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ドラゴン

ホテルのスパでマッサージを受けて、レストランで豪華ディナーを堪能。約束の八時になると、俺は三〇七号室のドアをノックした。

「入りな」

 すぐにドアが開いて、サンチョが顔を出した。

「お邪魔します」

 部屋の中に入ると、サンチョが全身黒のタイツを着ていることに気づいた。いかにも、わたしは泥棒です、と宣伝しているようなその格好に唖然として、

「何ですか、その格好は?」

「俺の仕事着さ。悪いが、あんたにも同じ物を着てもらう」

指でついてこい、と示しながら、サンチョはリビングへ入って行く。

ソファの上に黒タイツが広げてあった。どうやら俺の分らしい。

「早く着替えてくれ。もうひとり仲間に加わった奴がいてな。そいつとは現地で待ち合わせることになってる」

 サンチョに急かされ、急いで黒タイツを着ると、

「これを持て」

大きな麻袋を手渡された。

「こ、これは?」

「まあ、城に入ってから必要になるんだ。さっ、ムダ話してないで行くぞ」

 説明不足のままサンチョは部屋を飛び出す。よからぬことに巻き込まれるんじゃないかと不安になりながら、俺はその後に続いた。

「こっちだ」

廊下に出て来た俺に、非常口のドアノブを掴んだサンチョが呼びかける。

近寄って行くと、サンチョはドアを開いて外階段を駆け降りて行く。

わざわざこんな格好をしなければ、堂々とロビーから出て行けるんじゃないのか? 腑に落ちない気持ちを抱きながら、俺は階段を降りた。

 階段を降りると、すぐ目の前はガスランプの光で照らされた広場だった。噴水の周りでカップル達が身を寄せ合い、少し離れた所では酔っ払った若者達が騒いでいる。

「明るいところに出るなよ」

サンチョの声がして俺は振り向いた。サンチョは物陰から俺に手招きして、

「こっちから行けば、最短で城に辿り着く」

「あ、あの、何でわざわざこの格好を?」

 堪らなくなって俺は訊いた。

「……」

 サンチョは何も答えず、

「ついてこい」と薄暗い道を駆け出す。

その後ろ姿を眺め、本当に城の中へ忍び込めるのかと不安を抱きつつ、俺はついて行った。

五分ほど走ったところで、城の裏側に辿り着いた。

城の周囲の池の手前で、ジッと佇んでいるサンチョの姿を見つけ、

「どうやって渡るんですか?」

 荒い息をしながら俺は訊いた。

「まあ、待て」

サンチョはそう言い、すぐ近くにある木にのぼり始めた。猿みたいに敏捷だ。

何をするのか見ていると、サンチョは生い茂った葉の中に姿を消して、何やらゴソゴソうごめいた。

その動きが止まったと思ったら、ビュッと何かが風を切る音がした。そして、サンチョは力仕事をしているのか、ウッウッとゴリラのように唸り、その声とともに枝が揺れて、

「よし」と満足のいった声を漏らすと、スルスルとヘビのように降りてきた。

「何を――」

 俺が訊く前に、

「ほら、見ろ」

 サンチョは上空に向かって顎をしゃくる。そちらへ目を遣り、

「あっ」

