第六章 散り急ぐ風、刻まれた願い
1.理事長室の重苦しい空気
朝のホームルームが終わると同時に、吉野京一は石川教頭に呼び出され、母・吉野理恵が執務する理事長室へと足を運んだ。
木目調の重厚な扉を開けると、広いデスクの奥に座る理事長が、いつになく険しい表情で書類を見つめている。石川教頭はその隣で小声で何かを囁き、京一の姿を認めると眉をひそめた。
「お母さん……理事長。僕を呼んだの?」
京一がそう切り出すと、理事長である吉野理恵は書類を脇に置いて、ゆっくりと息をつく。
「ええ。学校の風紀や規律をめぐって、生徒と教師の距離感が問題になりつつあると聞いたの。特に、あなたと蔵内櫻華さんとの関係についてね」
すでに教頭から状況を聞かされているのだろう。京一は心のどこかで予想していた。
「補習の名目で放課後に二人きりになるのは、誤解を招きやすい。最近は学内で噂が広がり始めているし、万が一、外部に漏れたらどうなるか考えてみてほしいわ」
母の言葉はあくまで理事長としての立場を貫くものだ。親子という私情を挟む余地は感じられない。しかし、京一は言い返すことができないまま、唇を結んだ。
石川教頭が横から追い打ちをかける。
「吉野先生、あなたにも事情があるのかもしれませんが、生徒の特別扱いを続けるのは難しいでしょう。特に一年生は例外を許すと他の保護者からも疑念を抱かれます」
「わかっています。しかし、蔵内さんは体調が安定しにくい。だからこそ勉強の遅れを取り戻すには……」
「他の方法を考えてください。それこそ、複数の教師やクラスメイトも一緒にする『補講』に変えるとか、保護者の理解を得たうえで正式にカリキュラムを組むとか。二人きりでやる必要はない」
母・理恵も静かに頷く。
「あなたは、この学校の先生である前に、私の息子という目で見られがち。そんな中で、個人的な行動が取り沙汰されるのは得策じゃないわ。……わかるわね、京一」
理事長としてではなく、母親としての声色がかすかに混じっている。それでも、そこには厳然たる学校運営の責任者の態度があった。
京一は居たたまれない気持ちで俯き、「検討してみます……」と答えるしかなかった。外には雨が降り始めたらしく、窓ガラスに小さな粒が打ちつけている音が聞こえる。
2.国文学者の父を訪ねて
その日の放課後、京一は思い切って実家へ向かった。理事長である母は学校に残業で遅くなるという。だからこそ、久々に父の顔が見たかった。
吉野宗一郎は大学で国文学を教える教授。京一が古文に興味を持つきっかけを作った人物でもある。夕方ごろには研究室から自宅へ戻るらしく、京一は玄関を開けると、ちょうど父が書斎から出てきたところだった。
「おお、京一。珍しいな、こんな時間に来るなんて」
宗一郎は銀縁の眼鏡を外しながら、息子を迎える。柔和な顔立ちの中にも、どこか研究者らしい知的な雰囲気がある。
リビングのテーブルに向かい合って腰を下ろすと、京一は正直に打ち明けた。学校で起きている問題、生徒・櫻華の病気、そして櫻華の父・一徳から受けた衝撃的な頼み――。
「……なるほどね。教師と生徒という立場を越えた縁を求めるのは、確かに普通じゃない。けれど、そのお父さんとやらは、必死なんだろうなあ」
宗一郎は腕を組み、遠い目をする。
「かつてお前が部屋に閉じこもったとき、お父さんもどうすればいいのかわからず必死だった。奈良に連れ出して古文を教えたり、ドナー登録を勧めたり……そうするしかなかったんだよ」
京一は思わず背筋を伸ばす。桜子の死後、自分が落ち込んでいたときのことを思い出した。父は知識や旅行を通じて、京一の気持ちを少しでも救おうとしてくれたのだ。
その父が続ける言葉には、一層の重みが宿る。
