ぼくは仕事ができない
ぼくの名前は、**三崎遼**という。
東京大学理学部に在籍している。専攻は物理学だ。量子力学の演習問題を解くとき、ぼくはとても静かになる。式は嘘をつかない。前提があれば、必ず帰結がある。そこには感情も、曖昧さもない。
けれど、現実の世界は違う。
ぼくは、派遣型のアルバイトをしている。電話で予約を入れ、その日ごとに現場に入る。けれど、いわゆる登録型の派遣会社とは違い、行く先は普通の建設現場や倉庫だ。名前だけが少し変わっている、そんな仕事だった。
ある朝、ぼくは電話を取った。
「今日、新宿の現場、空いてますか」
事務員の女性が淡々と答える。
「空いてますよ。朝八時集合。遅れないでくださいね」
新宿。
その街の名前を聞くだけで、胸が少しざわつく。
高層ビル。絶え間ない車の音。人の波。怒鳴り声。急かす足音。
速い街だ。
ぼくは速くない。
現場は再開発地区だった。巨大なクレーンが空を切り、金属がぶつかる音が絶えない。ヘルメットをかぶった作業員たちが、迷いなく動く。
「おい、新人。こっち!」
呼ばれて、ぼくは一瞬遅れて振り向いた。
声をかけられたと気づくまでに、ほんの一拍ある。その一拍が、いつも致命的になる。
「すみません」
「資材、あっちに運べ」
あっち。
指さされた方向を確認し、どの資材かを判断し、周囲の流れを読む。その処理に時間がかかる。
ぼくの頭の中では、複数の条件が同時に並ぶ。
どのサイズか。どの番号か。優先順位は。安全確認は。
量子状態の重ね合わせのように、可能性が同時に存在する。
けれど、現場では「即答」が正解だ。
「遅い!」
怒鳴られる。
ぼくは慌てて動くが、もうタイミングを失っている。
昼前、チーフに呼ばれた。
茶色く染めた髪。四十代くらいだろうか。日焼けした顔に、鋭い目。だが、怒鳴らない。声は低く、冷静だ。
「三崎だっけ」
「はい」
「キミ、入って何年目?」
「三年目です」
「契約書に時給いくらって書いてある?」
数字を答える。
「実際にそれだけのお金もらってるんだろ?」
「はい」
「キミはそれだけの仕事してるのか?」
言葉が詰まる。
数式なら答えがある。だがこれは倫理の問題だ。定量化できない。
「……していません」
チーフは小さく息を吐いた。
「仕事楽しいか?」
「楽しくはないです」
即答だった。そこだけは速い。
チーフは少しだけ眉を動かした。
「だったらどうすれば楽しめるか、どうすれば○×に貢献できるか考えてやれ」
それだけ言って、去った。
叱責というより、問いだった。
ぼくは考えた。
楽しむ条件とは何か。報酬か。達成感か。承認か。
だが考えている間に、また声が飛ぶ。
「三崎! ボーッとするな!」
ぼくはまた一拍遅れる。
午後、別の上司に呼び止められた。
「俺らが怒ったら俺らも気分悪いし、お前もつらくなると思うよ」
「はい」
「仕事量の少ない立川の方に行ってくれる? 給料は少し安くなるけど」
立川。
新宿よりは静かな街だ。
ぼくは一瞬、胸の中で計算した。時給が下がる。交通費。生活費。奨学金。
だが、それよりも。
新宿の速度についていけない。
「……行きます」
その日の帰り、事務所に電話した。
「立川の現場で、予約をお願いします」
受話器の向こうで、カタカタとキーボードの音がする。
「わかりました。来週からですね」
新宿のビル群が、夕日に染まっていた。
速い街だった。
ぼくは、速くなれなかった。
立川の朝は、新宿よりも空が広い。
ビルはあるが、空を完全には隠さない。人の流れも、どこか緩やかだ。駅前のペデストリアンデッキを歩く人々の足取りには、あの焦燥がない。
現場は中規模の倉庫だった。
資材の整理と、簡単な仕分け作業。新宿に比べれば、明らかに仕事量は少ない。
「三崎さん? こっちお願いします」
声は穏やかだった。
ぼくは一拍置いてから振り向く。その一拍は相変わらずだが、怒鳴られない分、致命傷にならない。
作業は単純だった。
番号を確認し、棚に入れる。
確認し、入れる。
確認し、入れる。