 俺は驚きの声を漏らした。いつの間にか、木と城の外塀との間に一本のロープが伝っている。

「ど、どうやって?」

 魔法でも使ったのか、と俺は本気で思った。

「これさ」

 サンチョはボーガンを撃つ真似をしてニッと微笑むと、

「それにしても、遅いな、もうひとりの奴」と周囲を見回す。

「もうひとりって、どういうひとなんですか?」

「え? ああ、あんたと一緒で……」

 言いかけたところで、ひとの気配がした。

「あ、来た来た。おい、こっちだ」

 サンチョが手招きすると、全身黒タイツに包まれた長身の男が現れた。

「あっ」

 俺は思わず、驚きの声を発してしまった。その男は荻窪健斗だったからだ。

「静かにしろ」

 サンチョはたしなめ、

「知ってるのか?」

「い、いいえ」

「よお」

 美形の顔だけをタイツから覗かせた姿で、荻窪は悪びれた様子もなくサンチョに声をかけると、

「誰?」と俺をチラリと見た。

「言っただろ、もうひとり仲間がいるって。名前は……」

 サンチョは俺に顔を向ける。

「喜嶋です」

「喜嶋、だそうだ」と荻窪の方へ顔を向け、「あんたと一緒で、プリンセス・カスミに会いたいんだと。仲良くしろよ」

 愉快そうに微笑みながら、サンチョは俺たちの肩を叩く。

「架純に? 何の用だ?」

 荻窪は嘲笑するように言いながらも、俺の顔を睨みつける。

「あ、あの、その……」

「何だ? 追っかけか?」

 俺に歩み寄る荻窪に、

「あんたが遅れたせいで、そろそろ見回りが来ちまう時間だ」

 サンチョは声を潜め、

「ついて来い」とロープを縛りつけてある木にのぼり始めた。そのあとについて行こうとする俺の体を遮り、

「俺が先だ」

 敵対心もあらわにそう言うと、荻窪は豹のような身のこなしで、苦も無く木をのぼって行く。

「早くしろ」

 サンチョが木の上から俺に呼びかける。

「は、はい」

両手の掌に唾を吐きかけて、俺は木をのぼろうとする。けど、運動神経ゼロの俺にそんな器用なことなどできるわけもなく、呆気なく木の根元にずり落ちてしまった。

おまけに、その衝撃で木が揺れてしまい、サンチョと荻窪のいる枝が揺れた。

「バカ!」

 サンチョの罵る声。

「す、すいません」

 俺は申し訳なくなり頭を垂れる。

「置いてこうぜ」

 荻窪が冷淡な口調で言う。そりゃ、ないよ。

「もう一度チャレンジしてみろ」

 サンチョは諦めずに檄を飛ばす。それに励まされて、俺は木にしがみついて必死になってのぼり始めた。

「掴まれ」

 頭上からサンチョの手が伸びてきた。俺はその手を掴み、「ファイト一発!」と、心の中で叫びながらよじのぼった。

おかげで、どうにか木の上にあがることができた。

「ハァ……ハァ……ありがとうございます」

 大仕事を終えたかのように言う俺に、

「シッ! 静かにしろ」とサンチョが制す。

見回り兵士の足音が近づいてくる。

俺は葉陰からソッと下を覗き込んだ。ランタンを手に提げた兵士は、ちょうど木の下で立ち止まり、周囲を見回している。けど、何も異常を察知することなく、先へと歩いて行った。

