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投稿小説〜短編〜

胸に咲かすは恋の花

作者: 玉木 久芳

 私は恋をしないと生きていけない。

 恋をしないと死んでしまう。

 恋が、私のすべてだった。


「ルイ、今日も店使わせてもらっていいか?」

「いいけど、仕事の邪魔はしないでよね」

「忙しくなったら手伝うよ」

 肩からずれ落ちたストールをなおしながら、私は鼻歌まじりに折り畳みの椅子を開いたハルキを見つめた。

 店の隅に自作のイーゼルを構え、彼はその上にスケッチブックを乗せる。今にも穴があきそうなほど古びた鞄から取り出したのは、一本の鉛筆。色鮮やかな花々を作業台に乗せて仕事をはじめた私には目もくれず、彼はよれよれのシャツを腕まくりして鉛筆を握った。

 今日、彼のデッサンの練習台になるのは店先にならべたジャスミンらしい。『可憐』を花言葉に持つその白い花びらを、ハルキはその濃いめの眉と切れ長のまなざしで見つめるものだから、ジャスミンは心なしかおびえているように思える。彼の練習台になる花々はみな、いつもそうやって彼の真剣なまなざしに圧倒されていた。

「花がこわがるから、そんな目で見ないであげてよ」

「そんなこと言われても、これがおれのうまれつきの顔だし」

 私の言葉に、ハルキはすねたように唇を尖らせる。それでも目は絶対にジャスミンから離さず、鉛筆を握る手も止まらない。はじめはおびえていた様子を見せていたジャスミンも、しばらくすると彼のまなざしになれてきたのか、窓からさしこむ陽ざしを浴びるその白い花びらを誇らしげに開いていた。

 いつもより、ジャスミンの香りが店の中に広がっている気がする。そして、店に並ぶほかの花々もまた、彼に描かれたそうにうずうずとしているのが私に伝わってくる。ハルキが店にやってくる日はいつも、こうやって店中の空気が浮き足立っていた。

 唇のない花々から、声なき声が聞こえてくる。画家のたまごであるハルキが、花のデッサンをさせてほしいと店に来るようになってから、店の花々も一段と鮮やかな色を見せるようになっていた。

「花屋の花を描くより、外に咲いてる花を描いたほうがいいんじゃないの?」

「おれはルイの店の花を描きたいんだよ。店に置いてる花、全部デッサンさせてくれるって約束だったろ」

 店にある花をすべて描くなんて、無理だ。

 そう言いたくなるのをこらえて、私は自分の胸にそっと手をあてる。日々仕入れる種類が変わるから、彼がこの店の花をいくら描いても描いても終わりが見えてくることはない。

 なにより、この店には秘密の花が存在するのを、彼は知らなかった。

「その折り畳みの椅子、お尻痛くなるんじゃない? そこの椅子使っていいわよ」

 私の胸に咲くこの白い花は、ハルキには決して、見えない。

「ありがとう、ルイ」

 ふいに見せたハルキの笑顔に、店中の花々が色めき立つ。普段は威圧的な印象を与えがちな彼だけど、時おり見せる笑顔は大輪の花が開くような華やかで、そして愛らしかった。

 けれど、私の胸に咲く花は、彼の笑顔にはいっさい動じなかった。

 胸の上、鼓動を刻む心臓の上に咲いたこの花は、彼のためには咲かない。ひとつの恋が終わるまでの間、ずっとずっと、ただひとりのために咲き続けるのだった。

「――ルイ、いるかい?」

「ノーマン!」

 ふいに店先にあらわれた人に気づいて、私は花束を作る手を止めてかけよる。自分でもわかるくらい、軽やかな足どりでスカートのすそを揺らしていた。

「今日は仕事で忙しいんじゃなかったの?」

「ちょっとだけ時間ができたから、ルイに逢いに来たんだ」

 町を守る保安官のバッジを胸に輝かせ、ノーマンが帽子を外しながら私に笑いかけてくる。そして熱心にデッサンをするハルキを横目で見ながら、私の耳に唇を寄せた。

「夢にルイが出てきて、もう朝からずっと会いたくてたまらなかったんだ」

 そんな歯の浮くようなセリフを飄々と言う、自分の気持ちをまっすぐにぶつけてくるノーマンのことが、私は好きだった。今までいろんな人の夢に出てきたことがあるのだろうけど、それをわざわざこうやって口に出してきたのは彼がはじめてだった。

