第二第「堪忍袋の緒が切れる」
※この作品は一部、落語の作品をテーマとした二次創作となっています
「毎度お笑いを一席。あたくし、寒梅屋好雹と申します。どうぞご贔屓に願いますが」
我等の演芸小屋、寄席に誂えられた一段高い壇の上、高座にあがって座布団に正座し、青白い髪を束ねて青色の着物を着て、名を好雹と名乗ったその女が、客席に向かって一礼すると、とうとうと語り続けた。
「突然ですが、どうにも腹の虫が収まらないってこと、どなたにもあると思います。あたくしなんかもこの前ね、頭にくることがあって腹の虫が収まらないっていうので、どうしたもんかと考えあぐねましてね。このままじゃあ、流石に居心地が悪くてたまらない。そうだ、どんな虫にも天敵という奴がいるはず、っていうんで、カマキリの野郎を飲み下してやったんで。腹の虫、やっつけて食べてくれるんじゃないかと思いましてね。するというとどうか、先ほどから腹が痛くてたまらない。どなたか、お客様方にカマキリの天敵を知ってるお方はいらっしゃいませんかね」
ここで客席でクスリ、とひときわ笑い声をあげたのは、猫耳と二本の尻尾を生やした、半人半妖の女の子であった。そう、この世界では、人間と妖怪のハーフ、半妖が人間社会の中に溶け込んで暮らしているのである。
かくいう好雹もその一人であり、雪女と人間のハーフゆえ、いかんせん駄洒落がお寒いことを悩みとしている、ごくありふれた(?)乙女である。
「いずれにしても、人として生まれた以上は、生きているだけで臓物に黒いものが溜まっていくのは避けられないようで、たまーにそいつを洗い流して、心を洗濯して綺麗にしてやる必要がある。昔の人の知恵というのは偉いもんで、こういう話があったそうでございますが……」
おもむろに羽織った紋付を脱ぎ捨てながら、好雹はやはり、自らの過去を振り返らずにはおけなかった。
「なんだい、お前さんは、せっかく出番を頂いたっていうのに滑ってばかりいたじゃないか」
まだ一門に入って、ようやく晴れて前座の身分を頂き、高座に上がることを許されたばかりの好雹は、ひょろ長い緑の着物の男から、楽屋で責め立てられていた。
「そうは言います兄さんこそさっきの噺はなんですか。大事な台詞で噛んじゃって、それもやっと前座から昇進して二ツ目になれたばかりでやることですか」
好雹も必死の抵抗を試みる。そもそも、好雹を責めているこの男、名を寒梅屋九里と言い、好雹にとっては同じ一門に入門した先輩、兄弟子にあたる。
「兄弟子に対して、何というものの言い草だい。そういう事は、せめて芸で俺に追いついてから言うんだな」
好雹に言い返されて九里としても後に引くわけにはいかない。売り言葉に買い言葉、さらなる喧嘩をふっかけてしまう。
「兄さんこそ、早いとこ真打に昇進してみせてくださいよ。私の初めての人なんですから、責任とって偉くなってください」
好雹はもともと、九里の噺によって落語に出会い、この道を志すに至った。しかし、ものには言いようというものがあるわけで。
「誤解を招くような言い方をするんじゃねえ!? 俺の落語を聞いて、どうしようがそもそもそっちの勝手じゃねえか。俺に責任を押し付けるんじゃねえやい」
二人の口喧嘩はヒートアップするばかり、あわや掴み合いに発展しようかというその時、割って入る者がいた。
「まぁまぁ、お前さん方、何があったか知らねえが、喧嘩はよろしくないよ、喧嘩は」
いくぶん白髪の混じった頭に、温厚そうな顔をした好々爺。好雹と九里の師匠、寒梅屋好朝である。
「あ、お師匠さん、ご心配をおかけして申し訳ない。いえね、こいつがね、妹弟子のクセして俺の噺にケチつけやがるもんですからね、あまりに腹に据えかねたもんですから、言い返しちまったとこういうわけで」
「先に私の噺に文句を言ったのは兄さんのほうじゃないですか。それに、兄さんには、早く偉くなって貰わないと困るんです。なんたって私の目標のひとつなわけですから」
口々に師匠に答えた喧嘩の当人達であったが、師匠の好朝はやや呆れ顔であった。ちなみに、当時の九里は階級こそ真打に至らない二ツ目であるものの、半妖でありながら初めて噺家の一門へ入門を許されたという経緯の、それなりに先駆者としての地位を持っていたりするが、好雹にとってそれはあまり考慮に入らないらしい。
「どうせ目標にするなら、師匠であるあたしを目標にして欲しいんだが、まあそれは置いといてやろう。あい分かった、お前さんらは仲が悪いから喧嘩をするんじゃあない、喧嘩するほど仲が良い、と言うやつだろう。いい知恵を貸してやる。時に好雹、お前さん、裁縫は得意かね」
「得意そうに見えますか?」
師匠の問いに、即答で返す好雹。この女、こう見えて中々に肝が据わっていると見える。
「あたしが聞いてんのに聞き返してどうするんだい。分かった、どうせ苦手なんだろ? じゃあ、あたしからいい物を貸してやるよ」
そこで好朝は一旦、さっと引っ込むと、赤い緒で口を締めた、白く大きな袋を持って戻ってきた。
「お師匠さん、こいつは?」
九里の問いに、好朝が答える。
「堪忍袋、という奴さ。頭にカーッと来ることがあったら、こいつの口から吹き込んで、キュッと緒を締めるんだ。スーっと溜飲が下がるから、それでニコーッと笑ってご覧なさい。どんな喧嘩も一発で収まるよ。じゃあな、それ使って仲良くやんな!」
