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未来屋 環恋愛作品集

ハイヒールを脱いだ朝

作者: 未来屋 環

 香帆は本堂の前で手を合わせた。

(――今日も、場所をお借りします)

 心の中で唱え、ゆっくりと目を開ける。


 参拝を終え、ヒールの音を響かせながら来た道を戻る。本堂から山門へと続く道には木々が生い茂っていて、蝉の声が降り注いでいた。子供の頃からよく知っているはずのその場所は、季節が違うだけでやけによそ行きに見える。

(初詣しか、来たことなかったもんね)

 香帆は今日初めて、深大寺の夏を知った。


 切っ掛けは恭介との別れだった。

「他に好きなひと、できたから」

 二週間ぶりに逢えると連絡をもらい、自室で料理を作って待っていた香帆に、恭介はあっさりとそう告げて帰っていった。

 あの言葉を投げ付けられた後、自分が何を言ったのか、香帆は思い出せなかった。もしかしたら何も言えなかったのかも知れない。気付けば目の前の煮物は冷めきっていて、胸の奥にはぽっかりと穴があいていた。


 困ったのはその後だ。平日は仕事が忙しかったのでその穴を直視せずに済んだが、休日は大体恭介に連れ出されていたから、香帆は一人での時間の過ごし方を忘れてしまっていた。

 仕方がないので大掃除でも始めようと箪笥の一番下の引き出しを開けると、高校生の頃に使っていた裁縫箱が出てきた。懐かしさに背中を押されて開いてみると、裁縫道具だけでなくカラフルなビーズやボタン、アルファベットの彫られた石が次から次へと現れる。その時、香帆は高校生の頃、周囲の友人達の為にアクセサリー作りに凝っていたことを思い出した。

 他にやることもないので作り始めると、これがなかなかに楽しい。その内、新しい材料を買い集め、週末はその作業に没頭するようになった。


 一ヶ月もすると完成したアクセサリーは相当な数になっていたが、会社であげられるような仲の同僚も思い当たらない。インターネットサイトで販売することも考えたが、香帆はできれば自分のアクセサリーを付けてくれるひとの顔を見たいと思った。

 そしてフリーマーケットの情報を検索していた時、故郷にある深大寺で『手作り市』が開催されていることを知った。調べてみると、手頃な値段で出店でき、手続きも簡単そうである。何より自分が高校時代を過ごした街で開催されているということが香帆の背中を押した。


 そして、今日は香帆にとって三度目の『手作り市』だった。『手作り市』の参加者は、本堂への参拝が義務付けられている。仏様に場所をお借りする為だ。

 開催時刻も近付いてきたからか、休日の朝にも関わらず、香帆は会場に戻るまでに何人かの参拝客とすれ違った。


 自分のブースに戻って開店の準備をしていると、「おはようございます」と声をかけられる。顔を上げると、ギターを背負った色黒の青年が立っていた。

「隣のブースの日比野といいます。ギターを弾くので、もしうるさかったらごめんなさい。と言っても、折角来たので弾かせてもらいますけど」


 『手作り市』では楽器演奏もアコースティックであれば認められている。そういえば前回香帆が参加した時にも、日比野は別のブースでギターを弾いていた。穏やかな曲調のものが多く、耳障りだとは全く思わなかった。

「ご丁寧にありがとうございます。うるさいだなんてとんでもない。お上手ですよね」

「えっ、嬉しいな」

 日比野はくしゃっと破顔した。

「俺も気になっていたんですよ、『kaho』さん」


 そう言われてどきっとする。『kaho』というのは、香帆の店の名前だ。良い名前が思い付かず、そのまま自分の名前で登録したのだった。日比野は笑顔で続けた。

「『kaho』さん、華奢でかわいらしいアクセサリーだけじゃなくて、スタッズが付いているようなちょっとごついやつも売ってるじゃないですか。おねえさんあまりそういうイメージないから、少し意外だなぁって思ってたんです」


「――香帆、なにそれ」

 不意に頭の中に恭介の声が響き、香帆は息を呑んだ。

 それは何度目かのデートの待合せの時だった。香帆はシルバーで少し太めのバングルを付けていた。恭介はその日のデートの最中にアクセサリーショップに立寄り、ジュエリーが散りばめられた細身のブレスレットを香帆に渡した。

「香帆にはこういうものの方が似合うよ」


「……今日は、よろしくお願いします」

 日比野に対して、やっとのことでその台詞だけを吐き出し、香帆は開店の準備に戻った。




 開店から二時間程が経過した。三連休の中日ではあったが、猛暑も影響してか、客足はまばらだった。境内に劣らず豊かに並んだ木々のお蔭で直射日光は避けられるものの、七月のこの街はこんなにも暑かっただろうか。


