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花散るらむ、それでも君と  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第十章 揺れる灯火、告げられぬ想いの痛み

1.濡れそぼつ五月雨のなかで

 連休明け、聖南学院高校の校庭はしとしとと降り続く雨に煙っていた。季節が進むほどに桜の気配は薄れ、緑の葉が一層色濃くなる。

 窓ガラス越しに外を見下ろすと、水溜まりがいくつもでき、小さな波紋がそこかしこに広がっていた。まるで、誰かの不安を映すように絶え間なく揺れている。

「――梅雨にはまだ早いのに、今年は雨が多いわね」

 数学教師の若松理香が、つぶやくように職員室で言葉をこぼす。その足元には抱えきれないほどの採点プリントがあるが、彼女の表情はどこか虚ろだ。

「大丈夫ですか、若松先生。体調は……」

 隣の席の女性教師が声をかけると、理香は小さく息をつき「ええ、なんとか」とだけ返す。

 ふと、視界の端に立つ吉野京一の姿を見とめ、彼女の胸にわずかな痛みが走る。最近、京一はずっと落ち着かない様子だ。以前にも増して何かに追われているようで、顔色も優れない。

(あの子……蔵内さんが退院してきたからかしら。ふたりに何かあったのは見え見えだし。だけど私は……)

 自分には何もできない。かつて死にそうな弟を引き止められなかった苦悔が蘇り、理香はいたたまれない気持ちを胸にしまい込む。


2.ひっそりと学ぶ時間

 一方、蔵内櫻華は保健室で過ごすことが増えていた。教室にいるときに起こる発作を極力避けるため、短時間の授業を受けては保健室に戻る、という生活リズムだ。

 もっとも、病院側からも「なるべく負荷を減らし、ストレスを溜めないように」と指示されており、周囲の教員も協力的だった。石川教頭も、かつての厳しい態度が少し和らいだように見える。

「蔵内さん、今日は体調どう?」

 保健室のカーテン越しに、若い看護教員が声をかける。「少し休んだら、担任の先生がプリント持ってきてくれるはずだから」

 その言葉に、櫻華は心の奥が温かくなる。担任――吉野京一。教師と生徒という距離感を超えて、もう一度繋がりを取り戻せたと感じるからだ。

 ほどなくして、シャラリとカーテンが動き、京一が顔を出した。周囲の看護教員を気にするように、小声で「体、大丈夫か?」と尋ねる。

「はい、少しだるいくらいです。……先生、わざわざありがとうございます」

 見ると、京一の手には国語や古文のプリントが数枚用意されていた。補講に近い形で学習支援をするには、まだ正式な許可が降りていないものの、最低限のサポートは許容されている。

「理事長からは、 ‘二人きりの長時間の補習は避けること’ と釘を刺されているけど、プリントを届けるくらいなら何も問題はない」

 京一の声には少し自嘲が混じる。周囲の目を気にしながら、やっとこれだけの接触が許されている。生徒同士ならありふれたことなのに、教師と生徒だと難しい――そんな苛立ちが垣間見える。

 それでも、櫻華は微笑む。「これだけでも、すごく助かるんです。……先生も忙しいのに」

「別に、僕は担任として当たり前のことをしてるだけだよ。……あと、古文の課題は一緒にやると理解しやすいから、来週あたり、もう少し時間が作れたら……」

 その先の言葉は霧消する。看護教員が「吉野先生、職員室からお呼びがかかってるそうですよ」と声をかけてきた。

 京一は名残惜しそうに「無理しないで」と言い残し、保健室を出ていく。カーテンの隙間から射す光が、櫻華の視界をにじませた。せっかく少しだけ心を通わせられるようになったのに、やはり周囲の束縛は厳しい――櫻華はそんな思いを噛み締める。


3.ふと覗く影

 その日の放課後、櫻華は早々に帰宅する予定だったが、靴箱へ向かう途中で微かな意識の乱れを感じ、壁に手をついて立ち止まった。

「……また、めまい?」

 ひそかな声で自問すると、後ろから軽い足音が近づく。振り向くと、そこにいたのは意外にも石川教頭だった。雨に濡れた傘を手に、何か言いたげな表情を浮かべている。

「蔵内さん、無理はしないように。……大丈夫かね」

 思いがけないほど優しい声音に、櫻華は目を瞬く。つい最近まであれだけ厳しかった教頭が、ここまで心配してくれるとは思わなかった。

 しかし、教頭の眉間にはまだ皺が寄っている。

「吉野先生から受け取ったプリント、ちゃんとこなしているんだろう? 勉強が遅れているわけでもないだろうし、今のところ問題はないけれど……」

「はい。宿題も課題も、体調を見ながらですが、きちんとやっています」

 櫻華が素直に答えると、教頭は小さく唸るように「そうか」と呟く。その眼差しには迷いが見える。

 ふいに、教頭はポケットから何かを取り出した。以前あずまやで拾った桜色のハンカチ――「O.K.」というイニシャルが端に刺繍されている。

「……これを、君が落としたんじゃないかと思ってね。校庭のあずまやの近くで見つけた。もし違ったらすまないが」

 差し出されたそれを目にし、櫻華は「あっ……」と小さく声を上げた。確かに、自分のハンカチだ。あの日、京一と短い時間を過ごしたあと慌てて帰った際に落としたのだろう。

「すみません……ありがとうございます」

 手を伸ばして受け取る。すると教頭は微かに唇を引き結び、目を伏せる。

「蔵内さん、私は学校の規律を守らなければならない立場だ。だから、吉野先生と君のことを問題視してきたし、今もそれがすべて解決したわけじゃない……」

 そこで言葉を切り、教頭は櫻華の顔を見据える。

「でも、人として、君が辛い状況にいるのを知りながら、一方的に責め立てるのは間違いだと思い始めている。……だから、私も頭が混乱しているよ。どうすれば君も吉野先生も救えるのか、正解が見えないんだ」

