仕事じゃなくても会いたいわけは
漫画家の月島みつるは、担当編集者の日比谷ゆうきに片思い中!彼を独占したいのに、自分の漫画の人気は落ちていき、作家と編集者としての関係が希薄になっていく……落ち込むみつるだったが、日比谷くんの本音は意外に激重感情で!?
ビジネスライクに見えたものが、本当はフツーのラブだったという話!です。少しエロありBLです。
日比谷くん(攻)×月島くん(受)
朝起きたときに、漫画家の僕、月島みつるは担当編集の日比谷君のSNSをチェックする。おおよそ10万人程度のフォロワーを持つ敏腕編集者のプロフィール欄は彼の担当作品名で埋まっている。そこに並ぶ漫画タイトルを1つ1つ確認し、その数の多さを目に焼きつける。もちろん僕の作品も中に入っているけれど、複数あるうちの一つというだけで、知名度で言えばアニメ化・実写化した作品には到底負ける。
そうやって彼は決して僕1人のものではないと、心にしかと刻みこむ。
編集者は常に複数人の作家を抱えているもの。だから彼が他の作品について言及するのも、他の作家とのエピソードを楽しげに投稿するのも、全て、当たり前で文句の言えることではない、ということを理解する。
僕はどうかしているから、毎日その確認をしてもいまだに脳がエラーを起こしてビービー喚く。漫画家でない素の僕の恋心が、うるさいくらいに泣いている。
日比谷君に対する10年ものの恋心はそれほどまでに厄介で、始末に困っている。漫画家になりたての頃、仕事とプライベートの区別ができないような人間には絶対になりたくなかったが、実際なってみるとこれはもうほとんど病気と同じような症状で、何か外部からの処方がなければこの嫉妬心は治りそうもない。
だからちょうどよかった。僕が自分の恋心に疲弊すると同時に、僕の漫画の才能も賞味期限が近づいてきたようで、今描いている作品は次の話で打ち切り。その前の作品もコミックス1巻にまとまるかどうか、というくらいで連載終了を告げられていた。そして現在進行形で、新しい漫画のアイデアが皆無。これじゃ日比谷君への面目が立たない。漫画家としての希望がない。
会社から2駅の僕のマンションにほぼ毎週打ち合わせのため通っていた日比谷君は、2週間前から家に来なくなった。連絡はLINEかzoom。今の連載が終われば彼のSNSから僕の作品タイトルも消える。彼との接点がなくなっていく。接点がなくなれば、僕の恋もあきらめるしかなくなる。
担当編集であるから連載終了後も連絡を取ろうと思えば取れるが、僕が新たなアイデアを出さない限り、連絡を取る必要性がない。漫画家と編集者だから。今日のごはん何食べる?なんて生産性のない会話のために電話を掛け合えない。
潮時なのだろう。皆が命を削っておもしろい漫画を描こうとしているのに、僕はずっと、ただ1人、日比谷君への恋心のために描き続けている。そんな下心が根元にあるようじゃ、本気で漫画を描いてる漫画家が集まる有名少年誌で戦っていけるわけがない。
僕は漫画家として彼と関わってきた。漫画家としての僕が終われば、日比谷君と僕との関係が切れる日も近い。
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学生時代、僕は一般的にやる気、という言葉で表現されるような物事への前向きな欲求が薄かった。勉学、部活、バイト…どれもつまらない。それらに用意されているゴール、例えば成績とか、試合結果とかに興味が出ないからだ。結局は自分のための称号だ。自分を人よりも上に持っていく行為に喜びを感じられない僕は、称号も特に欲しいと思わなかった。そうじゃなくてもっと別の…何か自分とは別の存在のためなら、もしかすると僕のやる気スイッチが入るのかもしれないと、漠然と思っていた。
