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花散るらむ、それでも君と  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第二章 ゆれる影、ゆれる花

1.遠い痛みと小さなため息

 教室の窓から差し込む淡い陽射しの中、蔵内櫻華はノートにペンを走らせていた。

 授業は英語。教師の声が黒板に書かれた例文とともに教室を支配しているが、櫻華の意識はその隙間をふわりとすり抜け、校庭の桜へと向かっていた。

 昨日、担任の吉野京一と交わした何気ない会話――あれが頭の中で繰り返し再生される。

「私、古文とか百人一首、好きなんです。昔の歌なのに、今の気持ちと重なる気がして」

 あのとき、自分は確かにそう言った。吉野の眼差しが、ほんの一瞬、痛々しいほど揺れたように見えた。それが記憶にこびりついて離れない。

(先生は、どうしてあんな顔をしたんだろう)

 胸の奥がひそかに熱くなる。まだ、名乗るほどの想いでもないはずなのに、彼の姿を思うと不思議と切なくなる。まるで、ずっと昔から知っていたような、懐かしくも苦い感覚。

 窓辺を見やれば、桜の花びらがちらちらと散り始めている。特有の儚さが、美しさと切なさを同時に胸に運んでくる。

 櫻華は小さくため息をついた。自分の心臓は、周囲にはわからないほどの弱々しい鼓動を刻み続けている。それを裏付けるように、たびたび視界がじんわりと霞むことがある。

「……あと、どれくらい、見られるのかな」

 そんな独り言が、唇から微かに漏れた。桜が散りきるより先に、自分が倒れてしまうのか――そんな不安が、頭のどこかを過る。

「ねえ、櫻華。聞いてる?」

 隣の席から突っついてきたのは、松本美羽。中学時代からの親友だ。

「ごめん、美羽。ぼーっとしてた」

「また体調悪いの? 寝てていいんだよ。あたし、ノート取っとくから」

 美羽は少し強気な口調だが、櫻華の病気のことを気遣ってくれる優しい友人だ。櫻華は首を横に振った。

「ありがと。でも、大丈夫。ちょっと考えごとしてただけ」

「ふうん。ならいいけど……無理しないでよ? あとで先生に怒られても知らないから」

 美羽はそう言って軽くウインクする。二人の声量は、周囲のざわつきに紛れて授業の邪魔にはならない。

 櫻華はノートを閉じ、ふと英単語のプリントに目を落とした。『ephemeral(儚い)』という単語が、蛍光ペンで引かれているのがやけに目に焼きつく。

(儚い、か……桜も、命も、いつか散る。だけど、その一瞬に何を感じ、何を伝えるのか――それが大切なんだよね)

 英語教師の声が淡々と続いている。櫻華は懸命に授業に意識を戻そうとするが、心のどこかで桜と吉野京一の影が離れない。胸の奥に小さな痛みと温もりが同居するような、そんな感覚に戸惑いながら、筆を再び走らせた。


2.桜の木の下の約束

 昼休み。校舎内の食堂は新入生たちで賑わい、どのテーブルも混雑していた。

 櫻華と美羽もその中に並び、トレーを持って列に続く。ちらほらと桜色のメニューがあるのは、春限定の特別企画らしい。

 ほんのり桜風味を謳うシフォンケーキや、桜の塩漬けを添えた和菓子が並ぶ光景を見て、美羽が「あー、めちゃくちゃインスタ映えしそう!」と声を上げた。

「櫻華も食べる? 甘いの苦手だっけ?」

「……うん、でも気になるかも」

 そう言いながら、櫻華は少し意欲のない微笑みを浮かべた。心臓の病気のせいで、味覚や食欲の変化もあったし、量もあまり食べられないのが日常だ。

 それでも、美羽が何か楽しいことを見つけたときに、できるだけ一緒に喜びたいと思う。限りある時間の中で、些細な幸せを共有したい――それが櫻華なりの生き方だった。

 二人は会計を済ませ、偶然空いていた窓際の席へと向かう。さすがに新入生が大勢詰めかけていて座席数もギリギリ。かろうじて確保できた場所に腰を下ろすと、美羽がぽつりと言った。