 胸が詰まる思いで櫻華は教頭を見つめる。彼の瞳には、生徒への不器用な優しさがにじんでいる。かつての一方的な厳しさとは違う、揺れる葛藤を抱えた人間の表情だった。

 言葉がうまく出ず、櫻華は軽く頭を下げる。「教頭先生……ありがとうございます。でも、私……」

 ――私には時間がない。だから、どんなに理不尽でも少しの希望にすがりたい。そう言いかけたとき、急に視界が弾けるように白んだ。

「……っ」

 頭がぐらりと揺れ、意識が遠のいていく。石川教頭が「蔵内さん?」と声を上げて腕を支えてくれるが、すでに身体が言うことをきかない。

 音が遠ざかり、目の前が真っ暗になる。耳の奥で、かすかに誰かが叫ぶ声が聞こえた。


4.失意の呼び声

 意識を取り戻したとき、櫻華は校内の保健室のベッドに横たわっていた。間接照明が薄ぼんやりと灯り、石川教頭と看護教員の姿が見える。

「……蔵内さん、わかるかな。大丈夫?」

 看護教員が額に当てていた冷たいタオルを取りのけ、安堵の息をつく。「脈はもう安定してるけど、急に血圧が下がったみたい。驚きましたよ」

 櫻華はなんとか微笑もうとするが、力が入らない。顔から血の気が引いているのが自分でもわかる。少し声を出そうとすると、扉のほうから聞き慣れた声が飛んできた。

「蔵内! 大丈夫なのか?」

 吉野京一。連絡を受けて駆け込んできたらしく、息を乱している。

 石川教頭は「ここは私に任せて、お帰りになったらどうです?」と制止しようとする素振りを見せたが、京一はかぶりを振って櫻華のベッドへ駆け寄った。

 あろうことか、教頭はそれを止めることなく、その場を譲るように一歩下がる。

「……さっき、ちょっと立ちくらみがひどくて。ごめんなさい、先生」

 櫻華は弱々しく言葉を返す。京一の瞳に宿った痛切な色が心を抉るようで、どうにか目をそらしたい衝動に駆られた。

 けれど、京一はまっすぐ櫻華を見つめる。

「僕のほうこそ、こんな状態でいろいろ無理をさせてるのかもしれない。……教頭先生、ありがとうございます。蔵内を保健室まで運んでくださったんですよね?」

 京一の言葉に、石川は少しだけ表情を崩して頷く。「ま、教師として当然だ。……それに、私は少し考えが変わりつつあるところだからな」

 思わせぶりな言い回しに、京一と櫻華は互いに目配せする。教頭の胸中の変化を明確に問えないまま、時間だけが過ぎていく。


5.二人に訪れる束の間のやすらぎ

 保健室を出たあと、石川教頭や看護教員の取り計らいで、櫻華は一時的に空き教室で休む許可を得た。保健室が立て込んでいるという名目だが、実際には「吉野先生との二人きりの時間」を作るための、教頭なりの配慮かもしれない。

 京一は意外そうに「本当にいいんですか」と確認したが、石川は「どのみち迎えが来るまで教室で待つなら、そこの空き教室で安静にしていたほうがいい」とだけ冷淡に言って去って行った。

「……教頭先生、すごく不器用だけど、優しいところもあるんですね」

 集められていない机と椅子が散らばる空き教室の一角で、櫻華は座り込んだまま微笑む。京一も床に膝をつき、彼女の顔を覗き込むようにして苦笑した。

「今まであれだけ厳しかったのにな……。正直、驚いてる」

 雨音が遠くで響き、日が暮れかけた窓の外は薄闇が迫りつつある。天井の蛍光灯がうっすらと灯るだけの教室は、どこか幻想的な空気を醸し出していた。

 櫻華はそっと京一の手を取り、「私、もう隠しません。私が桜子の生まれ変わりだってこと」と語りかける。

「先生、もし私がまた死にそうになったら、今度は……何かしてくれますか」

 それは突拍子もない問いにも聞こえたが、櫻華にとっては切実な願いだった。十数年前に果たせなかった救いを、今度こそは掴みたい――そんな思いがにじむ。

 京一は痛みを堪えるように眼を伏せる。「……僕には、医者のように直接治してやる力はない。だけど、君を見捨てたりしない。ドナーの話が進めば、きっと移植だって……」

 そこでふいに櫻華は、小さく首を振った。「移植はしたい。けれど、それがいつ決まるかも、実際にうまくいくかわからない。もう、何度も適合検査でダメになっているし……だから、今はただ、先生が私のそばにいてくれるだけでいいんです」

 視線が絡み合う。教師と生徒という身分差を越え、桜子として、櫻華として、京一は同じように彼女へ心を寄せ始めている。後戻りできない感情だ。

 窓に打ちつける雨音が二人の耳を覆うように強まる。京一は櫻華の指を軽く握り返した。

「わかった。どんなに厳しい状況になっても、僕は逃げない。……教頭や理事長に叱られても、君を見守りたいから」

 櫻華はその言葉にかすかな笑みを浮かべる。まるで朽ちそうな灯火が、再び灯ったような瞬間だった。もしこの先に悲劇が待っているとしたら、それでもこの時間は尊い――二人とも、そう思わずにはいられない。


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