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戦国物語 ~胡蝶の夢~  作者: 牛一(ドン)
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閑話 明智光安の韜舌 〔明智光安視点〕

【美濃から見た歴史のお勉強ページです】

(第5話の補完です。飛ばしても問題ありません)

我が明智家は美濃源氏の流れを汲む土岐(とき)-下野守(しもつけの)-頼兼(よりかね)が康永元年 (1342年)に可児郡に城を築き、姓を『明智』と改名して明智長山城と名付けた事から始まる。

皆は明智城と呼ぶ。

中美濃は野原広がる西美濃と、山々が連なる東美濃や飛騨の中間にあり、この中美濃の中でも街道が重なる臍の緒のような場所に先代様は城を築かれた。

以来、200年間も我らはこの明智城を守ってきた。

守ってきたが簡単な事ではなかった。


儂の知る限りでは100年程前の高祖父であった (明智)頼典(よりつね)様の代に、悪名高い斎藤(さいとう) -宗円(そうえん)が守護代の豊島家を破って、守護代にのし上がるという下剋上(げこくじょう)を為した。

その宗円も豊島家の者によって暗殺されたのだが、主家を討った宗円を悲しむ者はいなかったと伝わる。

宗円の後を継いだのは、嫡子の利永(としなが)であった。

その利永も守護の土岐(とき)-持益(もちます)様と対立し、持益様の嫡男持兼(もちかね)様が早世すると、持益様は孫の亀寿丸を継嗣とすると決めたが、利永が反対して内乱となり、勝った利永は亀寿丸を廃嫡すると丹後守護の一色家より養子を迎えて、持益様を隠居させて成頼(しげより)様を美濃守護とした。

ここで美濃守護に美濃源氏の血が絶たれた。

我ら、美濃源氏の流れを汲む明智家や同族らも抵抗したが、守護代の利永との争いに負けて、明智家や同族も致し方なく新たな守護に忠誠を誓わされた。

しかし、因果応報だろうか?

その利永が中風を患って早世した。


次に利永の弟だった斉藤(さいとう)-妙椿(みょうちん)殿が守護代職を継ぎ、守護代となった妙椿殿はその直後に起った応仁(おうにん)元年 (1467年)に始まった『応仁の乱』で西軍の山名方に付いた。


この『応仁の乱』は、公方足利(あしかが)-義政(よしまさ)様の正室であった日野(ひの)-富子(とみこ)が実子の義尚(よしひさ)の将軍職を望み、山名(やまな)-宗全(そうぜん)に接近した事から公方様の家督争いと発展した。

味方が欲しい日野富子に近付いたのが妙椿殿であった。

妙椿殿は幕府の奉公衆となり、東軍の富島家や長江家を襲い、近江より来援に来た京極家の軍勢と戦って勝利すると美濃を平定してしまった。

そして、妙椿殿の勢いは収まる事無く、近江に出兵し、また尾張・伊勢・飛騨にも勢力を伸ばし、遂に美濃・尾張・伊勢・飛騨の四カ国を治めた。

この圧倒的な強さの前に明智家も従わざるを得なかった。


この応仁の乱は、複雑怪奇としか言えない。

【応仁の乱の初期】

・東軍:足利義視・細川勝元・斯波義敏・畠山政長

・西軍:足利義尚 (日野富子)・山名宗全・斯波義廉・畠山義就・大内政弘・土岐成頼〔斉藤妙椿〕

しかし、その日野富子が西軍を裏切り、また、東郡の勝元も富子の後ろ盾を欲して、総大将の義尚が西軍から東軍に寝返った。

居場所を失った義視様が西軍に逃げ込むという入れ替わりが起った。

【応仁の乱の末期】

・東軍:足利義尚 (日野富子)・〔故人〕細川勝元・斯波義敏・畠山政長

・西軍:足利義視・〔故人〕山名宗全・斯波義廉・畠山義就・土岐成頼〔斉藤妙椿〕

結局、戦を始めた山名宗全、細川勝元が次々と亡くなると戦の意味を失い、グダグタの内に講和が為されて西軍が解体された。

公方義政様との不仲から義視様は行き場を失って美濃に亡命して来た。

これを斡旋したのは、妙椿殿だと噂が残る。


『奇貨居くべし』


秦の商人であった呂不韋(りょふい)が趙に人質になっていた秦の王子の子楚(しそ)を助けて、秦の相国となって、秦で権勢を振るった故事にならって、義視様とその御子であった義材(よしき)様を引き取ったのだ。

