第八章 痛みに染まる桜、揺れる覚悟の先
1.早春の雨上がり
天気予報が外れたのか、朝から細かな雨が降り続いていた。
翌日にかけては天気が回復するとアナウンスされ、ようやく昼過ぎには雲の切れ間から陽が射し始めた。校庭の桜は、若い葉を蓄え、初夏を迎える準備に入っている。
聖南学院高校の廊下を歩きながら、吉野京一はふと校庭に目をやった。花の名残と新緑の入り混じったその姿に、桜子を看取ったあの日の冷たい光景を重ねそうになるが、必死に意識を振り払う。
(あの日のまま止まってはいられない。櫻華は、今、必死に生きようとしているんだから……)
そう自分に言い聞かせるように足を進めると、ちょうど数学教師の若松理香が向こうから歩いてくるのが見えた。数日前に体調を崩して倒れたばかりだが、今日は少し顔色が良い。
理香は京一を見つけると、微笑みかけようとして戸惑った様子を見せる。とりあえず、軽く会釈をしてすれ違う。何かを言いかけた気配があったが、言葉を飲み込んでしまったようだ。
京一はその後ろ姿を目で追いながら、胸にわずかな痛みを感じる。きっと彼女には、伝えきれない何かがあるのだろう。弟を亡くした過去と、自分への想い――それが交差していることを、京一は薄々感じ取っていた。
(いま、僕が考えるべきは櫻華のことだ。彼女が桜子の生まれ変わりだとしても、そうでなくても……彼女が苦しむのを放っておけない。)
自分自身にそう言い聞かせるように、京一は職員室へと向かった。
2.教頭のさらなる圧力
職員室では、石川教頭が何やら書類を睨みつけ、苛立ちを隠せない様子だ。京一がそばを通りかかると、待ち構えていたように声をかける。
「吉野先生。少し時間いいですか」
嫌な予感がして、京一は「はい」と短く答え、教頭の隣に立った。すると、石川教頭は声を低めながら言葉を続ける。
「蔵内さんの両親が、彼女の体調についていろいろと学校に意見してくるんですよ。“娘が病院通いで欠席や早退が多いが、学業を支援してほしい” とか、“もっと個別に柔軟な対応を” とかね。あなたが担任だからこそ、彼らは期待しているようですが……」
それ自体は当たり前の要望のように思える。だが、石川の表情は険しいままだ。
「個別指導を行うには、公的な手続きや他の生徒とのバランスなど、クリアすべきことが山積みです。あなただけで引き受けるのは難しい。その点、ちゃんと理解してくださいね」
「わかりました。周囲の先生とも連携しつつ、正式な補講の形を検討します」
京一は頭を下げながら答える。教頭は少し肩の力を抜き、「頼みますよ。理事長もこの件には関心を持っていますから」と言い残して立ち去る。
――教師として当然のことを言われている。だが、櫻華が“桜子の生まれ変わり”らしき感覚を持っているなんて、もちろん教頭に言えるはずもない。京一はもどかしさを感じながら、己の机へと戻る。
(正式な補講を組むとなれば、櫻華の病状やプライベートが大っぴらになる。だけど、それを嫌がるのは彼女自身だろう……どうすればいい?)
