表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

ある老人とヒーローの話

作者: をち。
掲載日:2026/03/07

ビルの立ち並ぶ、その一角にその邸はあった。

邸……そう、家だ。

高層ビルの立ち並ぶ街ヒュンメルの、しかも最上の地区である第一区にあってすら、その一角は異彩を放っていた。


塀に囲まれた敷地には庭園があり、奥には縁側のあるエイジア風の平家が。


その庭のしつらえにしても平家にしても、高級所得者の街である第一区に酔狂者がよく建てるような、エイジアテイストの計算し尽くされたようなものではなかった。

四方に家を囲むように広がる庭には、わざわざかの国から取り寄せた梅の木や桜の木、牡丹やネコヤナギなどの季節の木々が、ただ昔からあるような自然な佇まいでそこここにある。

庭の中心にある家の縁側は、長年風雨にさらされたような年月を感じさせる柔らかな色合いを帯び、そこにのんびりと腰かけてお茶をしている好々爺の姿が目にみえるようであった。


豪華ではないが大切に慈しみ整えられている様子が、その持ち主の性分を思わせる。

ひっそりと、ただ懐かしい暖かさを惑わせてその家は存在したのである。




その家の主は、塀の外をゆっくりと一回りし庭を眺めてから中に入るのが日課だった。

塀の前で足を止め、塀からちらと覗く梅の花や桜の枝、チチと鳴く小鳥などをしばし眺めたあと、満足気に頬を緩める。


しかしその日、その日課は果たされなかった。


いつもどうり塀の前で足を止めると、木々の間にチラチラと見える青が目に入った。


「?」


不審に思ってそっと様子を伺えば、ごそごそと身動きする音に混じり時折「っだっ!」などと男の声がするではないか。


泥棒か!

どうする? 警備員が来るのを待つか?

これでも若い頃から鍛えている。腕には多少自信がある。

大切な家を荒らされてなるものか!


身構えながらもそ知らぬふりでゆっくり門から入った。

するとそこに……なんということだろう。半裸の青年が片足立ちで青いタイツのようなものを着ようと四苦八苦していたではないか!

気勢を削がれ、ぽかんとした老人の口から出たのは、罵声ではなく間の抜けたような声だった。


「……君は誰だね? 此処で何をしているんだ?」


珍入者は、半裸のまま目をまん丸にし、八重歯を出してあんぐりと口を開けたまま一瞬固まった。

そして、はっ、と我に返ると慌てて青いスーツを身に纏いながら


「っだっ! すんません、俺、怪しいもんじゃないっす……って、充分怪しいと思いますけどっ!ほんと、ちょっと塀の影で着替えさせて貰えたらって……っほら、人前で着替えるのも、ねえ?」


などと充分怪しくおかしなことを言い、


「すんませんっ! ほんと、すんません! 急ぐんで失礼しまっす! 後でまた来ますからっっ」


と、ぴょんぴょん跳ねながらズボッとタイツの頭の部分を被り、素早く飛び上がってあっという間にビルの谷間に消えていった。


「…………」


あれはもしや……


「流行りのスーパーヒーローとかいうやつか?」




そう。この街にはヒーローがいる。

金のある所には犯罪が。

そしてそれを取り締まるヒーローが。


古くはヒーローゴールドアッシュ。

たった一人が始めたボランティア活動がいつしかヒーロー活動と呼ばれるようになり、この街に最初のヒーローが誕生した。

それから30年。

今ではヒーローはフリーのボランティアヒーローと、職業として事務所に所属するプロのヒーローとに分かれ、この街の名物となっていた。


ヒーローは自分に合わせて作られたタイツのようなスーツを身に纏う。

一人一人デザインも効果も違うヒーロースーツは、いわばヒーローの顔。

ああ見えて企業の叡智が詰まった特殊素材には、防火防弾効果もあるのだという。ヒーローの命を守る大切なものなのだ。



老人はぽかんと開いていた口を閉じ、大声で笑い出した。

なんだあれは!

人のうちの庭で、着替えだって?!

ヒーローが、半裸でタイツを! いや、ヒーロースーツだったか? もうどっちでもいい!

あの驚いた顔ときたら! 全くもう!


ようやく笑いが収まったかと思うと、またあの目をまん丸にした子供のような表情が浮かび、次の笑いに襲われる。


あのカッコウときたら!

片足立ちで、ピョンピョンしていたぞ! 大の大人があんな……!


下をむき、クツクツと笑う。

なんと人騒がせで騒がしい男だったのだろう!

それにしても、ヒーローが不法侵入とはなあ!



そう、無防備に門を開けっぱなしにするほど、老人は不用心ではない。

開けっぱなしにできるのは、外周りに赤外線で高度なセキュリティーを施してあるからだ。

ほら、彼の侵入に気付き、隣の自社ビルから警備員がすでに姿を見せている。


「さあて……なんと言い訳してやろう。鍵を忘れたとでも言うか?」


ふは、と笑みを溢す。

全く困ったヒーローだ。


「……ふむ。また、寄ると言っていたな」


せいぜいしかつめらしい顔をして、縁側で待ち構えてやろう。

こういう時、エイジアの作法ではニワボウキを逆さに持って待つのだったか?