実際に、その義材様が第10代征夷大将軍になられたのだから、先見の明であった。


ここで在京守護であった美濃守護の成頼様が在国守護に代わられた。

成頼様は美濃を取り仕切っている妙椿殿が目障りであった。

なぜならば、妙椿殿は成頼様が持っていた官位の従五位下を越えて、朝廷より従三位権大僧都を賜り、善恵寺に持是院(じぜいん)という子院を構えた為に持是院の称号を得ていたからだ。

自らの官位より高い家来など不愉快なだけだ。

しかし、成頼様は自ら律した。

斉藤家には美濃守護にして貰った恩義もあり、また、義視様を預かっている以上、妙椿殿の手腕を頼りにする所が大きかった。

妙椿殿が亡くなると、孫の妙純(みょうじゅん)が後を継いだ。

これが災いとなる。

妙椿殿の子に、先妻の子で嫡男利藤(としふじ)殿と後妻の子で妙純がおり、成頼様が妙椿殿の遺言を守って、次の守護代を妙純と指名した。

だがしかし、妙椿殿が隠居してから、名ばかりの守護代となっていた利藤殿にとって面白くない話ではあった。

目の上のタンコブとは言わないが、父の妙椿殿が亡くなって、実権を得たと思った瞬間に弟の妙純が守護の後ろ盾を得て実権を得た。

否、弟の実権を奪われた。

兄としての面目や利藤を支えていた家臣らが憤慨して、この妙純を葬ろうとしたが、逆撃を受けて近江に亡命する事になった。

妙純はその亡命を認めず、妙純は近江にも兵を出し、利藤殿は追われて京に逃げ込み、幕府の庇護を求めた。

ここで幕府は西軍に与した美濃守護代家の解体を目論み。

幕府は斉藤家の力を削ぐ為に和解を提案して、利藤殿は幕府の庇護を受けて美濃守護代へと返り咲く事になる。

妙純も悔しかっただろう。

だがしかし、情勢を見て、敢えて一歩引いたのだ。


このとき、幕府の情勢は混乱していた。

まず、越前の朝倉氏景にも同じような態度で接しており、朝倉家もまた斯波家に越前の守護職を返すように迫られていた。

朝倉氏景は『応仁の乱』で美濃と同じ西軍に与していたが、越前守護にして貰えるという条件で東軍へ寝返った。

しかし、乱後は同じ東軍に与した斯波(しば)-義敏(よしとし)が同じ足利一門である斯波家に越前を返還するように幕府に訴えていた。

越前守護の返還を訴えられた氏景と美濃守護代の返還を突き付けられた妙純は同じ立場であり、氏景と妙純は共闘して幕府と対峙した。


さて、その公方様がどんな状況だったかというと、義尚様は文明五年(1474年、9歳)に将軍職を譲られて公方様と成られていたが、実権は隠居された上皇様 (足利義政)が握っておられた。

義尚様も当時9歳だったので無理もない。

そして、応仁の乱後の長享二年(1488年、23歳)に義煕と改名されて、政務を執り行うように成られていた。

だが、まだ実権は上皇にあった。

そこで翌年の長享三年に西軍に与していた近江守護六角(ろっかく)-行高(たかより)の征伐を敢行し、征伐は成功したが行高は甲賀の山中に逃亡し、討ち取るには至らなかったが、この近江征伐で義尚様の力を示せた。

だがしかし、そんな義尚様に苦難が訪れる。

その陣中で斯波家と朝倉家が越前守護職を巡って対立して、斯波義敏が連れてきた尾張勢を引き上げるという事件が起っていた。

また、美濃勢とも美濃守護代職で揉めて、美濃勢の兵を引き上げさせた。

それに加えて加賀で一向一揆が激化して、加賀国守護の富樫政親が急ぎ帰参して加賀に戻ったが、逆に討ち取られるという醜態をさらした。

これに怒った義尚様は一向衆との手切れを考えたが、石山御坊の蓮如と対立する事を懸念した管領細川政元に止められて何も出来ないでいた。

近江の幕府陣は何も出来ずに泥沼化した。

調停も巧く進まず、義尚様は日々酒に酔ったという。

そんな陣中の心労が祟ったのか、義尚様が倒れられてお亡くなりになった。

ここで奇貨であった義視様が生きた。


義尚様が亡くなると義視様は日野富子と和解して、息子の義材様に将軍職をする事がなった。

幕府が譲歩して実権を氏景と妙純から奪わぬと約束したので、これ以上の成果はない。

二人も折れて幕府の面目を立てた。

名目の越前守護を斯波義敏に返還して、朝倉(あさくら)-貞景(さだかげ)は守護代となって越前の実行支配をする。また、美濃守護代職も斉藤妙純が利藤に返す事となったが、妙純は後見人として実権を持ち続けた。

