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花散るらむ、それでも君と  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第九章 交わる想い、儚い再会の先

1.病室に差す春の陽光

 退院の許可が出たのは、櫻華が倒れてから数日後だった。軽い発作に終わり、さらなる検査入院で目立った異常は確認されなかったのだが、医師からは「体調管理をより徹底するように」と念を押されている。

 病院の廊下を車椅子で進む櫻華の横では、父・一徳と母・志穂が安堵の表情を浮かべていた。

 櫻華は苦笑する。自分としては完全に元気というわけではないが、とにかく学校に戻れることにほっとしている。

「よかった、娘が倒れたまま卒業もできないなんて……想像するだけで怖いんですから」

 一徳は涙声を押し隠してそう呟く。志穂も寄り添うように「ほんと……あとどれだけ通えるかわからないけど、できるだけ普通の高校生活を過ごしてほしいわ」と目を細める。

 櫻華は胸の奥がチクリと痛んだ。桜子としての記憶を取り戻してから、彼女の“親”はかつての春山家ではなく、この蔵内夫妻だということを実感している。病弱な娘を懸命に支えてくれる二人を、決して悲しませたくない。

「大丈夫だよ、お父さん、お母さん。……少しでも長く、ちゃんと生きるから」

 そう答える櫻華の声は優しく、けれどどこか切なさを帯びていた。


2.教師たちの戸惑いと一縷の希望

 翌日、櫻華が教室に戻ってくると、クラスメイトたちから「おかえり」「無理するなよ」と温かい言葉が飛んできた。

 放課後はいつものように友人の美羽が「買い食いしてから帰ろうよ」と誘ってくれるが、櫻華は控えめに断る。体調を慮ってのことだが、心の中には別の理由があった。

 ――京一と、ちゃんと話したい。

 一方、職員室では石川教頭が書類仕事をこなしながらも、時折目を上げては京一をちらりと見る。

 保健室での騒動から日が経ち、教頭自身もあのときの言動が少し行き過ぎだったかもしれないと自覚していた。まだ正式には謝罪していないが、京一に対する声色はやや柔らかくなっている。

 そして、同僚教師の若松理香はというと、何かあれば京一と櫻華をフォローしようとあれこれ動いているらしい。彼女が弟を亡くした過去が、櫻華や京一に対する特別な感情を引き起こしているのは明白だった。

(俺がここで踏みとどまらないと、あの子はまた孤立してしまう……だけど、学校の規則との兼ね合いもあるし……)

 京一は机に肘をつき、思考の渦に飲み込まれそうになる。そんなとき、誰かが控えめに職員室の扉をノックする音がした。

 顔を上げれば、そこには櫻華が立っている。クラスメイトの視線をかいくぐって、わざわざ京一のもとへ来たらしい。その瞳に、強い決意が宿っているのを感じ取る。

「先生……お話、できますか」

 小さな声だが、それははっきりと“お願い”を示す響きだった。

 教頭や同僚教師の目を気にしながらも、京一は「少しなら」と立ち上がる。これまでのやり方では誤解を招くだけなので、できるだけ公開の場――廊下の隅など、周囲から見える場所で話すように心掛ける。


3.廊下の片隅で

 放課後の人通りが少なくなった廊下の角。窓から射す夕陽が、床を赤橙色に染めている。

 京一は櫻華の姿を見下ろしながら、「大丈夫か? 無理はするなよ」と声をかける。周囲には誰もいないわけではないが、すれ違う生徒や教師はふたりに注意を払うことはない。

 櫻華は微かに息を吐き、「はい……もう、無理はしないつもりです」と答える。その奥には、不思議なほど落ち着いた輝きが宿っていた。

「先生、私……ようやく、全部思い出したんです。私、かつて春山桜子って名前で、先生と一緒に桜を見た少女だったってことを」

 その告白に、京一は体が強張る。すでに薄々感じていたこととはいえ、櫻華が自ら“桜子の生まれ変わり”を口にするのは初めてだ。

 数秒の沈黙の後、京一は戸惑いを隠せないまま言葉を紡ぐ。

「……やっぱり、そうなんだな。信じられない話だけど……君を見ていると、納得せざるを得ないよ」

 その口調には、教師という立場を超えた安堵と悲しみが入り混じっている。桜子の姿を再び目にするなんて思わなかった。けれど、彼女は確かにここにいる――限りある命のもとに。

 櫻華は一歩進み出て、京一の顔をまっすぐ見つめる。

「先生、あのとき私は伝えられなかったことがあるんです。命が尽きる前に、ちゃんと想いを言葉にできなかった。でも今度こそ、私は後悔したくない……」

 鼓動が高まる。廊下の遠くで誰かが話す声が聞こえるが、ふたりの世界はその音を遮断しているようだ。

「桜子は、あの日……僕の目の前で……」

 言葉を詰まらせる京一。そのときの光景が目に蘇る。誰もがどうすることもできず、少女の命がふっと消えてしまったあの日。桜吹雪がすべてを覆いつくした、忘れられない記憶。

