第17話:泥を啜ってでも生き残る勇気
続きは明日にー
アステリア王宮の廊下には、もはやかつての静謐な威厳など欠片も残っていなかった。
聞こえてくるのは、剥がれ落ちる壁石の乾いた音と、現実を受け入れられずに喚き散らす貴族たちの醜い怒声ばかり。
そんな狂乱の渦中、王宮の隅に位置する実務官室だけは、不自然なほどの静寂に包まれていた。
「……よし。これで、公的な記録はすべて整理し終えたな」
第一王子の側近、ルッドは、最後の一枚の書類に判を押し、静かに羽ペンを置いた。
デスクの上には、磨き上げられた勲章や、王家から下賜された特注の官服、そして代々の忠誠を誓う系譜図が、整然と並べられている。それらすべてには、リゼットの「強制執行」によるものか、あるいは彼自らの意志によるものか、真っ赤な『返納』の文字が刻まれていた。
窓の外では、魔法の輝きを失った王宮が、ただの古びた石の塊へと退行していく。
だが、ルッドの瞳に絶望の色はなかった。あるのは、嵐の海で羅針盤を見つめるような、一点の曇りもない理知だけだ。
「ルッド! 貴様、こんなところで何をしている!」
血相を変えて部屋に飛び込んできたのは、同僚の騎士だった。
彼の鎧は魔法の供給が止まったせいで異様に重くなり、肩で荒い息をついている。
「早く地下の魔石を運び出すのを手伝え! ウィフレド殿下が、それを使って隣国へ亡命する資金を作ると仰っているんだ!」
ルッドは椅子から立ち上がり、同僚の目を真っ直ぐに見つめた。
「断る。私は今、自分自身の清算を終えたところだ。それと、地下の魔石を動かすのはやめたほうがいい。あれは既にエルディアによって『差押』の対象になっている。触れれば、その瞬間に君の残りの魔力もすべて徴収されることになるぞ」
「な……何を言っている! そんなことより、その格好は何だ!」
同僚が指差したのは、ルッドの姿だった。
彼は既に、煌びやかな官服を脱ぎ捨てていた。代わりに身に纏っているのは、下級の使用人が着るような、安物の麻の服。
「プライドはないのか! アステリア王家に仕える誇り高き実務官としての、貴様のプライドは!」
同僚の嘲笑。だが、ルッドは小さく鼻で笑った。
その脳裏には、あの夜、通用口で見送ったリゼットの、最後のアドバイスが響いていた。
『もし無理だと思ったら、早めに決断してください。あなたはまだ、やり直せるはずですから』
「プライド、か…。あいにくだが、そんなもので腹は膨れないし、世界の負債は返せないんだよ」
ルッドは麻の服の袖を捲り、冷徹に言い放った。
「私は、アステリアの沈みゆく債務と心中するつもりはない。私は今日、この瞬間をもって自己破産し、ただのルッドという男に戻る。誇り(ゴミ)と一緒に沈みたければ、君だけで行くといい」
「き、貴様……っ! 裏切り者め!」
罵声を背中に受けながら、ルッドは一度も振り返ることなく部屋を後にした。
手元に残されたのは、リゼットがかつて「もしもの時のために」と、帳簿の端に書き残してくれた法的手続きのメモだけだった。
アステリア王宮の門を出るとき、衛兵さえもいなくなった出口に、ルッドは深く一礼した。
それは王家への忠誠ではなく、この呪われた負債の連鎖からの、決別の礼だった。
◇◇◇◇◇
1週間後。
エルディア王国の国境付近、活気に満ちた市場を、一人の男が歩いていた。
安物の服を纏い、荷運びの仕事で汚れた手。
かつての王子の側近だった面影はどこにもない。だが、その足取りは驚くほど軽く、瞳には生きる意志が宿っていた。
「……ふぅ。一日の労働で得た銅貨で、焼きたてのパンを買う…。こんなに『収支』が明確な幸福があるとはな」
ルッドは、市場の喧騒の中で、手にした小さなパンを一口齧った。
魔法で無理やり腹を満たしていた頃よりも、ずっと体は軽い。健全な筋肉の疲れ。
その時だった。
市場の大通りを、豪華な馬車が通り過ぎようとしていた。
エルディア王国の公印。そして、それを護衛する魔導騎士たちの、一点の無駄もない洗練された魔力の輝き。
ルッドは立ち止まり、深く頭を下げた。
人混みに紛れ、道端に跪く一人の平民として。
馬車の窓から、一瞬だけ、風に揺れる金の髪が見えた。
本来の美しさを取り戻し、一国の命運を左右する世界の管理者となった、あの女性。
(……リゼット様)
ルッドは心の中で、彼女の名を呼んだ。
彼女には聞こえないだろう。気づかれることもないだろう。
それでよかった。
馬車が通り過ぎ、ルッドが顔を上げたとき。
ふわりと、一枚の紙が、風に舞って彼の足元に落ちた。
「……?」
ルッドがそれを拾い上げると、そこには見覚えのある、あの精密で美しい文字が並んでいた。
『投資判断:賢明。
過去の清算を終えた者には、新しい資産を築く権利があります』
その裏には、エルディア王都にある公共帳簿管理所への、匿名の推薦状が付記されていた。
『職種:帳簿係補佐。
備考:誠実な納税と清算の実績あり。』
ルッドの瞳から、熱いものが溢れそうになった。
彼女は、気づいていたのだ。
あの日、唯一自分の言葉に耳を傾けようとした男が、正しく破産を選び、この国まで辿り着いたことを。
「……ハハ。本当に、どこまでも抜け目のない会計士様だ」
ルッドは、大切にその紙を懐に仕舞い込んだ。
それは、彼が人生で初めて手に入れた、偽りではない信用という名の資産だった。
かつての同僚たちは、今頃アステリアの瓦礫の中で、返せぬプライドを握りしめて飢えているだろう。
だが自分は、泥を啜り、身分を捨てたことで、この新しい国で一人の人間として帳簿を書き始めることができる。
「賢い投資だった、か……」
ルッドは力強く立ち上がり、王都へと続く街道を歩き始めた。
空はどこまでも高く、澄み渡っている。
数字の厳しさを知ることは、絶望ではない。
それは、やり直すための真実を手に入れることなのだ。
ルッドの背中は、もはやアステリアの陰気な影を纏うことはなく、エルディアの眩い朝日の中に溶け込んでいった。
力尽きたので借金の話は次回
いろんな所からお金を借りて分かったことも書きたい
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