朝倉・斉藤連合の実質的な勝利であった。

二人はその間を強固な者にする為に妙純は娘を氏景の子の貞景に嫁がせ、後に貞景の娘が土岐(とき)-頼武(よりたけ)に嫁がせた。

ここから土岐・斉藤家と朝倉家の同盟は成った。


こうして公方となった義材様だが、それも安泰ではなかった。

管領の細川政元との対立が起り、義材様は細川政元と権力争いを始めた。

義材様は公方の力を取り戻す為に第二次六角征伐を決め、征伐に成功した事で公方様としての実権を得た。

政敵である細川政元の敗北であった。

しかし、好事魔多しというのが都であり、京は冥府魔道(めいふまどう)の魔境だった。

公方様が実権を握る事を日野富子が嫌がったのだ。

日野富子の後ろ盾となって細川政元は義材様を廃する『明応の政変』を起こした。

政変の前年に上皇が御隠れになったのも影響したのだろう。

義材様は河内へ出陣していた隙に起った政変に驚いた。

細川政元、日野富子、伊勢貞宗らは都に残っていた義材派を粛正して、義材様を将軍職から廃して、足利(あしかが)-義澄(よしずみ)を第11代征夷大将軍に擁立した。

義材派の粛正で義材様は味方を一気に失い、都に戻った時には将軍職を奪い返す処か、身の危険を感じて越中へ下向された。

勝手に公方をすげ替えた事に帝をお怒りになり、退位を表明され、実際に義澄が公方になったのは八ヶ月も後になったからだった。

一方、義材様は越中で幕府を起こすと越中公方(越中御所)と成られ、京の公方様の間で対立が起った。

この余波は美濃にも影響を与えた。


齋藤家の家宰であった石丸(いしまる)-利光(としみつ) は妙椿殿の片腕となって『応仁の乱』を戦い、その成果から小守護代まで出世していた。しかし、妙椿殿が亡くなると、同じ家宰の西尾直教の讒言(ざんげん)を受けた妙純から次第に疎んじられるようになっていた。

