第2話 潮風の朝市
潮の匂いがした。公爵家の十年間で、一度も嗅いだことのない匂いだった。
馬車を四日間乗り継いで、身体中が軋んでいる。けれど鼻だけは正直だ。塩と、海藻と、湿った木材と、それから――魚。生きている魚の、あの青い匂い。
(懐かしい。この匂いの中で育ったのに、十年も忘れていた)
港町ノーヴァ。祖母が小さな食堂を営んでいた町。私が料理を覚えた場所。
馬車を降りて、石畳の坂道を上った。潮風が髪をさらう。公爵家では風に髪を乱されることなんてなかった。厨房の窓は、いつも閉まっていたから。
◇◇◇
祖母の食堂は、坂の途中にあるはずだった。
はずだった、のに。
三度同じ角を曲がって、気づいた。私は迷っている。
(……方向音痴は治らないものなのか。十年前、公爵家に嫁いだときも門から厨房にたどり着くまで三十分かかった)
石畳の道はどれも同じに見える。白い壁と、青い窓枠と、干された洗濯物。猫が塀の上で欠伸をしている。この猫に道を聞きたいくらいだ。
坂を上りすぎたらしい。海が見える場所まで出てしまった。
港には小さな漁船が並んでいて、朝市の準備をする人々がせわしなく動いていた。木箱が積まれ、天秤が並び、氷の上に魚が整列している。
魚。
足が止まった。
(あの銀色。鱗の張り具合。目が澄んでいる。今朝の水揚げだ)
朝市に吸い寄せられるように近づいた。道に迷っているのに、魚を見てしまったら止まれない。これは料理人の性だ。
鯛に似た白身魚が、氷の上で光っていた。身が引き締まっている。鰓を見る。鮮やかな赤。完璧だ。
「触る前に買ってくれ」
声をかけられて、手を引っ込めた。振り向くと、男が立っていた。
濃い茶色の髪を後ろで束ねて、袖をまくった麻のシャツ。商人、だろうか。漁師にしては手が綺麗すぎる。けれど魚の並べ方を見る目は、素人ではなかった。
「……失礼しました。つい」
「つい鰓を確認した?」
少し笑っていた。笑い方が穏やかで、公爵家の人間とは違う種類の余裕があった。
「生憎ですが、癖なんです。魚を見ると、まず鮮度を確かめてしまって」
「料理人か」
「……ええ、まあ」
料理人。そう名乗っていいのかどうか、今の私にはわからない。包丁を置いてきた人間が、料理人を名乗れるのだろうか。
「この白身魚、蒸しが一番いい」
男が言った。魚を一尾持ち上げて、光にかざす。
「香草を乗せて、低温でじっくり。皮目から水分を逃がさないのが肝だ」
(火加減が肝心、と私も言おうとした。まったく同じことを)
「あなたも料理を?」
「いや。商いで各地の魚を扱うだけだ。食べるのは好きだが、作るのは駄目だ」
男は名乗らなかった。私も名乗らなかった。朝市の喧騒の中で、それだけ話して、彼は次の客に向き直った。
◇◇◇
朝市を抜けて、ようやく坂道の記憶が戻ってきた。
石段を七段下りて、右に曲がって、井戸のある広場を通り過ぎる。そこから三軒目。
祖母の食堂は、蔦に覆われていた。
窓も、扉も、看板も。緑の蔦がすべてを飲み込んでいた。屋根の端から蔦が垂れ下がって、まるで建物ごと眠っているようだった。
祖母が亡くなって五年。誰も手入れをしなかったのだろう。私が来るべきだった。来られなかった。公爵家の厨房に縛りつけられていたから。
(いいえ。縛りつけられていたんじゃない。自分で離れなかっただけ)
蔦をかき分けて、扉に手をかけた。鍵はかかっていない。軋みながら開いた。
中は埃の匂いがした。かつてはパンと魚のスープの匂いで満ちていた場所が、今はただ古い木の匂いしかしない。
テーブルが四つ。椅子が倒れている。厨房のカウンターに、何かが立てかけてあった。
木の板。祖母が食堂の入り口に掛けていた看板だ。
蔦を剥がして、文字を読んだ。
「誰かのおなかを満たすために」
祖母の字だ。太くて、少し右に傾いていて、「た」の最後がいつも跳ねる。
看板を胸に抱えた。埃っぽくて、カビの匂いがして、祖母の匂いはもうしなかった。
それでも、この文字だけは生きていた。
◇◇◇
食堂を出て、もう一度朝市に戻った。
食材を買わなければ。今夜、何か作ろう。この食堂で。祖母の厨房で。何でもいい。何か作らないと、この手が落ち着かない。
さっきの白身魚を買おうと思った。蒸して、香草を乗せて。あの男が言った通りの料理を。
魚売り場に戻ると、さっきの男がまだいた。木箱に腰かけて、帳面に何か書いている。
私を見て、少しだけ目を細めた。
「迷子は解決したか」
「……なぜ迷子だとわかったんですか」
「同じ角を三回曲がっていた」
(見られていたの。恥ずかしい)
「あの食堂に用があったのか。坂の途中の、蔦の」
「祖母の店です」
「ああ」
男は何かを思い出すように、少し間を置いた。
「あの食堂の魚のスープは、うまかった。子供の頃、親父に連れられて何度か食べた」
祖母の魚のスープを知っている人がいる。それだけで、喉の奥が少し熱くなった。
「白身魚を一尾、もらえますか」
「ああ」
男は一番いい魚を選んで、紙に包んだ。手際がよかった。
「代金は——」
「エミール・ヴァイス。ヴェルデンの商人だ」
唐突に名乗られて、戸惑った。
「この町に、あなたみたいな料理人が来たのか」
私みたいな料理人。その言葉の意味がわからなくて、聞き返す前に、彼はもう次の客に向き直っていた。
手の中に白身魚の包みだけが残った。紙越しに、冷たくて新鮮な重みが伝わってくる。
(いい魚だ。今夜は香草包み焼きにしよう)
祖母の看板を抱えて、私は坂を下りた。今度は迷わなかった。