 櫻華はその様子を見て、小さく微笑む。

「先生、ごめんなさい、私は――」

 その先を言おうとするが、廊下の向こうで石川教頭がこちらを睨むように足を止めたのが見えた。思わず、京一と櫻華は息を飲む。どうやら教頭は “教師と生徒の密談” に再び警戒心を抱いているらしい。

 緊迫する空気の中、櫻華は耳打ちするようにそっと言葉を乗せる。

「……もう少しだけ、ふたりきりで話せる場所、ありませんか。ほんの少しだけでいいんです」

 京一は教頭の視線を感じながらも、強引にでも彼女を遠ざけるわけにはいかない。

 (……せめて、屋外なら人目があっても不審には思われないだろうか)

「じゃあ、校庭の隅に小さなあずまやがある。人目はあるけど、ここよりは話しやすいはずだ。……行こう」

 そう告げると、櫻華はこくりと頷き、ふたりは廊下を離れる。遠目に追う石川教頭の存在がひたひたと迫るようだったが、教頭は結局声をかけることなく、その場に留まっていた。

(……教頭先生、何を考えているんだろう)

 そんな不安を抱えながら、京一は戸外へ歩を進める。


4.再会の桜と、誓いの言葉

 学校の片隅にあるあずまや。かつては植物研究部の生徒が利用していたらしく、今は雑草が伸び放題だが、ちょっと腰掛けるには十分なスペースだ。

 日は傾きかけており、夕闇の兆しが校舎を長く影を落としている。風がそよぎ、若い緑の葉を揺らす。桜はとっくに散ってしまったが、枝先には小さな実のようなものがつき始めていた。

「……なんだか、変な感じですね。桜はもう散ってるのに、私たちは桜の話をしているんですから」

 櫻華があずまやの柱にもたれかかり、しみじみと口にする。京一は隣に立ったまま、視線をどこに置くべきか迷っていた。

「前世で君は……いや、桜子は、あの日、僕の目の前で息を引き取って……。やり残したことも、伝え残したこともたくさんあった。でも、何もできなかった」

「先生は悪くない……ただ、私の命がそこまでだっただけ。だけど、今度は違うんです。私……」

 櫻華は一瞬言いよどみ、そしてゆっくりと息を吸う。

「私、あなたのことが好きです。前世で言えなかった言葉を、今、ちゃんと伝えます。……私のことを、櫻華としてでも、桜子としてでもいい。ただ、私という存在を見ていてほしい」

 明確な告白の言葉に、京一の胸はざわりと震える。教師として、これは許されない恋なのかもしれない。周囲の目や学校の規則を考えれば、大問題だろう。

 けれど、桜子を失った痛みを引きずりながら生きてきた自分にとって、この瞬間はあまりにも救いに近い。もう一度、彼女の思いを受け取る機会が巡ってきたのだ。

「……君の気持ちは、十分にわかった。ありがとう」

 京一はそう言いながら、握りしめた拳をそっと緩める。心の中で、いつかの桜子に重ねてしまう自分がいる。だが、今目の前にいるのは“蔵内櫻華”という新しい存在なのだ。

「君が桜子だったとしても、今は櫻華なんだ。それを混同しちゃいけない。……でも、僕はもう二度と、君を目の前で失いたくないって思ってる。桜子を救えなかった後悔があるからこそ……」

 最後の方は、言葉がかすれた。誓いのように吐き出したその想いは、どれほどの重荷になるだろうか。しかし、櫻華は微笑み、その手をそっと京一の指先に触れさせる。

 誰かが見ているかもしれない。ただ、今この一瞬だけは、ふたりきりの空間があった。

「ありがとう、先生。……私も、二度とあなたから離れたくない」

 風が吹き、葉の擦れる音がかすかに響く。夕陽が西の空を茜色に染め、校舎とあずまやをぼんやり照らしていた。桜の花びらはもうないけれど、その季節の名残が確かにふたりを包んでいるように感じられる。


5.教頭が見たもの

 翌朝、石川教頭は早めに出勤し、正門付近の掃除当番の様子などを見て回っていた。すると、校庭の片隅にあるあずまやの雑草がやけに踏み均された痕跡を見つける。

 「こんな場所、普段は誰も寄りつかないはずだが……」

 何気なく歩み寄ると、枯れ草が少し乱れた部分に、桜色のハンカチが落ちているのを発見した。そっと拾い上げると、端に小さく「O.K.」とイニシャルが刺繍されていた。

(蔵内櫻華か……?)

 石川は心の中で呟く。先日から、櫻華と吉野が特別に親しい様子が気になって仕方ない。学校の風紀を守る立場としては、見過ごせないことだ。

 だが、保健室での騒動や、一徳の必死の懇願を思い出すと、強引に二人を引き離すだけが正義なのか疑問も湧く。実際、櫻華には余命がどれほど残されているのか誰にもわからない。

「……理事長に報告すべきなのか、それとも……」

 教頭の胸は揺れていた。規則と人間の情との間で、答えを出しかねている。ハンカチを握りしめたまま、しばし考え込んだ末、教頭はそれをポケットにしまい、ひとまず何も言わず立ち去る。

 ――やがて訪れる大きな悲劇を、彼はまだ知る由もなかった。


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