『13』
「只今電話に出る事ができません。御用のある方はメッセージをどうぞ」
最後にピーっという昔から変わらない機械音が耳元で鳴り、神谷は何もメッセージを残さず画面に表示された通話終了のアイコンをタップした。本日二度久本に電話をしたが、二回とも久本が電話に出る事は無かった。電話に出ない事がほとんどない久本が折り返してくる事なく二度も電話に出ないのはおかしい。めずらしく神谷は動揺していた。
電話に出ない理由はなんだ?恐らくこれは手が離せないからではない。二度目の連絡は一回目から一約時間空けてから掛けている。もし手が離せなくて電話に出れなかったとしたら一時間も空いていれば必ず折り返しの連絡があるはずだ。神谷は自身のスマホ画面を見ながら視線を画面左上の時計に移した。時刻はもうすぐ21時になろうとしている。ますます不安が募る。
(こいつに限ってどうしたんだ?まだ寝てる……はずもないしな。もしかして拉致られたのか?)
神谷は武器を一式身にまとい、ホテルの自室から出る準備をした。もし久本が捕まったのなら俺を誘い出す為の人質になるだろう。もちろんこれはあくまでもあいつを腕っぷしでねじ伏せられたらの話だが。そんな事ができるのは俺が知る限りでは中野ぐらいか…それならなおさら久本は俺を誘い出す人質として使われるだろう。
(頼むから死ぬなよ…!)
神谷は久本の行方の手掛かりを何一つ持ち合わせていなかったが、とりあえずホテルを出た。そした目の前のタクシー乗り場へと向かい先頭に待機していたタクシーへと乗り込んだ。
「どちらまで?」
「とりあえず木屋町まで頼む」
「承知いたしました」
タクシーが走り初めて数分後、神谷のスマホが鳴った。どうやら誰かから着信があった様だ。神谷は恐る恐る祈る気持ちでスマホを取り出し、画面を確認した。すると神谷の祈りが通じたのか画面には「久本」の二文字が表示されたいた。神谷はそれを見て心底安堵した。そして運転手に一度車を止める様後ろから指示をして電話に出た。
「もしもし?おい、電話ぐらい掛け直せよ。てっきり拉致られたと思ったじゃねぇーか」
「…………」
「……おい、久本?聞こえてるか?」
「あんたが神谷だな」
この聞き覚えのない声を聞いて神谷の心臓は凍りついた。
「誰だ?」
「平岡…って名乗れば通じるかな?」
「姫村組の者か。なぜお前が久本のスマホを持っている?俺はお前に用はない。とっとと久本に代われ」
神谷は平静を保ったまま話をしたが、胸の鼓動は電話越しの平岡に聞こえそうなぐらいけたたましく鳴っていた。
「あーそれなんだけどさ、久本っちは死んじゃったよ…ん?死んじゃったという表現は違うか…俺が殺しちゃった」
平岡からは神谷の一番聞きたくない返答が帰って来た。しかし相変わらず平静を装ったまま神谷は言った。
「バカ言うな。あいつはまだまだ未熟だが、格闘スキルは高い。そこらの格闘家レベルなら一瞬で病院送りだ。しかもお前らみたいなヤクザごときにそんな簡単にはやられねぇよ。俺を脅すならもっとマシな事を言え」
「…………」
「おい、何とか言ったらどうだ?それに俺に話があるなら早く用件を言え」
「ふふっ…ははははっ!」
平岡は堪えきれず、声を出して笑った。
「神谷さん、あんたもヒットマンなら分かるはずだ。戦闘だけが人を殺す術じゃない。たしかに久本っちの腕っぷしは強いという情報は入っていた。なのに俺がわざわざ相手の得意分野でぶつかり合うと思うか?あんたなら分かるはずだ。まだ駆け出しの久本っちには何が足らなかったと思う?」
神谷には平岡の言うそれがすぐに分かった。前々から懸念していた事だからこそ答えたくは無かったし認めたくもなかった。