「なあ、京一。桜という花は、どうしてこんなにも人の心を揺さぶると思う?」
「……儚さ、ですかね。咲いている期間が短くて、すぐ散ってしまう」
「そうだ。だからこそ、人はそこに愛しさと切なさを感じる。 ‘今年の桜を見逃したら、二度と同じ景色は見られない’ とね。そして、その景色が失われるとき、人は強い痛みを覚えるんだろう」
宗一郎はテーブルの上にあった一冊の和歌集を手に取る。ぱらり、と開いたページに目を落とすと、優しい声で読み上げる。
あだし世を いかにかすべき 桜花
散るといふことは なにとしもなし
(『古今集』より)
「 ‘この儚い世の中を、どうしてしのいでいけばいいのだろう。桜の花が散ると聞いたって、どうということはないじゃないか――’ そんな歌だ。……桜が散ることは悲しみの象徴でもあるが、同時に ‘覚悟’ を促すものでもある。限りあるものだからこそ、美しさを感じられるのかもしれないな」
京一は黙って父の言葉を聞く。桜子が亡くなって以来、桜を見るたびに痛みに襲われてきたが、今はまた別の視点を与えられている気がする。
ふと、父が眼鏡を少し持ち上げ、「お前、最近は体の具合はどうなんだ?」と声を潜めて尋ねてきた。
「え……いや、特に悪くはないと思うけど」
「そうか。ならいいんだが、何か悩みがあったらいつでも言えよ。……お母さんは厳しいところもあるが、お前のことを大切に思っている。そのことは忘れないでやってくれ」
宗一郎の視線には、どこか言いづらそうな色が浮かぶ。京一が「わかった」と答えると、父はすっと微笑みを返した。
この家には、温かい家族の気配が確かにある。しかし、桜子の死や“理事長の息子”という重圧が、京一の心に深い影を落としているのも事実だ。
3.報せ
翌日、昼休みの校舎。蔵内櫻華が病院から戻ると、美羽が「大丈夫なの? 検査ってどうだったの?」と駆け寄ってきた。
櫻華はうつむき加減で小さく息をつく。「まだ、確定じゃなくて……。ドナーの状態とか、詳しい適合検査がいるみたい。すぐに手術ってわけでもないみたいなの」
「そっか。早とちりして ‘手術決まった!?’ とか思っちゃったけど、そんなに簡単には行かないのね……」
美羽は申し訳なさそうに眉を寄せる。櫻華は「うん」とほほ笑みを返すが、その笑みにはどこかやりきれない疲れがにじんでいる。
「……大丈夫。期待してダメだったときの方が落ち込みそうだから、あまり浮かれないようにしてるだけ。……でも、なんかモヤモヤするんだ」
言葉にしづらい気持ちが胸に鬱積している。それは、誰かが死ぬことで自分が生き延びるかもしれないという申し訳なさと、移植のチャンスが訪れるかもしれない期待が混じり合った、複雑な感情だった。
廊下の窓から外を見下ろすと、しとしとと降り続く雨が中庭を濡らしている。桜の枝は葉を青々と広げ、春から初夏へと移ろう気配が漂う。櫻華の瞳には、その光景がどこか遠い世界のように映るだけだ。
「ねえ、先生には……そのこと、もう伝えたの?」
美羽が声を潜めて尋ねる。櫻華は首を左右に振る。
「まだちゃんと話してない。病院行くって言っただけ……。でも、先生もいろいろ大変みたいで……教頭がうるさく言ってるでしょ? それに、先生のお母さんが理事長だし……」
櫻華は思わず苦笑する。恋人になるとか、結婚するとか、そういった現実は遠い夢のように感じられる。自分には時間が少ないかもしれないし、相手は教師としての立場がある。
それでも、何か一つでも通じあえるものがほしい――櫻華の胸にはそんな渇望がくすぶり続けていた。
4.雨上がりの校庭、再び
放課後、降り続いていた雨がやみ、空には薄い雲の切れ間から夕日が差し込み始めていた。地面はまだ濡れていて、ところどころに水たまりができている。