 ちらと傍らを見ると、日比野は目を閉じてギターを弾いている。その横顔を見ながら、香帆はまた恭介のことを思い出していた。

「いいじゃんその格好。すごく似合ってるよ」

 香帆がロングスカートを履いていった日、恭介は喜んだ。

「でもそのスニーカーは微妙かな。ハイヒールの方が良いんじゃない」

 そんなことが繰り返されていく内に、香帆は自分の好きなものがどんなものだったか、忘れていった。とにかく、恭介に『似合う』ものになりたかった。


「すみませーん」

 高く響いた声が、香帆を思考の沼から引き揚げた。

「はい、いらっしゃいませ」

 慌てて向き直ると、店頭には中学生くらいの少女が立っていた。

「これ、ピアスしかないですか?」

 少女が差し出してきたものは、透明な中にほのかに三原色が混ざったガラス玉のピアスだった。少しでも涼やかなイメージのものを、と先週思い付いて作った一品だった。

「いいえ、イヤリングもありますよ。こちらでよろしいですか?」

 香帆が差し出したイヤリングを見て、少女の不安げだった表情がぱぁっと華やいだ。

「はい!」

 イヤリングを購入した少女の後姿を見送りながら、香帆は自分の胸の奥がじんわりと熱を持つのを感じていた。


「――おー、売れましたね。さすが」

 振り向くと、日比野がこちらを見て笑っていた。

「はい、差し入れ」

 そう言ってかき氷を差し出してくる。

「いえ、そんな」

「ほらほら溶けちゃうから。食べて食べて」

 いつの間に買いに行っていたのだろうと思いながらも、確かに、香帆の身体は冷たいものを欲していた。

「……では、お言葉に甘えて」

 日比野は自分のかき氷を頬張って「うまいなー」とまた笑う。よく笑うひとだな、と思いながら日比野を見ていると、彼も香帆の方に視線を向けてきた。


「それにしてもおねえさん、すごいですね」

「へ?」

 全く想定していなかった言葉に、香帆の口から間抜けな声が洩れた。

「なにがですか?」

「いや、すごいでしょ。こんなに沢山アクセサリー作って。さっきのお客さんも喜んでたし」

 俺のギターは自己満足だもんなーと口を尖らせ、そして、日比野は優しく微笑む。

「格好良いですよ。好きなことで他のひとを笑顔にするの」


 その言葉は、香帆の心にすとんと落ちてきた。香帆にとって、アクセサリー作りはかつて喪った自分を取り戻していく作業以外のなにものでもなかった。それを、事情を全く知らないとはいえ、前向きに捉えた日比野の言葉に、純粋に香帆は心動かされたのだった。

 香帆は小さく笑って、かき氷を口に運んだ。口内が一気に冷え、その後に甘く懐かしいシロップの味が広がり、思わず笑みが零れた。

「日比野さんに、何かお礼をしなくちゃ」

「そう? それじゃあ――」

 日比野は悪戯っぽく微笑み、『kaho』の店頭に並ぶバングルを指差した。

「そのかっこいいバングル、ひとつ俺にください」

「はい」

 香帆がこともなげに答えると、日比野が驚いた。

「いや、冗談です。だってどう考えても、かき氷より高いでしょ」

「いいですよ。かき氷とってもおいしいし、それに」

 そう言って、香帆はまたかき氷を頬張る。

「何だか――生まれ変わったみたいな、いい気分なので」




 結局その日は客足も伸びず、過去に参加した二回より在庫も多く残ったので、香帆はその次の回も『手作り市』に出店することにした。

 暦の上ではもう秋と言っても差し支えなかったが、気温はまだまだ高く、その様相を見せない。しかし、木々が仄かに赤く色付いて、季節の移り変わりを主張していた。知り尽くしていたはずの世界の新たな一面に勇気付けられたような気がして、香帆は小さく微笑む。


 会場に着いて出店準備を始めていると、他の参加者達も少しずつ集まってきた。朝チェックした天気予報は晴れ、今日も暑くなりそうだ。

 足元のシートを広げ始めたその時、「香帆さん」と、声が響いた。顔を上げて最初に視界に入ったのは、見覚えのあるバングルの光だった。

「今日はブース離れちゃいましたね、残念です」

 人懐っこい笑みを浮かべたその男は、今日もアコースティックギターを背負っている。

「もしまだ本堂へのお参りを済ませていないようであれば、一緒にいかがですか?」

「――はい、是非」

 香帆はおろしたてのスニーカーの紐を結び直し、立ち上がった。



(了)

最後までお読み頂きありがとうございました。

本作は「恋愛」というテーマで第14回深大寺恋物語に投稿した作品です。恋に縛られ、相手に好かれたいが為に自分を喪う主人公が、少しずつ自分らしさを取り戻す話を書きたいと思いました。自分のままで居られる相手と人生を共に歩けることは、きっと素晴らしいことでしょう。

すこしでも共感頂けましたら幸いです。


【追記】

歌川詩季さんに、本作のアンサー・リリックを頂きました!

『風と殻』

https://ncode.syosetu.com/n8519hs/

殻に閉じ籠って生きてきた「私」が、前向きに立ち上がる作品です。是非ご一読ください。

歌川さん、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言]  妹の活動報告の紹介から、再読に来ました。  香帆ちゃん、もともとは結構アクティヴなコですよね。ふつうは、なかなかひとりでフリマに出ようなんて、踏み出せませんもの。ネット販売なら、いくらかハ…
[良い点]  寄り添うようにお互い自然と変われるなら、きっとどんなに変わったとしても受け入れられることなのでしょうけど。  型にはめて創り出した人形には、きっと心はないのでしょうね。  型から出てもそ…
[一言] 相手に合わせる事が、本当の意味での幸せなのか。 それを改めて考えさせてくれる素敵な人間ドラマですね(´;ω;`) 香帆さんにはこれから本当の幸せを掴んでほしい。
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