第三章 遠ざかる鼓動、近づく想い
1.夕暮れの追憶
放課後の校舎は、白熱灯の照明が点るまでの短い間だけ、夕暮れの色に染まる。
吉野京一は、古文準備室の机に向かい、使い古した資料集を繰り返しめくっていた。窓際から覗く橙色の光が、紙面を柔らかく照らし出す。
その束の中に、百人一首の解説プリントが数枚混じっている。
「やると言っちゃったけど……ほんとに個人的に教えて、大丈夫かな」
小さくつぶやきながら、京一は首をかしげる。教師と生徒、それ以上でも以下でもないはずが、胸の奥にかすかな違和感が生まれつつあった。
――桜の木の下で見せた、蔵内櫻華の瞳。あのとき、どうして自分は“桜子”の面影を感じ取ってしまったのか。
同時に、桜子の死以来ずっと封じ込めてきた“痛み”が、少しずつ解け始めるような感触もあった。まるで、冬に閉ざされていた大地が春に向けて芽吹くように――だが、そこで再び失うのが怖い。
「吉野先生、まだ残ってたんですか?」
突然、扉の向こうから声がかかる。顔をのぞかせたのは数学教師の若松理香だった。少し心配そうに眉尻を下げている。
「今日の職員会議はとっくに終わったし、もう帰ってもいいんじゃないですか?」
「ああ……そうですね。ちょっと、来週の授業準備をしていただけなんで」
理香は準備室に入りかけたが、どこか言いづらそうに立ち止まる。京一は「何か?」と目で促す。
「いえ、その……最近、蔵内さんと話してるところをよく見かけるんで、気になって。あの子、身体が弱いらしくて……」
「……知っています。体調を崩しがちだとも聞いています」
「そうなんですね。もし何か気になることがあったら、教頭や保健室の先生にも相談してみてくださいね。何かあってからじゃ遅いですし……」
理香の言葉には、教師としての心配よりも、もう少し踏み込んだ感情が混じっているように感じられる。京一はわずかに胸を締めつけられる思いだった。
「わかりました。ありがとうございます。……そろそろ、帰ります」
そう答えると、理香は小さく笑って「じゃあ、一緒に玄関まで行きましょう」と言う。ふたりは消灯した廊下を並んで歩き、昇降口へ向かった。
夕闇が迫る空には、早くも冷たい風が混ざり始めている。校庭の桜のシルエットは、薄紫の影の中に沈みこんでいた。
(あの日、桜子が倒れた夕暮れも、こんな風だったのかもしれない)
闇へと溶けていく桜の姿を眺めながら、京一は胸の底にかすかに疼く記憶を抱え込む。
いつか、桜が怖くなくなる日は来るのだろうか――そんな問いが、答えを見つけられないまま夜の風にさらされていた。
2.病院という“日常”
翌週の半ば、蔵内櫻華は定期検査のために学校を早退し、病院へと向かった。
バスの揺れを感じながら、制服のスカートの上にノートを開く。そこには、吉野京一が前日にプリントしてくれた和歌が数首、短い注釈とともに記されていた。
(“命の儚さ”を詠んだ歌……)
筆跡から、京一が時間をかけてまとめてくれたのが伝わってくる。その事実だけで、櫻華の心はどこかくすぐったい喜びに包まれる。もっと知りたい――ただの好奇心か、それとももっと昔の、例えば誰かの記憶なのか。自分でも判断がつかないまま、文字を追いかける。
病院の建物はどこか無機質な白い壁に囲まれ、入り口を行き交うのは具合の悪そうな患者や、その家族たち。
受付を済ませて、廊下のベンチで待っていると、すぐに主治医の佐伯が顔を出した。四十代前半の落ち着いた物腰で、どこか悲しげな眼差しをたたえている男性医師。
「今日も定期検査ですね。蔵内さん、調子はどうですか?」
「……悪いというほどでもなく、でも良いわけでもなく、って感じです」
櫻華は苦笑いを浮かべる。脈の乱れや息切れが最近増えているのを自覚していても、それを素直に伝えるのは勇気がいる。佐伯医師はそんな彼女の顔色を見て、小さく息をついた。
「診察室に入りましょうか。お父さんとお母さんは、先に来て待っていらっしゃいます」
