家路を飾るは竜胆の花
この作品は、「夏のホラー2023」参加作品です。ご注意ください。心配な方は、あらすじやタグで、内容を事前にご確認していただきますようお願いいたします。
「まったく、お前はいいご身分だよなあ」
馬車の中でうとうとしていた私は、突然夫に頰を打たれたあげく、座席から引きずり降ろされてしまった。このところ頭痛が酷く、痛み止めをを飲んだ後ずっと目をつぶっていたせいで、いつの間にか眠り込んでいたようだ。それが夫の気に障ったらしい。
「……ご、ごめんなさい」
頬の痛みに耐えながら、必死で頭を下げた。ここで彼の不興を買えば、さらに暴力が酷くなる。頭を下げることくらい、容易いことだ。不愉快そうな顔をして暴言を吐く夫の隣で、彼の幼馴染が醜悪な笑みを浮かべていた。
……どうして私が謝らないといけないのかしら。寝起きなせいだろうか、妙に苛々する。諦め、悲しみ以外の感情に久しぶりに触れた気がして、ゆっくりと瞬きをした。まだ、自分の中に怒るという強さが残されていたことに驚く。屋敷の外の空気が身体の内側に染み込むと同時に、あやふやだった視界が徐々に輪郭を取り戻していた。
道端には、青紫の竜胆の花がいくつも揺れている。
***
私と夫は、いわゆる政略結婚だった。事故で両親を亡くした私は婚約が解消されるだろうことを覚悟していたけれど、夫は予定通り結婚しようと言ってくれた。
高位貴族の令嬢だというのに華やかさに欠ける私のことを、野に咲く花のように素朴で愛らしいと慈しんでくれた。
夫の母もまた、家族を失ったばかりで心許ない私を優しく慰めてくれた。あなたのような娘が欲しかったと言われたときには、本当の母のように大切にしようと誓ったくらいだ。
そんな彼らが変わってしまったのは、結婚してすぐのこと。家族を失ったばかりだったとはいえ、口先だけの彼らに心を許した私が馬鹿だったのだ。
「両親のいない女をもらってやったというのに、黙って言うことも聞けないのか」
「本当なら息子のお嫁さんは、幼馴染ちゃんだったのよ。その地位をあなたに譲ってあげたのだから、あなたも息子たちに感謝してわきまえるべきでしょう」
金目当ての結婚だろうとは、薄々感づいていた。そもそも貴族の婚姻などというのは政略で結ばれるものなのだし、財産を持った世間知らずの貴族令嬢など、悪い人間の格好の餌食だということも理解している。けれど、信頼しきっていた人間からのてのひら返しはことのほか堪えた。
何より、ここまでひととして貶められなければならないものなのだろうか。姑も幼馴染のことが可愛くて仕方がないらしい。彼女には言わない暴言を浴び続け、私は心がすっかり凍りついてしまったのだった。
***
今夜は大きな夜会が開かれていた。いくら気が進まないとはいえ、招待されている以上参加しないわけにもいかない。不平不満を顔に出さないように気をつけつつ準備を済ませてみれば、なぜか夫の幼馴染の女が既に彼とともに馬車に乗り込んでいた。
妻である私の代わりに夫の隣に座り、得意げに腕を組んでいる。この調子では、エスコートも夫が行うのだろう。夫婦で招待された夜会で、とぼとぼと夫と浮気相手の後ろをついて歩く自分はことさらに惨めな存在に違いない。
そう覚悟していたのだが、自分は会場に到着することなく、こんなところにひとり置き去りにされてしまうらしい。
辺りを見回し、夫が楽しそうに笑った。
「この辺りは、狂暴な野犬が出ることで有名だそうだ」
「ええ、やだあ。野犬が出るなんて、怖いわ。それなのに、怯えた様子ひとつ見せないなんて、あんたは鈍感で良いわね」
恐怖に泣き叫べば、相手を楽しませるだけ。それがわかっているから黙るしかない。反応の薄さに、彼らはさっさと夜会に行くことにしたようだ。
「俺たちは、このまま夜会に向かう。お前は遅くならないうちに屋敷に帰っておくように。明日の朝までに帰ってきていなければ、不貞を働いていたとして離婚を申し立てるからそのつもりで」