「ふぅ……」

 サンチョは溜め息を吐くと、

「こんなところで冷や汗かいてるようじゃ、先が思いやられる」と俺を咎めるような目で見つめてきた。

「す、すいません」

 頭を垂れる俺に、

「マジでついて来る気なの?」

 荻窪は不快そうな表情を隠そうともしない。俺はますます頭を垂れる。こんなところ、部長に見られたら何て言われるかわかりゃしないよ、まったく。

「まあ、いい」

 サンチョはそう言うと、枝と枝の間に挟んで置いてある袋の中から、小さな滑車を三つ取り出して、その内のふたつを俺と荻窪に手渡した。

「ん、これは?」

 荻窪が手の中で滑車を弄びながら訊く。

「滑車だよ。見てな」

 サンチョはその滑車をロープに取りつけて、

「これで、向こう岸まで一気に移動するんだ。見てな、手本を見せるから」

 滑車のハンドルになった部分を両手で掴み、枝の上で中腰になると、周囲に誰も来ていないことを確認してから、

「行くぞ」

 滑車に全体重を預けてロープを伝い、城の外壁の方まで一気に移動。壁の上にまたがると、俺たちに手招きをしてみせた。

「面白そうだな」

 荻窪は子どものような笑みを浮かべ、

「おまえみたいな鈍くさいの、途中で川に落ちるのがお決まりだろ」

俺を不安にさせるような言葉を残して滑車のハンドルを掴み、サンチョの待つ方へ一気に移動して行った。

そして壁に辿り着くと、サンチョの隣りに腰かけて、勝ち誇ったような顔で俺の方を振り向いた。

 早くしろと声には出さないものの、口を動かしてサンチョは俺に手招きする。

俺は両手の掌に唾を吐きかけて、滑車のハンドルを握った。その先にあるロープを見つめる。そして、その下を流れる川を見たところで足が竦んでしまう。マジで落ちるんじゃない? ひぇぇ……。

たとえ川へ落ちても死んだりはしないだろうけど、十メートル近い高さがある。恐怖心で顔が強張り、俺は目を瞑った。

「おい、何してんだ、早くしろ」

 堪りかねたサンチョが、周囲を気にしながら声をかけてきた。

目を瞑ったままの俺の脳裏に、架純先輩の姿が浮かんだ。愛しのプリンセス・カスミ。彼女を荻窪の手に渡すわけにはいかない。

俺は瞼を開け、まだ勝ち誇ったような顔を浮かべている荻窪を睨みつけた。

「架純先輩を、おまえには絶対に渡さない」

 そう呟くと、滑車のハンドルを握る手に力を込め、

「いやっ!」と気合の入った声を上げて、木の枝を思い切りよく蹴った。

滑車が悲鳴のような音を上げてロープを伝う。ロープは想像以上に大きくたわんだ。

川の中腹の上まできたところで、俺は一瞬、ロープが切れて、このまま川の中に落下してしまうのではないかという恐怖心を抱いた。けど、ロープは何とか持ちこたえて、俺は外壁まで辿り着くことができた。

「よし、よくやった」

サンチョに迎えられて、俺は達成感と安堵感から笑顔になり、

「落ちなかった」と勝ち誇ったような口調で荻窪に言った。

「ちぇっ。もうちょっとだったのにな」

 荻窪は心底残念そうに言うと、

「降りようぜ」とサンチョの指示も待たず、ロープを伝って壁から降りてしまった。

「おい、俺が先頭だ」

 サンチョも降りる。

 俺は地面を見下ろした。三メートル近くある。

「早くしろ」

 下からサンチョに声をかけられ、俺は頷くと、ズルズルと壁に腹をこすりながら地面までずり落ちていった。

「不細工な降り方だな」

 サンチョは笑い、

「見張りに見つかっちまう前に行くぞ」と俺の腕を掴んで、城の中へ入って行く。

「架純がいる部屋は?」

 中で待っていた荻窪がサンチョに囁く。

「こっちだ」

サンチョは、ランプが微かに灯る薄暗い廊下を忍び足で突き進んで行く。

俺と荻窪も、足音を立てないように注意しながら、そのあとを追った。

 寝静まった城内を、見張りに出くわさないように注意しながら移動する。

「ここの最上階にある部屋が、プリンセス・カスミの寝室になっている筈だ」

 塔棟の螺旋階段の前に辿り着くと、サンチョは俺たちの方を振り返って言った。

「よし」

 荻窪が早速、その石階段を駆け上がって行こうとすると、

「待て」

 サンチョに腕を掴まれた。

「何だよ?」

「俺はこれから別行動をとる」

 サンチョはそう言うと、タイツの中から紙を取り出して広げ、

「これは城内の見取り図だ。今いる場所がここ」と指で示し、「用事が済んだら、この部屋に来てくれ」

 星印のついた部屋を指さしながら顔を上げて、俺と荻窪の顔を見つめた。

「その部屋に何があるんだ?」

 荻窪は怪訝そうな表情を浮かべる。このときばかりは、俺も荻窪と同じ気持ちになった。このひと絶対、よからぬことを企んでる。

 サンチョはニッと口角を上げ、

「お宝だよ。ザックザクある。運び出せるだけ運び出すつもりだ。そのために、あんたらをここまで連れて来てやったんだ。ちゃんと協力してくれよな」と俺の腕を叩いた。ほらね、嫌な予感的中。