「今日、頑張って仕事を早く終わらせるから。夕食でも一緒に食べに行かないかい?」

「いいわよ」

「じゃあ、店まで迎えにくるから」

 息もかかるほどの距離まで顔を近づけ、ノーマンは私の目をじっとのぞきこんでくる。手はちゃっかりと私の腰を抱いていて、私もそれに嫌がりもせず身体を預けていた。

「最近、ここらを変な人がうろついていたりはしないかい? もし不審な人物がいたら、すぐに僕に知らせるようにね」

「今のところは大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

「あちこちの店をまわっては長時間長居する迷惑な客がいるって、ちょっと小耳にはさんだもんでね」

 それはずばり、ハルキのことだ。

「もし営業の邪魔になるなら、僕が追い出すけど?」

 ハルキは私の店だけじゃなく、この町のいろんなところでデッサンの練習をしているらしい。たしかにそれが不審者に見えなくもないけれど、すぐそばで厭味を言われたハルキは、振り向きもせずのんきな声で言った。

「おれはちゃんと許可をとってやってるよ?」

 デッサンをする手は、決して止めない。つい先ほどまで真っ白だったスケッチブックの上には、あっという間に白く可憐な花の姿が描きあげられていた。見事だなと感心する私に、ノーマンが軽く肩をすくめ店を見回した。

「この店の中で一番綺麗な花は、やっぱりルイだよ」

「おれもそう思うよ」

 ノーマンの最大の口説き文句を、ハルキの間延びした声が台無しにする。それがなんだかおもしろくて、私は思わず笑ってしまった。

「……じゃあ、ルイ、むかえにくるからね」

 ばつが悪そうな表情を見せ、ノーマンは私の頬に軽く口づける。そして帽子をかぶりなおして、町のパトロールへと戻っていった。

 ノーマンとのはじまりは、パトロール中の彼が店に立っていた私に声をかけてきたことだった。私が両手いっぱいに抱えていた花束を見て、その花の名前は何というのかと聞いてきた。誰もが知っているチューリップだというのに、彼が私に話しかけようとしてとっさに出てきた言葉はそれしかなかったらしい。

 その言葉にこたえようと、彼の瞳を見つめたとき。私の胸に恋の花が咲いたのだった。

「ルイ、おれなんか悪いこと言った?」

「そんなことないわよ」

 胸の花をひとつ撫でながら、私は花束づくりを再開する。店中の花がハルキに熱烈なラブコールをおくっているのにたいして、私の胸に咲くこの花だけは、ノーマンが去っていったことを寂しがっていた。

 この花は、ノーマンのために咲いている。

 恋心を養分にして咲く、恋の花。この花が咲くことで、私は毎日を生きることができた。

 この店で一番美しい恋の花が、ハルキの手によって描かれる日は、決して、来ない。

 この胸でずっと、ノーマンの花を咲かせていられますようにと、私は心の中で祈った。


        ○


 約束どおり、ノーマンは仕事が終わると一目散に私をむかえにきてくれた。

 そして、町で一番おいしく、一番高いと評判のレストランに連れて行ってくれた。予約までしてくれていたらしく、彼が名前を告げると店でもひときわ美しく輝くシャンデリアの真下の席に案内された。

「本当はずっと前から、この日に予約をしていたんだ」

 座ろうとすると、ウエイターが椅子を引いてくれる。言ってくれたらもっと良い服を着てくるのにという私の気持ちに、頬を紅潮させながら話す彼はきっと気づいていない。

「ここのソムリエが選んだワインがおいしいって評判なんだ。料理も全部コースで運ばれてくるけど、ルイはとくに好き嫌いはなかったよね?」

「ええ、大丈夫」

 明るくうなずいてみせながら、私はそっと胸の花に手を添える。ノーマンと一緒にいられる喜びで、花がよりいっそう白く透きとおっているのを見て、私は内心ため息をついた。

 ついに、この日がきてしまった。

 いつもどおり、たわいのない話をしながらも、私は口に運ぶ料理の味がまったくわからなかった。彼が時おり混ぜてくるお世辞なのか本気なのかわからない言葉には満面の笑みで返すことができる。でも、早くこの場を立ち去りたいと思う気持ちでいっぱいだった。

