灰色の記憶 弍
それから数日後、男は母に電話をかけたが、要領を得ない返事しか返ってこなかった。
「さあねぇ。桝谷なんて苗字も記憶に無いし。お父さんが撮ったのかしら」
「でも、俺の幼少期の写真なんだ。どこかで住んでた家なんじゃないのか?」
「どうかしら。それよりあなた、今年はちゃんと帰って来るんでしょうね。理沙さんにもしばらく会ってないし」
父が他界して以来、仕事が忙しい事もあり、しばらく帰省していなかったのを思い出した。
話をはぐらかすような母の態度に、男は違和感を覚えながらも、それ以上追及することはできなかった。
——本当に覚えていないのか?
——それとも、何かを隠しているのか?
考えても答えは出ない。
その夜、再び小料理屋を訪れた男は、店主に経緯を話した。
「母さん、やっぱり『知らない』の一点張りでした。と、言うよりどことなく話を逸らそうとしているというか、はぐらかしているような」
「ふむ……」
店主は湯気の立つ椀をそっと置く。
「となると、お父様に聞くのが一番なんでしょうが……」
「……亡くなったんで、それは無理ですね」
「そうでしたね……失礼しました」
店主は申し訳なさそうに目を伏せた。
「でも不自然ですよね。息子が幼少期に住んでいた家を親が忘れることがあるでしょうか?」
「そうなんですよ。せめて『ああ、そんな家もあったかもね』くらいの反応があってもいいのに」
「逆に、何か理由があって、あえて忘れたことにしているのかもしれませんね」
店主の言葉に、男はふと息をのんだ。
「理由……?」
「例えば、思い出したくないような出来事があったとか」
思い出したくない出来事。
その言葉が、男の胸の奥に冷たい重りのように沈んだ。
「……店主さん、こういう話、よく聞くんですか?」
「ええ、まあ。うちには色々な人が来ますからね。時々、少し不思議な話を持ち込むお客様もいらっしゃるんですよ」
店主は静かに笑った。
「田中さんも、その一人かもしれません」
男——田中は苦笑しながらお猪口を傾けた。
「俺の場合は、ただの気のせいだといいんですけどね」
「そうでしょうか?」
店主は微笑を崩さずに言う。
「気のせいなら、そんなに気にならないはずですよ」
田中はお猪口を置き、ポケットから写真を取り出した。
「この家のこと、もう少し調べてみます」
「そうですね。その違和感、何かの手がかりかもしれませんよ」
店主は湯気の立つ椀を指し示す。
「冷めないうちにどうぞ。出汁は、時間が経つと風味が変わりますからね」
田中はゆっくりと頷き、椀を手に取った。
家の記憶。
母の沈黙。
理由のわからない違和感。
そのすべてが、これから少しずつ繋がっていくのだろうか——。