「あいつに足りないもの…それは場数だ。だがそれだけであいつをお前らごときのヤクザが殺せるとは思わないがな」
「ふふふ。あんたは弟子思いなんだな。でもまあそりゃそーか。手塩にかけて育てた弟子だからこそ、そう簡単にはやられないと思いたいわな。それが普通だ。でもな?現実は実にあっさりと幕を降ろしたよ。色々と準備しただけに実に不愉快だったよ」
神谷が何気なく後部座席からルームミラーに目をやると、運転手は前を向いたまま、不安そうな顔をしているのが分かった。それを見た神谷は後ろから運転手に一万円札を差し出し、手だけのジェスチャーでここで降りると合図した。運転手もそれに同意してお釣を渡そうと釣り銭ポーチを取り出したが、神谷は手を横に振り、釣りはいいからさっさと行けと促した。
運転手は今にも泣き出しそうな弱々しい顔で深々と頭を下げ、神谷が下車するのを確認したらすぐさま車を出した。
「じゃあ聞くが、お前は久本をどうやって殺した?」
「毒さ」
「毒?」
ここで神谷は以前久本が言っていた事を思い出した。
「風神と呼ばれるのが平岡という野郎です。こいつは刺殺から毒殺まで何でも器用にこなす危ないサイコ野郎みたいです」
「それなら四条大宮の方は俺がやりますよ。丁度協力してくれそうな奴もいますし」
「そいつですか?そいつは湊っていいます。歳も俺と同年代ですし腕っぷしもかなりのもんです。また機会があれば声掛けてあげてくださいね」
信じたくはないが、勘の良い神谷にはピンときた。
「お前…名前は湊か……?」
「なーんだ、そっちでも俺の事は調べあげてたのか」
「どういう事だ?久本と親しい関係じゃなかったのか?」
「さっきから質問が多いな…それは俺が隙をついて付け入ったからだよ。もちろんあいつは最後まで疑いもしなかったよ。これも目的を達成する為の手段だし悪く思わないでくれよ。いきなり背後から一突きで終わらせたも良かったけど、どうせならあんたの情報も聞き出そうと時間を掛けたまでだ。ま、あいつは最後まであんたの情報は隠し通したけど」
神谷は湊が話し終わってから、自身の顔に熱を帯び始めたのを感じた。もちろんその熱源は怒りだ。
「あれ?もしかして怒ってる?こっちの世界では死神と呼ばれてる割にらしくねぇな」
この瞬間、神谷の中にある感情の線が一つ切れた。そして電話越しからでも感じ取れるほど、低く重い怒りの入った声を絞り出して言った。
「おい…若造が大概にせぇよコラ」
平岡は神谷の怒りの矛先が完全に自分に向いている事が分かってはいたが、話を止めなかった。
「今さら怒って何になる?あんただけが被害者だと思うなよ。自分が今まで何人殺したと思ってる?それに今回はあんたが久本に毒に関して何も教えてなかったのがそもそもの失敗なんだよ。まぁあんたも所詮は国内だけが狩り場の殺し屋って事だ。海外経験が無いから毒殺までは頭に無かったってとこだろう」
「お前は必ず俺がこの手で殺す。これは冗談じゃない。絶対殺してやる」
「そっ……」
神谷は言い終わるとすぐに通話ボタンをタップし、電話を切った。平岡は何かを言おうとしていたがそんなの構いやしない。そして神谷には後悔の念が押し寄せた。平岡の言ってた通りこれは俺のせいだ。俺に毒殺の知識があれば久本は死ななかったかもしれない。少なくとも見ず知らずの奴に進められたモノを口にしなかったはずだ。それに自分で決めたとはいえ久本がこの道に進むきっかけになったのは俺のせいだ。自分の力や技術を過信して相手を少し舐めていたのかもしれない。俺がもっと警戒していれば……
神谷は顔を上げ、夜空を見た。そこには星一つ無い漆黒の曇天だった。
(まるで俺みたいだな…)