「その麻袋は、そのためだったってわけか」

 荻窪は、俺の腹に巻かれた麻袋を見つめ、

「わかったよ。あとで待ち合わせだ」

 そう言って、俺を出し抜くようにして階段を駆け上がって行った。

「お、恋のライバルに遅れをとったぞ」

 サンチョは茶化すように俺の背中を叩き、

「じゃあな」と目的の部屋の方へ駆け去って行く。

あとに取り残された俺も、荻窪に遅れをとるまいと石階段を駆け上がった。

階段は果てしなく続いていた。俺は早々に息を切らし、足の筋肉がつりそうになった。頭上から聞こえてくる荻窪の足音が、次第に遥か遠くになっていく。

ふと、窓の外に目を向けた。そこから街の風景が見渡せた。そして気づいた。この塔は、城の中で一番高い尖塔なのだと。つまり、最上階までは百メートル近くはある。

俺は、昼間に見た塔の高さを思い出して、絶望的な気持ちになった。だけど、すべては架純先輩のためだ。プリンセス・カスミの。

そう思うと力が湧いてくるのを感じ、階段を駆けるスピードを上げた。すると、

「架純、開けてくれ!」

 頭上から荻窪の声が聞こえてきた。そう遠くない。

「架純、俺だよ。悪かった。謝る。だから開けてくれ。ちゃんと話をさせてくれ!」

どうやら荻窪は、架純先輩に門前払いをくらっているらしい。ザマァみろ、そりゃそうだ。

これ以上、荻窪に架純先輩を苦しませてなるものかと、俺は最後の力を振り絞るようにして、最上階へ駆け上がった。

「途中でへばったのかと思ってたぜ」

 荻窪は、俺を嘲笑うように言うと、

「おい、架純、聞いてるのかよ」とドアをノックした。

「会う気はないです。帰って下さい」

 架純先輩の冷淡な声が聞こえてくる。

「クソ! おい、ふざけんなよ! わざわざ、こんなところまで謝りに来てやったっていうのに、そりゃないだろ」

 荻窪は逆切れして罵ると、激しくドアをノックし始めた。やばいこいつ、DV男なのかもしれない。

「やめて! 帰って!」

 部屋の中から架純先輩の泣き声が聞こえてくる。

「や、やめろ」

 俺は荻窪の腕を掴み、勇気をだして言った。

「何だよ、放せよ、邪魔すんじゃねえよ!」

 興奮した荻窪は、今にも殴りかかってきそうだ。

「……誰?」

架純先輩の声。

「あ、その、喜嶋です。喜嶋勇太です」

「喜嶋君……が何で?」

 よかった。一応、俺のことは認識してくれてたみたいだ。

「みんな、待ってるんです。劇団のみんな、清宮先輩のこと待ってるんです。だから、現実の世界に戻って来て下さい」

「無理」

 架純先輩はまた泣き声になり、

「みんなには悪いけど、わたしは当分、帰るつもりはない。冬子にもそう伝えておいて」

 架純先輩の意志は強く、説得できる余地はないように思え、俺は言葉を失った。その隙を見て、

「放せよ」

 荻窪は俺の手を振り払い、

「話だけでもさせてくれよ、な?」

 ドアに顔を近づけて、急に猫撫で声になって囁いた。

「清宮先輩」

 負けじと俺も呼びかけたけど、

「うるせえ!」

 荻窪に体当たりされてしまう。その力が意外に強く、俺は揺らめいて尻もちをついた。一瞬、怒りで睨み返すものの、

「何だよ、モブキャラのくせに。やんのか?」と荻窪に凄まれ、気の弱い俺は何も言い返せなくなってしまう。

ってか、この場面でモブキャラいじりする? 荻窪健斗にそれを言われたら、たいがいのひとはぐうの音も出なくなるよ。