絵は得意だったか、と聞かれれば確かに目の前のものを写しとる能力は人よりあっただろう。だけど特別絵画を習っているわけでも、好きで絵を描いているわけでもなかった。
美術の時間でたまたまペアになった、クラスメイトの日比谷ゆうき君の似顔絵を描いた。向かい合って2人で描いた。すごく整った彼の顔は正直、描いていて楽しかったりした。ふわふわの茶色がかった地毛と、甘い印象の垂れ目、ずっと伸びた鼻筋に、薄い唇。
僕の描いた日比谷君の絵を、彼は大層喜んでくれた。
「最高、めっちゃいいよこれ」
魅力的なタレ目を細くして、くしゃりと犬っぽい笑顔で言った。もともと日比谷君は人懐っこい性格で、誰彼にも優しかった。だから大げさに褒められても、僕はへんに自信を持ったりはしなかった。気のいいやつだなぁと思いながら
「ありがとう」
と返した。僕も僕で、日比谷君の描いたちょっと微妙な僕の絵を褒めた。そこで美術の授業が終わった。
するとなぜか次の日から、日比谷君は僕に何か描くよう声をかけ始めた。
「また俺のこと描いてよ」「次は〇〇描いてよ」
はじめはからかっているのか?と疑っていたけれど、しつこさに負けて一度、付箋にテキトーな絵を描いて渡した時にあまりにも嬉しそうな顔をするから僕は困ってしまった。彼は本気で僕の絵を気に入ってくれているらしかった。嬉しくなった僕はできる限り彼のオーダーを聞いて絵を描いた。調子に乗ってデッサン本を買って練習してみたりした。
僕にとって初めてやる気の出ることだったのだ。誰かに求められたものをつくって渡す、この心地よい喜びを知った僕は水を得た魚のように、日夜絵の勉強をした。日比谷君の笑顔をもっと見たかった。
大学は日比谷君と別のところへ進学した。本当なら日比谷君の側で彼の笑顔製造マシーンとして生き続けたかったけど、同大学に進む程の思い切りはなかった。僕は彼に求められることが好きだったけど、逆に僕が彼の側にいることを願った時、それに彼が応えてくれる保証はどこにもなかったから。
大学4年の就活の時にたまたま見た出版社の採用ページに、日比谷君の顔が載っていた。僕は一浪していたから彼は既に新卒1年目で、若手の編集者として活躍しているらしかった。魅力的な絵や漫画を読み、人に発信するのがやりがいだと語っていた。
心が震えた。また5年前の感覚が蘇ってきた。
大学4年間は絵を描いていなかった。誰も僕にそれを要求してこなかったから描く理由がなかった。でも高校までと違うのは、日々のつまらなさの中に、過去味わった絵を描く喜びへの渇望があるという点だった。
もう一度僕は日比谷君を喜ばせたかった。また彼の笑顔が見たかった。僕は就活なんかそっちのけで36ページの読み切りを描きあげた。現在日比谷君がいる少年誌の新人賞に送るためだ。本気で、なにに取り組むよりも本気で、僕は白い原稿用紙に想いをぶちまけた。
新人賞受賞後日比谷君が僕の担当になると知ったとき、指先に電流が走ったかと思うくらい痺れた。歓喜の震え。連載を勝ち取ったのちも僕は懸命に漫画を描いたし、彼はあの時と全く変わらぬ笑顔で原稿を受け取った。
「最高だよ月島」
彼の眼球が僕の渡した原稿に沿って動く。コマが進むごとに口角が上がっていく。それを目の前で見る極上のひととき。胃の底がズクズクと疼くような、今僕は彼の幸福を形作っているのだという優越感。
日比谷君は太陽のようだった。原稿があがればできる限りの言葉で褒め、ネームで悩んでいたら何時間でも相談に乗ってくれる。僕の漫画を、絵を、1番に信じてくれている。だから僕はかける。彼が照らしてくれている道に沿って進んでいけばいい。