神谷が漆黒の曇天なら久本は星だった。久本はヒットマンになるのも正義の為だと頑なに言っていた。自分の手で悪を滅ぼすと…たとえ悪が法で裁かれようが、残された遺族は納得がいかないと。目には目を歯には歯を。自分がその遺族の為に体を張る、報酬は二の次だと。復讐は世の理屈には反しているが、それでも制裁は必ず必要だと言っていた。その辺の価値観が神谷とは違っていた。神谷は良くも悪くも報酬の為だとヒットマンを仕事として割り切っていた。報酬の対価としてリスクを負う。だから依頼人にターゲットとの関係などは一切聞かなかったし興味が無かった。打ち合わせも報酬の話から入って依頼を引き受けていた。だから人間らしい感情は仕事をこなす度、徐々に薄れていった。今ではターゲットを動く肉の塊としか見えない。それをいかに早く動けなくするかというゲーム感覚になっていた。
神谷は曇天の夜空を見上げたまま久本が同行した仕事の事や訓練の事、何気ない会話の事などを思い出した。今にも曇の隙間から「神谷さん!」と久本が顔を出しそうだった。久本もヒットマンとして俺の弟子入りを決意した時点で覚悟はしていたはずだ。
神谷はいつも通り感情を殺し、久本が殺された現実を仕事上のトラブルだと割り切ろうとしていた。だが、次第に視界に入っている曇天がぼやけはじめて真っ黒のモザイクの様になった。そして瞬きをすると、数滴の水滴が頬を伝った。あれ?っと神谷は頬を触る。しかし、それは雨などではなく紛れもない
神谷の涙だった。涙で濡れた指を見つめ、神谷はようやく久本がもう二度と自分の前に現れない事を実感した。神谷が涙を流したのは、まだ神谷がヒットマンとして駆け出しの頃、突然妻の美加から離婚を突き付けられた以来だった。神谷は離婚してから美加の事を忘れようとほとんど考えないようにしていたし、気持ち的にもそれで大丈夫だった。なぜなら当時そこには中野を初め、常に仕事仲間がいた。決して独りじゃなかった。それに中野と離れてからは久本が隣にいた。それがいきなり失われてしまった。
神谷は次から次へと流れ落ちる涙を拭おうとはせず、出しきるつもりで静かに涙を流し続けた。
「くそがっ!!」
神谷は握りしめたままのスマホを地面に叩き付けた。激昂したら平岡の思うツボだ。やつはその為にわざわざ俺に久本の死を知らせたのだ。そんな事は分かっている。しかし失ったものはそれ以上に重かった。
「オルァアッ!」
神谷は感情的になって近くのゴミ箱を蹴り倒した。すると丁度その横をスーツを着た一人のサラリーマンが逃げる様に通りすぎた。そのサラリーマンはどうやら神谷を酔っぱらいと思ったらしく、一度も振り返る事なく真っ直ぐ進んでいった。
それを見た神谷はようやく少し冷静さを取り戻し、怒りを静めようと深呼吸をした。
(だめだ落ち着け…こんな事で通報なんかされてみろ、今なら銃刀法違反でもれなく連行されちまう)
そして神谷は再度自身の身に付けている武器を確認した。だが神谷が身に付けている武器は、自身の怒りの度合いに比べれば実にシンプルで、ナイフ二本と過去に久本から譲り受けた愛銃コルト・パイソンが一丁のいつもの一軍装備だけだった。神谷にとってこれは仕事をするには十分な装備であったが、心なしか何か物足りなさを感じた。この程度の武器で平岡を殺したとしても自分の気が晴れるとは考えがたい。が、ここは日本で今はアウェイの京都にいる。とてもこれ以上の武器を仕入れる事は現実的に無理そうだ。
するとその時、神谷は背後から気配を感じた。自転車の様なスピード感のある気配であった為、振り向く事はせず体を少し横へ移動させ道をあけた。でも気配はそのまま神谷の背中へ当たり、肩甲骨に衝撃と痛みを同時に受けた。それなりの衝撃だったからか、神谷は前へ大きく倒れ込み即座に受け身をとって立ち上がった。顔を上げると、そこにはスーツを着た若者二人が立っていた。スーツを着ているというよりはスーツに着られていると表現した方が良さそうなぐらい眼前の二人にはまだあどけなかさが残っていた。