「…っふっ。」


あの青のタイツ男は、どんな顔をしてやってくるのだろうか。

変わりない穏やかな日常を手にしたと思ったら、悪戯な小僧が飛び込んで来おったわ。

これからは、庭を見るたびに思わず笑ってしまうだろう。

どうしてくれるんだ、ヒーロー。


まずはテレビをつけて、大慌てで飛び出して行ったヒーロー小僧の活躍でも見るとしよう。






老人は、この町で長い間働いてきた。


初めは夫婦で興した小さな仕立て屋。

流行に敏感な妻がデザインし、職人気質の夫老人が形にする。

2人は数分の一ミリに、針の一目人目にこだわった。

お互いのこだわり故に何度もやり直し、何度も話し合い、一つの作品を作り上げた。


ほんの少しの妥協も許さないその仕事は、初めは採算が取れず食うに困ることさえあった。

しかしその誠実かつ繊細な作品が、「身に纏う芸術品」として、真に価値ある物を知る人の目に留まることとなる。

「時間はどれだけかかってもよい。足りなければもっと支払おう。だから、思う存分腕をふるい、並び立つもののない芸術品を仕立てて欲しい」

一着分としては想像もつかぬほどの手付け金と共に贈られたのは、信頼。


夫婦は、存分に腕をふるった。


全ての材料を吟味し、今あるもので満足できない時には、自ら糸を撚り布を織り、染めあげた。

しなやかに身体に添い、着用者の動きによってやわらかな光沢を見せる極上の生地そこに全体に目を凝らさねば気づかぬような細やかな刺繍を黒糸で施し、わずかな厚みを加えた。細やかなあるかなしかの凹凸。だがそれこそが、そこにかけられた膨大な時間が、途方もない手間が、惜しみなく注がれた技術こそが、生地に荘厳さを与えるのだ。

色は漆黒よりも深い闇の色、ブルーブラック。

色とりどりの煌びやかな中にあってこそ、この王者の為のブラックは真価を発揮する。漆黒のようでありながら、主の動きでちらと覗く闇の色。織りなすコントラストが、他のものの追付いを許さぬ真の美しさを魅せてくれることだろう。


選んだ形はクラシカルな燕尾服。

優雅な動きを強調するテールは思い切って長めに。その分カットをハードにして清廉さを。

ウイングカラーは気高さを表すために、ほんの少し高めに。

スラックスはスタイルを際立たせるハイウエストで、腿は逆にきもちゆったりと。そうすることでシルエットに緩急がつく。

側章には敢えて光沢を入れ少しの遊び心と華やさの演出を。

品格と寛容。クラシカルとモダン。

これを身に纏う主に相応しい衣装たれ。


こだわり抜いたその衣装は、正に芸術品であった。




皇太子だった青年(依頼主)は、衣装の完成後、時を待たずして即位した。

彼はその芸術品をその身に纏い、戴冠式に挑んだ。

堂々たるその姿は、世界中の人々に感嘆の音を奏でさせることとなる。


その日のうちに、仕立て屋は伝説となった。




こうして、食うに困ることすらあった彼らの店に、引きも切らず依頼が入ってくるようになった。

それでも夫妻は一切手を抜かず、針の一目に、一ミリの差にこだわった仕事をした。

その究極の一着の価値は、求める人の多さとその作品の少なさからどんどん上がり続けた。

彼等のこだわりぬく姿勢によって作品を世に出す数は限られたが、彼らの店は「幾ら払ってもいい」「何年でも待とう」という熱狂的なファンによって支えられたのだった。


あまりの求める声の多さに、夫妻の作品は最早もはや最初の頃のように一般の手には渡らなくなってしまった。その服は、初期に夫妻に仕事を任せてくれた優しい人びとの手の届かぬ芸術品となってしまったのである。

そこで夫妻は、自分達の作品とは別に、弟子に縫製などをまかせた一般向けのブランドを作った。

手に入れやすい材料ではあるが、丁寧な縫製とカッティングにはこだわり抜いた。それこそが夫妻の譲れないものだったから。

一般向け、弟子の縫製とはいえ、夫妻が監修した店の服は、やはり別格だった。その店の品は「記念日に」「結婚式に」と、人々の特別な時を彩ることとなったのである。


そうこうするうちに、彼等の店は、ついにその名自体が特別な意味を持つブランドになった。




小さな街の仕立て屋は、本人達を他所にどんどん利益を上げ続け、巨大企業に成長した。

それでも夫妻は「ふたりのしごと」をあくまでも誠実に続けた。二人で話し合い、こだわり抜いて作品を生み出すという「しごと」を。


それは、妻が病にかかるまで続いた。


長年酷使された指は病により僅かに震え、僅かなそれが今まで通りの仕事を許さなくなった。


「ねえ、あなた。もう私は、私の思う服を作れないようです」


こうして二人は仕事をやめた。

そのかわり二人は、新しい「ふたりのしごと」を見つけた。

これからの「ふたりのための栖すみかをつくる」というしごとを。




二人は、巨大なビルの谷間に、自分達のこだわりに満ちた家を作り上げた。

ふたりの栖を守るかのように、家の周辺を自社ビルがぐるりと囲む。

庭にやわらかな陽射しがあたるよう、ビルの形、方向をあらかじめ計算した。

ビルの窓はふたりの栖の側にはつけていない。プライバシーをしっかりと守れるようにという配慮だ。


大切な宝である妻を守るために、セキュリティーにも力を入れた。

エイジア風の家の造りは開放的で暖かいが、犯罪の多発する都市ヒュンメルには向かない。

そこで、栖をぐるりと取り巻く頭ほどの高さの塀とその上にまで赤外線センサーを付けた。そして24時間体制でセンサーの監視を置き、センサーに少しでも反応があれば、即座に周りの自社ビルから警備員達が集まるように手配する。


