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花散るらむ、それでも君と  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第四章 混ざり合う思惑、揺れる桜の残り香

1.不意の来訪者

 昼下がりの聖南学院高校。静かな校舎の廊下を、ひとりの男性が落ち着かない足取りで歩いていた。

 蔵内一徳くらうち かずのり――櫻華の父である。スーツ姿に慣れないネクタイを締め直しながら、「職員室はこの先か」と何度もあたりを見回す。

 日頃は滅多に学校に来る機会のない一徳だが、娘の体調悪化とその心情の変化を考えると、いてもたってもいられずに足を運んだ。

 受付を済ませると、学校のスタッフから「担任は職員室かもしれないが、教頭室に通す」と案内された。一徳が重い気分で廊下を進むと、校内を巡回していた吉野京一本人がいた。

「吉野先生、ですよね。あ、あの……蔵内櫻華の父です」

 名乗った一徳に、京一の表情が一瞬で固まる。まさか、櫻華の父が突然訪ねてくるとは思っていなかったのだろう。

「はい……いつも娘がお世話になっています」

 そう言った一徳の声は、少し上ずっている。学校の規律や世間体を考えれば、教師と生徒の距離を安易に縮めてはいけない。それは十分承知している。だが、一徳の中にはもっと切実な思いがあった。

「話があるんです。できれば、少し時間をいただけますか」

 京一は戸惑いつつも、頷くしかなかった。廊下を通りかかった石川教頭が「おや、蔵内さんですね。どうぞこちらの応接室へ」と促し、二人は簡素な応接セットが置かれた小部屋へ通される。

 コーヒーを出して少し怪訝な表情を残し去っていく石川教頭の背中を見送りながら、一徳はうつむきがちに、拳を握りしめた。

「吉野先生……娘がいつも楽しそうに先生の話をしていまして。本当に感謝しています。病気でつらいことが多いあいつが、学校に行くのを喜ぶなんて久しぶりで……」

「いえ、僕は大したことは何も――」

 京一がそう言いかけた瞬間、一徳はすっと身を乗り出す。腰を折るように頭を下げるその姿勢は、父親の必死さを物語っていた。

「先生、娘を……どうかよろしくお願いします。あいつは先天的な心臓の病気で、先のことを考えると……どれくらい生きられるか、本人にも僕らにも分からないんです」

 声が震えていた。一徳の言葉の端々には、親としての苦悩と祈りが滲み出ている。

「できるなら、娘の寿命が尽きるそのときまで、少しでも笑っていてほしい。あんなに嬉しそうに先生を慕っている娘の姿を見ていると、親としては奇跡のようなんです。だから……」

 京一は喉が詰まるような感覚を覚えた。かつて、自分が守れなかった人がいた。その人もまた、先天的な心臓疾患を抱えていた。桜子の記憶が不意に押し寄せ、胸を苦しくする。

 一徳はさらに声を落とし、言葉を続ける。

「もし、娘が最後まで高校生活を送ることができたら……いや、あいつが無事に卒業できるほど生きられたら、どうか嫁にもらっていただけませんか」

「――っ」

 一気に咳き込むように息を呑む京一。まさか、そんな申し出をされるとは想像もしなかった。教師と生徒、しかも十数歳も年が離れている。社会的にも問題は大きい。

 だが、一徳の瞳は真剣だった。娘がいつ死んでしまうか分からないからこそ、“今”しかない。娘が本気で想う相手がいるなら、それを全力で支えたい。その悲痛な思いが伝わってくる。

「すみません、無茶な話だと分かっています。でも、それほど娘を……桜華を愛しているんです。娘が望む幸せを叶えてやりたい。だから……」

 頭を下げる一徳に、京一はしばらく声が出ない。桜子を救えなかった自分が、今また同じ苦しみを抱える少女に寄り添うことなど許されるのか。

 戸惑いと混乱が入り混じる中、扉がかさりと開く音がした。

「失礼します。教頭に呼ばれ――」

 若松理香が現れ、応接室の様子を目にして動揺する。一徳が深々と頭を下げ、京一が力なく言葉を失っている――普通ではない空気がそこには漂っていた。


2.夕焼けに燃える校庭

 やがて一徳が帰り、京一は授業を終えた後も茫然としていた。応接室での会話は、現実感が薄いまま彼の心に重くのしかかっている。

(卒業まで生きられたら、嫁にもらってほしい……僕に、そんな資格があるんだろうか)