そこに『明応の政変』が起って義材様が越中公方と成られると、朝倉貞景の子である孝景(たかかげ)は、義材様に馳せ参じて加賀より侵入した甲斐の軍を討った。

朝倉家と同盟を結んでいた妙純も義材派となり、幕府派の成頼様が守護代の利藤殿と小守護代の利光の二人を取り込んだ事で叛旗を翻した。

成頼様は美濃の実権を取り戻す好機と考えられた。

もちろん、成頼様の嫡男である政房(まさふさ)様は反対された。

政房様は妙純との戦いを恐れた。

臆病者を見限った成頼様は政房様を廃嫡し、四男の元頼(もとより)殿に家督を譲ると宣言されると、船田城を巡る『船田合戦』が起った。

もちろん、勝利したのは美濃を実効支配していた妙純である。

戦いに敗れた元頼は自害し、利藤殿は隠居して家督を妙純の息子である利親(としちか)に譲られ、成頼様も隠居させて政房様を守護に据えた。

次に妙純は京極高清の求めに応じ、石丸方に味方した六角高頼を討伐する為に近江に出兵すると京極政経を打ち破ったが、ここで土一揆が蜂起して妙純が戦死した。

何故、一行衆がと思うかもしれないが、義材様に馳せ参じた朝倉孝景は甲斐家が率いた一向衆も討ったので、義材派の斉藤勢も一行衆の敵なのだ。

このとき、一緒に参戦していた嫡男の利親も亡くなった為に、持是院家は混乱しながら次男の又四郎が後を継いだ。

その又四郎も15歳で家督を継ぎ、3年後の明応8年 (1499年)に急死し、弟の彦四郎が継承した。

この守護代となった彦四郎は守護の政房様と対立したが、若い彦四郎を支持する者は少なく、劣勢と知って尾張に亡命し、尾張の援助で再起を図るが巧く行かなかった。

こうして持是院家三代目当主斎藤利親の嫡男であり、斎藤妙純の孫にあたる斎藤(さいとう)-利良(としなが)が守護代となった。

一世を風靡した妙椿殿の持是院家の時代が終わり、守護の政房様が実権を取り戻した。

因果なモノだ。

守護の実権を取り戻そうと躍起になった成頼様は失敗し、妙純を恐れて抵抗しなかった事で政房様は持是院家の不幸につけ込んで守護としての実権を取り戻した。

まだ若い守護代利良は守護の後ろ盾なしに成り立たない。


利良は失った持是院家の勢力を取り戻す為に精力的に活動し、まずは政房様の嫡男である頼武(よりたけ)様を取り込んだ。

頼武様の正室は朝倉貞景の三女を娶らせた。

こんな事ができたのは、利良と越前朝倉家の新当主の朝倉孝景は従兄弟だからだ。

孝景の父にあたる貞景の正妻が妙純の娘であり、叔母を頼って利良は朝倉家の後ろ盾を得て権威を高めた。

だが、それが裏目となった。

持是院家の勢力が戻る事を嫌がった政房様は側室の子であった頼芸(よりのり)様を溺愛し、頼武様を廃嫡して頼芸様を跡継ぎとするとされた。

こうして、政房・頼芸派と頼武派の家督争うが勃発する。


政房様は小守護代の長井(ながい)-長弘(ながひろ)殿を味方とし、その家臣であった松波新左衛門尉 (斎藤利政の父)らも加わった。

我ら明智家も守護様に従ったが、戦は朝倉家の後ろ盾を得た頼武派が勝利した。

我ら明智家も頼武様に忠誠を誓う事になる。

だがしかし、諦めぬ者がいた。

松波新左衛門尉殿とその子であった殿 (斎藤利政)である。

当時の殿は松波庄五郎と名乗っていた。 

政房・頼芸派に勝利した頼武派が油断していると察した殿は尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、翌永正15年(1518年)に尾張で急ぎ兵を集めて革手城を強襲して落城させた。 

頼武様は取るものも取り敢えず、朝倉を頼って越前に逃れた。

その手腕は見事であった。

頼武様を追い出すと、持是院家の利良派との戦いは続い始めた。

このときの殿の働きは目覚ましい。

戦となると負け知らず、敵が弱みを見せると叩き伏せ、敵が強いと見ると和睦した。

場合によっては、和睦したと見せて呼び出して毒殺なども敢行する。

柔と剛を併せ持つ戦上手、暗殺を厭わない容赦のなさ、敵味方を問わず、殿だけは敵に回したくないと思わせた。

その働きに小守護代の長井長弘殿は殿に長井の姓を与えて、長井新九郎規秀と名乗らせた。

また、頼芸様の覚えも目出度たかった。


ここで殿の父である新左衛門尉殿の話をしておこう。

新左衛門尉殿の父は京で油屋を営んで財を貯めて、息子を京都の妙覚寺で得度を受けて法蓮房と名を貰ってに僧侶とした。

この妙覚寺で弟弟子となったのが南陽房(なんようぼう)であった。

この南陽房は小守護代の長井長弘殿の父である利隆(としたか)の弟であった。

その縁もあって、日護房 (南陽房の戒名)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房も付き従った。

しかし、ここで運命的な出会いがあった。

灯油商の奈良屋又兵衛の娘を見初めて妻として還俗し、松波新左衛門尉と名乗って油屋を始めた。

新左衛門尉は油売りの行商として成功した。

油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通して見せるという一芸を披露して客を集めたのだ。

弟弟子であった日護房の紹介があったのだろうか、甥の小守護代となった長弘殿が新左衛門尉の元を訪ねて、その一芸を見て仕官しないかと誘った。

こうして、新左衛門尉は長井家に仕える事となった。 

新左衛門尉は一文銭の穴を通す槍との達人として名を馳せ、武勲を立てて西村家の名を継いで西村の姓を賜った。

そして、息子の殿も成長して頭角を現す。

息子の庄五郎も父に勝るとも劣らない槍の名手となり、また、新しいモノにも目を向けて、鉄砲の名手として名を馳せた。

そんな親子は、頼武派に敗北して落胆する政房・頼芸派の中で、寧ろ好機と目をギラ付かせていた。

そして、頼武様を越前に追い出した。

この親子の働きを高く評価したのが、光綱(みつつな)兄者であり、裳着をすませたばかりの小見(おみ)との婚約を決めた。

光綱兄者は殿の才覚に惚れ、殿の父は明智家の美濃源氏の血を欲した。

何故ならば、庄五郎は武功を立てるほど、“油屋の癖に”と周りの目が厳しくなる。

小見との子が生まれれば、立派な美濃源氏の血を引く。

西村家の格を上げる事になり、殿を妬む者が減るだろうと考えたのだ。

そんな殿に目を付けたのが頼芸様であった。

小見との婚約以降、殿は頼芸様に呼び出される事が多くなり、長井家の家臣なのか、頼芸様の直参なのか、判らなくなるほどであった。

この親子の働きもあり、持是院家の利良派を一掃できるかに見えたが、そう巧く事は運ばない。


頼武様を追い出して、政房様が美濃守護として君臨したのも半年程であった。

政房様は永正16年(1519年)6月16日に亡くなってしまわれ、頼芸様は後ろ盾を失った。

政房様がもう数年ほど長生きされていれば、頼芸様が跡を継がれただろう。

本当に残念な事だった。

美濃守護職が空位となった翌月 (7月)には、朝倉孝景の支援を得た頼武様が美濃に侵攻して勝利し、その戦で前守護代であった彦四郎も討死した。

頼芸派の敗北は仕方ない。

政房様の嫡男である正当性、朝倉家の支援、守護代の利良も味方した。

対して頼芸様の元に兵が集まらない。

我が明智家も勝つと言えない上に、まだ守護でない頼芸様に全力の支援は難しく、父の光継(みつつぐ)は中立を決め、儂は光綱(みつつな)兄者に頼まれて義理で頼芸様に参陣した。