遠き東の地であるエイジアは、妻の故郷だ。

妻が寛げるようにと、家はあくまでも開放的に。本物の「大工」をかの地から雇い、継ぎや仕口、掛けという手法を駆使する事で、プラスティックや鉄などという無粋な素材は使わずに建ててもらった。

一見すると古めかしい平屋に見えるが、そこはまた要塞でもある。縁側の内側、雨戸というには厚みのある木製の扉を四方しっかりと閉じれば、平家は外からは開かぬ強固なシェルターとなりふたりの安眠を守る。


家をぐるりと囲む庭には、季節に咲く木々を植えた。

縁側で、春、夏、秋、冬が楽しめるよう、季節に合わせた一本一本を、何度も何度も額を突き合わせて話し合い、大切に少しづつ選んだ。

初春には梅が優しくほころび、ピンクのサクラがヒラヒラと庭に踊る。

木蓮が柔らかにふくらみ、新緑と共にハナミズキが薄紅の花弁をひらく。

秋には金木犀がその金色の香りで満たし、紅葉が鮮やかな色をのせる。

冬にはネコヤナギがふくふくと可愛らしい顔を並べ、椿がほとほとと雪に朱と白の印をつける。

縁側で季節の移ろいを眺め、あれやこれやと語り合うのが夫妻の楽しみだった。


一方で、ふたりの子供ともいえるブランドにも、まだまだ顔をだしてやる必要があった。

巨大化して大切な事を忘れぬように、顔を出し、技術を伝え、激励し叱咤してやらねばならなかった。

あくまでも「誠実に、こだわりを持ち、良い仕事を」せねばならぬ。

楽をしない事。流されぬ事。手を抜かぬ事。それこそが価値となり信用となり、ふたりのブランドを巨大な世界的企業にまで押し上げたのだ。


もはや手に針を持つことはないが、二人は誠実に「ふたりの子供」を見守った。

また「ふたりの栖」を慈しみ、ふたりの栖で過ごす時間を存分に楽しんだ。



そうして、妻は存分に働き、楽しみ

微笑みながら旅立った。




老人は、ひとりになった。




ひとりになった老人は、それまでと同じように「ふたりの子供」を見守り、時に叱咤した。

朝に栖を出て、夕に戻る時にはいつもどおりに庭を眺めた。

季節の移ろい微笑みながらを楽しみ、その儚さを愛しんだ。


幸せであった。


毎日、慈しみ育てたものに囲まれて誠実に。楽しみをあちらこちらに見出し。


確かに幸せである。


はずなのに。




妻のいたときのように、声を出して笑うことはなかった。

彼が口元に浮かべた柔らかなほんのりとした笑みは、胸に小さな暖かな灯を灯しはするが、かつてのように燃えるような光を放ちはしなかった。


あの、妻と大きな口を開けて笑いあった日々は。

互いに譲らず大きな声で語り合った日々は。

花を眺めて、お互いに温もりを分かち合い静けさという音を共有していたあの騒がしくも愛おしい日々は、二度と戻らないのだと。


幸せの中に孤独がしんしんと降り積もっていた。


あのヒーローが現れるまでは。





あれからすぐにかけつけた警備員たちに、「ミスでキーを忘れた」のだと苦しい言い訳をし、なんとか納得させることができたのだが……。

言い訳の最中にも笑いがこみ上げてしまった。

なんと堪えるのに苦心したことか!


あの驚き!

この「わたしたちの庭」に半裸の男がいたんだぞ?! タイツを着ようと片足立ちでピョンピョンと!

子供のように目をまん丸にしていた。

「怪しいもんじゃない」って、充分すぎるほどに怪しいだろう!

「ちょっと着替え」だと? 人のうちの庭で⁈

あのマスク、ズボッと被っていたな。ズボッと! なんだそれは! そんな被り方で良いのか? 仮にもヒーローだろう! なんというか、こう、もっと格好よく……


「はっはっはっはっ」


笑いがとまらない。


「あーっはっはっはっはっ…っ、ふう、っっはっはっはっはっ……っく…くるしいっっ……ふっふっふっ…」


思う存分、久方ぶりの笑いに身を任せる。

ああ、笑いすぎて涙が出てきた。


「ははっはっはっ……ふっ…ふっ………ふっ…………ふぅっ………」


涙が止まらない。

ぽろりと出てきたそれは、何故か次々と湧いてあふれて溢れ。

ふたりの庭にすうっと吸い込まれてゆく。

胸にしんしんと降り積もっていたものも、涙とともに溢れてすうっと消えてゆく。


ああ…。私はまだこんな風に笑えるのか。

なあ、おまえ。

私はまだこんな風に笑えたんだな。

だから、大丈夫。まだまだ、生きて行ける。

ふたりの子供を

ふたりの栖を守っていける。



さあ。

あの慌てん坊の侵入者の活躍を見に行こうじゃないか。

テレビを見ながら、チェックしてやらねばな!

