第十二章 崩れゆく春、重なる宿命の痛み
1.満たされぬ想いと、忍び寄る不穏
季節は初夏へ移り、聖南学院高校の敷地には濃い緑の葉が茂り始めていた。
かつて桜が咲き乱れていた木々は、今や青葉を揺らし、風が通るたびにさわさわと音を立てる。しかし、蔵内櫻華の胸には「あの日の桜」がはっきりと根付いて離れない。
――桜子として命を散らした前世の記憶と、いま再び病魔に侵されながらも生き続ける現世。二つの時間を抱えた櫻華は、学校と病院を行き来する日々を送っていた。
「先生がいなかったら、私……とっくに諦めていたと思う」
夕暮れの校庭の隅、あずまやの木陰で櫻華は小さくつぶやく。対面にいるのは、古文教師の吉野京一。
教師と生徒という立場を超えた結びつきを感じつつも、周囲の目や学校の規則に阻まれて、二人だけの時間はどうしても限られている。
「僕も、君がいるからここに立ててる。……桜子を失ったときは何もできずに終わった。でも今度は、君を見捨てたくないんだ」
京一はそう言いながらも、額にうっすらと汗を浮かべる。近頃、激しい頭痛に悩まされているらしいが、本人は「過労だよ」と言って取り合わない。
桜の季節が遠ざかった校庭はひどく静かで、微かに夏の湿り気を帯びた風だけが二人の髪を揺らす。櫻華は京一の表情を見つめ、不安を拭えないまま微笑むしかなかった。
2.父の懇願、迫り来る闇
あくる朝、学校に向かう直前の蔵内宅のリビングに、父・一徳が深刻な顔で現れた。手にはいくつかの書類を握りしめている。
「櫻華、ちょっと話がある。……お前のドナーの件、また少し動きがあったみたいだ」
唐突な切り出しに、母・志穂が「どういうこと?」と顔を曇らせる。櫻華の心臓移植を待つリストには変動が多く、たびたび「もしかしたらドナーが見つかるかもしれない」と連絡が入るのだが、いつも確定には至っていない。
「またか……でも、今度は確度が高いんだってさ。日本国内の登録者から連絡があって、適合検査に進む見込みがあるそうだ」
櫻華は唇を噛み、「でも、まだ ‘確定’ じゃないんだよね」と呟く。期待しては落とされる、その繰り返しに疲弊している自分を感じる。
「そうだな。いつ連絡が来てもいいように準備だけはしておこう。……それと、吉野先生のことだけど……」
一徳は渋い顔をして口をつぐむ。先日の学校騒動のとき、一度は「娘を先生に託す」と懇願したが、周囲の理解は得られずに終わった。しかし、限りある時間を思えば、なおも京一の存在が欠かせないことを痛感している。
苦い沈黙が落ち、母・志穂が「とにかく、櫻華を学校へ送りましょう。今日は大事な授業もあるし、無理しないように」と言い残し、車を出す準備に立ち上がる。櫻華は胸の奥に鈍い痛みを抱えながら、鞄を握りしめた。
(また……いつ、死が来てもおかしくない。それが私の現実。でも、先生だけは私を “生かそう” としてくれてる……)
3.桜なき木の下で
放課後。櫻華が校庭の片隅にあるあずまやへ足を運ぶと、京一は既にそこに立っていた。
灰色の雲に覆われた空からは、今にも雨が降りそうな気配が漂う。かつて桜が咲き誇った枝先は深い緑に染まり、重くたれこめた湿った空気だけが辺りを支配している。
「先生……お顔が真っ青ですけど、本当に大丈夫?」
近づくと、京一の表情に明らかな疲労感が走っているのが分かる。彼は苦笑し、額の汗を拭う。
「ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だよ。……それより君は? 朝、何かあったって話を聞いたけど……」
「……うん。ドナーが見つかるかもしれないって、また連絡があった。でも、どうなるかわからない。あまり期待しすぎても辛いし……」
櫻華が視線を落としてつぶやく。京一はわずかに表情を曇らせる。「君にとっては残酷な話だよな……人の死を前提に生き延びる。でも、それが命を繋ぐ唯一の道だ」
風が吹き、あずまやの屋根を小さく揺らす。二人は黙り込み、ただ相手の存在を感じる時間が流れる。
「……先生、実は言いたいことがあるんです。私、もう一度、前世で言えなかったことを、ちゃんと伝えたい」
決心を固めたように、櫻華は振り向き、京一の瞳を見つめる。
