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月が我関せずとして我が物顔で空に浮かんでいる。広い宇宙の中で、月だけがやけに煌々と太陽光を反射しており、地上で苦悶している哀れな男を照らし出している。その男はくたびれている様で、地面を眺めながら安い煙草を吸っている。暫くしてその男に別の男が近付いてくる。
「平田さん、隣いいですか?」
「あ、あぁ・・・探偵さんですか。えっと確か幸田・・・」
「幸田源三郎です。先程はうちの新入り、八代勝がご迷惑をお掛けしました」
「・・・気にしないでください。私も少し取り乱してしまいましたから」
「煙草、吸われるんですね?」
「えぇ、妻に先立たれてから吸い始めました。安いやつですけどね」
平田と呼ばれた男はハハハッと力なく笑う。それに対して幸田と名乗った男もつられて笑う。曰く、幸田自身も仕事があまり儲からず、安い煙草を吸っているようだ。二人は銘柄を見せ合って、しばし場が盛り上がる。
「意外でしたよ、しっかり者のような雰囲気を纏う平田さんが煙草を吸うなんて」
「煙草を吸っても叱る人間がいないので。幸田さんは家の中では肩身が狭いでしょう?」
「・・・違いないですね。でも煙草は体に悪いので、止められる理由も分かるんですよね」
「でもうまいから止められないんですよね、これが。煙草を吸っている間は現実の嫌なことなんて忘れられる、ひと時の安寧を得られますから・・・。それも相まって煙草はやめられないんです」
「・・・考えてみれば面白い話ですよね。ひと時の安らぎを得るために、自分の寿命を売り払うなんて」
「人生山あり谷あり、そして崖までありますからね。こんな地獄とも思える日々を乗り切るためには煙草を吸うのも悪くはない・・・あとうまいですしね」
「ハハハッ・・・」
再び二人は笑い声に身を包まれる。大きな宇宙に浮かぶ小さな星、さらにそこに住むちっぽけな存在を遥か高くから月が見降ろしている。今この瞬間さえも、人生に例えれば山に登る前の休憩に過ぎないように思える。しかし二人はそれが永遠に忘れられないもののように、かけがえのない物のように大切に、ただ大切に貴重な時間を会話に費やす。
「でも煙草はそろそろ控えた方がいいかもしれませんね。平田さんはまだ若いですが、私はもう年なので。あまりにもはやく死んでしまうと、先に旅立った両親に叱られてしまいますから」
「・・・そうですか。幸田さん、私はどうしようもない人間なんですよ」
「・・・?」
「佐恵子に旅立たれてから私もすぐに後を追おうと思いました。でも死にきれなかった。たとえ自分の命だとしても、私には殺人の才能がないみたいですね」
「・・・」
「死にたいという感情と生きたいという感情がない交ぜになって、どうすればいいか分からなくなって・・・煙草に手を出しました。煙草なら少しでも早く妻の元に行けますから」
そこで二人の会話は終わった。平田と名乗った男はどこか吹っ切れたようで、幸田と名乗った男はかける言葉が見つからないようだ。沈黙が場を支配する中、やがて二人の男は逆向きに歩き始める。一人はしっかりと前を向いて、もう一人は地上を眺めながら探偵事務所に帰っていく。月が何事もなかったかのように地球の裏側に沈み始める。