なんといっても「後で寄る」そうだから。

あんな薄っぺらなスーツでは、身などたいして護れはしまい。すぐに破れて怪我をするだろう。この爺が手当てしてやらねばなるまいさ。


しかし……青いスーツのヒーローか。10年も前にも見た気がするぞ?

あれはたしか……妻と見たニュースだっただろうか?

銀行強盗を追いながら、派手に転んでいた。

妻は確か「このヒーロー、ドジだけど一生懸命ね。私は好きよ」と笑っていたっけ。

「こんなのでヒーローとしてやっていけるのかしら」と。

愚直なまでにがむしゃらに犯罪者に立ち向かうそのスタイルは、確かに観ている方が心配になるほど捨て身なものだった。心配する妻の意見ももっともだと思ったものだ。


妻よ。あの泥臭いヒーローは、10年後もまだヒーローをしていたぞ!

確か……ブルースター。

ロートルとまで言われるようになったオールドヒーローの中身が、あんな小僧みたいな男だったとは!


ああ、勿論しっかりと叱咤してやるさ。まかせておけ。

いい機会だ。「いい仕事」とは何か、あの坊主にこの私が直々に叩き込んでやろう。

私の大切な庭に入ったからには、覚悟してもらうぞ。


何故だか心が浮き立つ。

こんな気持ちは久しぶりだ。ソワソワと落ち着かない。

そういえば丁度美味い和菓子と茶があったな。きっと腹も減らしているだろうから用意しておこう。

そうだな、ついでに果物でもむいておくか。果物ならいくらあってもいいだろう。

うむ。林檎と、蜜柑、バナナ……。


さあ。用意ができた。

せいぜいしかつめらしい顔をしてあの縁側で待つとするか。

あのドジで……一生懸命な青いヒーローを。






む? 塀の向こうに、ヘンテコな帽子が見えた。

むむむ?

見えている。が、なかなか入って来ようとはしない。

どうした、小僧? 何故入らんのだ?

ぴょこり、と飛び出しては引っ込み、引っ込んでは飛び出してくる。

ああ、全く。

せっかくセキュリティーを切ってやっておいたというのに、いつになったら入ってくるんだ。

仕方のない奴め。根性を据えてさっさと入ってこんか!


「…ゴホン!」


ほら、私は縁側で待っているぞ。


「…ゴホン、ゴホン!」


ほら、ここだ! 



ひょこん。

門から小さな頭だけ飛び出してきた。


「あ……あのぅ……すんませええん……、さっきの怪しくないものですう……」

「ブォッフォ!」

「うわっ! じっじいさん、大丈夫かっ?!」


お前のせいだろうが! 笑わせるな小僧! 笑いを堪えてむせてしまったではないか!


慌てて入って来て私を抱き抱え、その大きな手で私の背中を叩き出すヒーロー。

ドンドン背中を叩くな! 痛い! 私は年寄りなんだ、もう少し加減をせんか!


「………っ。だ……大丈夫だ。……もういい! こら、痛い! やめんかブルースター! コラ!」

「ふぁい! ごめんなさい!」


反射のようにピョコーン! と起立の体制でまっすぐになった。

こやつ、叱られ慣れておるな。困ったものだ。


「……ゴホン。まあ、ここに座って落ちつきなさい」


私は、痛む背中をさすりながら、なんとか威厳を取り戻すことに成功した。


「はい! 失礼しまっす!」


元気よく返事をして素直に横に座る小僧。

うむ。いい返事だ。

それに、テレビを見ていた限りでもこの様子を見ても、今日は怪我はしていないようだ。

うむ。うむ。


「えっと、さっきは失礼しました。」


恥ずかしそうに、だがしっかり私に目を合わせて小僧が頭を下げた。

なかなか礼儀正しいではないか。


「ほんと、怪しいもんじゃないんです。俺、ヒーローやってるんですけど、ちょうどここん家のところで事故のレスキューの呼び出しがあって。急いで着替えなきゃいけなかったんですけど、この近く、公衆トイレがないんですよね」


困ったように眉をハの字にしてしょんぼりする小僧。

ん? 今、おかしな言葉が聞こえた気がするが。公衆トイレと言ったか?


「? 待ちたまえ。公衆トイレがなんだって?」


私の言葉に、小僧は目をくるりと回しこんなことを言い出した。


「え? 着替えなきゃいけないから、公衆トイレ! えっと、ご存じありませんか? ヒーロー活動の時は、ヒーロースーツ着用しなきゃいけないんです。でないと一般人に間違われるでしょ?」


キョトンとした顔で当たり前のようにこう言われ、私は思わず自分のこめかみを押さえた。


「……いや、知っている。そういうことではない」

「ああっ! そういえば、よく俺がブルースターだって分かりましたね! じいちゃん凄えっ!」


私の両手を掴みブンブンと上下させる。子供のような喜び方である。


「いやいやあのスーツを見れば……じゃなくてだね、キミは何故トイレで着替えているんだと…」


危ない。この小僧の妙なテンションに巻き込まれるところだった。


「え? 何でって……うんと、最初の頃は行きながら自分の車ん中で着替えてたんですよね。車がだダメなときは木の影とか……」

「……は?」


いや、今なんと言った? 着替え? 着替えと言ったのか?

まさか、毎回あんな風に外で着替えていたのか?! 

