第一章 色のない春
1. 色を失った季節
四月の風は、ひどく冷たく感じられた。
吉野京一が勤務する聖南学院高校では、薄曇りの天候の中、新学期の始業式が粛々と行われている。敷地内の桜は満開のはずなのに、その魅力を映し出す陽の光が乏しく、まるで周囲の空気に溶け込んでしまいそうだ。
朝礼で並んだ生徒たちの背後には、ピンクの花びらがかすかに揺れている。どこか頼りなく、そして儚い。
「吉野先生、おはようございます」
声をかけてきたのは、数学教師の若松理香。やわらかな笑みを浮かべる彼女は、京一より二つ年上の先輩だ。
30歳という年齢にしては落ち着きがあり、どことなく面倒見のいい姉のようでもあるが、その目にはしばしば複雑な感情が交錯しているように見える。京一は、彼女が自分に何か特別な想いを寄せているらしいことに、うすうす気づいてはいた。しかし、どう応じればいいのかわからない。
「ああ、若松先生。おはようございます」
京一は礼儀正しく返すが、言葉は素っ気ない。彼は自分の心の奥底に沈殿した“あの日からの空虚”を、誰かと共有できるとは思っていなかった。
あの自分の大切な幼い恋人を連れ去った桜吹雪の日から京一は抜け殻のような人生を過ごしてきた。感情や意思が小さな愛する人、桜子と共に死んでしまったのだ。何事にも無気力で、親の命じるままに高校、大学と進学して教員免許を取り、親のコネでこの私立の中高一貫校で教員をしている。生徒に対する深い愛情もなければ、教師という職業に対する誇りもない。何事も、可もなく、不可もなく業務をこなしているだけの存在になっている。
「新年度、いよいよ担任を持つんですよね? 初めての一年生クラスですし、何かあったらいつでも相談してくださいね」
「ありがとうございます。まだ要領を掴んでないもので」
京一は笑みとも苦笑ともつかない表情を浮かべる。理香は何か言いたげな素振りを見せたが、周囲には他の先生方や生徒もいるためか、そのまま浅い笑みを残して去っていった。
京一の母がこの学園の理事長である――そのおかげで教師という地位に就けているのだが、同時にそれは彼にとって、常に重荷のように感じられる背景だった。どんなに努力しようとしてもても、「理事長の息子」という看板が先に立ってしまう。それも彼が抱え込んでいる虚無の一員にもなっている。
そして何より、春という季節が彼にとって憂鬱だ。十数年前のあの出来事が、彼の時間を止め、心に大きな穴を開けたまま。その穴は、いまだに塞がれていない。
2. 新しいクラス、蔵内櫻華
始業式が終わり、教師たちが職員室に戻ると、教頭の石川が声を張り上げる。
「はい、みなさん、今年度のクラス担任と科目担当はもう確認しましたね。新任や若手の先生もいるので、わからないことは何でも私に聞いてください。規律と秩序をしっかり守り、学園の品位を損なわぬようにお願いしますよ」
50代半ばの石川教頭は、学校の体面を何よりも優先するタイプだ。理事長の息子である京一に対しても容赦ない。むしろ厳しさは倍増しているようにも思える。
「吉野先生、今年は一年生の担任ですね。うちの学園は中高一貫ですが、高校からの外部入学もあります。しっかり指導をお願いします」
「……承知しました」
京一は名簿にざっと目を通す。そこに一際目立つ名前があった。
蔵内櫻華――。
外部入学の生徒らしいが、どこか気になる響きだ。いや、気になるというのは単なる思い過ごしかもしれない。桜、という文字を含むそれだけで、胸の奥がざわついた。
クラスルームに向かうと、すでに生徒たちは着席していた。初々しい制服姿に緊張が漂う中、京一はホワイトボードに自分の名前を書き、「担任の吉野です。国語、とくに古文を担当します」と挨拶する。
声を出すたびに、小さな苦みが走る。自分が古文を好むようになったのはいつからだっただろうか。あの桜子が倒れた後引きこもりがちだった自分を、父が奈良に連れ出してくれた旅行のことを思い出す。
「皆さんには、この一年間いろいろな経験をしてほしいと思います。勉強も部活動も、どちらも大切ですし、高校生活はあっという間ですから……」