「おいコラ、クソガキども。相手間違ってないか?いきなり何してくれんだ」
すると若者の一人が言った。
「お前が神谷やな?悪いけどここで死んでもらうで」
「はぁ?」
そこで神谷は気付いた。話をしていたのと逆の方はさっき自分の横を通り過ぎた野郎だと。どうやら神谷だと確認する為に一度通り過ぎて顔を確認されてた様だ。それに若者の後方には車種までは分からないが、軽自動車が止まっているのが確認できた。
(あれに乗って来たのか)
神谷はこの二人を逃がさない為に、構えを取りつつ、ゆっくりと横へ体を移動させ自分の背中にこいつらが乗って来たであろう車が来る様にポジション取りを行った。突然神谷が構えを取り始めた事に若者達は少々驚いた様子で急いで自分達も構えを取り、動く神谷に合わせて二人もゆっくりと神谷の対角線上に移動を始めた。どうやら二人ともまだ神谷の意図には気付いてない。
「ボケこらぁ!」
先ほど話をしていた方が緊迫した空気にしびれを切らして神谷に殴り掛かった。大振りの右ストレート、どうやら素人だ。神谷は右ストレートを簡単にかわし、若者の襟元を掴んで体落としをきめた。若者は肩からもろにコンクリートの地面に叩き落とされ「あぁっ!」と声を上げた。そして神谷は仰向けに悶絶する若者の喉仏を思い切り踏みつけた。踏みつけたられた若者は顔を真っ赤にし、喉を押さえながら打ち上げられた魚の様にバタバタと身を捻らせ、必死に気道を確保しようともがいた。
「次はお前だ」
神谷は立ち尽くしたままのもう一人に目をやった。
「あ、あっ……!ああああ!!」
残されたそいつは奇声を上げながら足元に置いていた鞄から何かを取り出した。右手に掴んだそれは刃渡り30センチほどの出刃包丁だった。しかし神谷は一切動じる事なく男に向かって一言「来いよ」と
手招きをした。
「死ねやぁぁ!」
男はかすれた声で叫びながら神谷目掛けて突っ込んだ。神谷は自身の腹に包丁がぶつかるギリギリのタイミングで左手を出し、相手の包丁を持つ手を横に払った。勢い付いた包丁の軌道は弾かれた事によって神谷の右脇腹へと逸れ、案の定神谷に腕をがっちりとホールドされた。
「離せやわれぇ!!」
男はホールドされた右腕を必死に引き抜こうと踏ん張ったが、鍛え抜かれた神谷の腕力には到底敵わなかった。そして神谷は相手の右腕を自身の右脇腹にホールドしたまま、空いている左手の拳を男の右耳目掛けて力一杯打ち込んだ。「バチィィン!」と渇いた音が辺りに響き、殴られた男の右耳はぱっくりと裂けた。だが神谷は一切止めようとはせず繰り返し何発も右耳に拳を叩き込んだ。裂けた耳が血で真っ赤に染まっていたが神谷は一向に手を止めなかった。そして何発か拳を振るった時にたまたま耳ではなく、こめかみにヒットした。男はそれまで頭を振りながら血だらけになりながらも必死に抵抗したが、そのこめかみへの一撃で意識が飛んだ。一気に全身の力がガクンと抜け男は地面に前のめりに倒れた。神谷はすかさず倒れた男の鼻目掛けて靴のつま先で蹴りを入れた。蹴られた男は鼻から血しぶき放ったが、意識が朦朧としており、ピクピクと痙攣したまま、ほとんどリアクションは無かった。
神谷は「ふーっ……!」と腹から息を吐き出し、呼吸を整えた。そして何気なくふと辺りを見回した。すると先ほど確認した軽自動車がかなりのスピードで自分に近付いてくるのが確認できた。それは神谷の想定を大きく外れた出来事だった。足元に倒れた二人に目をやり、神谷の頭には疑問符が次々と訪れる。
(あの車はこいつらが乗って来たものじゃないのか?)