 校庭の桜はすっかり散り、花びらの名残が地面にわずかに貼りついている。新緑の芽が目立ち始めた枝が、夕陽に染まり、また別の季節を予感させる。

 京一は無意識のうちに、その桜の樹の下へ足を運んでいた。

「先生……」

 か細い声が背後から響く。振り向けば、そこには蔵内櫻華が立っていた。制服のリボンをゆるめ、少し疲れたような表情だが、瞳だけはまっすぐ京一を見ている。

「……お父さんが来てたの、知ってます。先生に無茶なことをお願いしたんですよね? すみません……」

 櫻華は気まずそうに視線を落とす。聞けば、一徳は櫻華に何も言わずに勝手に学校へ来たらしい。

 京一は何とか落ち着いた声を出そうとするが、自分の心臓が妙に早鐘を打っているのを感じる。

「君が謝ることじゃないよ。……ただ驚いた。父親から、直接そういう話をされるなんて、僕も想像していなかった」

 花びらがほとんど消えた枝先を見上げながら、京一は言葉を継ぐ。「まあ、教師と生徒だし……そんなの、簡単には受け入れられない話だ」

「……はい。わかっています。でも……」

 櫻華は拳をぎゅっと握る。その横顔は、歯を食いしばるように震えていた。

「私だって、先生に迷惑をかけることになるのは分かってます。でも、私……先生を好きになってもいいですか?」

 その問いかけは、あまりに無防備で、あまりに切実だった。教師と生徒という枠を越えた想いを宣言するには、若すぎるかもしれない。だが、その分だけ純粋で、嘘偽りがない。

 桜子を失ったときの記憶が、京一の胸を刺す。あのときも、もっと早くお互いの気持ちを確かめ合っていれば……何かが変わったのではないか――そんな後悔が蘇る。

「……君はまだ、16歳で」

 京一は口の中で言葉を噛みしめる。

「人生だって、これからじゃないか。もっといろんなことを経験して、自分のやりたいことを見つけて……」

「やりたいこと……私には、そんなに時間があるかどうか分からないんです」

 遮るようにして櫻華が呟いた。その言葉は、残酷なほどの現実を突きつける。君はまだ若い、これからだ……と言われても、彼女にはその先の未来が約束されていないかもしれない。