「架純、出て来てくれよ」

 もう一度、荻窪が猫撫で声を出すと、

「帰って!」

 架純先輩は、最終宣告といった口調で言い、

「喜嶋君も。わざわざここまで来てくれた気持ちはうれしいけど、帰って」

 ドアの前から足音が遠ざかって行く。架純先輩は、部屋の奥へと下がってしまったようだ。

「おい、そりゃないぜ! わざわざ、仕事キャンセルして来てやったんだ! 開けろよな!」

 荻窪は、ドアを激しく叩きながらわめき立てた。その音と声が塔内に響き渡り、

「誰だ!」

 塔の下から鋭い叫び声が聞こえてきた。荻窪と俺は顔を見合わせた。いくつもの足音が階段を駆け上がって来る。

「やばい」

 荻窪は慌てふためき、すぐ傍にある窓の方へ駆け寄った。俺もそれに倣い、窓の外を見たけど、そこは百メートルの高さ。眩暈を覚え、窓枠に寄りかかった。

「ジャマだ」

 俺を押し退けるようにして、荻窪は窓の外へ身を乗り出す。

「あ、危ないですよ」

 俺は止めようとするが、

「俺の辞書に『危ない』という文字はない。それに、たとえ落ちたとしても、ここは夢の中だ。死にはしない。どけ!」

荻窪は鼻息荒く言うと、窓の外に出た。

俺にはそんな勇気なんてない。二の足を踏んでいると、階下からの足音はあっという間に近くまで迫って来た。

窓の外を見ると、荻窪は器用に壁の出っ張りを利用して降りていた。

 兵士に捕まるか、あるいは荻窪と同じようにして逃げるか。俺は選択を迫られ、決心がつかず、その場をうろうろと歩き回る。

「どうしよう……」

 全身から脂汗が吹き出す。

「何者だ!」 

 すぐ階下から声が聞こえてきた。ここまで辿り着くのに、あと数十秒もかからないだろう。俺は怯え、窓枠に手をかけて外を覗いた。けど、その高さに肝を冷やす。

「ダメだ……」

 遂にはその場にしゃがみ込み、もうどうにでもなれ、という投げやりな気持ちになった。

 その時だった。

 突然、部屋のドアがわずかに開いて、その隙間から架純先輩が顔を覗かせた。

「喜嶋君、ひとり?」

 小さな声で訊ねてくる。

「は、はい」

 俺は架純先輩の顔をジッと見つめて頷いた。架純先輩は階段の方をチラッと見てから、

「入って」とドアを大きく開けてくれた。

「あ、ありがとうございます」

 俺は慌てて立ち上がり、部屋へと入った。

「ありがとうございます」

 架純先輩がドアを閉めたところで、俺は改めて頭を下げるも、

「シッ!」

架純先輩は自分の唇にひと差し指を重ねて、ドアの外へ耳を澄ませた。

俺は、ピンク色のドレスを着た架純先輩の姿を、とても綺麗だと思いながら黙って見つめた。

 階段を駆け上がって来た兵士達の足音がドアの前で止まり、

「プリンセス、大丈夫ですか?」

 架純先輩は、俺にうしろへ下がっているよう手で示して、ひとつ咳払いをすると、

「何かあったんですか?」

 ドアをわずかに開けて、廊下へ顔を覗かせた。

「今、男が騒ぐ声が聞こえてきたのですが……」

兵士の声から、急激に緊迫感が消えた。それを聞いて、もう大丈夫だ、と俺は胸を撫で下ろし、部屋の中を見回した。

石造りの部屋。キングサイズのベッドには天蓋がつき、衣装棚やテーブル、ドレッサー等のインテリアはすべて、ロココ調デザインで統一されている。

窓の外には大きな満月。そういえば、満月の光は女性を狂わす、と誰かから聞いたことがあるな、とぼんやり考えていると、