「そういえば、担任の吉野先生、思ったより若いよね。しかも古文担当なんて渋い。ちょっとカッコよくない?」

 一瞬、櫻華の心臓が跳ねる。だが、表情に出ないように気をつけて、スプーンを桜風味のデザートに差し込んだ。

「うん、……そうだね。なんか、すごく物静かだけど、優しそうな感じがする」

「そーお? クールすぎるっていうか、なんか近寄りがたい雰囲気ない? 櫻華は国語の先生が好きなのかな」

 美羽は軽い冗談まじりにそう言ったが、その言葉に櫻華は思いのほか動揺した。好き――とまでは行かないにせよ、心がざわつく事実は否めない。

「ま、別に……。ただ、なんだか不思議で、最初に見たときに懐かしいっていうか……」

 言葉が途中で詰まる。自分でも説明がつかない。

 何を言ってるんだろう、と内心焦るが、美羽は「ふーん?」といぶかしんだ顔を見せたのみだった。

 窓の向こうに広がる中庭が見える。そこには大きな桜の木が一本。枝先には残った花びらが揺れ、下には薄紅色の絨毯が敷かれ始めている。

 どこかで見た景色だと、櫻華は胸の奥底がざわめくのを感じた。

「……ねえ、美羽。午後の授業が終わったら、あの桜の下に行ってみない?」

 唐突にそう切り出すと、美羽は目を丸くした。

「なんで急に?」

「なんとなく……散る前に、近くで見たくて」

 櫻華はうつむきがちに答え、手の中でスプーンをぎゅっと握る。桜に惹かれる理由は自分でもはっきりしない。ただ、あの木の下に立つと、何か大事なものを思い出せそうな気がする――そんな漠然とした確信があるだけだった。


3.医務室での戸惑い

 午後の最初の授業が始まって少し経ったころ、櫻華は軽いめまいを覚えていた。黒板の文字が二重に見え、胸が苦しくなる。

 ノートを取ろうとする手が震え、汗がじっとりと浮かぶ。美羽が「大丈夫?」と囁くのを聞き、櫻華は首を振った。もう少し、あと少しだけ我慢すれば――そう思った矢先、視界が白んだ。

 ギシッと椅子を立ち上がる音が教室に響く。

「あの……すみません、先生。ちょっと保健室に行かせてください」

 声はしぼり出すようにか細い。先生は授業を止めて櫻華に視線を向けた。美羽がすかさず手を挙げる。

「先生、あたしが付き添います」

 事情をよく知らないクラスメイトたちがざわついたが、教師は「気をつけて行ってきなさい」と短く告げるだけだった。

 保健室にたどり着くと、櫻華はベッドに腰かけて深く呼吸をする。保険医が脈を測りながら、「大丈夫? 今日は冷え気味だし、無理は禁物よ」と声をかける。

 美羽は心配そうに、櫻華の額に手を当て、「熱はなさそうだけど……ほんとに大丈夫?」と繰り返す。

「うん、ごめんね、美羽。ちょっと貧血になっただけかも」

 櫻華は苦笑いしながら、過去に何度も経験してきた同じ症状だと思う。病院で何度も検査した結果、「拡張型心筋症」――先天的に心臓がうまく働かないという難病。

 最悪の場合、移植手術を待つしかない。それでも順番がすぐ来るとは限らない。それが自分に与えられた現実だ。

 保険医が「少し横になってなさい」とカーテンを引き、ベッドに櫻華を寝かせる。美羽は授業に戻ると言い残し、背を向けたが、その際にちらりと「本当に無理しないでよ」とつぶやいた。

 カーテンの向こうで人の気配が遠ざかると、櫻華は一人、天井を見上げる。

(……なんで、あの人の顔が浮かんでくるんだろう)

 吉野京一の表情が、まぶたの裏に映る。あの少し寂しげな眼差しに、自分の気持ちが揺さぶられる。説明のつかない感情――切なさと懐かしさが混在した痛み。

 桜が散るように、いつかは終わってしまう命なのだろうか。

 それでも、今度こそは後悔だけはしたくない。そう思うのに、体はやはり思うように動いてくれない。

「……やらなかった後悔より、やって後悔か」

 幼い頃から言われ続けてきた、誰かの言葉を思い出す。誰の言葉だったのか、とっさには思い出せない。けれど、それは古い記憶に根を下ろした大事なメッセージのようにも感じる。

