第五章 こぼれ落ちる歌、淡き光の行方
1.夕闇の準備室
夜に近い薄暗さの放課後。古文準備室には一つの小さなスタンドライトだけが灯され、吉野京一はその下でプリントをまとめていた。
紙面には数首の和歌が印字されている。桜にまつわる歌はもちろん、小野小町や在原業平など、花の移ろいや命の儚さを詠んだものを中心に選んでいる。
ページをめくるたび、古来の詩情が胸をかきむしるように響いてきた。
「――かつ散る花を いかにとどめむ」
京一は声にならない息で、そう読み上げそうになって口を閉じる。満開の桜が、あっという間に散ってしまう情景を嘆く短歌。
いつか桜子と、その歌について話したことがあった気がする。けれど、記憶はぼんやりとしていて、はっきりとした声や表情は思い出せない。ただ、“散っていく儚さ”だけが、ずしりと心にのしかかる。
戸の向こうからノックが聞こえ、京一は慌てて資料を閉じた。
「――はい」
扉を開けたのは、蔵内櫻華だった。薄いスカーフのようなものを首元に巻いて、やや息を切らしながら立っている。目元に微かな疲労がにじむが、その瞳は確固たる意志を湛えていた。
「来てくれたんだな。体調は……大丈夫?」
京一が立ち上がって椅子を勧める。櫻華は「少し保健室で休ませてもらったので平気です」と答えると、かすかな笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、放課後はあまり時間が取れなくて。でも、古文――特に和歌の話、もっと知りたくて……」
その視線は、押し殺した熱意を含んでいる。病弱な身体にもかかわらず、彼女がこうしてやってくるのは、“今を大切にしたい”という強い思いがあるからだろう。京一はその純粋さに、胸がまた締めつけられる。
「いいよ。ちょうどいくつか用意していたんだ。……あまり遅くならないように、軽く話をするだけにしよう。約束だ」
「はい」と頷きながら、櫻華は京一の指さす席に座る。そこに広げられたプリントには、有名な桜の歌や、小野小町の歌が並んでいた。
2.こぼれ落ちた古文
「まずは、この歌を見てみようか」
京一はプリントを一枚選び、声を落として読み上げる。
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
(小野小町)
「……小野小町の有名な歌ですね」と櫻華が呟く。その言葉には少し切なさが混じっていた。
「これ、百人一首にも収録されている有名歌ですよね。 ‘花の色はすっかり移り変わってしまった……’ って、散りゆく桜のように、自分の美しさや青春も失われていくって意味、ですよね」
自分の命もまた、散りゆく花のように短いかもしれない――そう思うと、櫻華は自然と息苦しさを覚える。それでも、口には出さない。京一もまた、その心情に気づいているかのように、目を伏せたままだった。
「そう。小町の歌は、一見すると ‘見た目の美しさ’ の喪失を嘆いているだけにも見えるけれど、実はもっと深い意味があると思う。花や月といった自然を見ながら、 ‘もう戻らない時’ を惜しむという……」
言葉を紡ぐ京一の声には、彼自身の想いもにじんでいた。もう戻らない時間――桜子との時間。そして、櫻華の時間も、決して長くはないかもしれない。
「……先生、すみません。私、最近、桜のことばかり考えてしまって。もう散っちゃったんですけどね、学校の桜……」
櫻華の声は、不安と焦燥の狭間を行き来しているように震える。
「私、散りゆく花を見ると、どうしてこんなに胸が痛くなるのか、自分でもわからなくて。だから、こういう歌を見ると……妙に心が締めつけられるんです」
京一はゆっくりと頷く。桜子を亡くしたときの痛みが、自分の胸を今も焼き付けて離れないのと、どこか似ている。
「花はまた来年咲く。でも、今年の花はもう戻らない。それが桜の一つの象徴なんだろうな。……だからこそ儚いし、美しい」
視線を交わす二人の間に、かすかな暗さと、それを照らすような優しさが混在する。
櫻華がそっとプリントをめくると、もう一首の歌が出てきた。そこには、京一が手書きした注釈がある。