「失礼しました」

 その兵士の声で、俺は架純先輩の方へ顔を戻した。

「ご苦労様」

 架純先輩はそう言うと、ドアを閉めてその場にジッと佇み、兵士達の足音が階段を降りて行くのを確認してから、

「ふう……」

 俺の方を向いて軽く溜め息を吐いた。月の光を浴びたその姿はとても美しく、俺は目を奪われてしまう。

「冬子に頼まれて来たの?」

 架純先輩はドレッサーの椅子に腰かけ、右手をこめかみに当てて、思い悩むようなポーズを取りながら訊いてきた。

「そうです」

 俺は頷き、

「清宮先輩がいないと、演劇部が廃部になるって」

「わたしは幽霊部員なのに? この世界で、しばらくのんびり過ごしたいの。学校も仕事のことも全部忘れて」

 架純先輩は、ドレッサーの鏡に映る自分の顔を見つめ、

「わたしには、女優になる特別な才能も運も何もない」

「そんなことないですよ。架純先輩……」

 勢いで名前を呼んでしまい、俺は少し狼狽するものの、

「架純先輩は僕たちの誇りです」と思い切って言った。

「やめて。喜嶋君に、わたしの悩みなんてわかるわけない」

 架純先輩は、ドレッサーの台の上に突っ伏して泣いてしまう。

「架純先輩……」

何て声をかければいいのかわからず、俺は歯噛みしながらその場を歩き回る。

そうだよな、モブキャラの群れの中にも入れない俺に、生まれ落ちた瞬間から主演街道をひた走ってきた架純先輩の悩みなんて、わかるわけがない。

『どう考えても、おまえと架純とじゃ釣り合わないけど、成就するだけが恋じゃない』

部長の言葉が脳裏に蘇って、胸が苦しくなった。所詮、叶わぬ恋なんだ。

「……やっぱり、戻る気はありませんか?」

 一応、もう一度だけ訊いてみた。

「うん」

「そうですか」

 俺は肩を落としたけど、

「仕方ないですね」と笑顔を見せ、「部長に、そう伝えておきます。こっぴどく叱られると思いますけど」

「ごめんね」

「いえ。ゆっくりして下さい。それじゃあ」

架純先輩に背を向けて、俺はドアの方へ歩いて行く。

ドアノブに手をかけたところで、架純先輩の方を振り返った。架純先輩は、俺の存在などもう忘れてしまったように、窓の外の満月を眺めている。

俺は溜め息を吐きながら、ドアを開けようとした。

その瞬間、ドン! と地響きの音がしたかと思うと、塔全体が大きく揺れ始めた。石壁が軋む音。天井から砂がパラパラと落ちてくる。

「きゃあ!」

 架純先輩は悲鳴を上げて、ドレッサーの下に隠れる。俺も急いでベッドの下に潜り込んだ。

 揺れは収まらず、激しさを増していくように思えた。

「緊急警報! 緊急警報!」

 突然空から、聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。青木の声だ。

「コンピューターに、謎のウイルスが侵入。コンピューターに、謎のウイルスが侵入。ただちに安全な場所へ避難して下さい――」

青木の声に被さるようにして、外からたくさんの悲鳴が上がった。と同時に、窓の外が急に明るくなる。

窓の方へ目を遣った俺は、恐ろしいものを目にしてしまう。

「ド、ドラゴン!?」

 巨大なドラゴンが夜空を悠然と羽ばたき、真っ赤に燃え盛る炎を街中に吐き散らしている姿が見えた。

「きゃあ!」

 架純先輩もそれに気づき、悲鳴を上げる。その声が聞こえたのか、ドラゴンの顔がこちらに向いて、塔の方へ進行方向を変えた。