小守護代の長井長弘殿も不利を察して、積極的な交戦を避けた。

父は美濃源氏の流れを汲む者として、同一族の足並みを乱す訳にはいかないと考えたのだ。

つまり、頼芸様に後ろ盾がいない事が原因だった。

こうして戦に勝利した頼武様が美濃守護の座に付かれ、頼武様は頼武様に頭を下げられて臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の日々を5年も過ごした。


頼武様は朝倉家の支援を得て美濃守護に成られたが、守護代の斎藤利良も返り咲いた。

しかし、利良は朝倉孝景の従兄弟であり、利良が力を持ち過ぎるのを良し(・・)としなかった。

そのために小守護代の長弘殿も生かされ、利良の歯止めとして利用された。

が、それが裏目となった。

5年後の大永5年(1525年)6月、小守護代として力を取り戻した長井長弘殿が頼芸様を持ち上げて蜂起し、美濃守護所の福光館も占拠して反乱を成功させた。

これに大いに喜ばれた頼芸様は、大永6年(1526年)12月に側室であった深芳野(みよしの)様を殿に与えた。

殿は婚約者がいると一度は断れたが、「判っておる。美濃源氏の血が必要なのであろう。深芳野は側室でよい」と頼芸様が言われたので引き受ける事になる。

主より側室を賜るのは名誉な事であり、二度も断るなど出来ない。

これは仕方ない。

翌年、(大永7年、1527年)6月10日に20歳で深芳野様は豊太丸 (斎藤高政、のちの義龍)を産んだとされる。

儂が記憶する限りでは、高政様の生まれは享禄2年 (1529年)頃だった。

後に、頼芸様を追放する事件があり、守護様の代わりに高政様を御落胤(ごらくいん)として守護に据え置いた苦肉の策である。

その事は敢えて言うまい。


大永5年(1525年)に始まった反乱に頼武様も抵抗を続け、内乱は翌年も末まで続くと小康状態となり、頼武派と頼芸派に分かれて小競り合いを続けた。

皮肉な事は、頼武様は幕府に認められた守護であり、逆賊に汲みする事の出来ない光綱兄者は他の美濃源氏の一族と供に頼武派となっていた。

儂は頼芸派として参陣しており、兄妹で戦う事になってしまった。

しかし、直接対決は互いに避け続けた。


その頃、第12代征夷大将軍となられた足利(あしかが)-義晴(よしはる)様と管領の細川(ほそかわ) -高国(たかくに)が京を追われるという大事件が起り、諸侯に大号令を掛けて、細川尹賢、六角定頼、朝倉教景ら総勢五万人の軍勢が京に上がっていたのだ。

美濃に送られていた朝倉勢の援軍が引くと、頼武派は形勢不利になって言った。

ここでは殿の手腕が大きい。

頼芸様に長井規秀様がおり、頼武様に長井規秀様がいない。

しかし、頼武様には朝倉家の名将朝倉(あさくら)-教景(のりかげ)宗滴(そうてき))殿の加護があり、朝倉勢の援軍がある時は頼武派の有利に事が運ぶ。

だが、教景殿は頼武様の家臣ではない。

享禄3年 (1530年)に頼武様は身の危険を感じて再び越前に逃れ、翌年には消沈して亡くなられた。

こうして、頼芸様は実質的な美濃守護となられた。


この頃、小守護代の長弘殿が亡くなり、嫡男の景弘が跡を継いだ。

また、同時期に殿の父君であられる新左衛門尉殿が亡くなって、殿が跡を継いで小守護代を支える筆頭となっていた。

明智家を始め、同族も頼芸様に忠誠を誓った。

こうして、天文元年 (1532年)には小見が殿の元に嫁ぎ、明智家も安泰と思われた。


天文4年 (1535年)6月に父君の十七回忌を執り行って自らの正統性を宣言し、同月に幕府より修理大夫に任官されると、翌年には朝廷より正式に美濃守に遷任された。

幕府より守護の座は宣言されていなかったが、内外に示せたと言える。

しかし、政房様の十七回忌を黙っていなかったのが故頼武様の正室であり、兄の朝倉孝景を動かし、嫡男の頼純(よりずみ)様を総大将に美濃に攻勢を掛け、頼純の援軍に近江の定頼様も兵を出したので、戦禍が美濃全域にまで広がった。