世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
(在原業平)
「 ‘もし世の中に桜がなかったら、春はもっと穏やかな気持ちで過ごせるのに’ って歌……ですよね」
「そう。桜の美しさと同時に、散ることへの苦しさを嘆いている。……僕にとっても、桜はいつも複雑な花だよ」
少しだけ笑いながら、京一が言う。桜を見るたびに、桜子の死を思い出すという彼のトラウマ。櫻華はそっとその横顔を見つめた。
「――先生は、どうして桜が苦しいんですか?」
踏み込んだ問いかけ。それを言葉にした瞬間、櫻華自身も少し後悔する。教師として、プライベートな事情を話すのは重荷になるだろうし、何より桜子の存在は京一にとって消えない傷だ。
だが、京一はほんのかすかな苦笑を浮かべる。
「……昔ね。春山桜子っていう、少し君と似た名前の幼なじみがね、心臓の病気で倒れてそのまま亡くなったんだ……その時、桜が舞い散っていた……」
遠い目をして、独り言のようにぽつりとそれだけ言って、京一は視線を机上のプリントへ戻す。桜の花びらのように、思い出は儚く散ってしまったかもしれないが、その痕跡は消えずに心の奥底に存在している。
3.予期せぬ妨害
短い“個別指導”を終え、櫻華が廊下へ出ようとしたとき、勢いよく扉が開いた。そこに立っていたのは石川教頭だ。
「吉野先生、蔵内さん。こんな時間まで何を――」
低く咎めるような声。視線は厳しく、まるで証拠を押さえようとしているかのようだ。
「教頭……。いえ、少し古典の補習をしていただけで」
京一は苦しげに弁明をする。櫻華は「すみません」と言いながら頭を下げた。
「しかし、私が先日申し上げたばかりですよね。生徒と教師の個人的な接触は、学校の品位に関わるんです。補習なら公に希望を出して、他の生徒を交えて行うべきでしょう」
石川の言うことも一理ある。けれど、櫻華は自分の病状を周囲に知られたくないという思いもあり、教師とマンツーマンで“休みがちの部分を補う”という形を取りたかった。
だがそんな事情を無視するように、石川はさらに声を強める。
「そもそも、あなたが担当しているのは一年生だけじゃない。手のかかる生徒は一人ではないでしょう。蔵内さんだけ特別扱いするのは不公平ですよ」
櫻華は唇を噛み、何も言い返せない。特別扱い――それは否定できない現実かもしれない。けれど、健康な生徒と同じペースでは到底追いつけないのだ。
石川は京一を鋭くにらんで言葉を続ける。
「理事長の息子だからといって、勝手を許されるわけではありません。今後、蔵内さんへの個別補習は慎重に考えてもらいます。いいですね?」
「……承知しました」
京一は短く答えるしかなかった。石川の背後には若松理香も立ち尽くしている。理香は何か言いたそうに目を伏せながら、石川の背に従うようにその場を後にする。
残された櫻華は、肩を落として小さく震えていた。
「……ごめんなさい、私のせいで。やっぱり、先生を困らせてしまってるんだ……」
そうつぶやく櫻華の瞳には涙がうっすらと宿っている。
「いや、僕がうまく説明できなかっただけだよ。気にしなくていい」
京一はそう言うが、教頭の態度は明らかに警戒心を増しているのがわかる。周囲の誤解を解くには、どう行動すればいいのか、まるで糸口が見えない。
ちょうどそのとき、櫻華のスマートフォンが振動した。着信画面を覗くと、“父”の文字。いつもより早い時間に迎えに来たのかもしれない。
櫻華は急いで通話ボタンを押し、小声でやりとりをする。京一は少し距離を置きながら、その横顔を窺う。すると、みるみるうちに櫻華の表情がこわばった。
「……うん、わかった。すぐ行くね」
そう言って切ると、櫻華は京一の方に向き直る。唇をきつく結んだまま、動揺を押し殺すように息を飲んでいる。
「どうかしたのか? 具合悪くなったとか……」
「……主治医の先生から連絡があって、移植手術の候補者が見つかったかもしれないって……」
その言葉に、京一の胸も大きく揺れる。