俺は恐怖で目を剥き、全身が震えた。

ドラゴンの体長は三十メートル近くはあるように見える。その長い尾を勘定に入れれば、全長は四十メートルを優に超すかもしれない。

その大きな体を空中で支えている大きな翼。端から端までの長さが、六十メートル近くはありそうだ。まるで、ジャンボ・ジェット機並みの大きさ。

筋肉で盛り上がった体は、銀色に近い色の皮膚に覆われて、月の光を浴びてキラキラと輝き、手と足の先には鋭い爪が伸びている。

体の割に顔は小さいけど、獰猛そうな眼がやたらと鋭い光を放ち、太くて長い牙は乱杭して口の外に突き出していて迫力満点だ。

ドラゴンが翼をはためかせた風圧で、塔の石壁と天井が崩れ始めた。

塔自体が崩れ落ちてしまうのも時間の問題に思えて、俺は夢の世界の中でありながら死を覚悟した。

「撃て! 撃て!」と、遠くから叫ぶ声が聞こえてきたかと思うと、地上からおびただしい数の矢が、ドラゴンに向かって放たれた。  

それを目にした俺は、

「よし!」と思わずガッツポーズをとった。

けど、ドラゴンの皮膚は鋼鉄のように固くて、矢じりは刺さるどころか呆気なく弾き返されてしまった。

「そんな……」

 俺は再び絶望の淵へと落とされてしまう。

 バン! バン! バン!

 爆発音が連続して三度鳴り、ドラゴンの体が一瞬、炎と煙に包まれた。地上から放たれた大砲の弾が見事に命中した。

「よし!」

 今度こそは、と俺はよろこび、ガッツポーズをとった。けど、

「こっちに来るわ!」

架純先輩が悲鳴を上げた。

ドラゴンはまったくの無傷で、悠然と飛び続けている。

そして、地上に一瞥をくれたかと思うと、大きく息を吸い込んでから真っ赤な炎を吐き散らした。

「うわあ!」という地上からの叫び声が夜空に響き渡る。

ドラゴンの吐いた炎の熱気が俺の頬にまで伝わってきた。恐怖で身震いした。

部屋の壁、天井はすっかり破壊されてしまい、俺と架純先輩の姿はドラゴンの視界に完全にさらされてしまっている。

「グゥオーーー!!」

 ドラゴンの叫び声が響き渡る。鼓膜が張り裂けそうになり、俺は慌てて耳を塞ぎながら、

「架純先輩!」

 鏡の割れたドレッサーの下に隠れている架純先輩に声をかけた。

「逃げましょう!」

 ドラゴンの翼の風圧に吹き飛ばされそうになりながらも、俺は何とか架純先輩に近づこうとした。けど、

「グゥオーーー!!」

ドラゴンはさっきよりも大音量で叫んで、俺と架純先輩を隔てるように炎を吐いた。その攻撃に俺は立ち止まってしまう。目の前が炎に包まれ、架純先輩に近づきたくとも近づけない。

「喜嶋君!」

 架純先輩が叫ぶ。その声に反応して、ドラゴンは架純先輩の方をジロリと睨むと、そちらへ足を伸ばした。鋭い爪で架純先輩の体が引き裂かれる姿を想像して、

「架純先輩!」

 俺は必死に叫んだ。

「きゃあ!!」

 架純先輩は頭を抱えてうずくまった。すると、ドラゴンは足で架純の体を優しく包みこんで、そのままゆっくり持ち上げ、

「グゥオーーー!!」とひと声叫んで空へ飛び立ち、その風圧で塔が激しく揺れた。

「わ、わ、わあ~~~!!」

 俺は悲鳴を上げた。塔は遂に耐え切れなくなって崩れ落ちていく。地上へ落下して行く引力を感じながら、俺は途中で気を失ってしまった。


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