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花散るらむ、それでも君と  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第十一章 回り出す歯車、追い詰められる春の刻

1.父の決断、母の祈り

 薄曇りの朝、蔵内櫻華はいつものように病院で経過観察の診察を受けていた。

 その日は父・一徳と母・志穂も同席しており、主治医の佐伯が検査数値を示しながら深刻な表情を浮かべる。

「ここ一週間、頻脈や息切れが増えていますね。心臓の状態は正直あまり良くない。移植の候補リストはまだ動きがないけれど、いつ新たなドナーが見つかってもいいよう準備だけはしておきましょう」

 佐伯は昔、娘を亡くした苦い経験からか、やや沈んだ口調で言葉を選ぶ。父・一徳は喉を詰まらせ、「そう……ですか。やはり、もう長くは……」と視線を伏せる。

 母・志穂も黙り込んでいるが、その肩が小刻みに震えているのがわかる。桜の季節を越えたというのに、娘の心臓はますます危うい段階に来ているのだ。

「娘は高校を卒業まで、いえ、卒業後も……生きられますよね? あと一年半ありますが……」

 一徳がすがるように問いかける。佐伯は苦い表情を浮かべながらも、「個人差が大きいので一概には言えませんが、正直に言って楽観はできません」と答えるにとどまる。

「……ありがとうございます、先生。娘は学校に通うだけが今の希望なんです。あの子、吉野先生に会うのを何より楽しみにしていて……」

 その言葉を聞いて、佐伯はまなざしをやわらげる。「そうですか。支えになる存在があるのは、いいことです。本人が気力を失わないことが大切ですからね」

 最後まで医者らしい態度を保ちながらも、そこにはどこか人間的な温かみが混ざっている。

 診察を終え、待合室に出ると、一徳は深く息をつき、意を決したような声で妻・志穂に告げた。

「……俺は、もう一度だけ吉野先生に頼んでみる。あの子と少しでも時間を一緒に過ごしてやってくれって……。このままじゃ、櫻華が……」

「あなた……それは学校がどう言うか……」

「わかってる。でも、あの子はいつ死ぬかわからないんだ。 ‘あと一年半’ なんて甘い話じゃないかもしれない。だったら、何を恥じることがある? 娘が生きていられる間に、後悔しないようにしてやりたい」

 強い口調で言い切った一徳の瞳には、決意と悲壮感が入り交じる。志穂も何も言えず、ただそっと夫の腕に手を置いた。二人には親として「時間がない」という事実が重くのしかかっている。


2.京一に兆す異変

 その日の夕方、学校の職員室で書類整理をしていた吉野京一は、突然こめかみ辺りに刺すような痛みを感じ、思わず片手で額を押さえ込んだ。

 激しい頭痛とめまい――以前にも似た症状が出たことがあったが、こんなに鋭い痛みは初めてだった。

「……っ……」

 立ち上がろうとしたが、ぐらりと視界が歪む。隣のデスクにいた若松理香が驚いて声をかけた。

「吉野先生、大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ」

 京一は必死に呼吸を整え、「大丈夫、ちょっと寝不足なだけ……」と答える。だが、立ち上がれないほどの痛みが襲ってくる。

 理香が「保健室に行きましょう」と腕を取ろうとするが、京一は「いや、ちょっと座ってれば治まるから」とそれを拒む。そんな二人の様子を見て、周囲の教師もざわつき始めた。

(何なんだ、この痛みは……。まさか、何か大きな病気でも?……いや、考えすぎだ)

 京一はそう自分に言い聞かせるが、不穏な感覚は拭えない。自分がドナー登録をしていることを思い出すと、背筋を寒気が駆け抜ける。もし自分が倒れたら、今度は誰かの命が繋がるのか――そんな不吉な考えすら頭をよぎる。

 数分で痛みはやや和らいだが、京一の心には妙な焦燥感だけが残された。


3.迫りくる移植の機会

 翌日の放課後、蔵内櫻華は足取りを重くしながら校門を出た。父の車が待っている。いつもなら軽く言葉を交わして帰るのだが、父の表情がやけに切羽詰まっているのを感じる。

 車に乗り込むと、一徳はすぐに言った。

「櫻華、明日、病院にもう一度行くぞ。ドナー候補が新たに見つかったって連絡があった」

「え……本当なの?」

 一瞬、希望に胸が弾む。ずっと待ち望んできた移植の話。しかし、同時に誰かが亡くなるという悲しい現実を伴うことに気づき、すぐに言葉を飲み込む。

 父は居たたまれない面持ちでハンドルを握る。「まだ確定じゃない。検査してみないと何もわからない。でも、急に話が進む可能性もあるって、佐伯先生が言ってた。……いいか、どんな形になっても、心の準備だけはしておけ」