何もしているのだ、こやつは! 変質者に間違われてもおかしくはないだろう!

あきれ果てて思わず口をポカンと開けてしまった。


するとそれをどうとったのか、急に取り繕うかのようにおどけてみせる。


「そしたらなんか、着替えているところがネットにあがっちゃってたみたいで。いやあ、物好きもいるもんっすね! わざわざ男の着替えなんか撮って笑いもんにしなくてもねえ!」


頭の後ろに手をやり、てへ、と笑うブルースター。

あれから調べてみたが、これでも彼は30歳を超えていた。

だがやはりどう見ても20代の小僧にしか見えない。こうした無邪気な笑顔も、とても30歳を超えているとは……。


「いや、君、それは……」


実はこの街はゲイも多い。

特に彼のようにこの街では珍しいブルネットの髪は、そういった界隈で人気なのだそうだ。

何故知っているかって? うちのスタッフにも彼のようなブルネットがいるのだ。おかしな輩に目を付けられ付け回されているとかで、力になってなったことがある。

小僧に、そういった注意を促すべきだろうか? 

いや、この子供のように無邪気な笑顔を見た後では「それはきっと笑い物などはなくて別な需要が……」などとはとても言えない。

対極とはいえ犯罪者に一番近い仕事をしているというのに、なぜ彼はこんなにもまっすぐに清廉でいられるのだろう。

老婆心ながら、私はこう思ってしまった。

彼にはこのままで居て貰いたい、と。


私の複雑な胸の内など全く気付かず、彼は熱弁を振るう。


「んで、上司がですね。『お前は絶対外で着替えるな。どこか誰もいない室内で着替えてから外に出るように』ってすごい剣幕で。うちの嫁にもすんごい怒られて」


何故か一瞬その表情に寂しげな陰がよぎった気がしたが、それはすぐに消えた。

彼は軽い調子で続ける。


「でも、室内っつったって、なあ! 正体隠してんのに『すんませーん、出動なんで着替えさせて下さい』ってその辺のビルや人ん家に入る訳にはいかないでしょ? だから、公衆トイレ!」


まさかここでトイレに繋がるとは! 「だから」の使い方がおかしくはないか?

私の疑問が顔に出ていたのだろう。彼はもう少し丁寧に教えてくれた。


「あのね、昔のヒーローが出てくる映画で、さえない会社員が電話ボックスで変身してヒーローになって出てくるやつ、あったでしょう? 知ってます?」

「あ、ああ。あの、胸の所にエスのマークのついた空を飛ぶ……」


そういえば、あれも青いヒーローだった。正確には「青と赤」と言うほうが正しいのかもしれないが。


「そうそう! それです! 俺、ピーンと閃いたんです! 電話ボックスはないけど、電話ボックスとトイレって似ているでしょう?」


いやいや、似ていない。四角いボックスという点以外に共通点はないぞ?

頭の中でツッコミが止まらない。こやつ、どうかしている。


「俺、この街詳しいんですよ! だからどこの公衆トイレが現場に一番近いか直ぐにわかる! 」


エヘン! と胸を張るヒーロー。褒めて褒めてといわんばかりだ。

もうお手上げだ。なんだこの生き物は!

オールドヒーローだというのに何故か未だ幼子のようではないか!

なんというか……上司の苦労が大変忍ばれる。奥様の苦労も大変忍ばれる。きっと彼女たちがこのヒーローの心をずっと守ってきたのに違いない。


私がなんとかしてやらねば、という使命感のようなものを感じた私は、質問の仕方を変えた。

ゆっくりと噛んで含むように言ってきかせる。


「あー……君は確か、フリーではなくヒーロー事務所の所属だっただろう? 着替え用のワゴンかなにかはないのか? 他のヒーローは持っているだろう? 急いでいるとはいえ、いくらなんでもトイレで着替えというのは……」


すると小僧は困ったように眉を下げ、アハハと笑った。


「まあ、うちの会社、そんなにおっきくねえからしょうがねえよな! みんな精一杯やってくれてるんだもん」


わかっていた。この流れから、わかってはいたが!

が! だからといって聞き逃せるものではない。

ヒーローの着替えの場所も用意しないなど、事務所としてどうなのだ?! これではフリーと大して変わらぬではないか!

しかも、この小僧が、だぞ?

危険だろう! 主に違う意味で!

今はなんでもすぐにネットで拡散されてしまう時代なのだ。おかしな輩に目を付けられでもしたら、どうする?

こんな爺でもわかるようなことが何故わからんのだ!

その辺で着替えてしまう小僧も小僧だが、そもそもの原因は所属事務所の体制が整っていないからではないか!

ヒーローをなんだと思っているのだ!