 そして京一も、かつてその事実を桜子とともに突きつけられたのだ。

 沈黙が降りる。夕日の光が横から伸び、二人の足元を長く引き延ばしていた。

 ふと、櫻華が一歩、京一に近寄る。視線が絡み合い、京一はわずかに後ずさりしかけるが、櫻華の瞳は強い意志を宿していた。

「先生、私ね……あとどれくらい生きられるかなんて分からないけど、今を無駄にしたくないんです。苦しいことばかりで、諦めるのはもう嫌なんです」

 その小さな声は、折れそうでいて、確かな光をはらんでいる。

「だから、先生には“私はここにいる”って、伝えたくて。先生がどう思うかは分からないけど……後悔だけはしたくないから」

 京一は胸の奥が大きくうねるのを感じた。桜子を失って以来、ずっと閉ざしていた感情が、痛みを伴いながらも溶け出してくるようだ。

 一体、どうすればいいのか――答えが出せないまま、京一は小さく息をつく。

「……今は、答えは出せない。だけど……君が本気でそう思うなら、僕も逃げずに考えてみるよ」

 この言葉は、曖昧な約束にすぎないかもしれない。それでも、櫻華の瞳から僅かな安堵の色が浮かぶのが見えた。

 風が吹く。もう散り尽くしたと思っていた桜の枝から、小さな花びらが一枚だけくるりと宙を舞い、二人の間を滑り落ちていく。

 まるで、最後の欠片が二人を繋ごうとしているかのように――京一はその儚い光景から目を離せなかった。


3.波紋を広げる噂

 翌日、校内では早くも噂が飛び交い始めていた。

 「一年生の蔵内さんと古文の吉野先生が、よく一緒にいるらしい」「あの子、体が弱いから特別指導?」など、真偽不明の憶測が生徒や教師たちの間を駆け巡る。

 学校の体面を何より重んじる石川教頭は、たちまち敏感に反応し、廊下で京一を呼び止める。

「吉野先生、ちょっといいですか。……最近、担任の蔵内さんと必要以上に親しくなっているという話を耳にしているんですが」

 明らかに警戒を含んだ低い声。その背後には、若松理香の姿も見える。彼女は心配そうな眼差しを京一に向けていた。

「いや……彼女は病弱ですし、補習のような形で勉強を見ているだけです」

 京一は落ち着いて答えようとするが、内心は冷や汗をかいている。昨晩、一徳から受けた“嫁にもらってほしい”という申し出など、到底学校には言えない話だ。

 石川の目は厳しいまま、さらに問いただす。

「いいですか。理事長の息子であれども、教師と生徒の一線を超えるような行為は問題です。あなたにもわかっているはずです」

「……もちろん、承知しています」

 そこへ理香がわずかに口を開く。「教頭、蔵内さんは確かに体調が悪いことが多いですし、吉野先生の補習を受けたいと言ってました。これ自体は違法でも何でも……」

 石川は「それでも」と言葉を被せる。「学校全体の目があるんですよ。どこまで許容できるか、慎重になってくださいね」

 そう吐き捨てるように告げると、石川は踵を返して歩き去っていった。理香は肩を落とし、京一に近づく。

「すみません、私が何も言わない方がよかったですよね……。でも、吉野先生が本当に勉強を見てあげてるだけなら、それを証明したくて」

 理香の声には自責の念が含まれる。彼女は弟を亡くした過去ゆえに、体の弱い生徒には強い同情を寄せているようだ。

 しかし、その同情がただの“善意”だけではなく、京一への想いも複雑に絡んでいることを、理香自身も気づいているに違いない。

「いえ、ありがとうございます。僕のほうこそ、誤解を招かないように気をつけます」

 理香はしばらく言葉を探すように視線をさまよわせるが、結局「はい……」とだけ答えて去って行った。その背中は少し寂しげで、京一は胸に痛みを覚える。


4.ひび割れた小さな世界

 放課後、櫻華は校門近くで美羽と別れ、一人で帰宅しようとしていた。

 玄関を出てすぐの場所には、もうすっかり葉桜になりかけた並木道がある。風にあおられる緑色の葉が、まるで季節を急かすように枝を揺らす。

 櫻華はバッグを背負い直し、一歩足を踏み出そうとしたとき、視界がぐらりと揺れた。

「――っ、く……」

 額に鈍い痛み。呼吸が苦しくなり、心臓が暴れるように脈打つ。いつもの発作が起こりかけているのを悟り、櫻華はその場に膝をついた。

 周囲にいた生徒が「大丈夫!?」と駆け寄るが、櫻華は息を上手く整えられず、しゃがみ込むしかない。

(どうしよう、ここで倒れたら……)

 焦りが募る。声を出そうにも喉が詰まるようだ。足元が霞んで視界が暗転しそうになるのを必死でこらえていると、聞き覚えのある声がした。

「蔵内さん! しっかり!」

 駆け寄ってきたのは、若松理香だった。校舎から出たところを目撃したらしく、慌てて櫻華に肩を貸し、支えてくれる。

「大丈夫? 救急車を呼ぶ? 待ってて、職員室に――」

「い、いえ……少し休めば……」

 息も絶え絶えにそう答えると、理香は困惑を浮かべながらも「じゃあ保健室に行きましょう」と、何とか櫻華を引き起こして歩かせる。

 櫻華は理香の腕を頼りにしながら、どうにか意識を保つ。心臓が裂けそうなほど鼓動しているが、胸を押さえる手は震えをこらえている。

 保健室に着くころには、息は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。ベッドに横たわると、理香が汗をかいた櫻華の前髪をそっと撫でてくれる。

 瞳の奥に浮かんでいるのは、まるで我が子や妹を気遣うような優しさと、切なさ――そして何か、別の感情。

「無理してない? 本当はもっと安静にしておかなきゃいけないんじゃないの? ……吉野先生との“補習”、あれも無理に参加してるんじゃないでしょうね」

 理香の声には、どこか探るような響きが混じる。櫻華は小さく首を振る。

「無理なんかしてないです。むしろ、先生の授業があるから頑張れるんです」

 そう言いきる櫻華の目は、はっきりとした決意を帯びている。しかし、その言葉に理香は微かな苦笑を浮かべるだけだった。

 まるで、かつての自分を見ているかのような違和感――弟を失ったとき、自分は何ひとつできなかった。それが今も痛みとして胸に残っているのだ。

「……そう。あなたがそう思うなら、私が止めることもできないわね」

 理香はそう呟くと、保険医に声をかけて櫻華を任せようと立ち上がる。

 振り返ったその瞳には、一瞬にして複雑な色が揺れる。

「だけど、蔵内さん……吉野先生は、優しい人だけど、何か大きな悲しみを抱えているようにも見えるの。あなたも、自分の体で精一杯かもしれないのに、これ以上抱え込むのは無理しすぎないでね」

 そんな忠告を残し、理香はカーテンを閉める。

 櫻華は目を伏せた。自分が支えられるわけでもない。ただ、先生のために何かできる気がするわけでもない。だけど、どうしようもなく“今”しかない時間を必死につかみたい――それだけだ。

 胸の奥に残る不協和音に耐えながら、櫻華は保健室の天井を見つめる。散りきった桜の枝が、鮮やかなまま記憶に焼きついて離れない。すべては動き出したばかりなのに、なぜこんなにも苦しく、切ないのだろうか。


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