「あはははは、かわいそう。不貞を働く相手もいないのに。それに、あんたって鈍臭いから、家に辿り着く前に、野犬のご飯になっちゃうかも。ああ、でも、こんな不味そうなひと、お腹を空かせた野犬だってわざわざ食べないか」
嬉しくて仕方がないとでも言うように、夫の隣で幼馴染が跳び跳ねている。そのすべてが鬱陶しくて、私は強く目をつぶった。
私ひとり残して、馬車は去っていく。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
とりあえず、何とか屋敷に帰らなくては。夜会会場に向かったところで到底間に合わないだろうし、ぼろぼろの姿で到着しても噂の的になるだけ。下手をすれば、恥をかかせたとまた夫に殴られる。ならば家に帰るよりほかに仕方がない。
痛む身体をかばいながら、私は足を進めた。
***
私は足を引きずるようにして歩いていた。道は多少舗装されているとはいえ、もともと夜会用の靴というのは長い距離を歩くのには適していない。かといって裸足で歩けば、すぐに足を切ってしまうだろう。
よほど私に痛い目を見せたかったのか、馬車はいつの間にか旧道に入り込んでいたようだ。こんなところで女がひとり死んでいれば、逆に怪しまれそうなものだけれど、そんなことにも気がつかないのが夫たちらしいと言えば夫たちらしい。
周囲には民家はおろか、ひとっこひとり見えない。まあ、こんな場所で出会う相手などまともな人間ではないのだろうが。こわばった足をほぐすために立ち止まると、ふと不思議な音が耳に入った。
――ちゃっちゃっちゃっちゃ――
何か硬いものを地面にこすりつけるような、そんな音。それは私のすぐそばまで来ると、ぱたりと聞こえなくなってしまった。
これが先ほど夫たちが話していた野犬なのだろうか。こうしてはいられない。慌てて振り返るものの、そこには何もいない。目に入るのは、ところどころに咲いている竜胆の花だけ。けれど歩き始めるとやはり後ろから聞こえて来るのだ。
――ちゃっちゃっちゃっちゃ――
追われているような恐ろしさはない。その足音は、私を気遣うように歩調を合わせてくれている。足の痛みで徐々に歩く速度が落ちているが、不思議な足音は決して私を追い抜かない。少しだけ後ろの方をついて来ているらしい。
その時、私は「送り犬」という伝承を思い出した。老齢の乳母から遠い昔に聞いたものだ。
夜中にひとりで人通りのない道を歩いていると、後をついてくるのだという。途中の道で転べば食い殺されてしまうが、丁重に扱えば周囲の危険から守ってくれるのだとか。妖でありながら、神の遣いのようなどことなく不思議な存在だ。
「ねえ、送り犬さん。あなた、私を家まで届けてくれるの?」
わふっと、見えない犬が笑った。
***
送り犬はとても紳士的な生き物らしい。どこで見つけたのやら、男物のブーツや衣服を持ってきてくれた。
「これを着なさいということ?」
そうだと、尻尾を振ったらしい。ふわりと空気が揺れる。民家もない道沿いに、店屋などあろうはずもない。ということは、この靴や服の持ち主はきっと行き倒れていたのだろう。
けれど私は送り犬の好意に甘えることにした。まず夜会用の衣服や靴では、歩くのもままならない。
それにいくら型遅れの質素なドレスといっても、これでは襲ってくださいと言っているようなものだ。野盗のような連中は、女であれば醜女だろうが老婆だろうが、気にしないとも聞く。少しでも安全な格好をするべきだとわかっていた。
夏の終わりとはいえ、今夜は酷く暑い。袖で汗をぬぐいつつ、ゆっくりゆっくり、送り犬と一緒に歩く。誰かの隣を歩くなんて、いつぶりだろうか。
夜会では夫と幼馴染の後ろ姿を見ないようにうつむきながら、ひとり歩いていた。屋敷の中では、やはり姑たちに目を合わせないように下を向いていた。