でも彼との時間はずっとは続かない。日比谷君はなんの躊躇いもなく、時が来たら僕の元を離れる。僕の描いた原稿を持って、また別の作家の元へ行く。
僕と彼は友達じゃない。ここは教室じゃないし、絵を描いてるのは僕だけじゃない。彼は仕事をしている。仕事で僕と向き合い、他の作家とも同じように向き合う。僕が独り占めはできない。
彼がいなくなったあと僕は少しぼうっとする。席からしばらく立てない。他の人のところへ行く日比谷君を見て傷つこうとする心に歯止めをかけている。彼と仕事をし始めて数年経ち、心にある特別な感情が何か独占欲に似たものだということに、もう気づいてしまっていた。
はじめて漫画が打ちきりになったとき、日比谷君がピザを死ぬほど買って僕の家に持ってきたことがある。会社帰り、今日はもう何もタスクがないからと食べ物と自分の着替えを持って泊まるつもりでやってきた。落ち込んでる作家へのフォローだとすぐわかった。それでも僕は飛び上がって喜んだ、心のなかで。
「月島、まだまだこれからだよ」
彼はそう言って僕の背中を叩いた。その一言で救われた気持ちになった。僕はまだ彼に求められているとわかったから。漫画を描く理由を取り上げられなくてよかった。
その日は酒もかなりの量飲んで、酔ったまま漫画の話も、漫画以外の話もたくさんした。彼はよく笑っていた。僕の学生時代の失敗談に「そんなことあったっけ!」と驚いたりしていた。そのあと2人で横になってリビングで雑魚寝した。僕の顔の近くで日比谷君が寝息を立てていた。高校時代何度か居眠りをするのを見たことがあるから、懐かしく、僕は手を伸ばしかけた。そこには日比谷ゆうきそのものの顔があった。
僕が欲しいものが確かに、そこにある気がした。
その日のことを今でも、何度も思い出す。楽しかったから。漫画を描いて日比谷君に読んでもらう以外で、楽しいと思ったのは久しぶりだった。不思議な気分だった。とりとめのない話をして、飯を食う。こんな幸せ時間が続くなら、打ち切りになってよかったとさえ思った。自分は漫画を描くことを生業にしてるというのに。おかしいことだ。
そのあとも漫画家として不調が続いた。僕の描くものは少しずつ世間に評価されなくなっていって、掲載頻度も減り、そして今、2本目の打ち切りを迎えようとしていた。
日比谷君の態度はずっと変わらなかった。いつもニコニコ、建設的な話を、話が止まれば世間話を。編集者として僕を諦めていないと、態度に出して伝えてくれた。有り難かった。僕はダメ元でもネームを出し続けていた。そうでもしなければ僕と日比谷君は、同じ部屋で話す理由がなくなってしまう。
僕がどれだけ落ちぶれていっても、日比谷君の大手出版社社員という立ち位置は変わらない。それどころか彼は今、僕の後に育てていた作家の作品が複数アニメ化決定し、編集者としての評価が高まりつつある。
僕は彼が全てだけど、彼は僕が全てではない。
日に日に日比谷君のSNSはアニメ化作品の関連投稿で埋まっていく。僕の話題は月に一度、あるか、ないか。
それを見て憤り机に向かう。原稿用紙にペンを向かわせる。その手が震える。何かがおかしいことに気づく。僕は他の作家とは違うことに愕然とする。本来なら今の状況で、真っ当な漫画家ならおもしろい作品をつくるために悩むはずだ。なのに僕は、その時間のほとんどを日比谷君について悩んでいる。実のところ自分はつまらないネームに絶望しているのではなく、日比谷君を独占できない情欲に似たものに絶望している。漫画を描けないことじゃなく、彼の意識が逸れていくことが目下の問題である。
2週間前、日比谷君がいつも通り家に来た。どうですか、と笑顔で僕に進捗を聞いてきた。僕は僕の本心に気づいてしまっていたから、その笑顔さえももう見ていたくなかった。