そう言って、佐伯は気遣わしげに櫻華の荷物を持ってくれる。
診察室には、蔵内の両親がすでに座っていた。
母・志穂は娘を見るなり「大丈夫? 無理してない?」と声をかける。父・一徳は心配そうに眉間を寄せながらも、櫻華の表情を探るような視線を送っていた。
「特に悪くはなってないから大丈夫だよ。学校も楽しく行けてるし……」
そう言いながら、櫻華は父の視線から逃げるように目を伏せる。実際、体調は決して良いとは言えない。でも、父や母が自分の病気を気に病む様子を見るのが、何より辛かった。
佐伯は問診のあと聴診器をあて、心電図とエコーなどの検査を淡々と進める。モニターに映し出される心臓の動きは、やはり健常者とは違い、拡張不全のリズムが鮮明だ。
「……脈の乱れが少し増えていますね。薬でコントロールしながら、なるべく安静を保ちましょう。無理は禁物です」
佐伯の口調は優しくも、はっきりと警告するものだった。櫻華の母・志穂は肩を落とし、父・一徳は険しい表情で医師の言葉を受け止めている。
櫻華は俯いたまま、ベッドの端で手を組み合わせる。
「……私、このまま普通に高校生活を送れないんでしょうか。部活を見学してみたくても、運動系は無理だし……」
ぽつりと本音をこぼすと、佐伯は困ったように眉尻を下げる。
「やりたいことは、なるべく可能な範囲でやってほしいと思っています。命は、いつどうなるか本当にわからないですから……ただ、危険を伴う行動は控えて。あなたの身体を最優先に考えなければなりません」
いつだってそうだ。自由にやりたいことをやれる健康な身体とは違う。
でも、“やりたかったことをやれずに終わる”という苦しみを抱いたまま、もし命が尽きたら――。そんなふうに考えると、櫻華はひどく心がざわつく。
「……わかりました。ありがとうございます、先生」
萎縮しかけた気持ちを奮い立たせるように、櫻華は消え入りそうな声で返事をする。佐伯は「また何かあったらすぐに連絡を」と静かに微笑んで診察を終えた。
3.父の不安と娘の決意
診察後、父の一徳が「少し話がしたい」と言って病院のラウンジへ向かった。母・志穂は「検査の受付で書類を出してくる」と席を外し、櫻華は父と二人きりになる。
白いソファに腰掛け、窓の外を見ると、夕陽に照らされた街並みが遠くに見える。病院特有の消毒液の匂いが鼻を刺激する中、一徳は何も言わず深刻な面持ちでいた。
「……お父さん、何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」
沈黙に耐えかねた櫻華が切り出すと、一徳は重々しく口を開く。
「お前、高校で……何か気になる先生がいるのか?」
「えっ……どうして、そんな話に……」
一瞬、心臓が跳ねる。まさか、父が吉野京一の存在に気づいているとは思わなかった。
「お母さんが、ちょっと耳にしたらしい。クラス担任の先生が割と若くて、蔵内がやたらと楽しそうに学校に通ってるって。美羽ちゃんのご両親からちらりと聞いて……な」
どうやら、美羽の親が「蔵内さん、担任の先生を好きなのかも」的な世間話を漏らしたらしい。そこから母を経由して、一徳の耳にも入ったようだ。
「……別に、気になるとかじゃないよ。先生だし」
そう言いつつも、櫻華の声は弱々しい。自分が何を思っているか、まだはっきりとはわからない。ただ、桜を見るたびに思い浮かぶ彼の姿は、どこかしら心をひきつけてやまない。
「……櫻華」
一徳は娘の名を呼ぶ。その声には深い憂慮が滲んでいた。
「お前の時間は、限られてるかもしれない。医者からも、いつ心臓が限界を迎えるかわからないって……。だからこそ、お前が幸せになれる道があるなら、お父さんは全力で応援したいんだ」
そう言いながら、一徳の瞳が潤む。
「でも、もし相手が先生で……何か問題を起こすことになったら、せっかくの学校生活が大変なことになるかもしれない。一番辛い目に遭うのはお前なんだよ」