言いながらも、どこか自分の言葉が上滑りしていると感じる。着飾った台詞ではなく、本心から伝えられるものがあるはずなのに、それが心から湧き出してこない。
「先生、よろしくお願いします!」
生徒たちが声をそろえる。その中に、一際目を引く少女がいた。おとなしく席に着いているが、どこか儚い雰囲気をまとった印象だ。名簿を確認すれば、それが蔵内櫻華だった。
薄い色白の頬と、大きな瞳。すこし緊張しているのか、肩が強張っている。
「蔵内です。体調が安定しない時があるかもしれないんですけど……がんばりますので、よろしくお願いします」
櫻華は椅子から立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。その姿にクラスメイトたちも興味を示したようで、小声の囁きが起こる。「病気なのかな」「大丈夫なのかな」といった不安混じりの視線。
櫻華は気に留める様子もなく、しんと静まった空気の中に座り直した。そのとき、一瞬だけ京一の目と合う。驚くほど深い瞳――なぜか胸が強く締めつけられる。
「……こちらこそ、よろしく」
京一は小さく頷いた。懐かしさと戸惑いが入り混じった、不可解な感覚。まるで、どこかで知っていたような人。だが、思い当たる節はないはずだ。
3. 花びらの記憶
朝のホームルームを終え、生徒が教科書の用意や移動教室で慌ただしく動き始めると、京一はふと教室の窓辺へ目を向けた。校舎から見下ろす中庭には、大きな桜の木がある。満開の花びらが、風に舞っては、地面に淡い絨毯を作っている。
あまりにも、美しくて悲しい。自分にとって桜は、そんな二面性を持った存在だ。咲いているだけで胸が痛む。それでも、目を背けきれずにいる。
「――先生」
背後から小さな声がかかった。振り向けば、そこには先ほどの蔵内櫻華。すでにカバンを手にして立っている。クラスメイトたちはざわざわと廊下へ出ていき、今この教室にはあまり人影がない。
「どうした?」
「……桜、綺麗ですね。さっき外を歩いたら、花びらがたくさん舞ってて……」
櫻華はかすかな笑みを浮かべる。だが、その瞳の中にはほろ苦い憂いが見え隠れするようだ。
「うん。もう散り始める頃かもしれないけど、満開のときとはまた違う趣があるよね」
自分の声が、わずかに震えている気がする。桜を話題にするだけで心が乱されるのは、いつになれば慣れるのだろうか。
櫻華は何も言わず、窓の外を眺めた。舞い散る花びらは一枚一枚が小さく、けれども集まれば薄紅のシャワーのようにも見える。
どこか人が立ち入れない静寂の世界。それを見つめる彼女の瞳は、遠い昔を思い出しているかのようにぼんやりと潤んでいた。
「先生って、古文の先生ですよね」
「ああ、一応古文担当。中学までは現代文中心だったけど、高校からはどんどん古典が増えるから」
そう答えると、櫻華はさらに小さく笑う。
「……私、古文とか百人一首、好きなんです。昔の歌なのに、不思議といまの気持ちにも重なる気がして」
少し息を継いでから、言葉を続ける。
「だから、先生の授業、楽しみにしてますね」
その発言がどういうわけか、京一の胸をちくりと刺激する。かつて桜子も、あの短歌を愛おしそうに眺めていた。あるいは、そんな光景を自分は思い出しているのか。
桜を見つめる少女と、昔の桜を見つめる記憶が、ほのかに重なり合う――。それがたまらなく不思議で、言い知れぬ切なさを京一にもたらした。
「そうか、じゃあ……最初の授業でいくつか和歌を紹介するよ。きっと楽しめると思う」
精一杯の冷静さを装いながら、京一はそう言う。櫻華は「あ、ぜひ!」と小さく弾んだ声を上げた。ほんの一瞬だけ、先ほどの憂いが消え、十六歳らしい無邪気さが顔をのぞかせる。
その笑みが、京一の胸に奇妙な温もりを残した。
かすかな既視感――桜子の笑顔と、どこか重なるものがあるような気がする。それが錯覚だとしても、この子が醸し出す雰囲気が、桜の季節とリンクして、京一の心をざわつかせるのだ。
教室を出た櫻華の後ろ姿を見送りながら、京一はひとつ息をつく。
まるで、色の失われた春の景色が、わずかに彩りを取り戻したような、そんな微かな揺らぎを感じた。