(誰が運転してる?)
(なぜ俺に向かってくる?)
しかし神谷の疑問が解決する間も無く、向かって来た軽自動車は勢いを抑える事なく神谷に衝突した。神谷はとっさに身をひねりかわそうと体をずらしたので、かろうじてまともに衝突するのは避けられた。だが右足がフロントバンパーと接触し、鈍痛が走った。神谷はすぐに右足を可能な限り動かして動作に問題無い事を確認したが、確実に打撲はしている。ただ、骨や靭帯に異常は無さそうだった。軽自動車はすぐに停車し、神谷をはね飛ばす事に失敗した苛立ちを表すかの様に数回空吹かしをした。そして運転席から一人の男が出た。それに神谷は運転席の男に見覚えがあった。よく見ると後部座席にもう一人座っている様に見えたが、そちらはまだ降りてくる気配はない。
「お前はたしか…」
男の正体は飯田だった。飯田は神谷に警戒しながらゆっくり近づいた。
「覚えてたか。植木の兄貴の時は世話になったな。今夜は俺がお前を葬ったるわ。とりあえず場所移すから乗れや」
そう言うと飯田は軽自動車の方へと歩き出した。
「何というか…お前は俺がそんな誘いにまんまと乗ると思うのか?」
飯田は足を止め、神谷に背を向けたまま言った。
「久本の仇はもうええんか?お前がさっき平岡さんと話した事は知ってる。だからついてこい」
「なんだと?」
飯田は神谷の声が聞こえた直後に背後からもの凄い殺気を感じた。それはまるで獣に睨まれた様な圧力のある殺気だった。恐怖の余り、振り返りたいが振り返れない。振り返った途端に殺されてしまいそうな気がした。
「おい……」
飯田は背後から聞こえた神谷の声に身を縮み上がらせた。
「車に…後部座席にもう一人いるな?あいつが平岡か?」
「い、いいから早く車に乗れや!」
その瞬間「ドンッ!ドンッ!」と太く重い銃声がした。飯田は急いで振り返ると神谷が銃を抜いて自分に向けている。そして一気に胸が焼ける様に熱くなってきたのが分かった。飯田の背中は陥没し、大量に血が吹き出した。神谷は飯田に向けて愛銃コルト・パイソンをぶっ放したのであった。
「ごぶっ……!お前コラッ…!何しやがる…」
飯田は背中に弾丸を撃ち込まれて内蔵が潰れ、その場に崩れ落ちた。神谷は目の前で倒れた飯田に目もくれず、止まっている軽自動車の後部座席目掛けてコルト・パイソンを撃ち込んだ。
「ドンッ!ドンッ!ドンッ!ドンッ!」
軽自動車のフロントガラスがバラバラに崩れ落ち、助手席の背もたれには大きな穴が空いた。だが、うめき声一つ聞こえず、まるで手応えがなかった。神谷は弾が切れたコルトをジャケットの中に忍ばせたホルスターにしまい、軽自動車に向かって歩き始めた。そして後数メートルで中様子が伺える距離まで近付いた時、後部座席のドアが勢いよく開いて中から金髪で長髪の男が姿を表した。その男は後頭部で長髪を結んでおり、一見女性に見えなくもない容姿だったが服の上からでもよく分かる骨格の太さや筋肉の付き具合で神谷はその人物は男であると判断した。それにしてもかなり若い。遠目からだと子供に見えてもおかしくない。だが神谷はすぐに分かった。こいつはそんなに可愛いもんじゃない。こいつが平岡で間違いない。背も低く、童顔。体格も要所要所でしっかり筋肉が付いてはいるものの、華奢の部類だ。普通なら警戒しない相手だ。だからこそ久本は油断してしまったのかもしれない。
「あっぶねー…おいおい、あんたおかしいのか?こんな街中でぶっ放つやつがあるか。俺じゃなきゃ確実に死んでたぞ」
やはり神谷が放った銃撃は平岡に当たっていなかった様だ。