一徳の言葉は、正論だった。教師と生徒の距離感を間違えれば、学校側からも糾弾されるし、周囲の目もある。
櫻華はぎゅっと拳を握り、下唇を噛む。
「……私は、そんな迷惑かけるつもりじゃない。ただ……先生の授業をもっと受けたいだけで。もしかしたら、先生と一緒にいると何か大切なものが見つかるかもって思うだけで……」
言いながら、病院の壁が重苦しく目に映る。父の不安は痛いほどわかる。でも、自分の気持ちはどうしようもなく“あの人”に惹かれ始めているのも事実だ。
一徳は娘の様子を見つめ、長いため息をつく。そして、そっと櫻華の頭に大きな手を乗せた。
「お前が後悔しない生き方をしてくれるなら、父さんはそれを支えるよ。何もできないけど……もし本当に好きな人がいるなら、その人に伝えたいことは伝えるべきだと思う」
「お父さん……」
「ただ、何かあればすぐ教えてくれ。お前一人で抱え込むな。……お前は、まだ16歳なんだから」
その言葉に、櫻華は不意に涙が込み上げそうになる。幼い頃から、甘やかされてきたという自覚はあった。でも、それもすべて父と母が自分の命を少しでも延ばそうとして、笑顔を見せてほしいと願ってきたからだ。
いまの父の声は、切実に“娘の幸せ”を祈る響きそのものだった。櫻華は細い肩を震わせながら、小さくうなずく。
「……ありがとう。お父さん」
4.再会、そして迷い
病院での定期検査から翌日、櫻華は少し疲れが残っていたものの、どうしても遅れた授業を取り戻したくて学校へ行った。
昼休みに校庭を見下ろすと、先週まで華やかだった桜が、かなり散って枝先だけにわずかな花を残す状態になっている。若干の緑色が混じり始め、季節が移り変わろうとしていた。
「もう、終わっちゃうんだね。桜……」
櫻華が校舎の窓から、物憂げに呟くと、隣にいた美羽が「そうだね」と相槌を打つ。
「でも、来年もまた咲くんだよ? ……来年こそ、満開の時にお花見したいね」
美羽の明るい言葉は、櫻華の中に一瞬の沈黙を呼んだ。来年――自分は生きているだろうか? その問いが冷たい刃のように胸に突き刺さる。
それでも、櫻華は顔に出さずに微笑む。「うん、そうだね」と返事をした。
チャイムが鳴ると同時に、美羽が「あ、トイレ行ってくる」と席を立ち、櫻華はひとり廊下を歩き始める。すると、後ろから聞き慣れた声がした。
「蔵内……、ちょっといいか?」
振り返ると、吉野京一が手元のプリントを揺らしながら、声をかけてくる。
「この前、和歌を教えるって言っただろう。……放課後、古文準備室に来るか? 別に強制じゃないけど」
その言葉に、櫻華の心臓がどくんと跳ねる。うれしさと同時に、病院での父の言葉が脳裏をかすめる。“教師と生徒”、問題を起こしてはいけない、でも――。
けれど、櫻華は迷いながらも、思い切って笑みを浮かべた。
「はい、ぜひ。……体調は大丈夫なんで、行きたいです」
京一は少しほっとしたように頷き、「じゃあ、またあとで」と言い残して足早に去っていく。その背中を見送る櫻華の胸には、どうしようもなく温かなものが広がっていた。
(やっぱり、先生に教わりたい。……もっと、古文も、先生のことも)
一方、そのやりとりを遠目に見つめていた人物がいた。
視線の持ち主は、数学教師・若松理香。廊下の端に立ち尽くし、京一と櫻華の様子を見守っている。
彼女の瞳には、自分でも拭いがたい戸惑いと不安がにじんでいた。
(吉野先生……あんなに冷えた瞳をしていたのに、あの子と話すときだけは、少し違う表情を見せるのね)
理香は唇を噛み、視線を床に落とす。若くして弟を亡くした過去を思うと、命が儚いことなど痛いほど知っている。だからこそ、今にも壊れそうに見える櫻華の姿が気になるし、そんな彼女に寄り添おうとする京一にも目が離せない。
その気持ちは、どこか切ない嫉妬に似た感情へと変わりかけているのだと、理香自身も薄々悟っていた。