……だたまあ、その一生懸命さと共に彼のドジの多さは有名なようだ。

弱小事務所がブルーヒーローというヒーローを擁する、これがギリギリのところなのかもしれない。

彼のいうように、その企業規模を考えれば、これでも精一杯なのだろう。


彼が大切に思われているのは間違いない。事務所のサイトに載っていたブルーヒーローの紹介ページは、自社ヒーローに対する愛で溢れていた。

スポンサーを選ばなければもっと稼げるのだろうが……先程調べてみたところ、少しでも悪い噂のある所は、有名企業だろうと全て断っているようだ。その点も充分評価に値する。


「……あのう……続けていいすか?」

「ああ、すまない。つい……」


そう、私は無意識のうちに、小僧の頭をまるで小さな子供にでもするように撫でてしまっていたのだ。

侵入者に対してしかつめらしい顔をしているはずが、のっけから笑いを堪える羽目になり、その後も次々に繰り出された驚きのせいで、もはや私のしかめつらなど意味をなさない。

不遇な境遇にありながらも、元気に前向きな彼の健気さに、はからずも母性本能ならぬ爺本能を刺激されてしまった。


これで、彼は誰よりもヒーローたる魂を持っている。

どうやら、叱られ慣れてもおり、撫ぜられ慣れてもいるようだが。


彼は頭を撫ぜるわたしに頓着せずに続けた。


「そんで、ちょうどこの辺りだけ、ビルばっかりで公衆トイレがないんですよ。しょうがないから、ちょっと庭の塀の陰を貸してもらおうって……あんなことに」


さすがにここは、恥ずかしそうに言うと「ほんと、すんませんでした!」再度しっかりと90度の正しい御辞儀。

……のあと、目だけをあげて上目遣いでニカっと笑った!


これは……まさに悪戯っ子がよくやるアレだ!

うむ! あざとい!

これなら誰でもほだされ許してしまうだろう。現に少し話をしただけのこの私ですら「何とかしてやらねば」と思ってしまった。

私と妻にはブランドとこの庭意外に子供といえるものはない。もし私に息子がいたら、こんな気持ちになっていたのではないだろうか。

全く仕方ない小僧だ。


「……うむ。わかった。今日の活躍に免じて謝罪を受け入れよう。……今日はよくやった、ブルーヒーロー!」


私の言葉に彼はぱあっと表情を明るくさせた。


「見てくれたんですか?」

「ああ、見ていた。君があのトラックを持ち上げたところなどは、凄かった。君のおかげて下敷きになっていた車の親子も無事だったのだ。あのままにしていたら車体がもたず、何れ圧死していただろう」


嬉しそうに顔を輝かせているが、小僧よ、まだ続きがあるのだぞ!


「だがな! 後がいかん! 後が! そうっと下さんか、そうっと! いくら運転手がいないとはいえ、慌ててジャッキから手を放すな! 急に手を放すから道路が陥没してしまったんだ! 修繕費がいくら掛かると思う! それに修繕の間、沢山の人に不便をかけるのだぞ!」

「……ジョーにも言われた…」


ションボリと肩を落とすヒーローに、何だか可哀想なことを言ってしまったような気になり慌ててフォローしてしまう。


「いや、確かに、親子が心配で慌てていたのはわかる。たがな、君はひとりじゃあない、周りには救急隊も仲間のヒーローもいるのだ。少しは頼ることも覚えなさい」


しょんぼりしてしまった彼がようやくまた照れくさそうな笑みを見せてくれた。


「……はい。なんか、じいちゃん、うちのジョーみたい」


わたしもそれに安心し、ニッコリと笑う。

(ところでさっきから度々登場するジョーとは誰なんだ? 君の上司かね? いい上司に恵まれているようじゃないか。大事にするのだぞ?)


「さあて。時間はあるか? ヒーロー。腹が減っているだろう、良ければこの年寄りと茶でも飲んでいかんかね?」


とたん彼がぱっと顔を輝かせ「やったあ! 空いてます空いてます!」と言って勢いよく立ち上がった。

そのくせ慌てて「でも、ご迷惑じゃあありませんか?」と妙な遠慮をみせたものだから。


「庭でわたしに半裸踊りを見せておきながら今更!」


と遠慮なく笑う。大声で笑う。

小僧は嬉しそうに「そりゃそうだ! おじゃましまあっす!」と上がりこんできた。



これが、オールドヒーローと私の正式な出会いの記憶。







「さあ、これを持っていってくれ」


果物をこんもりと入れた盆を坊主に渡す。

私も茶と和菓子を乗せた盆を持ち、縁側にふたり腰を下ろした。

今は桜が満開なのだ。ここはとっておき、貸切の特等席だ。


「どうぞ」


桜の形を模した練り切りを出してやると


「うわあ、練り切りだ! 懐かしいなあ! 凄え! 街ん中でビルに囲まれてんのに練り切り食いながら花見! 凄え!」


と大喜びしたあと、ぽつんと「あいつに見せてやりたかったなあ」と呟いた。

先ほどまでとはうって変わった寂しげな響きに、私は思わずこう言っていた。


「また奥さんも連れてくるといい。歓迎するよ」というと、寂しげななんともいえぬ笑みを見せ「あそこにいっちまったから」と空を指差す。


……ああ。君も大切な宝を失ったのか。


分かってしまった。私には、痛いほどに分かってしまった。

だから君は、闇雲に命を救おうと壊すことに躊躇いを見せず、自分の命にも頓着しなくなったのか。


「そうか……。そこでわたしの妻にも会っているかもしれないな」


お互いに、理解を見出す。

片割れを失ったもの同士。半身を失ったもの同士。

不思議と、穏やかな、まるで旧知の仲のようなここちよさ。

私も君も、泣くに泣けなかった。その場所を失ってしまったからだ。

泣くに泣けず、痛みをそのまま抱え続け、痛みを抱えていることが普通になってしまった。


桜が散る。美しくも儚きピンクを散らす。


「……ここね、時々外から花を見せてもらってたんです。最初に見つけたのは、あいつ。俺の会社に弁当届けながらこの庭を見かけたみたいで。『凄いのよ! 桜、満開だったのよ!』っておおはしゃぎしてたなあ。見に来てみたら、塀から色々な懐かしい木や花が顔を出してくれてて。桜や桃の花や、ネコヤナギも! 全部がエイジアでは日常で、でもヒュンメルでは見かけたことがない木ばかり!」