「お前が平岡だな。さっき話したばかりだが、早速会えて嬉しいよっ……!!」
神谷はそう言うと平岡目掛けて走り出した。さっきの銃声でいつ警察が来てもおかしくない。この短い時間にこいつを始末する必要がある。こんなチャンスはそうそう無いのだから。
神谷は自身のスピードがピークのなった時地面を蹴り、飛び上がった。そして平岡目掛けて飛び後ろ廻し蹴りを放った。一見モーションが大きく、漫画じみた蹴りではあるが、実践慣れしている奴ほど最初に見せる体の回転に反応してしまう。実践慣れしている者同士では、どうしてもモーションの大きい攻撃は無いと自然に予測してしまう。神谷はその心理を逆手に取った。モーションが大きい分体重も乗り、ダメージも大きい。モーションの大きさと威力は比例するのだ。まともに蹴りが顔面に入れば相手は必ず怯む。神谷にはその一瞬の隙があれば銃が弾切れであっても十分だった。仮にもしガードされても勢いに乗った蹴りを受ければ、相手の体勢は崩れる。そして神谷の蹴りは当たった!と思われた。
だが、平岡は蹴りがミートする寸前で頭を下げ、神谷の蹴りをあっさりとかわした。
(ちっ…!)
神谷は着地と同時に、平岡へローキックを放った。平岡はそれも脚を少し上げ綺麗に受け止めた。けれども神谷はこのローキックをわざと防がせたのだ。格闘家でもない自分のローキックの威力などたかが知れている。右足で蹴りを当てると平岡の意識は一瞬自身の左側面に向く。この右足でのローキックはその隙を作る為のフェイクであった。そしてローキックが防がれてから神谷は左手で腰からナイフを抜き、蹴りを放った方向とは逆の平岡の右側面から切りつけた。しかし平岡は神谷のフェイクを読んでおり、自身の右手首をナイフを握っている神谷の左手首にクロスさせガードした。
「神谷さんは血の気が多いなあ。噂通りだ」
平岡は神谷の手首を捻り上げ、突き放した。すると遠くから「ファン……ファン……ファン」と微かにだがパトカーのサイレンが聞こえてきた。平岡は神谷に「近くに話せる場所がある。ついておいでよ」と言うとゆっくり歩き出した。神谷は警戒していたが、平岡に対する憎悪の方が圧倒的に勝り、罠であろうがこいつをこのまま逃がしはしないと平岡の後を追った。
神谷は五メートルほど間隔を空け、平岡の後をついて歩いた。平岡は一度も後ろを振り返る事なく歩き続け、10分が経過した。すると平岡がふと足を止め、「ここだ」と言った。そこは公園の入口付近に設置されたごく普通の公衆便所だった。
「ここは?」
「見たまんまの普通の公衆便所だよ。だが、今時こんな夜更けに誰が利用する?あんたは使うか?コンビニが近くにあるのに…ここなら邪魔は入らない」
「なるほどな」
神谷は平岡に続いて中に入り、タイルの壁を背に平岡と対峙した。便所の中は外に比べれば明るいがそれでもかなり薄暗く不気味な空気が漂っていた。そして平岡がうすら笑いを浮かべ口を開いた。
「まず何から話そうか」
平岡のふざけた態度に神谷は苛立ちを露にした。
「なぜ久本を殺す必要があった…?お前達の狙いは俺だろう」
平岡は腕を組み、質問の答えを捻りだそうと考えた。
「なぜ殺したか……改めて考えると難しいな。あんたの言うとおり、たしかに殺す必要まではなかった。強いて言うならその方が神谷さんが本気になるかなって思った…からかな?ま、特に理由はないって事で」
神谷は拳を握り、怒りで体が震えた。だがまだこいつには聞かなければならない事が多い。