光綱兄者は頼芸派で戦う事を主張したが、父の光継(みつつぐ)は小見を油屋に人質に出した事を屈辱と考えており、頼武派に汲みした。

小見は光綱兄者が嫁がせたのであって人質ではないと主張したが、父は評判を気にしていたのだ。

世間では、頼芸様への恭順を示す為に小見を頼芸様のお気に入りに差し出したと噂された。

光綱兄者はこの風聞を利用して、今回は頼芸派に参陣できると考えたようだが、父の光継はそれが我慢できなった。

こうして、再び兄弟で戦う事になったと思ったが、光綱兄者が床に伏して帰らぬ人となった。


一方、六角家と朝倉家が浅井家を巡って微妙な齟齬を生じた。

これを見た殿は逆転の一手として六角家と和睦を考えられ、管領代である定頼様との和睦とは幕府への恭順でもあり、同年に定頼様より娘を迎えられて正室とされ、美濃土岐家と近江六角家の同盟がなり、頼芸派の劣勢が僅かに緩和された。


天文7年 (1538年)に美濃守護代の斎藤利良殿が病死すると、頼芸様は殿を利良の養子とされ、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗らせた。

殿は遂に守護代と為られた。

勿論、持是院家2代目守護代 妙純の末子の斎藤(さいとう)-利茂(とししげ)が家督を主張しており、殿は実力で持是院家を簒奪せねばならないのだが、ここで養子に迎えていた奇貨が生きた。

正に殿に天運があった。


殿の愛妾の一人の弟である瀬田左京が、関白近衛稙家の庶子に生まれた多幸丸様の家来となっていた。

多幸丸様は勉学が嫌いで武芸を好んだ。

しかし、関白家でも財政難であり、庶子の子にまで官位を与える余裕もなく、比叡山横川恵心院に出家させられた。

しかし、それを嫌がった多幸丸様は寺を抜け出し、左京の姉を頼って美濃に来た。

殿は近衛稙家の子息と知ると、自らの養子とされた。

天文元年に16歳で元服させると、正義(まさよし)と名を改められ、日根野弘就に従って手勢300人を与えられて初陣を飾った。

この正義殿を持是院家の跡目にすると宣言されたのだ。

どこの馬の骨と判らぬ殿ならば、反発も大きいが、近衛稙家の御子となると見る目が違う。

持是院家の家臣の半分を寝返らせ、守護代派の取り崩しにも拍車がかかった。


殿が守護代となって戦局は有利に進んだが、良い事ばかりではない。

ここまで小見を利用して明智家が頼芸派に寝返る工作が続けられておりますという言い訳が通じなくなった。

明智家を攻めないのは妻への義理立てか、殿の頼芸様への忠誠を疑われ、父の光継も正面から戦わないのは一族への裏切りではと信義を疑われ、両者は戦わざる得ない状況となって両者が激突した。

やはりというのか、殿の武略に軍配が上がり、明智長山城は陥落した。


光綱兄者が亡くなると儂が次期当主筆頭となり、明智家の家臣がこちらに付く者が増えていた。

それ処か、同じ美濃源氏の一族も儂を頼って、頼芸派への寝返りを密かに要請して来た。

戦う以前に勝敗は決していた。

しかし、父の光継は最後まで戦って討死した。

儂は明智家の家督を得た。


同じ頃、殿を良く思わぬ小守護代の長井景弘殿も戦場で不思議な討死されて、殿の片腕と称される景弘の弟である道利(みちとし)殿が継いだ。

何が不思議かと言えば、勝ち戦なのに総大将が討たれ、総大将が討たれたのに道利殿が引き継いで見事に勝利した。

その勝利を殿が褒めて、小守護代の長井家の家督を継ぐ事に異論が出なかった。

対立する景弘殿から可愛い部下の道利殿への首の据え換え・・・・・・・・・・・・?