前を向くとどこまでも道が続いているのが見えた。どん詰まりだと思っていた私の人生も、意外と別の生き方があったのだろうか。
上を見上げれば、月も星も輝いている。下を見ていては見ることができなかった景色だ。まあ、夫たちにお礼を言う気にはなれないけれども。
「ああ、帰りたくないな」
私のつぶやきに、送り犬がきゅんきゅんと甘えた声を出した。送り犬という名前だから、ちゃんと指定の家まで送り届けなければならないと決められているのかもしれない。怪異や魔の物は、人間以上に誓約に縛られているとも聞く。私の言葉は、彼の存在自体を揺るがすものだったのだろうか。
だが、考えてもみてほしい。一体どこへ帰ればいいというのか。嫁ぎ先の屋敷へと帰らなければならないと思っていたけれど、あそこが私の「家」なのだとは、どうしても思えなかった。思いたくなどなかった。
戻ったところで待っているのは意地悪な姑だけ。姑のことだから、夫が幼馴染とよろしくやっていることも、彼らが私を置き去りにしたことだって承知しているだろう。なんなら、すべて姑の指示だったかもしれない。
だったらいっそのこと、このままどこかへ逃げてしまってはどうだろう。そうだ、今なら旅のともだって隣にいる。
「ねえ、あなた。私と一緒に遠くに行ってみない?」
そう送り犬に言いかけて、かくんと膝が崩れた。ああ、もうこれが限界らしい。服と一緒に、人間が飲むことのできる水がどこかにないか送り犬に聞いておけばよかったとも思った。怪異である送り犬には、夏場は数時間ごとに水を飲まなくては、人間はあっさり死ぬ生き物だなんて思いもよらなかっただろうから。
「ごめんなさいね。私、これ以上はもう無理みたい。せっかくあなたが助けてくれたのに。この暑さの中、結構頑張ったつもりよ。貴族にしては体力もあるつもりだったけれど、限界のようね。一緒に歩いてくれたのに、ごめんなさいね」
きゅんきゅんと甘えたように鼻を鳴らす。送り犬がとても愛おしくて、触れられないはずの宙を撫でた。ふわりと竜胆の花が夜の闇に咲く。よくよく見てみれば、それはどうやら送り犬の瞳らしい。死にかけの私に、別れを告げてくれているのだろうか。瞳が見えるだけで、その存在がより確かなものになった気がした。
「ねえ、送り犬さん。お願いだから、私が死ぬまでそばにいて。誰にも看取られないまま、ひとりで死ぬなんて寂しすぎるわ。あなたが隣にいてくれて、私、本当によかった」
べろりと生温かいものが顔を這ったけれど、不思議と怖くはなかった。この子にならこの身を喰らわれてもいいと素直に思える。死ぬことの恐怖さえ感じないくらい、疲れきってしまっていたのかもしれない。
「ありがとう。大好きよ」
それにしても不公平なものだ。怪異は私に触れることができるというのに、私は怪異に触れることができないのだから。思いがけず出会った優しさを確かめたくて両腕を広げ、私はそのまま意識を失った。
***
「フランシスカ」
とても優しい声で名前を呼ばれた気がした。両親亡き今、私の名前を呼んでくれるひとなんて、もうどこにもいないと思っていたのに。慌てて身体を起こそうとしたが、うまく力が入らない。必死でまぶたを開け、目だけを動かして確認すると、私は自室の寝台の上に寝かされていた。
どうやら、意識を失った後に誰かに助けられたらしい。まさかとは思うが、送り犬が屋敷まで送り届けてくれたのだろうか。転んでしまったなら休む振りをしてやり過ごさねば、たちまち食い殺されてしまうと聞いていたのに、何とも心優しい怪異もいたものだ。
夫や姑、夫の幼馴染、屋敷の使用人。友人知人、社交界の面々。これだけ多くの人間がいたというのに、誰よりも優しく手を差し伸べてくれたのは、通りすがりの怪異だけだったなんて。生温かい舌で顔を舐められたとき、ほんの少しだけ食べられるのかもしれないと思ったし、あの子になら食べられてもいいかと思えた。けれど、送り犬はただ単に私を慰めようとしていたのかもしれなかった。
