下り電車0番線
「ええっと。上り方面が一、二番線で……」
たがか私鉄の駅で迷った。
新幹線もなければ、複数線が乗り入れているターミナル駅でもない。単純に、上り方面と下り方面だけ。
それなのに迷うのは、自分が筋金入りの方向音痴だからだ。
――香織はよく迷子になるね。
姉の言葉が脳裏に蘇る。
「やっぱり、おねーちゃんたちと一緒に帰ればよかったかなあ」
映画好きの姉に連れられて、単館上映の映画を観るためだけに、この街へ来た。
「というか、彼氏さんが来るなんて聞いていなかったぞ」
人の方向音痴の心配はするくせに、変なところで抜けている。
「彼氏さん、良い人だったから……まあいっか」
はじめて来た街を散策したくなった、と言って姉とその彼氏と映画の後で別れた。方向音痴だからと姉にひどく心配されたが、こちらはもう大学二年生だ。子どもじゃない。
小さい映画館がひとつあるだけ。
三方を山に囲まれ、海に面した自然豊かな街を気に入ったのは確かだ。ノスタルジックな古い町並みは、散策にぴったり。
迷わないよう、線路沿いを歩いて一駅。
居酒屋や小洒落たカフェ、八百屋に肉屋、金物店に文房具店。夕方から夜の賑わいは、どこか懐かしい。
それが、日は落ちて。
夜八時。歩いて駅に辿り着いた。
駅舎は闇に沈み、蒸し暑い空気が満ちている。
改札を抜け、頭上を見れば、古い電光掲示板。蜘蛛の巣に蛾が一匹。かさかさと動いていた。
コンクリートの足元は、空気が淀んでいる。熱帯夜。一階の通路には風はない。
首筋にじっとりと汗をかく。ハンドタオルで拭いたが、異様に暑い。階段を上がってホームに出れば、少しはマシになるだろうか。
「ええっと。下り方面は……」
電子音とアナウンスが通路に響く。
『まもなく二番線、上り電車――行きが参ります。危ないですから黄色い線の――』
ゴドドンッ、ゴドドンッ、と頭上で音がした。
「ってことは、下りは三……、四番線かな」
通路の白い壁に張られた時刻表を確認する。下り方面は三番線・四番線としか表記されていない。不親切極まりない。
二番線の階段から二、三人が下りてきた。改札へと歩いて行く。
発車のベルが聞こえた。
「うーん。とりあえず、三番線のホームに行ってみようかなあ」
すぐではなくても、下り電車が来るだろう。
左右を見ながら、通路を奥へと進む。相変わらず蒸し暑い。
ザザザ、とノイズが聞こえた。
『……今度の下り……は、……行き。0番線へ……く、ださい』
雑音が多い。
古い駅だからだろうか。
「それでも、天の助けの声だー」
周囲を見渡せば、正面に通路の続きがあった。
壁の上の方に、でかでかと『0番線』と赤い文字で書いてある。左右ばかり気にしていたから、見落としていた。
他と違って、レンガ敷きの通路。
ひんやりとした風が足元から吹き上がる。
鳥肌が立つ。
「……気のせいだよね」
頭上には電燈が煌々と灯っている。
ただ、足下のレンガが古くて不安に感じただけだ。きっとそうだ。こつん、こつん、と妙に自分の足音が響く。
風が吹く。
汗がひく。
こつん、こつん。足音は、響く。
風が吹いた。
汗はひいた。
ぞくぞくと背筋が凍った。
風が吹いている。
鳥肌が立っている。
こつん、こつん。足は止まらない。
冷風。
レンガの通路。
こつん。こつん。響く足音。
誰も、いない。
「――あの」
「ひゃい!」
突然の男の声。
背後を振り向けば、制服を着た高校生が立っていた。紫色の布で巻いた、長い棒を肩にかつぐように持っている。
「あの……、そっちじゃ、ありませんよ」
彼のどんぐり眼と目が合う。
「上り電車ですか? 下り電車ですか?」
耳当たりのよい低い声。
「ええっと、下り、です」
「じゃあ、次来るのは四番線です。ここではない」
案内しますよ、と高校生が微笑んだ。人好きする笑顔に、肩の力が抜ける。
「すみません、お願いします。迷っちゃって」
「ああ。たまに、そういう人がいますから」
隣りに並んだ彼の言葉に、微かな違和感を覚える。
「この駅、私みたいに方向音痴の人が多いんですか?」