これは語るまい。

証拠は何も残されておらん。


守護代となった殿は居城を稲葉山城 (のちの岐阜城)とされて大改築を行った。

天文8年 (1539年)正月、頼芸様と頼純様の間で和議が成った。

これは前年の天文7年 (1538年)12月に六角家と朝倉家で密約が交わされたと、殿の忍びの報告を聞いて殿が決断した。

この和議には頼芸様は不満をお持ちだった。

頼純様を認めたくない。

だが、六角家に見限られては許ないと説得されて、互いに矛を収めて手打ちとされた。

勿論、その裏では頼純派を崩す為の調略が進められていた。


殿、曰く、

小一揆派 (加賀在住四か寺派)と大一揆派 (超勝寺・本覚寺勢)との間で激しい内紛が続いたが、小一揆派が朝倉家を頼って亡命し、朝倉の援助で加賀に侵攻している。

朝倉教景 (宗滴)は加賀と美濃の両面作戦を嫌って、六角家との和睦を持ちかけた。

また、天文5年 (1536年)に朝倉景高が大野郡穴間城を攻略した事で、朝倉家の面目を立ったので、美濃は頼芸様と頼純様の共同統治でも朝倉家として問題ない。

これ以上の関与はうま味がないと教景 (宗滴)が考えている。

ここで手打ちせねば、六角家との同盟は破棄されて、六角・朝倉の連合軍が頼純様に付き、頼芸様を排除しに来る。

それだけは避けねばならぬ。

手打ちすれば、朝倉も兵を引く、ゆっくりと手足をもぎ取ってゆけば良い。


儂には殿のように断言は出来ないが、兎も角、和議はなった。

ゆっくりと調略が進められ、頼純様が気付いた時は味方を失っており、祐向城、別府城などの大桑城の支城が相次いで、実質的な陥落となっていった。

否、事は簡単ではない。

頼純対策が順調に進む中で、頼芸様と守護代となった殿と仲が悪くなっていった。

殿は頼芸様への恩義を忘れておらず、頼芸様の為に知略の限りを尽くしていたのだが、それを良く思わぬ者も多くいた。

頼芸様の弟である頼満もその一人である。

また、頼芸様も殿の名声が上がる事を快く思われぬようになっていった。


天文10年 (1541年)、度重なる忠告に耳を貸さぬ頼満を毒殺する事件が起こり、これ境に頼芸様と殿の仲が険悪となり、遂に対立することになった。

殿は後がないと察しられて、緩やかな調略から強行策に出られて、頼純様の籠もる大桑城を攻めて、天文11年 (1542年)に大桑城が落城し、頼純様は鷺山城へ移った後に母の実家である朝倉家を頼って越前国へ亡命された。

殿が大桑城を攻めている間に、頼芸様が兵を集めて殿の背後を襲ってきたが、殿がそんな事は事前に察知されており、頼芸様とその子の頼次様ともども尾張国へ追放された。


ここで殿は美濃を簒奪する事となった。

下剋上(げこくじょう)の覇者、『美濃の蝮』と呼ばれ、殿は嫌われ者となった。

小見の子であれば、『美濃源氏の子孫が美濃を取り戻した』と喧伝できるのだが、殿では無理だ。

殿はどこまで行っても油屋の子である。

そこで殿は側室の深芳野が生んだ子、高政を頼芸様のご落胤として美濃守護の跡継ぎと喧伝した。

頼芸様の子ならば、美濃守護を継いでも問題はない。

かなり強引であるが、殿にはそれしか手がない。


2年後の天文13年 (1544年)8月、六角家、朝倉家との交渉が失敗して、頼純様が朝倉宗淳の朝倉勢を率い、頼芸様は尾張の織田信秀の支援を得て、美濃に進軍してきた。

殿は宗淳に密書を送り、頼純様への恭順を示した。

正式な使者でない所が味噌だ。

宗淳は美濃への侵攻に積極的ではなく、加賀の一行衆に対して力を貯めたいと考えており、美濃の事は頼純様が巧くすれば良いと考えていた。

実際、徳山谷を南下して赤坂で斎藤勢と合戦となったが、朝倉勢は積極的な戦闘を避けて兵を引いた。

対する織田勢は牛屋城 (大垣城)を落し、その勢いの儘に稲葉山城へ攻めてきた。

9月22日、殿が籠もる稲葉山城に総攻撃を仕掛けたが勝敗は付かず、双方に損害を出して織田勢は撤退した。

互いに勝利したと勝鬨を上げ、ここから戦後交渉が始まった。


織田家は頼芸様の帰国と殿の子である帰蝶様を人質に出す条件を出し、朝倉家も頼純様の帰国と帰蝶様を人質に出す条件を提示した。

交渉が難航したのは、頼芸様の後ろ盾である六角家と頼純様の後ろ盾である朝倉家とが、どちらに美濃守護職を継がせるかで揉めたのだ。

朝倉(あさくら)-孝景(たかかげ)は坂本に逃れていた第13代征夷大将軍になる事が決まった足利(あしかが)-義藤(よしふじ)(後の義輝)を支える事を条件に、烏帽子親となった六角(ろっかく)-定頼(さだより)より譲歩を引き出した。