ああ、何かしら礼をしなくては。お肉がいいだろうか。それとも寝心地の良い毛布が好みだろうか。伝承では、礼を言い、贈り物をすることで送り犬は満足して帰っていくらしい。そこまで考えて、つい深いため息が出た。
「……帰ってほしくなんてないわ」
お礼は何万回だって言いたい。贈り物だっていくらでも貢ぎたい。けれど離れ離れになるのだけは耐えられなかった。ようやっと見つけた、私に寄り添ってくれる愛しい存在。
「何に帰ってほしくないの?」
急に声をかけられて、心臓が止まりそうになった。どうして、夫が私の部屋にいるのか。幼馴染の女性を侍らせた状態でしか、夫は私の前に姿を現さないのが常なのに、一体どういう風の吹き回しかしら。
「ああ、良かった。きっと大丈夫だと信じていたけれど、君はもう三日も眠ったままだったんだよ」
夫の言葉に私は驚いた。そもそも夜会があった日から、三日も経っているなんて信じられない。何より、私が目覚めたことを喜ぶなんて。あわよくば死んでしまえ。彼は結婚した日からずっと、何よりそう望んでいたはずなのに。
「僕たちの馬車は、帰宅途中に落石に巻き込まれて大破してしまったんだ。恥ずかしながら、僕たちはみんな動けなくなってしまってね。君が痛む身体を引きずりながら、助けを求めに行ってくれた。君のお陰で、僕は助かったんだ」
「落石? 馬車が大破? 一体、何をおっしゃって……」
「怪我をしている状態で長時間動き回っていたから、君は熱中症も発症してしまって、一時は本当に危なかったんだ。君が目覚めてくれて、本当によかった」
夫は目を潤ませながら、寝台の横に跪く。私の両手を握りしめる夫は、小さく震えていた。触れた肌は、火傷をしそうなほど熱い。
知らない。そんな話は私の記憶にはない。思い出せるのは、私を嘲笑いながら幼馴染と立ち去る夫の笑い声。それから薄暗い夜道を、月明かりを頼りに送り犬と歩き続けたことだけ。
「あの、あなたの幼馴染は……」
「残念ながら彼女は助からなかった。落石で馬車が潰れた後も息はあったようだが、どうも救助されるまでの間に野犬に食い殺されてしまったらしい」
生きている間に身体を屠られるだなんて、どんなに恐ろしかったか。良い関係ではなかった幼馴染たちだが、良い気味だとは思えなかった。何より、夫こそが幼馴染に執着していたはず。それにも関わらず、至極穏やかに語り続ける夫の姿には違和感しかなかった。
「そんな! 事件性はないのですか」
「元々落石自体が天災のようなものだし、野犬についても日頃から警戒するようにという案内は出ていたそうだ。ちょうど同じ日に、近くを根城にしていた野盗たちも身体中に同じような噛み跡がつけられた状態で発見されているから、不幸な事故だったと見るべきだろうね」
そこで確かに私は見た。悲しそうな声を出してみせる夫の口元が、少しだけいびつに歪んでいたのを。夫はさらに続けた。
「フランシスカ、君が無事で安心した。愛している」
どうしてそんな優しい顔をするのか。あなたの愛は、幼馴染にあったのではないのか。
夫が口づけでもするかのように顔を近づけてきたので、思わず逃れようとした。両腕を突っ張り、夫から距離をとろうとして息を呑む。
喉元まで出かかっていた「どうして」だとか、「あなたが置いていったんでしょう」だとか、そんな恨み言はたちまち消えてしまった。夫の瞳の中には、帰り道で散々送り犬と一緒に数えた竜胆の花が見えたから。
「……一緒に、歩いてくれるの?」
私と、これからの人生を。死にかけの人間の戯言を、彼は律儀に拾い上げてくれたというのか。
おずおずと宙に手を伸ばせば、困ったような顔で頬を寄せてくる。まるでもっと撫でてくれとてのひらに顔をこすりつけてくる大型犬のように。