櫻華が昇降口で靴を履き替えていると、視界の端に吉野京一の姿が映った。声をかけようか迷っていると、ちょうど京一が気づいて近づいてきた。
「……顔色、少し悪いぞ。今日、病院だったんだって?」
京一の言葉は優しいが、その瞳にはどこか不安が宿っている。あの日、理事長室で釘を刺されてから、京一は櫻華との接触を慎重にしているように見えた。
櫻華はバッグの紐を握り締めながら、小さく微笑む。
「うん、でもすぐに手術って話でもなくて……。先生にも、いろいろ迷惑かけちゃうし、話すのをためらってたの。ごめんなさい」
「謝ることじゃない。気になることがあれば、いつでも言ってくれればいい。俺は……いや、私は君の担任だし、頼ってもらってかまわない」
ふいに「俺は」と言いかけて修正するところに、京一の躊躇いが透けて見える。教師としての理性と、桜子の面影がちらつく感情、その二つの間で葛藤しているのだろう。
櫻華は「ありがとう」とだけ答え、下を向いた。その沈黙が痛いほどに切なく、京一が目を伏せかけた瞬間、何やら慌てた足音が近づいてくる。
「先生、蔵内さん、大変!」
息を切らしたのは松本美羽。顔色を青ざめ、何かを伝えに来た様子だ。
「保健室の先生が、若松理香先生が倒れたかもしれないって……!」
「え……若松先生が……?」
京一は驚き、櫻華と顔を見合わせる。理香は数学教師として同僚であり、京一のことを何かと気遣ってくれていた存在だ。
櫻華は曖昧な不安を抱えながらも、「行きましょう!」と声を張り、京一とともに校舎の中へ駆け戻った。
5.余波、そして記憶のきざし
理香が倒れていたのは、職員用のロッカールームだった。校内巡視を終えたあと、急に眩暈を起こしたらしい。保健室から駆けつけた保険医が応急処置を施し、理香はどうにか意識を保っていた。
京一が駆け込むと、ロッカーに背を預けて座り込む理香の顔は、どこか力ない笑みを浮かべている。
「若松先生、大丈夫ですか……」
「ごめんね、吉野先生……。ちょっと立ちくらみがひどかっただけで……」
理香は弱々しい声で答えるが、その瞳は遠い過去を思い出しているかのようににじんでいる。弟を亡くしたトラウマを抱える彼女にとって、体調を崩すたびにあの記憶が蘇るのだろうか。
「無理はしないでください。保健室で少し休んだらどうですか?」
京一がそう言うと、理香は首を振って「もう大丈夫」と呟く。だが、汗ばんだ額と震える唇は明らかに限界を物語っている。
櫻華も心配そうに見つめていたが、自分も体が弱いだけに、どう声をかけるべきか分からない。
「若松先生、いつも自分のことは後回しにして、周りを優先しちゃうから……」
思わず出てしまった言葉に理香は薄く笑う。「そうかもね。私ってそういう性格、変わらないんだ」
まるで自嘲するような口調だったが、そこには弟を守れなかった悔恨が色濃く刻まれているようにも感じられた。
「……なんだか、ほんと、みんなギリギリなんだね」
ぽつりとつぶやいたのは櫻華だ。彼女自身も体調が安定せず、移植をめぐる葛藤を抱え、京一もまた過去のトラウマと教師としての立場を背負う。そして理香も、亡き弟の影に囚われている――誰もが何かしら大きな痛みを抱えているように思えた。
夕闇が忍び寄る校内で、理香は保険医に付き添われて、静かに保健室へ運ばれていく。京一と櫻華はその場に残り、互いに言葉を見つけられずにいた。
外では雨雲が切れ、夕日が一瞬だけ校舎の窓を染めている。金色に濡れた光が、廊下をほんのわずかに照らした。
そのとき、櫻華の頭の片隅に、ふと既視感のような感覚がよぎった。
――夕日、桜の木、誰かが倒れる――。ぼんやりとした断片的な記憶。けれど、その正体はまだ靄がかったまま、手探りの中で見え隠れするだけだった。




