7話 しげちゃん
電話はすぐ近くの総合病院からだった。
美幸が急な腹痛で運ばれたらしい。
うろたえる俺とは対照的に、お袋は堂々としたものだ。
「もう臨月やろ?ほな、ちょっとなんかあっても大丈夫や、
母親もお腹も子も体制が出来上がってるわ」
ちょっとなんかあるのが怖いねやんかい。
この数時間でつくづく己の小ささを思い知らされる。
ポジティブシンキングの日課は、
この小ささから逃れる術やった気がしてきた。
病院に着くと、俺たちは婦人科に案内された。
この病院には俺も美幸に付添って何度か検診に来たことがあった。
母親を早くに亡くした美幸は、
里帰りはせずに、自宅近くのこの病院で産むつもりだった。
エレベーターを6階で降りると、診察室の前だ。
昼間のそことは違って、しんと静まり返っていた。
一番奥が分娩室になっていたはずだった。
分娩室前の待合辺りに、またもやシルエットの親父がいた。
落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返している。
「えっ?」
俺はお袋と顔を見合せた。
なんで親父がここに?
もしかして親父がここに?
美幸は親父と一緒だった?
俺の頭に?マークが広がっていく。
それにしてもいくら緊急事態とはいえ、
あんなやり取りの後で、家を飛び出した親父と
顔を合わせるのは気まずい。
お袋もきっと同じ気持ちだろう…って、この人は例外だった。
いつの間にか缶コーヒーを3本抱えている。
「熱っ、熱いなあ、まったく」
今にも落としそうな缶を、親父がすっと受け取った。
こういうのをあうんの呼吸というのだろう。
30年近く連れ添った夫婦にこそ出来る芸当だ。
半年ぐらいのブランクも、
さっきまでのいざこざも関係ない。
長年、「今」を生きてきた夫婦なのだ。
俺は長椅子に親父とお袋と並んで座り、
外側だけ熱い缶コーヒーを飲んでいる。
昨日は想像もしなかった風景だ。
しかもここは分娩室の前だ。
何が夢で何が現実かわからない、
浮遊したような感覚に包まれていた。
「…産まれるんやろか」
俺の口が勝手にしゃべった。
「そりゃ、産まれるやろ」
親父が横を向いたまま、ぼそっと言った。
「ほんまに父親になるんかなあってな」
「男なんてな、まあ、そんなもんや」
お袋が俺を見て、ふっと笑った。
親父はくるりと背中を向けた。
お袋が懐かしそうに辺りを見回しながら言った。
「隆志もこの病院で生まれたんやで」
「ほんま?」
「そんなもん、嘘ついてどないすんねん」
俺は病院を見回してみた。当たり前だが、まったく記憶がない。
「綺麗に改装してしもて、当時の面影もないけどな」
お袋は小さな声で「儲かってるんやろな」と付け加えた。
俺の出生はこの人たちの証言によるところだけしか、
明らかではない。
もしかして俺は、どこぞの王族の子孫かもしれない。
滅ぼされかけた一族の家臣が、王の純血を守るために
俺をこの人たちに託して…RPGのやりすぎやな。
「えらい難産でな、大変やったわ。
お父ちゃんも一緒に分娩室に入ってくれたんやで」
「へえ」
俺は親父の後ろ姿をちらっと見た。
「今やったら珍しいことないやろけど、30年前や、結構,ウケたで」
「ウケてどないすんねん」
親父が怒ったような口調で言った。
「阿呆、お前が死にそうな声で呼ぶからやろ」
「そうやったかなあ」
お袋がすっとぼけた声を出した。
「しげちゃーん、しげちゃーんって、情けない声出してたやないか」
しげちゃん?親父の名前は茂雄、お袋はしげちゃんなんて
呼んでいたのか。
お袋は心なしか赤くなり、照れ笑いをしながら下を向いた。
「しげちゃーん」
28年前、お袋が呼んだ声が聞こえたような気がした。
「お父ちゃんな、真っ赤な顔して、
ひっひっふー、ひっひっふーってな、一緒にやってくれてん」
「お前が死ぬ死ぬ言うからやろ」
「手握ってな、ひっひっふー」
お袋の頭の中はもうタイムスリップしているのだろう。
「何時間も何時間も頑張ってな、ようやくお前が出てきた時はな」
お袋は何かを思い出したようにふっふと笑いだした。
「お父ちゃん、隣で酸素マスクはめられてたんやで」
親父がくるりと振り返って、お袋を軽くどついた。
「うるさい、もうええ」
「酸欠で倒れてしもたんや」
「もうええ!いうてるやろが」
親父はまた背中を向けた。
そうか、しげちゃんは倒れてしもうたんか。
俺はやっぱり王族の子孫ではないらしい。
ありがとうございました。
次話からが、新しい場面です。
申し訳ありませんでした。