が割れる)
――旦那さまに申し上げましたが、「ソフィアの料理に口を出すな」と仰るばかりです。
――坊ちゃまは、ソフィア殿のお料理を召し上がったあと、少しだけ唇が赤くなっていました。
(少しだけ。今回は少しだけで済んだ。次は?)
手紙の最後の行に、目が留まった。
――坊ちゃまは、ソフィア殿のお料理を「おいしい」と仰いました。泣きながら。
手紙を置いた。
テーブルの上に平たく置いて、掌で紙の皺を伸ばした。何度も、何度も。そうしないと、手が震え始めそうだった。
◇◇◇
気がついたら、厨房に立っていた。
祖母の食堂の厨房は、まだ使えるかどうかもわからないのに、私は竈に火を入れていた。昨日朝市で買った食材が、まだ少し残っている。
山羊乳のチーズ。乾燥させた黒パン。蜂蜜の小瓶。
パン粥を作る。ルーカスのパン粥を。
黒パンを小さく千切って、鍋に入れた。水を加えて、弱火にかける。山羊乳のチーズを少しだけ削って加える。牛の乳は使わない。山羊乳なら、ルーカスは食べられる。
ことこと、ことこと。鍋の中でパンがほどけていく音を聞きながら、涙が出そうになって、もっと火を弱くした。
(泣いているときに鍋を見ると、塩加減がわからなくなる。だから泣かない。泣かないで、かき混ぜる)
蜂蜜を最後に垂らした。いつもより多めに。
器によそった。誰もいないテーブルに置いた。
湯気が立っている。甘い匂いが、埃っぽい食堂を満たしていく。
ルーカスはいない。ここには誰もいない。
でも、匂いだけは同じだった。毎朝、あの子のために作った匂いと、寸分違わず同じだった。
◇◇◇
食堂の扉が叩かれたのは、パン粥が冷め始めた頃だった。
開けると、エミール・ヴァイスが立っていた。朝市で会った商人。手に工具箱を持っている。
「窓枠が腐っている。直す」
それだけ言って、彼は食堂の横手に回った。
「あの、頼んでいませんけれど」
「通りがかりだ」
(通りがかりで工具箱を持っている人がいるだろうか)
言い返す気力がなかった。窓枠が腐っているのは事実だし、私には直せない。
金槌の音が響く中、私はもう一杯パン粥を作った。今度は自分のために。
食べた。ルーカスの好きな味がした。
甘くて、温かくて、少しだけ塩気が強い。
(……塩加減、間違えた。泣いていないのに。おかしいな)
窓の外で、エミールが黙々と釘を打っている。何も聞かない。何も言わない。ただ、腐った窓枠を新しい板に替えている。
手紙をもう一度読んだ。
ベルタの最後の一行が、頭の中で繰り返される。
――坊ちゃまは、ソフィア殿のお料理を「おいしい」と仰いました。泣きながら。
おいしくなかったのだ。おいしくなかったのに、おいしいと言った。七歳の子供が、嘘をついた。
お父さまの前で、新しい料理人の前で、「おいしい」と嘘をついて泣いた。
パン粥の器を両手で包んだ。もう冷めていた。
窓枠を叩く金槌の音だけが、静かな食堂に響いている。