僕は日比谷君が好きで、好きだから頑張ってこれた。だけど漫画家としての才能が枯れていく今、彼の意識を繋ぎ止められるものが何もない。僕がダメになる分、他の有望な作家に彼の意識が割かれていくだけ。そのやるせない苦しみを、彼に会うたびに味わうなんてごめんだ。
「しばらく来なくていいよ」
僕のマンション部屋の玄関に立った日比谷君に言う。ひとりになりたいんだ、と溢す。
しばらくの沈黙が走る。僕から彼を拒んだことなど漫画家になってから一度もないから「え……」と戸惑った声が聞こえたけど、彼はすぐに表情をパッと明るくし「わかった」と要求を呑み込んだ。
そこで変にごねるより、僕をゆっくり待つ方が編集者の選択肢として正しいと思ったんだろうか。それとも売れない漫画家に割く時間が減って、内心嬉しかったりするのだろうか。
思考はネガティブな方向に傾いて、自分から別れを切り出したくせに涙が出そうになった。こんな時まで漫画のことではなく、彼が次に行く誰かの顔を思い浮かべていた。行かないで、と言いそうになった。
彼の笑顔を見られればよかったのに、いつの間にかそんな小さな希望は大きく膨らんで、僕は作家としてではなく一人の人間として、彼そのものを求めるようになっていた。
頼むからそばにいてと、彼の着ているシャツの裾を掴んでしまいそうになる指を、ぎゅっと握った。
⭐︎
最近、僕の住んでいるマンションに不審者がよく現れるらしい。子供の通学路にもなっている僕の近所は比較的治安のいい場所だと信じていたけど、変な奴はどこにでもいるもので。マンションの前に立ってじっと外から部屋を見つめたり、正面玄関前をうろちょろしたりしているらしい。このマンションは若い女の子たちもそこそこ住んでいるようだから、ストーカーだろうか。最近だと深夜にずっとマンションの玄関前の階段を見つめて立っていたらしく、あまりにも長くいるものだから1階の住民に通報されたらしい。
「そんなことがあったんですか」
「月島くんも気をつけてね」
ゴミ出しのタイミングが被った、隣の部屋に住んでいる若夫婦の奥さんが不審者情報を教えてくれた。僕ははぁ、と笑ってかえしたけど正直最近引きこもってばかりだから、家に入られたりしない限り被害にあっていてもわからないなぁと思った。それにもうすぐ30の、特になんの外見的魅力のない男に、何が起きるというのか。むしろ僕が深夜にコンビニなどに出かけたのを見られ、不審者出没と誤解の後通報されそうだなと思ったりした。
そういう気の緩みが隙をつくったのかもしれない。奥さんとその話をした次の日のことだ。
深夜1時、僕以外の誰もいない部屋に、誰かが侵入しているような気配を感じた。はじめは僕の神経が過敏になっていて、冷蔵庫の音や窓の隙間から入る音と勘違いしているのだろうと思っていた。だけど違う、確実に何かがこちらに近づいている気がする。靴下で床を歩くさり、さりという音が大きくなり、人の吐息のようなものも聞こえる。あと、なにかビニールがかさかさと音を立てている気も…。
本当に、見境なく狙ってるんだ、不審者って奴は。僕はその事実にただただ恐怖を感じ、ベッドの中で布団を被ったまま動けなかった。もっと勇敢な人間なら、走って台所へ行き包丁の一つでも持ってきて身を守れるのに。心臓が耳の横にあるくらいうるさくなり、自分の体なのにコントロールが上手くきかない。
凶器を持っていたらどうしよう。首を絞められたり、殴られたりしたらどうしよう。頭の中で最悪のパターンを想像する。馬鹿野郎、なんで奥さんの話をちゃんと聞かないんだ。鍵をちゃんとしめないんだ。
目元が少し濡れてくる。死の恐怖ってのは人をこんなにも弱くするんだな。