これは、ぼくに向いているかもしれない。
量子力学の演習問題のように、条件が固定されている。やることが明確で、変数が少ない。
ぼくは黙々と作業した。
「今日は順調だな」
上司Aが言った。
その言葉だけで、胸が少し温かくなった。
問題が起きたのは、三週間後だった。
その日、納品予定の精密機器の部品が大量に届いた。高価な部品らしく、上司Aは念を押した。
「これ、棚番号“C-17”な。間違えるなよ。C-17だ。わかったか?」
「はい」
ぼくは頷いた。
C-17。
頭の中で文字を反芻する。
C-17。
だが、そのとき別の作業員が横から声をかけた。
「三崎、さっきの伝票どこ?」
意識がそちらへ引っ張られる。
ぼくの頭の中では、情報が同時に存在する。
C-17。
伝票。
時間制限。
周囲の視線。
複数のベクトルが、同時に引っ張る。
結果、ぼくは棚番号を見間違えた。
C-17ではなく、G-17。
形が似ていた。
たった一文字。
しかしその一文字が、致命的だった。
翌日、倉庫は騒然としていた。
「部品がないぞ!」
現場が止まった。
出荷予定の製品が組み立てられない。取引先への納期が迫っている。
棚を総点検することになった。
ぼくは、青ざめながら探した。
G-17の棚で、箱を見つけた。
自分の字で書いたラベル。
手が震えた。
上司Aに呼ばれた。
「お前なあ……」
怒号が飛ぶ。
「なんで確認しなかった! C-17って言っただろ!」
「はい……」
「“はい”じゃない!」
言葉が続かない。
頭の中で、自己弁護の論理は組み立てられる。
情報過多。注意分散。視認エラー。
だがそれは、責任の免除にはならない。
別の上司Bが、横で腕を組んでいた。
「あーあ、やってしまったなあ。他の仕事するか?」
声は冷静だった。怒ってはいない。ただ、距離がある。
その距離が、ぼくの居場所の消失を示していた。
その日から、空気が変わった。
作業を振られなくなる。
雑務ばかり回ってくる。
会話が減る。
「もうじき就職活動だけど大丈夫か?」
同僚が言った。
心配なのか、半分は呆れなのか、わからない。
ぼくは曖昧に笑った。
東大生。
だが、現場では役に立たない。
論文は書けるかもしれない。だが、棚番号を間違える。
ぼくは、仕事ができない。
その後、家族に相談した。
キャリアセンターにも行った。
ハローワークにも行った。
何度も面談を受けた。
そしてある専門機関で、自分の特性について説明を受けた。
注意の切り替えが苦手であること。
言葉をそのまま受け取りやすいこと。
「はい」と返事をしてしまう癖があること。
診断名よりも、「傾向」という言葉が心に残った。
自分を責め続けるだけでは、前に進めない。
そう言われた。
ぼくは、就労継続支援A型事業所を見学することにした。
正直に言えば、少し甘く見ていた。
立川より、さらにゆっくりした場所だと思っていた。
だが、違った。
A型事業所の建物は、古いが清潔だった。
玄関の掲示板には、作業工程表がびっしり貼られている。時間、数量、担当者名。きっちりと線が引かれていた。
「ここはゆっくりした場所」ではない。
入った瞬間にわかった。
社長は五十代半ばくらいの男性だった。背筋が伸びている。無駄な動きがない。目が鋭いが、怒鳴るタイプではない。
見学のあと、面談室に通された。
「一度言ったことは何度も言いません」
開口一番だった。
「自分ですぐにできるようにならないといけません。生半可な気持ちではA型は通らんよ」
ぼくは反射的に言った。
「はい」
社長の目が止まる。
「……あんたはいはいって言ってるけど、ほんとにわかってるのか?」
一瞬、言葉が出ない。
わかっている“つもり”だった。
だが、その“つもり”が何度も問題を起こしてきた。
体験作業が始まった。
部品の袋詰めと検品。数量は正確に。ペースも一定に。
最初は順調だった。
単純作業は、嫌いではない。
だが、職業指導員が席を外した瞬間、ペースが落ちた。
誰も見ていないわけではない。だが、「確認してくれる人」がいないと、動きが鈍る。