新幹線もなければ、複数線が乗り入れているターミナル駅でもない。単純に、上り方面と下り方面だけ。私鉄一本の駅。
「古い……駅ですからね」
ため息とともに、高校生が呟いた。
レンガ敷きの通路。
二人で歩く。
ふっと、電燈が消えた。
「わああっ!」
色気のない自分の声に驚く。
「え、なになに? 停電?」
0番線の通路だけ真っ暗だ。前方十メートル先、コンクリートの通路には明かりがついている。
「後ろを振り向かないでください」
高校生の真剣な声に、気圧される。
「なん……で?」
「耳を塞いで、目をつぶって」
「え、え? なんで」
「早く」
従う前に風が吼えた。
ガダダンッ、ガダダンッ、と背後から轟音と震動。
レンガの足元が揺れる。
冷風が吹きつける。
むっとした、濃い水の匂い。臭気。
ガダダンッ、ガダダンッ。
ガダダダダ。
ダン。
音が止まった。
しん、とした静寂。
「な、に」
思わず振り返ろうとしたら、肩を掴まれた。
「見ないほうが良い」
闇の中で、ぼんやりと高校生の姿がわかる。
暗闇でも紛れない、強い意志を宿した黒い瞳。
視界の端で、何かが蠢いた。
黒い濁流。
否。
水ではない。
「ひっ!」
轟音とともに押し寄せる数十、数百の影。
ヒトの顔。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ。
折り重なる叫び声。おぞましさに総毛立った。すぐに目を閉じ、両手で耳を塞いだ。
早く去って。
早く消えて。
横をヒトの濁流が通り過ぎる。
濃い水の気配と、肉の腐った臭い。内臓を掻き混ぜる臭気に、吐き気が込み上げる。
ぽん、と肩を叩かれた。
「大丈夫ですか」
耳当たりの良い、低い声。肩に置かれた手の温もりに、ふっと気が楽になる。
「行きましょう」
目を開ければ、高校生が微笑んでいた。
「まだ、後ろは振り向かずに。歩けますか?」
頷く。
鳥肌は納まっていないが、それでも轟音は鳴り止んでいた。
肩から手を離し、高校生が先を行く。紫の布を巻いた長い棒を天井にぶつけることなく、器用に歩く。
その後に続いた。
十メートルが、長く感じられた。
ようやくコンクリートの通路に出る。風のない、熱気が満ちている。
「はあー……」
電燈が煌々と明るい。
「もう大丈夫ですよ」
にかっと朗らかな笑み。高校生のその言葉に、どっと疲労感が押し寄せてきた。
「なんだったんですか、アレ」
「まあ、その……。運が悪かったと思ってくれれば」
「幽霊?」
「……えーと、まあ」
どんぐり眼が左右に泳いでいる。嘘は苦手らしい。
「めっちゃ落ち着いてたよね? 何か知ってるの? 経験者なの?」
問い詰めれば、高校生は身を引く。
「えーと。この街は三方を山に囲まれているんです」
それは知っている。
「線路を通すため、トンネルを作ったらしいんですが……何分、昔のことで。崩落事故が絶えなかったそうです」
「じゃあ、アレは――」
崩落事故の犠牲者たち。
叫び声が耳に蘇り、手が震えた。
「どこの線路でもありえることです。あまり、思い出さない方が良い」
「でも……」
思い出さないなんて、無理。
静かに高校生が言う。
「それなら、気休めかもしれませんが。電車でトンネルに入るときに、ありがとうって心の中で思ったらどうですか」
穏やかな彼の声が、するりと胸に沁みる。
感謝する。
崩落事故で命を落とし、さぞかし無念だっただろう。
でも。
線路のためにトンネルを掘ってくれて、ありがとう。
あなたたちがいてくれたからこそ、今日もこの街に電車が走っている。
「感謝か……。うん、してみる」
頷いて見せれば、ほっとしたように彼が笑った。
「下り電車でしたよね? 四番線はこっちです」
先導してくれる。親切だ。高校生なのに、幽霊にも動じない。
「ねえ、ずっと思ってたんだけど。その長い棒はなに? 君は何者?」
「これは弓です。俺は、ただの弓道部員ですよ」
たぶん、と付け加えられた言葉が謎。
冷風が吹いた。
水の臭い。
思わず後ろを振り返る。
そこには通路などなく、ただ白い壁があるだけだった。
『下り電車0番線』