ついに俺のベッドルームまで辿り着いた謎の人間は、止まることなく迫り来る。ていうかなんで電気がついてない他人の家で、そんなスムーズに家主の元へ辿り着けるんだ。
僕は周りが見えていなかったけど、そいつが僕のベッドのそばまで来て、立ち止まったのはわかった。次に出る行動を考えているのか、その状態で1.2分空気が止まった。それがもう処刑を待つ罪人のような感覚を僕に与え、やるなら早くやってくれと心の中で叫んだ。なんでこんな三十路おじさんに危害を加えたいのかわからないが、もう僕は今どうしようもないから、殺したければ殺せばいいとーーー。
「あの、月島。差し入れ持ってきたんだけど」
突然の、自分の想像とは全く別の方向からのありえない声に、僕は反射的に閉じていた瞼をカッと開いた。
「コンビニのチキンと、杏仁豆腐と、インゼリーと……」
それらは僕の好物だった。頭は今の状況を飲み込めないけど、脳内で幾度も再生した"彼"の声とそれは一致している。日比谷君の声が上から降ってきている。ビニール袋が揺れる音もあわせて。
「や、違うな、そうじゃないな。お巡りさんに言われたとおりにしないと……」
不可解な言葉を吐く彼に正直どうしたらいいかわからない。問いたいことはたくさんあったけど、まずどこから突っ込んでいいのやら。彼は何か目的があって僕の部屋を訪ねて来ているらしかったが、こんな時間に、こんな遠慮なく部屋に入ってくることなど今までまずなかったので、その真意がわからない。新しい漫画の催促にしては、行動の仕方が異常だった。お巡りさんという単語も意味がわからないし。
別の意味で緊張し始めていた僕だけど、死の恐怖から解放され、体の強張りはいつの間にか解けていた。手足が思うように動く。むくりと起き上がった僕は、ベッド横に立っている男を見上げた。目がまだ慣れないけど、背丈的にも日比谷君で間違いなかった。
「とりあえず、電気を」
僕がそういうと日比谷君はすぐに部屋の入り口に行き電気をつけてくれた。白いLEDライトが部屋を照らして、日比谷君の顔がはっきり見えるようになった。
暗闇の中で想像していた彼の顔と実際の顔が大きく違って、僕はぎょっとした。彼の顔はやつれていて、だけど妙に頰が上気している。髪も朝つけたワックスが取れかけでくしゃくしゃ。確かにこの姿を見たら警察へ連絡したくなるのも頷けた。なんだかあまりにも哀れな姿だったので僕はベッドから出てお茶でも出してあげようと、布団をまくった。
「ちょっと待っててね、お茶をいれるよ」
立ちあがろうとする僕の手首が、なぜか咄嗟に強く握られて、ぐらりと体が後方に傾きベッドにぽすんと倒れ込む。ベッドに腰掛けた状態になった僕は、彼に腕を掴まれたまま頭にはてなマークを浮かべた。
様子のおかしい日比谷君の方を見上げ、僕は何が起きているかわからないんですが、という顔をして見せた。そしたら彼は焦ったようにカバンをゴソゴソと漁り一枚のメモを取り出した。じーっと何が書いてあるかわからないけどメモを読み込み、よし、とわかった感じを出して俺に向き直った。
「俺一昨日捕まったんだ警察に」
「え」
「ちょっとおかしくなってた。いつの間にか不審者として通報されちゃってた」
もしかしなくても、近所で噂になっていた不審者の正体は日比谷君だったらしい。
「でもそれでよかった。俺一人だと解決に至らなかったから、お巡りさんと話せてよかったよ」
「な、なにか問題を抱えてたの?」
「そう」
彼は苦笑いをした。はじめて彼が気まずそうに笑うのを見た。今までそんな引っ掛かりのある表情を見せたことなんてなかったから。「これは俺の個人的な話なんだけど」そう言ってからは途切れることなく話し始めた。