と言って袋を渡したっきり、好朝はどこかへ行ってしまった。
さて楽屋に残された二人、まだ腹の虫が収まらないというので、しょうがなく、好朝に言われたことを試してみることにした。
まずは袋を渡された好雹がスゥと息を吸い込んで、袋に自らの口を寄せて、怒鳴りつける。
「そうやって、ひょろひょろ生きてるから大事な場面で台詞だって噛むのよ、この胡瓜男! 胡瓜は胡瓜らしく、ぬか漬けにでもなってしまえ!」
一通り言いたいことを言ったらしい好雹は、フゥと小さく息を吐くと、ニカーッっとドヤ顔で九里に向けて笑いかけて見せた。
「ええぃ、嫌な笑顔をしやがるな。言うにことかいて何ということを……貸せっ!」
九里は袋を好雹から奪い取ると、こちらもスゥと息を吸い込んでは、袋の口に向かって叫ぶ。
「は、俺がぬか漬けなら、お前は漬物石にもなりゃしねえな。重さにゃ申し分ないが、蓋から滑って落ちちまうようじゃ、蓋を抑える役にも立ちゃしない!」
九里は九里で得意げな笑みを見せると、負けてはいられないと、好雹が再び袋をひったくる。
「女子に体重の話をするなんて、デリカシーの欠片もないわね! 落ちるだけ、落ちのない兄さんの噺よりマシだと思いますけど!」
言われっぱなしでは男子の沽券に関わると言わんばかりに、九里もまた袋をぶん取る。
そのようなことを繰り返すうちに、二人はゼェゼェと肩で息をするほど疲れ果てていたが、気づけば、その表情はとてもにこやかなものとなっていた。
「こいつは本物よ。おかげで、喧嘩が無事に収まったわ。亀の甲より年の功とはよく言うけど、年長者の知恵っていうのは、やはりありがたいものね」
好雹は堪忍袋の効果のほどにいたく感心した。そこまでは良かったが、この出来事をついつい自慢したくなり、周囲の人々に触れて回ってしまう。それが、とんでもない大事件に発展してしまうとも知らずに。
ここで黙ってはいられないのが、噂を聞きつけた周囲の人々。なにせ、世の中はストレスに満ち溢れている。臓物に黒い物が溜まっていない者など、かえって珍しいくらいのものである。
件の堪忍袋なるものを是非とも私にも使わせてくれ、と人々が好雹の元へと押し寄せた。いくら雪女の出といえど、根はお人よしの好雹のことである。冷たくあしらうわけにもいかず、渋々、堪忍袋を押しかけた人々へと使わせてやることになる。
「家族に生魚ばっかり食わせるんじゃないよ、うちのカカア! あと、たまには鰹節以外でご飯を食わせろ!」
今しがた、食い物の恨みを袋に吹きこんで行ったのは、猫又の半妖の少女である。好雹が落語を演じる寄席の常連で、ゲラとして周囲の釣られ笑いを誘うので大変重宝してはいるが。よもや、このような悩みを抱えていたとは。
それはいいのだが、次から次へと人々が愚痴を吹き込んでいくものだから、堪忍袋は膨れに膨れ、もはや見るからにパンク寸前となっていた。
「どうするよ、これ? 海にでも放流しにいくか……」
「ダメよ。聞かれちゃまずい言葉が一杯詰まってるのよ。風に乗って、どこに届くか分かったもんじゃないわ」
溜まりに溜まった、無策のツケに、九里と好雹の二人が悩んでいるところに、新たな客が来てしまう。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら」
「あっ、これは師匠の奥方……お世話になっとります」
現れたのは、二人の師匠である好朝の奥方であった。
「ここに、堪忍袋っていう便利な物があると聞いたのだけれど……ちょっとだけ、使わせて貰っていいかしら」
この依頼に対し、好雹と九里の二人は顔を見合わせた。二人の目は明らかに、どうするよこれ、という感情を物語っていた。
「いえ、使って頂きたいのは山々なんですが、ほら、見ての通り堪忍袋は一杯で! これ以上は……」
やっとの思いで口を開いたのは九里のほうであったが、奥方も必死で食い下がる。
「ほんの些細なことなの、手短に済ますから……ね?」
「それなら、まあ……構いません、かね?」
と、ここで好雹が折れてしまう。お世話になっている師匠の奥方の頼みとあっては、どうにも断り難い。
好雹から袋を受け取った奥方は、袋に口をつけると、これ以上ないと思える大声で、こう吹き込んだ。
「くたばれ!!」
さて誰のことだろうな、確かに手短だけれどもこりゃでかいだろ、などと好雹と九里が思い思いの感想をいだきつつ、顔を青ざめさせていると。
奥方が袋の緒を締めようとしたところ、締まり切らずにブチッと音を立てて緒が切れてしまう。すると、これまで袋に溜め込まれた悪口雑言の数々が溢れだしてくる。その中には、二人の師匠、好朝の声で奥方について愚痴る物も含まれていて……その後、好朝に何があったか、好雹と九里は恐ろしくて未だに聞きだすことができていない。
こんにちは、作者の瑞喜智です。
特に何の反響もないままに、アイデアが沸いて出てしまったので、続けちゃいました。
気分次第って、こんなもんです。
実際、こんなニッチなテーマの作品、読んで頂けてるのでしょうか。
正直、需要の有無も知りたいところでもありますが。
それはそうと、今回は落語「堪忍袋」を原作としたお話になっています。
比較的、新作の部類に入る噺ではありますが、50年ルールからすると、二次創作の利用規約的にも大丈夫なんじゃないかなと判断させて頂きました。問題あるようなら言ってください。