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公爵家の食卓を十年支えた料理番の私が辞めた朝、坊ちゃまは初めて泣きました  作者: 秋月 もみじ


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10/10

第10話 いらっしゃいませ


 開店初日の朝は、干し林檎の砂糖漬けから始めようと決めていた。祖母の味だ。


 林檎を薄く切って、砂糖をまぶして、一晩置く。水分が出たら弱火で煮る。火加減が肝心。強すぎると焦げて苦くなる。弱すぎると水っぽくなる。祖母は「林檎が自分から歌い出すまで待て」と言っていた。


 (歌い出す、というのは、鍋の底でことことと小さな音が鳴り始めることだ。祖母は何でも食べ物に例えた。私もそうなった。血は争えない)


 看板を新しくした。「潮風亭」。海風亭ではなく。祖母の食堂を受け継ぎつつ、私の食堂にするために。


 裏側には、まだあの言葉が彫ってある。「この人と一緒に」。


◇◇◇


 朝六時に窓を開けた。潮の匂いが入ってきた。ノーヴァの朝はいつもこの匂いから始まる。


 テーブルは六卓。椅子は二十四脚。カウンターが四席。全部で二十八人。祖母の頃と同じ配置だ。


 エミールが七時に来た。カウンターの一番端、窓に近い席に座った。


「おはようございます」


「……おはようございます」


 (この人は朝が苦手だ。でも毎朝来る。来ると決めたら来る人だ)


 パン粥と、干し林檎の砂糖漬けと、ミントのお茶を出した。エミールが匙を取って、パン粥を一口食べた。


「……おいしい」


 短い一言。でも、ヴィクトルから十年間聞けなかった言葉だ。


「ありがとうございます」


 私はカウンターの向こうに立って、次の仕込みを始めた。昼の客のための魚のスープ。港で朝一番に揚がった鰯を使う。


 エミールが黙ってパン粥を食べている。窓から朝日が差して、湯気が金色に光る。


 これが、毎朝の食卓。


◇◇◇


 十時過ぎに、馬車が止まる音がした。


 扉が開いた。小さな影が飛び込んできた。


「お母さま!」


 ルーカスだった。


 その後ろに、ベルタが立っていた。旅装のまま、少し息を切らしている。


「マーサさま、お久しぶりです。坊ちゃまがどうしても——」


「ベルタ、来てくれたの」


 ルーカスが私の腰にしがみついた。この子の体は、二ヶ月前より少しだけ大きくなっていた。


「お母さま、パン粥。お母さまのパン粥が食べたい」


「……ええ、もちろん」


 鍋を火にかけた。麦を入れて、水を注いで、弱火で煮る。ルーカスの分は卵も乳製品も使わない。ナッツを細かく砕いて入れる。蜂蜜は最後に。


 (この手順を、何百回繰り返しただろう。でも今日は、自分の食堂で作っている。ヴィクトルの家の厨房ではなく)


 ルーカスがカウンターの椅子によじ登った。エミールの隣の席だ。エミールがそっと椅子を押さえて、落ちないようにしてくれた。


「お兄さん、だれ?」


「……エミールです」


「エミールさん、お母さまのごはん、おいしい?」


「おいしいです」


 ルーカスがにっこり笑った。


「ぼくもそう思う」


◇◇◇


 パン粥をよそって、ルーカスの前に置いた。ふうふうと息を吹きかけて、一口。


「おいしい」


 あの朝と同じだった。公爵家の厨房で、毎朝聞いていた言葉。でも、今日は違う場所で、違う意味を持っている。


 ベルタがお茶を飲みながら、私に小さな手紙を渡した。


「これは最後のお手紙です。もうお伝えすることもないでしょうから」


 手紙には、こう書かれていた。


「ヴィクトル様がパン粥をお作りになろうとなさいました。厨房に初めてお入りになり、鍋を火にかけ、麦を入れましたが、水の量が分からず、蜂蜜を最初に入れてしまい、焦がしてしまわれました。坊ちゃまが一口召し上がって、何も仰らず、お部屋に戻られました」


 (蜂蜜は最後に入れる。先に入れると苦みが出る。十年間、すぐそばにいたのに、あの人は一度も見ていなかった)


 手紙を畳んで、エプロンのポケットにしまった。


 可哀想だとは思わなかった。怒りもなかった。ただ、少しだけ——ほんの少しだけ——寂しかった。あの厨房で作っていた十年間が、彼の目には映っていなかったことが。


「マーサさま」


 ベルタが言った。


「坊ちゃまは、月に一度、こちらにお連れします。ヴィクトル様にはもうお話ししてあります」


「ベルタ——」


「あなたが坊ちゃまのお母さまであることは、誰にも変えられません」


 ルーカスが二杯目のパン粥を食べていた。匙を持つ手が、蜂蜜でべたべたになっている。私は布巾を濡らして、その手を拭いた。


「坊ちゃま、蜂蜜は匙で食べるものですよ」


「うん。でもおいしいからなめちゃった」


◇◇◇


 午後、ベルタとルーカスが帰る馬車を見送った。ルーカスが窓から手を振っていた。小さな手。蜂蜜はもう拭き取ったのに、まだ甘い匂いが残っている気がした。


 食堂に戻ったら、エミールがまだカウンターにいた。


「お昼、まだでしたか」


「魚のスープを待っていました」


 (待っていたのは魚のスープではないだろう。でも、そういうことにしておく。この人はそういう人だ)


 鰯のスープをよそった。エミールが一口飲んで、小さく頷いた。


「明日の朝も来ます」


「ええ、お待ちしています」


 夕方、片付けをしながら窓の外を見た。潮風が看板を揺らしている。「潮風亭」の文字が、夕日に照らされてオレンジ色に光っていた。


 明日の朝は、パン粥を三人分作ろう。エミールと、私と、いつか来るルーカスの分を一杯、取り分けて冷ましておく。


 いいえ、ルーカスの分は来たときに作ればいい。パン粥は出来立てが一番おいしい。蜂蜜を最後に垂らして、湯気が立ちのぼる瞬間が一番いい。


 (それを知っているのは、たぶんもう、私だけだ)


 厨房の火を落とした。鍋を洗って、包丁を拭いて、棚に戻した。公爵家に置いてきた三本の包丁ではなく、この町で新しく買った包丁だ。まだ手に馴染んでいない。でも、使い込めば馴染む。


 窓を閉めるとき、通りの向こうを見た。明日の朝、ここにエミールが歩いてくる。


 扉に「準備中」の札をかけて、最後に一度だけ食堂を振り返った。テーブルと椅子と、カウンターと、小さな厨房。祖母が残してくれた場所。エミールが窓を直してくれた場所。ルーカスがパン粥を食べた場所。


 灯りを消す前に、心の中で呟いた。


 いらっしゃいませ、坊ちゃま。


 いつでも、何度でも。


 この食卓で待っています。

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