「月島にしばらくここに来なくていいって言われた時、ちょっとびっくりしてすぐには頭で処理できなかった。もう7年間ずっと月島のところへ通い続けていたし、それがなくなるとどうなるか自分でもわからなかった。でも作家である月島がそう願うなら俺の感情がどうとか関係なく受け入れるしかない。もしそこで無理矢理に俺が押しかけて月島が筆を折るようなことがあったら、編集部にも悪いし何より自分が自分を許せなかったと思う。だからしばらくは会わずにいたらいいと思ったんだけど、思ったんだけど、体がいうこと聞かなかったんだ。2週間を過ぎたあたりから勝手に月島のマンションに足が動くようになったんだ。仕事でない時は無意識にここに来てしまう。だけど頭は冷静で、月島が俺にきてほしくないってわかってるんだ。だからマンションの前に来てもどうしようもなくて、変に動き回って、でも帰りたくなくて、なんで帰りたくないのかちょっとよくわからなくて悩んでた。そしたらいつの間にか、俺は交番にいたんだ」
彼は頭を抱えていた。そして昨日あったことを僕に伝えてくれた。
『お兄さん、どしちゃったの。何かあのマンションに用事があったの。あんなにも長時間立ってちゃ、住民の人が怖がっても仕方ないよ』
『俺……月島に会いたくて』
『月島?知り合いなのかな。知り合いがあのマンションに住んでいるの』
『担当作家なんです。俺が漫画の編集をしていて、彼は担当の漫画家』
『なに、じゃあ締切が近くて、原稿があがらないからマンションの外で見張ってたってわけ』
『そうじゃないんです。彼は今漫画を描いてなくて、俺はそれを知ってます。彼はしばらくひとりになりたいと言っていて、それで会うのはやめようと』
『じゃあなんで来ちゃったの。仕事じゃないんなら、私用かい』
『や、それも、どうでしょう、特には用がないんですが、勝手に、足がこちらへ向かっていて』
『ただ単に会いに来たってこと?』
『……ただ単に会いに来たってことでしょうか?』
『質問を質問で返されても』
『仕事上付き合ってる人間に、仕事でなく会いたいというのは、なんなんでしょう』
『それはなんだ、お兄さん。俺たちのことからかってるのかな』
『どういうことでしょう』
『編集者さんでしょう。頭良いのに自分のことは存外鈍いんだね。それってもうーーー』
立ち尽くしていた彼はそっと床に跪いて、僕と同じ顔の位置まで屈み、僕の目を見て真っ直ぐ言った。
「俺は月島のことが、漫画関係なく好きかも知れない」
「もちろん月島の書く漫画が好きだよ。でもいつの間にか、月島自身が好きになってたんだ。お巡りさんに言われて気づけたよ。物語を扱ってる人間として失格なくらい変なタイミングだけどね」
「なんの理由もなく月島に会いたくなる理由が知れてよかった」
至近距離で彼は、本当に心から嬉しいんだという風に微笑んだ。戸惑い言葉を探す僕に「でも付き合ってほしいとかじゃないんだ」と付け足した。
「困らせるようなこと言ってごめん。どうしても今この気持ちを伝えたくてさ、深夜なのに押しかけてしまった。今後はもうこんな公私混同する真似はしない。自分の気持ちがわかったから、なおさら、俺は月島の編集者として仕事を全うするよ。本当にごめん、お詫びと言ってはなんだけど、差し入れ食べて」
彼は一方的にそう言ってビニール袋を僕に押し付けて部屋を出て行こうとする。まさか言い逃げするつもりなのかと俺は焦った。だって僕は彼の望む言葉を言ってあげられる。彼の気持ちに応えてあげられる。作家でない僕が、急に降ってきた幸福に声をあげて泣いている。
「日比谷君が僕を好きなら」
彼は振り返る。目元が赤い、くまも深くできている。それは僕のことを考えてできたものなんだろうか?なんて思うと僕はもうずっと抑え込んでいた気持ちが溢れて、恋心がとめどなく流れていくのに任せるしかなかった。