その様子を社長は見ていた。
終業後、呼ばれた。
「支援員がいなくなってペースが落ちるとは何様だ?」
声は低いが、強い。
「そんな仕事してたら、支援員がいなくなったときに周りの利用者さんの動きを止めて迷惑かけるのか?」
「はい……」
「“はい”じゃない!」
机を指で、トン、と叩く。
しばらく沈黙したあと、社長は腕を組み、天井を見た。
「この子はな……」
小さく、独り言のように言った。
「悪い子じゃない。ただ、考えたふりをして終わってしまう」
ぼくは俯いた。
その通りだった。
後日、作業上の矛盾が発覚した。ぼくが曖昧に「はい」と返事をし、理解しないまま進めたせいで、工程が二重になっていた。
社長は静かに言った。
「それはあなたが、はいはいっていうその場しのぎの返事をしてたからだ」
否定できなかった。
数日後、結果を伝えられた。
「今回は採用を見合わせます」
覚悟はしていた。
だが、胸が空洞になる感覚は、予想以上だった。
立ち上がろうとしたとき、社長が言った。
「ちょっと待ちなさい」
椅子に座り直す。
社長は顎に手を当て、じっとぼくを見た。
「この子はいって返事ばかりしてるけど、なんて言う練習をさせたらいいかな……」
本気で考えている顔だった。
採用しない人間に、そこまで時間を使う必要はないはずだ。
しばらくして、社長は言った。
「人に何かを言われたらな、なるべく言葉のオウム返しをするように練習しなさい」
「……オウム返し、ですか」
「そうだ。“C-17な、間違えるなよ”って言われたら、“C-17ですね”と返す。自分の口で言い直す。そうすれば確認になる」
新宿と立川の光景が、一瞬で蘇る。
C-17。
あの一文字。
「約束だよ」
社長は真っ直ぐに言った。
その目に、怒りはなかった。
あったのは、期待だった。
ぼくは初めて、自分から言った。
「C-17ですね、と言い直します。……約束します」
社長は小さく頷いた。
その後、ぼくはB型事業所に通うことになった。
作業は決まっている。単純で、繰り返しだ。
ときどき失敗する。注意もされる。
だが、大半はうまくいく。
自分の速度で、確実に進める。
この生活は、悪くない。
収入は高くない。将来の不安が消えるわけでもない。
それでも、毎日決まった時間に通い、作業を終え、帰る。
そのリズムが、ぼくには合っていた。
空いた時間、ぼくは数学と物理を続けた。
オウム返しの練習もした。
「この式、発散してるよ」
「発散してるんだね。どの項が原因?」
意識して言い直す。
最初はぎこちなかったが、次第に自然になった。
そして、同じく数学好きの仲間と話す機会が増えた。
ぼくが言い直し、確認し、相手の言葉を受け止める。
会話が続く。
やがて、その中の一人と親しくなった。
数式の話をし、宇宙の話をし、互いの失敗を笑う。
人を愛するって、ほんっとうに幸せだ。
ある日、ふと思った。
A型の社長に、手紙を書こうか。
だが、迷った。
不採用だった人間が、今さら何を書くのか。
迷惑ではないか。
机の前で、何度もペンを置いた。
けれど、あの日の「約束だよ」という声が、耳に残っている。
ぼくは便箋を広げた。
社長へ。
あのときはありがとうございました。
採用は見送りになりましたが、あの面談がなければ、ぼくは今も「はい」とだけ言っていたと思います。
今、ぼくはオウム返しの練習を続けています。
言い直すことで、相手の言葉をちゃんと受け取れるようになりました。
人と話すのが、少しだけ楽しくなりました。
あのとき、「約束だよ」と言ってくれたことを、守っています。
本当にありがとうございました。
三崎遼
封筒を閉じるとき、少し手が震えた。
ポストに入れる瞬間も、迷った。
だが、投函した。
届くかどうかはわからない。
社長の気持ちもわからない。
それでもいい。
ぼくは約束を守っている。
そして今、誰かの言葉を、ちゃんと受け取れる。
ぼくは仕事ができないかもしれない。
でも、人を愛することは、できる。
それでいいと、今は思っている。