書類に視線を落としながら、京一の思考はさらに暗い迷路を彷徨う。教師としての立場と、桜子を失った自分の想い、そして生まれ変わりかもしれない櫻華の存在が、一気に重くのしかかっていた。
3.揺れる親友の胸中
放課後、櫻華は中庭のベンチに腰を下ろしていた。病院とのやり取りで授業にほとんど出られず、校内に残るのも久々だ。
すでに部活へ向かった生徒たちの声が遠くから聞こえ、少し寂しい雰囲気が漂う。櫻華はその空気を感じながら、自分の鼓動を確かめるように胸に手を当てた。
「……今のところ、痛みはない。大丈夫……」
そう呟いたとき、背後から軽い足音が近づき、松本美羽の声が飛んできた。
「櫻華、まだ帰ってなかったんだね。調子はどう?」
親友の顔を見上げると、いつものようにあっけらかんとした表情だが、どこか心配気に眉を寄せている。櫻華は微笑もうとするが、それがうまくいかない。
「うん、今日のところは平気。ただ、病院に行くかどうか迷ってた……検査結果がまだはっきりしなくて……」
「そっか。もしかして、ドナーの話が進みそうなの?」
美羽が少し声をひそめる。櫻華は唇を引き結んでうつむく。移植が決まるかもしれないという話は、周囲に大っぴらに言えない。
少し沈黙が降りた後、美羽が言いにくそうに言葉を継ぐ。
「ねえ、櫻華。最近、先生との距離がすごく近いよね……。国語教師としての範疇を超えてる気がするっていうか。あたしは応援する気持ちだけど……正直、心配にもなるんだ」
「心配?」
「だって、先生は大人だし、学校という社会の中で立場もあるじゃない。もし何かあったら、櫻華が傷つくのは目に見えてるから……」
美羽の声には、かすかな震えが混ざっている。櫻華は彼女の言いたいことを理解できる。病気で体調の不安がある上に、教師と生徒の恋愛なんてややこしすぎる話だ。
――それでも、自分に与えられた時間が限られている以上、躊躇している暇などない。そう思うと胸が痛む。
「ごめんね、美羽……。私、先生が好き。だけど、まだちゃんと言葉にできなくて。病気のことも、前世のことも――いや、生まれ変わりなんて普通は信じられないよね……」
櫻華は思わず口を噤む。「前世」については美羽に詳しく話していなかった。生まれ変わりなんて、突飛すぎて笑われるかもしれない。
美羽は少し首を傾げた。「前世……? そんな話、いつの間に先生としたの? なんだか余計に大丈夫か心配になるよ」
「大丈夫、きっと。……ごめん、うまく説明できなくて」
櫻華は不安げに笑う。頭の奥で、桜子の記憶がまだ断片的にかすめるだけで、はっきりとした形になっていない。
美羽は何も言わずに隣に腰を下ろし、櫻華の手を握った。しばらく沈黙が続き、夕暮れの薄い光が二人を照らす。
「……櫻華が決めたことなら、あたしは応援する。だけど、本当に辛くなったら、絶対に言いなよ。あんたが倒れたりしたら、一番困るのは先生だってこと、忘れないで」
その言葉に、櫻華は小さく頷く。ありがたい友情と、説明しきれないもどかしさが胸を満たし、今にも涙が出そうになるのを必死でこらえた。
4.訪れる小さな破局
それから数日後、授業中にまたしても櫻華は体調を崩し、保健室へ運ばれた。軽い眩暈と動悸が激しくなり、教室で立ち上がった瞬間に意識を失いかけたらしい。
京一は自分が担当する古文の授業ではなかったが、連絡を受け、保健室へ駆けつける。すると、櫻華は横になったまま苦しそうに呼吸を整えていた。
「……蔵内、しっかりしろ。大丈夫か」
保健室の先生が「まだふらつくようなので、しばらく横にならせます」と言い、京一に安易に声をかけさせない空気が流れる。
それでも、櫻華は涙目で京一を見て、小さく笑みを浮かべた。「……先生、来てくれたんだ……」
その声に京一は胸が痛む。引き裂かれるような思いでいた矢先、石川教頭が半ばあきれ顔で保健室へ入ってきた。
「吉野先生……また蔵内さんのところに? 授業を受け持っていない時間とはいえ、ほかにも対応しなければいけない生徒がいるでしょう……」
嫌味を含んだ声に、保健の先生が困惑の表情を浮かべる。だが、石川教頭は構わず言葉を続ける。