 外ではチャイムが鳴り、次の授業開始を知らせる。

 薄ぼんやりとした頭の中で、桜の花びらが風に吹かれ散るイメージが浮かんでは消えていった。


4.放課後の桜の下

 保健室でしばらく休んだおかげで、櫻華は体調をどうにか持ち直した。最終授業が終わって教室へ戻ると、美羽が「少しはマシになった?」と駆け寄ってきた。

「うん、心配かけてごめん。ちょっと横になったら楽になった」

 クラスメイトたちは部活の見学や、帰宅準備でぞろぞろと教室を出ていく。櫻華は美羽と視線を交わし、昼に約束していた桜の木へ向かうため廊下に出た。

 窓から見下ろす中庭は、夕暮れの気配が少しずつ混ざりはじめ、桜の薄紅色に黄金色の混じった光が差し込んでいる。

「あ、先生がいるよ」

 美羽が小声で指さした先を見ると、そこには吉野京一の姿。校庭で何かを考え込むように立ち止まり、桜を眺めているようだ。

「……ほんとだ」

 不思議な胸の痛みが、また櫻華の心臓をぎゅっと締めつける。まるで、あそこに行けば何かが始まる――そんな気がする。

「ねえ、美羽、先に行ってて。あたし、ちょっと……担任の先生に、話があるから」

「は? 何それ、面白そう。後で教えてよ」

 美羽はからかうように笑ったが、そのまま先に階段を降りていった。櫻華は一度深呼吸をしてから、ゆっくりと京一のもとへ歩を進める。

 中庭に出ると、春の空気が頬に触れる。ほんの少し肌寒く感じるのは夕暮れのせいか、自分の体調のせいか――それとも、胸の鼓動のせいか。

 京一は桜の木に目を向けたまま、気づいていない様子で立ち尽くしている。足元には花びらが散り積もり、風が吹くたびにふわりと舞い上がる。

「あの……先生」

 櫻華が声をかけると、京一ははっと肩を震わせて振り返った。淡い光が彼の横顔を照らし、どこか物憂げな表情が映し出される。

「蔵内……どうした? もう帰る時間だぞ」

「はい、でも、どうしても桜が見たくて」

 櫻華は控えめに桜の枝を指さす。京一の視線が、その指先に添うように外れる。

 ほんの数秒の沈黙。桜はさらさらと枝を揺らし、二人の間を柔らかい香りで満たしている。京一は軽く息をついて、目を細めた。

「……この桜、綺麗だけど、そろそろ散り始めているな」

 櫻華は小さく頷いた。

「先生は、桜が好きですか? それとも……」

 言葉を飲み込みかける。桜が好きじゃない、という人もいるから。好きでも、嫌いでも、どちらにせよ桜にはいろいろな思い出がつきまとう。

 京一は答えないまま、花びらの舞い落ちる空を見上げる。すべてが夕陽に溶けかけて、淡く薄紅から金色へと移ろう一瞬。

 その横顔は、悲しいくらいに美しく、どこかで見た面影を宿しているようにも思えた。

 意を決したように、櫻華は小さく息を吸う。

「私……先生の授業が楽しみなんです。古文の歌とか、もっと知りたくて。……もしよかったら、放課後に少しだけ教えてもらえませんか?」

 唐突かもしれない。けれど、思いを押し殺し続けるのは自分にはできない。限られた時間の中で、やりたいことをやらずに後悔するのは嫌だ――それが櫻華の意志だった。

 京一は驚いたように瞬きをする。教師と生徒、それ以上でも以下でもない関係。普通なら、課外で個人的に教えるなんて重荷になるかもしれない。

「……君、体は大丈夫なのか? 無理しない方がいいんじゃ」

「大丈夫です。むしろ、こうしていたいんです。桜が散る前に……いろいろ学びたい」

 言いながら、櫻華は胸の奥を痛める。まるで、桜が散ると同時に自分のすべても消えてしまいそうな――そんな漠然とした不安がある。だからこそ、惜しむように、必死に時間を抱きしめたい。

 京一は困ったように、視線を桜から櫻華へと移す。

 その瞳に映る櫻華の姿は、ほんの少しの間、桜子と重なって見えた。否、それは気のせいだ。けれど、“誰かを失った記憶”が心の底を掻きむしるように疼く。

「……わかった。週に一度くらいなら、放課後に自習を兼ねて教えてやるよ。教頭に見つかったら怒られるかもしれないけど」

 苦笑いを浮かべた京一の言葉に、櫻華はほっと安堵の息をつく。

「ありがとうございます。……絶対、怒られないように気をつけます」

 二人の間に吹く風が、桜の香りをまとって舞い散る。

 儚く、そしてどこまでも柔らかな時間。櫻華は夕陽に染まる一輪の花びらを手のひらで受け止め、そっと見つめる。

 京一の胸にもまた、名状しがたい郷愁がこみ上げる。桜を見るたびに疼く痛み――それを乗り越えることができるのだろうか。

 やがて、美羽が「遅いよ!」と駆け寄ってきて、少し気まずそうに教師と生徒のやり取りを眺めた。京一は素っ気なく「もう帰りなさい」と言い、背を向ける。

 残された櫻華は、美羽に手を引かれながら振り返る。京一の後ろ姿と、薄紅の舞い散る桜。少しずつ遠ざかる景色が、切ないほど愛しく感じられた。


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