「私は、桜子として本当は先生に ‘ありがとう、大好きだよ’ と言いたかった。でも、それが叶わずに死んじゃった。だから、今度こそ、生きてるうちに全部言わなきゃって……」
切々と告げられた想いに、京一は胸が詰まる。「ありがとう」であり、「大好きだよ」。
教師と生徒という規則を越えた純粋な言葉が、心の壁を崩し、寄せては返す波のように京一を包み込む。彼はぎこちなく笑みを作り、「その気持ちは、十分伝わったよ」と返す。
だが次の瞬間、頭の奥に激痛が走り、京一は声を上げかける。強いめまいが視界を歪ませ、膝が崩れるのをこらえるが、櫻華は「先生っ!?」と悲鳴に近い声を上げる。
「ごめん……平気、ちょっと休めば……」
必死に言い繕う京一。櫻華が震える手で支えるが、彼女も体力がないため二人とも座り込む形になってしまう。
すぐに誰かが駆け寄ってきた気配がするが、意識は朧に遠のいていった。
4.教師の急変、繰り返される悲劇
職員室に救急の連絡が走り、石川教頭と若松理香が校庭へ駆けつけると、京一はほぼ意識のない状態で地面に倒れていた。
櫻華は怯えと絶望が混ざった表情で、「また、あのときと同じ……私が桜子だったときと同じ……!」と泣き叫ぶ。
周囲の生徒が戸惑いの声を上げる中、教頭が「救急車を! 早く!」と叫び、理香が櫻華を落ち着かせようと必死に抱きとめる。
「やだ……いやだ、先生……死なないで……」
櫻華の声はかすれている。前世の桜子として、自分が先生の前で命を散らした光景がフラッシュバックする。この悲劇をまた繰り返すのか――その恐怖が押し寄せる。
京一の瞼は閉じられ、唇は血の気を失い、額には冷たい汗が滲む。か細い呼吸音があるものの、脈拍が異常に弱いのがはっきりと伝わった。
「先生……先生……!」
遠くからサイレンの音が近づいてきた。櫻華は呼吸が乱れるが、何とか意識を保ちながら京一の手を握る。
しかし、その手の温度はどんどん失われていく気がした。
5.ドナー登録、そして最期の別れ
救急車で病院に運ばれた京一は、くも膜下出血と診断された。過去に感じていた頭痛は、その前兆だった可能性が高い。
母で理事長の吉野理恵や父の宗一郎、そして教頭らが駆けつけるが、医師からは「脳へのダメージが深刻で、意識が戻る見込みはほぼ無い」と告げられる。
同じ病院へ後から到着した蔵内櫻華が、待合室でその言葉を聞いた瞬間、視界が白んで倒れこむ寸前だった。
「そんな……先生は……」
一徳が「娘を家に連れ戻さなきゃ」と抱き止めるが、櫻華は「先生が死んじゃうなんて……桜子として死んだときと同じ……」と泣き崩れる。
教頭や理香も言葉をかけられないまま、理事長の理恵が病院側と掛け合い、延命措置を取るよう求めるが、すべては手遅れだった。
重い沈黙の末、父・宗一郎が「京一はドナー登録をしていた。……もし本当に助からないなら、せめて誰かの命を救う形を……」と呟く。
理恵は痛みに顔を歪めながら、「息子が自分で決めていたことなら……」と涙をこらえる。
医師たちは脳死判定を下し、京一の体をドナーとして提供する手続きを開始する。吉野家の両親はその書類にサインした。
6.命のバトン、桜の宿命
京一の訃報が正式に伝えられたのは、脳死判定の成立からほどなくしてのことだった。
蔵内櫻華に「ドナーが見つかった」という緊急連絡が入ったのは、その翌日にあたる深夜。
「適合検査を急いで行ったところ、ドナーの心臓が君に合う可能性が極めて高い」という電話。櫻華はベッドから跳ね起き、両親とともに病院へ向かうが、その時点ではどこの誰の心臓かは知らされていない。
「まさか……先生がドナー登録していたなんて、知らなかった……」
朧げな意識の中でそう呟きながら、櫻華はベッドに乗せられ、ストレッチャーで手術室へ運ばれる。両親が付き添い、佐伯医師が「落ち着いて、呼吸をゆっくり」と声をかける。
心臓が抜けるような寂寥感と、不思議な昂ぶりが同時に襲ってくる。誰かの死――まさか京一なのか? そんな疑念が頭をよぎるが、恐ろしくて直視できない。
オペ室の照明が眩しく光り、麻酔のマスクが当てられる。
「先生……私、今度こそ生きるから……」
心の中で、そう誓った瞬間、意識は遠のいていった。