「君は僕のものになるの?」
僕は静かに泣いていた。本心が言葉となって空気中に発せられる時、こんなにも心許ない音で発音されるのかと、僕は自分でびっくりしていた。
彼は再びベッドに近づいてくる。さっきよりも彼の頰の赤みが増している。たれ目の中もうるみ、僕から視線を逸らさない。
王子様みたいに僕の方もう一度跪く。両手が僕の顔に触れて、親指で涙を拭う。僕はその手に自分の手を重ねる。もうどこにも行ってほしくないのだと、強く訴えかける。
「なるよ」
「じゃあもう誰にも会わないでよ」
「はは、それは無理だけど…心はいつも月島のところにあるよ」
至近距離で目があって、自分たちが聞こえるだけの声量で言葉を交わす。日比谷君の瞳に僕が映っている。彼の手の触れ方が優しくて、僕はまた涙を溢す。
「俺は月島のものだし、月島も…俺のものになる?」
「……うん」
「じゃあ△社の三船さんと会うのやめてね」
「あ、なんで知って」
「月島のことは結構知ってるよ。他のところで連載しないように、ずっと俺が囲ってるんだから」
少し鋭くなった視線に胃の底が疼く。嫉妬心が柔らかく心に刺さり快感を僕にくれる。嬉しい。
ごく自然に、まるでそれが決められた流れの一部でしかないというふうに、彼の唇が僕の唇に触れる。驚く。でも嫌じゃない。むしろもっとしてほしい。口が自然と開く。日比谷君は「いいの?」と小さく掠れた声で問う。ほとんどノータイムでこくこく頷く。
彼の舌が入ってきて、僕の口腔を丁寧に舐め上げて、最後に僕の舌先と絡める。痺れるような快感と、僕はかつて抱いた彼への感情がまさしくこの行為に紐づいていたと実感する。二人で雑魚寝した時に曖昧に欲したもの、その正体は、彼の自身を自分のものにしたいという、激しい独占欲。
彼がほしい。彼そのものが欲しい。僕がどうなっても、彼がどうなっても変わらぬ絆が欲しい。
はじめてだったけど、僕は彼の性器を自らの腹の中に全て受け入れた。日比谷君は普段のサッパリした様子とは正反対に前戯がしつこく、意識が朦朧としたくらいにやっとで挿れてくれた。だからそんなに痛くはなかった。そりゃちょっとは痛かったけど、その痛みさえも彼が手に入った証明のように思えて感じた。中で脈打つ彼の性器が僕の内側を擦って気持ちがいい。嬉しい。今死んでもいい、と、僕は本気で思った。
「わかんないけど、俺」
「んん、」
中に入ったまま、耳元で彼が囁く。
「もしかしたら高校時代に、月島に絵を描いてもらった時から気になってたのかも」
「まさか」
「だってすごく楽しそうだったもん、月島。普段はツンとしてるのに、これが俺のやりたかったことだ、みたいな顔してた。だから俺、月島は絶対に絵を描くのやめちゃダメだと思ったんだよ」
「そんな顔、してた?」
「してたよ。あぁそうだった!俺は月島の絵より先に、月島の描いてる姿が好きで……だから声をかけたんだった」
少しずつ自分の過去を紐解いていく工程を、彼は噛み締めるように楽しんでいた。おそらく今この瞬間の感情に記憶のバイアスがかかっているのかもしれないだろうと頭では思ったけど、僕も根っからのロマンチストだから、そう言った過去の因果にときめいてしまっているのも事実だった。
「僕もだよ、日比谷君」
「僕は君に絵を喜んでもらうのが好きでここまでやってきた。君の笑顔が見たいから、絵を描いてるんだよ」
え、そうなの?みたいな、初耳ですみたいな顔をしたから僕は笑った。結局のところ僕たちは、あの美術の時間からずっと、お互いの存在そのものを意識して生きてきたのだと、僕はこのとき初めて知ったのだった。