「念のため、今日はゆっくり休んだほうがいい。明日、またこれからの話をしよう。それまでに、いろいろ綺麗に片付けておくから」
穏やかに微笑んで夫は部屋を出ていく。ちゃっちゃっちゃっちゃという、リズミカルな音が聞こえた気がした。
***
「母上、そうお怒りになられてはお体にさわります」
「そうですよ、お義母さま。どうぞ落ち着いて」
「わたくしを母などと呼ばないでちょうだい。可愛いわたくしの息子を返して!」
夫が世間一般から見てクズ夫の時は貴婦人として凛とした振る舞いをしていた姑だったが、彼がより良い夫となった途端、息子がおかしくなったと騒ぎ出した。私たち夫婦が仲睦まじくしていることが、ほとほと許せないらしい。庭師に頼んで植えさせた竜胆の花も、荒れ狂う姑が踏み荒らしてしまう始末だ。
「お前は、息子じゃないわ。息子の皮をかぶった、化け物よ!」
「まあ、お義母さまったら」
「こんな卑しい女に尻尾を振るような犬がわたくしの息子を名乗るなんて!」
思ったよりも鋭い姑の言葉に、私は少しだけ感心した。この毒の花のような女性の息子への愛は、少なくとも本物であったようだ。
だが社交界の面々からしてみれば、面の皮だけは最高だが人間性は最低だった男が、嫁の献身のお陰で改心したようにしか見えない。おおかた、自分に都合の良い息子が嫁の味方をするようになったのが気に食わないのだろうと笑われるようになったが、私を貶めることにやっきになっている姑は気がついていないらしい。
息子が大好きだった姑は、ここ最近は出かけてばかりいる。普段はお友だちとやらに愚痴を聞いてもらっていたそうなのだが、あまりにも来訪し過ぎて最近はすげなく断られていると聞く。
だからこそ姑は、夫の幼馴染のお墓参りに出かけたのだ。姑の考える理想の嫁だった可愛らしい娘の元に。確かに物言わぬ彼女なら黙って姑の愚痴を聞いてくれるに違いない。
「墓参りはあんな風に怒り狂って、しかもひとりで行くべきものではないのだが。母のわがままにも困ったものだな」
「不勉強でごめんなさい。どうしてお墓参りにひとりで行ってはいけないのかしら。まさか昼日中からお化けが出るとでも言うの?」
私の質問に夫が笑い出した。おかしくてたまらないと涙を流して腹を抱える彼に、なんだか恥ずかしくて頬を膨らませてしまう。
「もう、そんなに笑うことないでしょう」
「いやいや、君の口からお化けという台詞が出てくるとは思わなくてね。フランシスカは、お化けは怖いかい?」
「……まさか。私はお化けよりも人間の方が怖いわ。意地悪で理不尽で、すぐにてのひらを返してくるんだもの」
夫婦仲が悪いときには、誰もが私から目を逸らしていた。姑や夫に虐げられていること、夫が妻以外の女性を屋敷に連れ込んでいることなど明らかだったにも関わらず、誰もが見ない振りをしていたのだ。
それが今はどうだろう。「夫婦円満の秘訣が知りたい」と男も女もにじり寄ってくる。助けてほしいときはいないものとして扱われ、助けが必要でなくなると途端に心配した素振りであれやこれやと内情を詮索してくる。やはり私は、何より人間が恐ろしい。
「そうかい。それなら良かった。ああ、さっきの質問の答えだけれど。ひとりで行ってはいけない理由はね、熱中症になった時に誰にも気づかれないまま亡くなってしまうからだよ」
「それなら、お義母さまは安心かしら。御者や侍女も一緒でしょうから」
「それもそうだね。ちゃんと墓参りに行ったのであれば問題ないだろうね。わざわざ興味本位で、落石現場なんかを覗きに行くことさえなければ、運悪く野犬に囲まれたりすることもないだろうし、夕方までには帰って来られると思うよ」
窓の向こう、走り出す我が家の馬車を見送りながら、夫は柔らかく微笑む。夫の瞳の中には、今日も竜胆の花が揺れていた。
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