天文15年 (1546年)秋に頼純様と頼芸様の間で和議が成った。

9月、頼純様は菩提山城を経て大桑城へ入城し、翌年に帰蝶様も頼純様の元に嫁いだ。

だが、交渉に敗北した頼芸様が美濃守護を諦めた訳でない。

交渉を了承したのは、実力で殿と頼純様を排除する時間稼ぎだった。

こうして、天文16年 (1547年)9月22日に稲葉山城で『加納口の戦い』が再び起った。

勿論、今度は間違いなく我が方の大勝利であった。

そして、殿は牛屋城を取り戻すと、頼純様のいる大桑城に兵を進めた。

伸るか反るか、朝倉家との駆け引きだ。

冷静沈着な殿だが、帰蝶様の事になると無茶をされる。

だが、その無茶を越えたのが帰蝶様だ。

頼純派の武将をすべてひざまずかせて我らを迎えた。

想像を超えた結果であり、守護 頼純様の元でやって行けると思わせる成果だった。

だがしかし、肝心の頼純様が逃げて無に喫した。

生き霊に苦しめられて亡くなるとは・・・・・・・・・・・・?

言葉も出ない。


こうして、我々は再び頼芸様を祭り上げて美濃を治めねばならない。

頼芸様の内政はまったく駄目であり、実権を取り戻す事に執着され、佞臣の讒言に耳を貸される。

殿を嫌う者は多く、殿を罵倒する者を優遇されるので問題だ。

だが、誰の入れ知恵か知らぬが、正義を取り込む工作をしてきた。

次の狙われているのが、高政様だ。

近衛家の血を持つ正義は自尊心が強く、頭を下げる事をしない。

逆に、頼られる事を好む。

高政様は母親似の大きな体格をしており、武将として光るモノを持つが、知略は乏しい。

人の裏表を読む事が出来ない。

頼芸様に、そこを狙われた。

どちらも殿を裏切ったつもりはないが、周囲は頼芸様に取り込まれたように写っている。

それが問題だと気付かぬ事が問題なのだ。

帰蝶様はそこに気付いて、正義の周りを探らせたようだ。

帰蝶様は小見の子であり、明智の血を継ぐ。

殿ではないが、帰蝶様が男の子でれば、斉藤家は安泰だっただろう。


「叔父上、灯りも灯さずに。どうされました」

「十兵衛か」

「はい」

「考えた事をしていたら日が沈んでおった」


部屋に入って来た十兵衛が灯りを付けて、酒壺と横に置いて座った。


「一献、如何でしょうか」

「もらおう」


十兵衛が注いだ酒を儂は飲んだ。

戦国の美濃を作ったのは、やはり斎藤妙椿でしょう。

ですが、戦国の走りを体現したのは、妙椿の父です。

この下剋上の体現者の一族は道三という下剋上の覇者の登場で終わってゆくのです。

因果応報ですね。


■斎藤宗円 (康応元年 (1389年) - 宝徳2年 (1450年)9月1日):土岐氏の守護代である富島氏を殺害して自ら守護代となった。


■斎藤 利永(?~長禄4年 (1460年)5月27日):斎藤宗円の嫡男、妙椿の兄。一色家より、土岐成頼を迎え、美濃源氏の土岐家を血筋を絶った。


■斎藤 妙椿 (応永18年 (1411年)~文明12年 (1480年)2月21日):美濃、尾張、伊勢、飛騨の四カ国の支配者となる。土岐成頼を文明9年(1477年)の冬に、足利義視・義材父子を連れて美濃に下国させた。


■斎藤 利藤(?- 明応7年 (1498年)1月12日):利永の嫡男。妙椿が隠居して美濃守護代になったが、実権は妙椿が持っていた。また、幕府の力で守護代に返り咲くが名目の守護代であった。


■斎藤 妙純(?~明応5年 (1497年)12月7日):利永の次男。妙椿が後継者と指名され、利親を蹴落として守護代になったが、幕府の力で名目の守護代を利藤に譲った。

・斎藤 利親(文明5年 (1473年)- 明応5年 (1497年)12月7日):妙純の嫡男。近江に出兵して、父の妙純と供に死亡。

・斎藤 又四郎(文明14年 (1482年)- 明応8年 (1499年)11月13日):妙純の次男。父や兄の討死に当主になるが、すぐに早世する。

・斎藤 彦四郎:妙純の三男。持是院家5代目当主となるが、守護土岐政房と対立して尾張に亡命する。後に、織田氏の援助を得て再び美濃に戻って家督争いに参入する。

・斎藤 利茂:妙純の末男、あるいは、斎藤利為の子? (利為は利藤の嫡男) 土岐頼武のもとで守護代を務めた記録が残っている。


この同時期は、美濃に二人の守護代がおります。

当時は、頼武と頼芸の双方が守護代を指名していたと思われ、道三は頼芸派の美濃守護代となり、実力で頼武派の守護代を排除したのでしょう。


美濃の戦国時代は、美濃守護と美濃守護代の妙椿、妙純、妙純の子で起った争いだと判ります。

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