「そうか…じゃあ質問を変えよう。鬼塚や中野の居場所はどこだ?それになぜお前は姫村組に関わっている?見た感じ歳もまだ若い。いくら残忍で汚れ仕事を請け負うとしても、その若さで組の幹部になるなんて普通はありえないはずだ」
「いいねいいねぇ。神谷さんは俺に興味津々って感じがする。せっかく会えたんだ。全部教えてあげるよ」
満面の笑みで話す平岡に、神谷は気味の悪さを覚えたが、黙って話の続きを待った。
「まず俺の容姿。あんたにはどう見える?」
「容姿?」
「そう、容姿だよ。何か気付かないか?」
平岡は問いかけたが、神谷にはまったく意味が理解できなかった。
「すまんがちょっと理解ができないな。俺にはお前の容姿は一見華奢に見えるが、必要な筋肉がしっかりついていて、顔は日本人離れしたハーフの様な顔立ちだという事ぐらいしか分からん」
平岡は笑みを浮かべながら、うんうんと頷いた。
「そう、あんたが言うとおり俺はハーフだ。あんたが関わった人間で外国人はいなかったか?これは最大のヒントだよ」
「関わった外国人…?そんな奴はっ」
「その外国人は三年前にとあるバーでヒットマンに殺されたけどね」
「なっ…!?」
平岡は神谷が話し終わる前に口を挟んだ。神谷はその殺しに心当たりがあった。
「お前まさかっ…ジン・コリーの身内か!?」
「父親だよ、今は訳あって平岡湊って名乗ってるけどさ。まぁ俺は親父が43の時の子だから親子らしい事はできなかったけどね。それでもジン・コリーは俺にとって世界でたった一人の親父だ。そんな親父をお前は三年前に殺した」
平岡のカミングアウトに神谷は言葉を失った。
「勘の良い神谷さんのことだ、これで大体の辻褄がが合うだろう?」
「ジンがいなければ今の姫村組は無かった。特に鬼塚は恩義に感じているだろう。それでお前はジンの死後、鬼塚から組長側近のポストを難なく受け取った。そしてその立場を利用して父親の仇である俺を殺そうとしつこく追い回しいる…というところか?」
「はははっ、神谷さん!やっぱあんた最高だなっ!まぁそれでほぼ正解だよ。さすがだ」
神谷の推測は当たっていた様だ。神谷は重い口を開いて話を続けた。
「お前は自分の父親が何をしてきたか知っているのか?知っててもなお仇を討とうとしているのか?」
「そうだよ。逆に聞くけど復讐に理屈や正当性は必要なの?親父が外でどんな悪事を働いていたかはどうでもいい。相手に対して憎悪や憎しみがあれば復讐の動機としては十分さ。それに今あんたは久本っちの仇を討とうとしている。そして俺も父親の仇を討とうとしている。いたってシンプルな話じゃないか。それを今更どっちが正義だの悪だの議論するつもりはないよ。どっちが生き、死ぬか…それだけだ」
「はぁ…」神谷はため息を吐いて続けた。
「もう話しても無駄だな。仕事でもないのに未来ある若者を殺すのは胸が痛いよ」
「ははっ、もう俺が殺される体で話が進んじゃってるね。あ、そうそう。会長や中野の居場所を知りたがってたね。もう調査済みだろうけど二人は常にツーマンセルで行動している。でも残念ながら居場所は組員も知らないんだ。だから俺を殺せたら俺のスマホを持って行くといい。電話帳に二人の連絡先があるからさ」
「そうか、分かった。で、最後に言い残す事は?」
平岡は「フフフッ」と笑い、天井に目をやった。
「父さん、俺ちゃんと仇討つからね。父さんでも見た事ない殺し方を見せてあげるよ」
神谷は平岡が独り言を言っている間にスッとナイフを抜き、右手でナイフの刃をつまんだ。そして「じゃあ始めるかっ!」とナイフを平岡目掛けて投げつけた。