懐かしい思い出を大切そうに、愛おしむように口にする小僧。


「季節ごとにゆっくり塀の周りを散歩しながら『梅だ! 懐かしいなあ。梅酒、お義母さんの美味かったね』とか『梅干し、甘いのと酸っぱいの、どっちがいい?』だとか、くだらないことを沢山話したんです」


ああ、思い出した。


何年も前のこと。時々、塀をゆっくりと一周してゆく仲の良さそうな二つの頭。

ゆらゆらと、時々こつんとくっついたり離れたり。仲の良さそうな頭を、内側から微笑ましく妻と眺めたものだ。


あれは君たちだったのか。

いつからか、姿を見せなくなったが……そうだったのか。


「あいつが逝ってから……俺、ここに近づけなかった。一人で来たことはなかったんです。ここは……『ふたりで歩くところ』だったから」


ああ、その気持ちは分かる。そう、痛いほどに。

私ほど理解している者はいないだろうほどに。


「でも、この近くで出動要請を受けた時……なんでかなあ、すぐにここが頭に浮かんで。急がなきゃ、って夢中で。気づいたらここで着替えてた……」

「ははは! あれは酷かった! あの後、久しぶりに大笑いさせてもらったぞ! あの時の君はおかしかったな。ほんとうに、あんなに笑ったのは久しぶりだ。……ほんとうに久しぶりなのだ」


お互いに目を見交わし、ふふふ、と笑んだ。

言葉にはできないものが伝わる。


「そんで今、あの塀の中から、じいちゃんとまんじゅう食って桜を眺めてる。……なんか、不思議だなあ……はは……っ…はっ……不思議……だ……っ……」


小僧は笑いながら、大きな眼からポトポト、ぼたぼたぼたと水滴を落とした。

私も目から出る水を流れるに任せた。


「……私もあれからこんな風に話しながら桜を眺めることなどなかったな……。ふふ、まさか侵入者と花見をすることになるとは想像もしていなかった」

「はは……。俺もです」


二人で前を向いたままぼたぼた水を流し、時折、チーンと鼻をかみながら果物を食べ、まんじゅうを食べた。

黙って皮をむいてやった蜜柑を差し出すと、彼はそれを半分に割り、半分私に返してきた。

そう。私はこうして片割れと分け合ってきた。おそらくは、君も。だろう?

当たり前の日常だ。しかしそのなんと愛おしく、かけがえのない日々だったことか。

もはや渡す先のない私がむいた蜜柑。妻が嫌がる白いところを丁寧にとる、それが私流。

それを彼が受け取り、黙って半分返す。

ああ! ……ああ!

分け合う人がいたということは、こんなにも幸せなことだったのか。


静かに切なく暖かな時を過ごす。


「この家と庭はな、妻とふたりでじっくりと選んで楽しんで作った、私たちふたりの子供なのだ。ここで妻と庭を眺め、毎日話をしたり喧嘩をしたりしていた、ふたりの庭だった。君たちにとってもそうであったと聞き、とても嬉しいよ。ヒーロー。どうやらわたしたちには何かしらの縁があるようだ。私は君を以前から知っていた。妻と一緒にニュースで君を見たことがあるんだ」


ここから先の言葉には勇気がいる。

彼に伝わるだろうか。


「ここが、ふたりの庭じゃなくひとりの庭になって久しい。…………誰かが顔を出してくれたら、また、ふたりの庭になるんだがね?」


彼を見ると、わかっていないようで不思議そうな顔をしている。

困った小僧だな。私に言わせる気か?

ごほん、と咳払いし、仕方なく彼にも分かりやすいように説明してやる。


「ヒーロー。これからは着替えはここでしなさい。悪い事は言わない。公衆トイレも、もちろん車の中も、木の影も、やめるんだ。実はうちの塀には赤外線のセキュリティーがあってね、それにかかるとすぐにこの周りのビルから警備員が飛んでくる。あの後もすぐに警備がやって来て大変だったんだぞ? だから、ほら、これを持って行きなさい。キーだ。これを身につけていれば、セキュリティーにかからず入ることができる。好きに使うといい」


彼の目が大きく見開かれた。

何か言いたそうに、でも言葉にはならず口をあけたり閉じたりしている。


その顔を見たら、なんだか肩から力が抜けた。


「この庭は、私たち夫婦の子供のようなものだ。そしてこの庭を愛してくれて、飛び込んできた君は、いわばこの庭の子供、わたしには孫のようなものだ。君にこの庭をわけてやろう。ふたりの庭だ、ふたりにするにはちょうどひとり足りなかった。ブルーヒーロー。傷だらけのヒーロー。どうだ? 受け取ってくれるか? もちろんうちにもフリーパスだ。好きに上がりたまえ」


