第1話 包丁を置く朝
パン粥に蜂蜜を垂らすとき、手が震えていないことを確かめた。
大丈夫。いつも通りだ。鍋の中で麦がとろりとほどけ、ナッツの欠片がことことと浮き沈みしている。蜂蜜は最後に入れる。先に入れると苦みが出る。
(十年間、毎朝同じことを考えてきた。今日が最後なのに、頭の中はパン粥のことばかり)
厨房の窓から、まだ薄暗い中庭が見える。冬薔薇が一輪だけ咲いていた。あの花が散る前に、私はここを出る。
木の匙でゆっくりかき混ぜる。底が焦げないように。鍋肌から立ちのぼる湯気は、甘い麦の匂いと蜂蜜の香りが混じって、この屋敷の朝の匂いそのものだった。
足音が聞こえた。軽くて、少し不揃い。
「お母さま、おはよう」
ルーカスが厨房に顔を出した。寝癖がついたまま、目をこすっている。七歳。毎朝ここに来て、パン粥ができるのを待つ。
「おはよう、坊ちゃま。もうすぐできますよ」
「ねえ、今日も蜂蜜多め?」
「ええ、多めにしました」
いつもより少しだけ多く垂らしたのは、特別な理由があったわけではない。
(嘘。理由はある。最後だから)
器によそって、テーブルに出す。ルーカスが匙を持って、ふうふうと息を吹きかけた。一口食べて、にっこり笑う。
「おいしい」
「よかった」
この子の「おいしい」を、私は十年間、毎朝聞いてきた。正確には、ルーカスが生まれてからの七年間。その前の三年間は、夫の「おいしい」を一度も聞けなかったけれど。
(まあ、あの人は「おいしい」とも「まずい」とも言わない人だった。食事は燃料だと思っている)
◇◇◇
ルーカスが食べ終わって部屋に戻ったあと、廊下から革靴の音がした。
硬くて、正確で、迷いのない足音。夫――ヴィクトル・ランベルク公爵のものだ。
「マーサ」
「おはようございます、旦那さま」
彼は厨房の入り口に立ったまま、中に入ってこなかった。十年間、一度も入ってこなかった。
「今日から、厨房はソフィアが仕切る」
知っていた。昨夜、侍女頭のベルタが泣きながら教えてくれたから。
「ソフィア・メルツ。元・王宮の料理人だ。俺が招いた。お前よりも公爵家にふさわしい食卓を作れる」
(王宮の料理人見習い、が正確ね。半年で辞めさせられた、とベルタは言っていた)
「……ええ、まあ。承知しました」
声が震えなかったのは、パン粥を作りながら十分に覚悟を決めていたからだ。
「お前の処遇は追って伝える。引き継ぎは——」
「必要ありません」
ヴィクトルが少し目を細めた。
「引き継ぎ不要とは?」
「この厨房のことは、すべて私の頭の中にあります。レシピも、食材の仕入れ先も、坊ちゃまが食べられないものの一覧も」
(卵、乳製品。ルーカスのアレルギー。ソフィアという人は知っているのかしら)
「新しい料理長にお渡しする書類などございません。生憎ですが」
ヴィクトルの眉が一瞬動いた。けれど、それ以上は何も言わなかった。
「……そうか」
彼は背を向けて廊下に消えた。足音が遠ざかる。硬くて、正確で、迷いがない。
◇◇◇
ひとりになった厨房で、私は仕事を始めた。
最後の仕事だ。
まな板を洗った。十年分の傷が入っている。包丁を研いだ。三本。刃先に指を当てて、切れ味を確かめる。完璧。
(この包丁を研ぐのが好きだった。砥石の上で刃が滑る感触。じゃりじゃりという音が、だんだん滑らかになっていくあの変化。——もうやらなくていいんだ)
鍋を磨いた。銅の大鍋は、十年かけて育てた鍋だ。使い込むほど火の通りが良くなる。次に使う人には、この鍋のことだけは伝えたかった。
でも、伝える相手はいない。
黒い鉄のオーブンの扉を拭いた。取っ手の部分だけ、私の手の形に光っている。
棚の調味料を並べ直した。塩、胡椒、乾燥ハーブ。カルダモンは奥に。これは隣国の大使が来たときにしか使わない。
(大使は豚肉を召し上がれない。ヴェルデンの宗教上の禁忌だ。ソフィアという人は知っているのかしら——いいえ、もう私が心配することじゃない)
麻のエプロンを外した。十年使い込んで、腰紐のところが擦り切れている。洗って、畳んで、厨房の棚に置いた。
包丁を三本、きれいに拭いて、元の場所に戻した。
これで終わり。
私は荷物をひとつだけ持って、裏口から出た。祖母の形見のオーク材のまな板。それだけ。
門を出るとき、振り返らなかった。
(振り返ったら、厨房の窓が見えてしまう。あの窓から見える朝日が好きだった。——いいえ、もう好きじゃない。好きだったことにする)
冬の朝の空気が頬を刺した。公爵家の門の外は、麦畑の匂いがした。
この匂いの中で、十年間、朝ごはんを作ってきた。
明日からは、誰かが作る。私ではない誰かが。
足を踏み出した。馬車乗り場に向かって。祖母の食堂がある港町ノーヴァへ。
包丁は置いてきた。磨き上げた三本の包丁だけが、空っぽの厨房に残っている。