櫻華は微妙な笑みを浮かべるが、その笑みは喜びではなく、不安と混乱が半分を占めているように見えた。
「確定じゃないし、すぐに手術できるかもわからないけど、念のため病院に来てって言われて……。あんなに待ち望んでたはずなのに、どうして胸がざわざわするのか自分でもわかりません」
限りある命をつなぐためには、誰かの命を分け与えてもらう――それが移植という現実。
櫻華の目には、かすかな涙が浮かんでいた。喜びでもなく、悲しみだけでもなく、複雑な感情が交錯している。
「とにかく、父が迎えに来るので失礼します。……先生、また、話を聞いてくださいね」
そう言い残し、櫻華は足早に去っていく。京一はその後ろ姿を見送るしかなかった。廊下にこだまする静寂が、やけに冷たく感じられる。
(もし、移植が本決まりになったら――彼女は命を繋ぐかもしれない。それでも、その先に待ち受けているものは何なのか)
想いは千々に乱れ、答えは何一つ見つからない。机の上に残された和歌のプリントだけが、薄暗い準備室の明かりに照らされて、静かに佇んでいた。
4.それぞれの祈り
夕暮れの病院。ロビーには灯りがともり、薄暗い外の景色を背景に、行き交う医療スタッフや患者の姿が目立つ。
蔵内櫻華は父の運転する車で病院へ来ると、すぐに主治医の佐伯に呼ばれた。診察室の白い壁は相変わらず無機質で、櫻華の胸の動悸を余計に強める。
「……まだ確定ではないんです。でも、適合する可能性があるドナーが出たと連絡がありました。検査次第では手術の準備をしなければならない」
佐伯医師は淡々と語るが、その眼差しの奥にはかつて娘を失った人特有の深い優しさと悲しみが共存している。櫻華は複雑な気持ちで視線を落とした。
誰かが亡くなって、自分が生き延びるかもしれない。
待ち望んできたはずなのに、そう思うとやはり胸が苦しくなる。両親の嬉しそうな眼差しを見ていると、自分だけがこんな感情を抱いていることが罪のようにも感じられた。
「ごめん……ごめんね」
母・志穂は涙ぐみながら、櫻華の手を握りしめている。父・一徳も「神様が、きっと娘を見放さなかったんだ」と震える声で言葉をこぼした。
櫻華は静かに首を振る。心臓移植のチャンスが巡ってきても、それは誰かの死を前提にした希望だ。だから、心の底から喜べない自分がいる。
(先生は、このことをどう思うだろう……)
思考がふと、吉野京一へ向かう。学校で知り合ってからそんなに時間が経っているわけじゃないのに、彼は自分の心に大きな場所を占めるようになっていた。
もし自分が移植をして生き延びたら、先生は喜んでくれるだろうか――そんな問いが頭をぐるぐると回る。
一方、その夜。
自室で机に向かう京一は、手を止めたまま、窓の外を眺めていた。先ほどの櫻華の表情がどうしても頭から離れない。
電気スタンドの下には、歴史的仮名遣いが記された百人一首の冊子が開いたままだ。風がページをめくり、ある一首の文字が浮かび上がる。
ひさかたの ひかりのどけき春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
(紀友則)
春の日差しは穏やかでも、花は散る。どうしても、落ち着かずに花びらは舞い散ってしまう。
桜子が最後に口にした歌でもあった。それが今、櫻華の姿と重なり、胸を強く締めつける。
「花が散るように、人の命もいつかは終わる。……でも、それでも、君は生きたいんだよな」
誰にともなく呟く声が虚空に落ちる。もし、あのとき自分が桜子を救えたなら――もし、ドナーが見つかったなら――と、過去に幾度も願ったことが脳裏をよぎる。
自分は何もできなかった。ならば、今回こそは“誰か”を救うことができるだろうか。いや、教師として何をすればいいのかすら、まだ見当もつかない。
想いは、尽きない。
桜が散る季節を過ぎても、桜子への悔恨と、櫻華への不安とが交錯して、京一の心を乱し続ける。窓の外は夜の闇に覆われ、遠くに見える街灯の光が滲んでいる。
その光景はまるで、これから訪れる嵐の前の静寂を思わせた。