 櫻華の脳裏には、「桜子として死んだときの記憶」と、「今度こそ生き延びたい」という願いが交差する。そして、京一の姿も重なる。

 車窓に映る自分の顔は青ざめ、薄暗い夕空が背景になって、まるで別人のように見えた。


4.一徳の再度の懇願

 その夜、吉野京一のアパートのインターホンが鳴った。

 誰かと思えば、そこには蔵内一徳が立っている。深夜近い時間にもかかわらず、スーツ姿のまま息を切らし、京一を見つめる瞳には強い意志の光があった。

「蔵内さん……こんな時間に、何かあったんですか?」

 京一はドアを開けつつ、驚きと不安で頭が混乱する。

 一徳は無言で玄関先に一歩入り、深々と頭を下げた。

「吉野先生、娘がお世話になっています。……実は、櫻華にドナーが見つかるかもしれないって連絡が来ました。検査次第ではすぐ手術に踏み切る可能性もあるって……」

 その声はかすれている。京一は思わず息を詰まらせる。

「それは……本当なんですか。よかったじゃないですか、彼女の命が……」

「……もちろん、喜ぶべきことです。でも、手術が成功するとは限らないし、いつそのチャンスが回ってくるかもわからない。娘はいつも ‘吉野先生に会えないと、病院に行く気力が出ない’ と言うんです」

 一徳は顔を上げ、京一に縋るような目を向けた。

「だから、どうか最後まで娘のそばにいてやってくれませんか。たとえ手術が失敗して命が助からなくても、娘が笑顔でいられるように……僕はそれを願っているんです」

 数か月前にも同じような懇願をされたことを思い出す。だが、今回はさらに切迫感が強い。もう時間がない――そんな悲壮感が一徳の全身を包んでいる。

 京一は拳を握りしめ、躊躇いながらも答えた。

「教師と生徒という立場があって、簡単には……でも、僕も、櫻華さんを救いたい気持ちは変わりません。今度こそ、誰かを守れるなら守りたいんです」

 その言葉に、一徳は微かに眉を上げ、また頭を下げる。

「学校や世間が何を言おうと、娘のために最後まで付き合ってやってください。……お願いします、吉野先生」

 玄関口には、深く頭を下げる父親と、動揺を隠せない京一。その姿を、夜の闇が無言で包み込んでいた。


5.京一の苦悩と覚悟

 一徳が帰ったあと、京一はアパートの狭い部屋で一人ソファに腰を下ろし、頭を抱え込む。

 このまま突き進めば、自分の教師としての立場は危うくなる。学校側が認める範囲を超えて櫻華に寄り添えば、解雇や社会的非難は避けられないかもしれない。

 だが、それでもいい――桜子を二度と失いたくない。今の櫻華も、かつて桜子だった彼女も、守りたいのだ。

「……どうして、こんなにいろいろ重なるんだろう」

 そうつぶやくと、また頭痛の波がこめかみを襲う。意識が一瞬遠のきかけ、慌てて机に手をついて姿勢を正す。

 ふと机の上に開いたままの和歌集が目に留まり、京一はその一首を何気なく目で追った。

いのちだに しばしもおかで なげきつつ

  よしのの山に 花をたづねむ

(古今和歌集より)

 「命があるうちに、少しでも花を探しに行こう」という歌だと、解説文に書かれている。儚く、しかし前向きな歌――まるで、櫻華や自分自身の姿を写しているようだ。

「僕も、花を探しに行くんだ……最後の最後まで……」

 心の声が、沈黙の室内に溶ける。

 ぬぐえない不安を抱えながらも、京一は明日からの行動を決意した。社会の目がどうあれ、櫻華が生きる限り、彼女の笑顔を守ろう。そう誓うと、頭痛の閃光が少しだけ遠ざかったように感じられた。


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