「理事長からも繰り返し言われているでしょう。蔵内さんの特別扱いは慎重にしろ、と。いまの状況では、保健室にずっと張り付いているわけにもいかないはずです」
「しかし、教頭――」
京一が反論しかけるも、石川はそれを遮る。「あなたが特別視すればするほど、蔵内さんが生徒として浮いてしまうんですよ。クラスメイトの目もあるんですから」
徐々に苛立ちを含んできた声。櫻華はベッドで小さく身を縮め、唇を震わせている。確かに、石川の言葉にも一理あるかもしれない。だが、あまりに容赦のない言い方に、京一は怒りを覚える。
保健室の空気は張り詰め、周囲にいる人々が動きを止めた。そのとき、扉の向こうから急ぎ足で誰かが入ってきた。
「……先生、失礼します。私、蔵内櫻華の父です」
現れたのは蔵内一徳だった。娘が再び倒れたという連絡を受け、取り乱すように駆けつけたらしい。顔面に明らかな焦りと苦悩が浮かんでいる。
「ちょっと待ってくださいよ、教頭先生。娘がこんな状況なのに、吉野先生に会いに来るななんて……先生は私たち親子にとって、かけがえのない存在なんです!」
声を荒らげる一徳に、石川教頭は狼狽しつつも「落ち着いてください」と制止する。保健室の先生も「騒がないでください、他の生徒の迷惑になります」と小声で諭す。
だが、一徳は頭を下げながらも感情を抑えきれない。
「このままじゃ、娘が卒業まで持たないかもしれないんですよ! それまでに、せめて……せめて吉野先生との時間を過ごさせてやりたいんです。私はそれだけが願いで……!」
その哀痛に満ちた声は、京一の胸を深く切り刻む。かつて桜子を救えずに失った自分の後悔が、いま一徳の姿と重なってまざまざと蘇る。
石川教頭は「そんな無茶なことを言われても困ります!」と押し返すように声を上げるが、一徳は激しく息を詰まらせるようにして嗚咽をこらえている。
「……お父さん、もう大丈夫……だから……」
櫻華が微かな力で体を起こそうとする。苦しげな呼吸の合間に、「先生……ごめんなさい」と京一に視線を向けた。
あまりに切ない光景に、保健室は一層の暗さに包まれる。目を伏せる京一の耳には、桜子の息づかいが重なったように聞こえた。
5.記憶が差し込む夜
その日の夜、櫻華は病院に再び入院することになった。さほど大きな発作ではなかったものの、検査入院が必要との診断だ。
灯りを落とした病室に、機械の小さな電子音だけが響く。母・志穂は付き添いのためベッドの横に椅子を置き、うつらうつらしている。
櫻華は静かに目を閉じる。過剰な点滴のせいなのか、頭がぼんやりと重く、意識は揺れ動いていた。
(――先生……桜が散る……私は、どうしてこんなに苦しいの……)
まぶたの裏で、鮮明な情景が広がり始める。
――満開の桜の下。薄紅の花びらが風にあおられ、旋回するように散っていく。中学の制服を着た自分が、息を切らしながら倒れ込む。
そばには、涙声で名前を呼ぶ少年がいる。吉野京一――今よりも幼さの残る顔が、必死の形相でこちらを覗き込む。
「桜子! 桜子!」
その叫びが、遠のく意識の端で何度もこだまする。ああ、私は春山桜子だった。京一と幼馴染みで、いつか一緒に桜を見に行こうと約束していた。
けれど、病気がそれを許してくれなくて、あの春の日に倒れ、そのまま……。
「ごめんね、京一くん……伝えたかったことがあるのに」
声にならない声が喉の奥で泡のように弾ける。意識の中で、桜子の記憶がはっきりと輪郭をもって迫ってくる。
――そう、あの日から十数年。私は桜子の想いを抱えたまま、生まれ変わって“蔵内櫻華”として再びこの世にいる。
(……今度こそ、後悔はしたくない。だから、先生――京一くん――)
瞼を開くと、病室の暗闇が戻ってきた。短い時間だったが、確信に近い実感が胸に宿る。
(私は桜子。京一くんに伝えられなかった想いを、今度こそ伝えるためにここにいるんだ。)
ベッドの横で眠る母の姿を見つめ、櫻華は苦笑する。きっと、こんなことを言ったら混乱を招くだろう。だが、桜子としての記憶はもう疑いようがないほど、鮮明だ。
心臓の鼓動が少しだけ落ち着くのを感じながら、櫻華は小さく呟く。
「京一……先生。私、思い出したよ……ちゃんと全部」




