灰色の記憶 陸
ここだ。
間違いない。
田中はある店の前にいた。
やっとここまで来た、という期待を抱きつつも、言い知れぬ不安に押し潰さそうになりながら、店の戸に手を掛けた。
田中は店主との会話を思い出す。
玉子焼き——
その味が、何かを呼び覚ますような気がしていた。しかし、記憶はただの味覚だけではなかった。
小さな頃、田中は何度も父からその話を聞いていた。
父は若い頃、飲食店で働いていたことがあったと言う。あまりにも長い間忘れていたことだったが、ある日、母がこう言っていたことを思い出す。
「賄いで作った玉子焼きが、店主さんに褒めらたんだって。それが嬉しくて、今でもこうして特別な日には作ってくれるんだよ」
その言葉が、田中の中で何かと繋がった気がした。
店主が静かに口を開く。
「何か思い出しましたか?」
店主の問いにゆっくりと頷き、答える。
「父が生前若い頃、アルバイトしていた飲食店で働いていた事があったらしくて…」
田中は思い出した記憶を忘れないように言葉にしていく。
田中の話を聞き終えた店主は静かに微笑む。
「記憶というものは失われていきますが、思い出は失われずいつまでもあるものなのですよ」
「すみませんお客さん、まだ開店前なんですよ」
古びた店の戸を開くと、その気配に気づいた温和そうな初老の男性が声を掛けてきた。
店の名前は
「飯処 ますたに」
そう、「桝谷家」は、父の、祖父の、自身が幼少期に住んでいた家ではなかったのだ…
この人物がこの記憶の扉を開く鍵になるのだろうか。
「突然お店開ける前にすみません、私の父が生前こちらのお店にお世話になっていたと聞いて」
田中は「ますたに」の店主であろう男性に事の経緯を説明した。
父が若い頃にアルバイトしていたのであれば、今尚その店があるならば、40年以上続く店。
しかしそれだけでもかなりの数。
そこで一旦、大学時代の教授に連絡をとり、写真が撮られたであろう年代を伝えた。
すると数日後、教授から連絡があり、あの瓦屋根造りの家屋はその年代には珍しく、かなり地域が絞れた。
地域と40年以上続く店。
それだけで十分だったが、この店だと確信できることがあった。
玉子焼き。
アルバイトが賄いで作った玉子焼きが看板メニューになっている店があった。
アルバイト時代に賄いで作った玉子焼きを褒められた父のエピソードと繋がった。
「いやぁ、君のお父上にはウチの父が大変お世話になったみたいで。よく働く青年で、ウチの看板メニューはアイツが作ったんだ、ってよく自慢していたよ」
嬉しそうに話すその男性の仕草が、自分が褒めているような気がして少し恥ずかしくなってしまった。
「私は当時修行の身で京都にいたんで、一緒に働いた事はなかったんだが。初めて会ったのは父の葬儀の時だったかな」
店主の人の良さそうな人柄に、消えそうになっていた、店の戸を開ける前の言い知れぬ不安が急に蘇えった。
「あの時は大変だったよ、今でもよく覚えてる。父が亡くなってすぐあとに…」
空気が一転し、田中は店主の次の一言に息を呑んだ。
「幹夫さんが亡くなったからね。君のお祖父さんの」
田中はなんとか言葉を搾り出した。
「亡くなった、祖父が…ですか…」
そう、火事でね