ここで肩をすくめてこう付け足してやる。


「なあに、ときどきこの年寄の、この爺さんの話し相手になってくれればいい。私には話し相手と孫のような小僧ができ、かわりに君は着替える場所と、この庭と、ヒュンメルでの爺さんを得るわけだ。君の出身はエイジアだろう? 頼るには遠すぎる。近くに頼るものが居るのも悪くないのではないか?」


固まったまま返事をしない小僧にじれてダメ押ししてやった。


「さあ、黙って頷け。悪い取引じゃあないだろう?」


黙って聴いていた彼の眼がみるみる潤み、嬉しそうにアーチを描いた。

かと思うとガバリと私に抱きつき、涙声で呟く。


「……おれ、……っおれっ、孤児院育ちだから、父ちゃんも母ちゃんも、爺ちゃんもいねーんだ……っ初めて爺ちゃん出来たっ。おれっ、泣けなかったのにっ……あれからずっと泣けなかったのに……っ……ここに来たら、なんでだか泣けたんだ……っ。爺ちゃんといたら、初めて泣けたんだ……なんでかなぁ……」


そうか。そうか。君もこの街でひとりぼっちだったのだな。


「………私も泣けなかったぞ? それに……笑えなかったんだ。ヒーロー、君が来たら泣けたし笑えたのだ」


そっとそのおもいのほか小さな頭を撫で、遠い彼女に想いを馳せる。私たちの大切な彼女たちに。


「……きっと、私たちの片割れが空で出会ったのだ。うちのは、なかなかにお節介だからな。寂しがり屋の私をひとりにしてしまってどうしようかと、君の奥さんと相談でもしたのだろう。そして『ふたりの庭でふたりを出会わせちゃいましょう!』とでも思ったんだろうさ。それで君をここによこしたという訳だ」

子供のようにてらいのない声音で小僧が言った。

「そっかあ。だから、ここが浮かんだんだな」


ああ。きっと君が小僧をここに呼んだんだ。なあ、(そこ)に居るんだろう?

ありがとう。

私たちは大丈夫。大丈夫だ。


「…………さあ、坊主。そろそろ、離してもらっていいか? 私は年寄りなんだ。そうぎゅうぎゅう締め付けるな! 力の加減を覚えてくれ!」


「っだっ!」


彼は真っ赤になって慌てて離れた。

そして、照れ臭そうに「じいちゃん……」と小さな声で呟き、キュ、もう一度と軽くハグをして嬉しそうに笑った。口元には八重歯をのぞかせて。鼻の頭を赤くして。

その姿はとてもヒーローとは思えない。図体ばかり大きな、わたしと同じく片翼失って途方に暮れていた子供だ。ようやく、少しだけ羽を休める場所をみつけたと肩の力を抜き、安心した顔を見せる子供だ。


不思議だな。正式に出会ったのは今日はじめてなのに。

塀越しに私たちはずっと君を知っていた。


おかえり、ヒーロー。愛しい悪戯坊主私たちの息子。




私は立ち上がって庭に降り、桜の大きなひと枝を切ってやった。


「さあ。帰りに忘れずに持って帰って、奥さんに見せてやるといい。写真くらいはあるのだろう?」


これは壊すんじゃないぞ、と片目を瞑ると


「ちゃあんと見せてやりますって。…ありがと! あいつも喜ぶっ!」


と目をしばたかせた。

その目にまたしても浮かぶものは、武士の情けで見なかったことにしてやろう。




こうして、私は孫を、ヒーローは羽を休める場所と祖父を得た。


ふたりの庭には、ときどきヤンチャな小僧が飛び込んでくる。

嵐のように去ることもあれば、ヤキトリだのミソシルだのを作ってわたしの口に押し込んでいくこともある。


彼が黙って縁側に座っているときは、何も言わずにわたしも並んで庭を眺める。

すると、ポツポツと話だし、水滴を1粒2粒救えなかった命に捧げ、また力強く飛び出していく。


そうそう、ブルーヒーローには新しいスポンサーがついたらしい。

まずは彼にワゴン車が送られた。

「やったあ! これでどこでも着替えできる!」と大喜びした小僧が、「新しくついたスポンサーが車くれた!」と私に報告に来てくれた。


うむ。良かったな。これで安心だ。

あまり甘やかすのもよくない。まずはワゴン、といったところだろう。

色は彼のイメージカラーであるブルーにした。なかなかいいセンスだったろう?



私は新規事業にも参入した。

今は街のあちこちに、簡易シャワーブースを設置しているところだ。

出社前にランニングするのが流行っているというし、シャワーを浴びて着替えそのまま出社できるというのは需要があるだろう。

一応、出動後のヒーローがどこでもいつでも汗を流すことができるよう、各ブースを完全に独立させて、安全性とプライバシーには充分に配慮した。

完成次第、新しいスポンサーから彼にフリーパスが送られるだろう。


毎日の仕事にも張り合いができた。

いま私は久しぶりに針を手にしている。うちの孫に着せるとっておきを作ってやらないとな。

ああ、忙しい。




私の手のかかる孫が、「オールドヒーロー」ではなく「ザ・ヒーロー」、彼こそがヒーローだと呼ばれるようになるまであと少し。


彼の言っていたジョーがまさかの女性だったと知らされ、彼とジョーの結婚式で私が滝のような涙を流すまであと数年。




大きな街の一角。じいじと孫の騒がしくも愛おしい日々の話。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