「……実は、今日、ルイに渡したいものがあるんだ」

 食事もほどよくすすみ、あとはデザートを待つのみとなったとき。ノーマンが急に咳払いをして姿勢を正した。

 そして、テーブルクロスの下に手を伸ばす。そこから取り出したのは、今日私がこの店から注文を受けて届けた、赤いチューリップの花束だった。

 その花言葉が『愛の告白』だということを、私は誰よりも知っていた。

「ルイ。僕と結婚してくれないか?」

 その花束を渡すノーマンのまなざしに、いつもの口説き文句やお世辞は一切なかった。

「ルイのことを、一生、大事にするから」

「ノーマン……」

 受け取る私の頬を、ひとすじのしずくが伝う。それを見て、喜びの涙だと思った彼は、とても嬉しそうに笑った。

「素敵な花束を、ありがとう」

 私は、そう言うだけで精いっぱいだった。

 私は何度、この『愛の告白』を受け取っただろう。ノーマンと出会ったその日に抱えていた花束もまた、私が他の男性から受け取った『愛の告白』だったのを彼は知らない。

「ノーマンの気持ち、とてもうれしいわ」

 普通の女性なら、これはなによりも嬉しい花束に違いない。でも私にとって、これは死刑宣告に近かった。

「ごめんなさい、お化粧が崩れちゃって……」

 涙をぬぐい、私は化粧室に行こうと席を立つ。腕に抱えた花束をそっとテーブルの上に置き、彼に背を向けたとたん、私の足元にぽとりと花が落ちた。

 それは、いままでずっと、私の胸で咲き続けていた恋の花だった。

「……ルイ、大丈夫かい?」 

 立ち止まったまま動こうとしない私に、ノーマンが心配そうに声をかけてくる。彼にはこの、床に落ちた花は見えない。たった今まで、私の胸で咲かせ続けていた恋心が枯れてしまったことになにも気づいていなかった。

 私の胸に咲くのは、このあたりの地域では決して手に入らない『椿』という花。その花は、枯れると花びらではなく額のまままるごと落ちるのだった。

 いままさに、最大の養分を吸い取ってしまった花は、まるでギロチンで首を落とすように、恋心を処刑してしまったのだった。

「ちょっと、お酒がまわっちゃったみたい」

 そう笑ってごまかしながら、私はノーマンの甘い言葉をもう聞くことはないと悟った。

「ノーマン、ごめんなさい、すこし考えさせてくれない?」

 それなら今、私にできることは、この恋の花のように美しいまま終わりをむかえることだった。


 私が恋多き女性だということは、町でも有名なことだった。だからノーマンと破局したという噂が流れても、みんないつものことだと受け流しているようだった。

 彼と別れて一ヶ月。私はずっと、店を閉めていた。私のほうから断ったというのに、傷心ゆえの休業だと思われるのはなにか変だと思うけど、私は店にこもったまま誰にも会わないようにつとめた。

 本当は、いますぐにでも外に出て、新しい花をこの胸に咲かせなければならない。

 カーテンの閉め切った店は陽ざしが入らず、商品の花はあっという間に枯れてしまった。店で華やいだ空気をつくりだしていた、娘たちはもういない。お葬式のような暗い空気の中、私はひとり、店の中で膝を抱えていた。

 いつもハルキが座っていたところで、彼が描いていた花を眺める。あれだけ甘い香りを放っていたはずのジャスミンも、もうその白い花弁をすっかり黒ずませてしまっていた。

 このままでは、いつか私もこの花たちと同じになってしまう。

 新しい恋の花を咲かせないと、私はこのまま枯れて死んでしまう。

「……ルイ、今日も店開けないのか?」

 そう、外から店のドアをノックしてきたのは、ハルキだった。

 カーテンをかけているから、影でしかその姿は見えない。でもその声は間違いなく、いつも私の店に通ってきた彼と同じだった。

「ちょっと、具合が悪いの」

「風邪でもひいたのか?」

「そう」

「うそつけ」

 その声だけで、私はきっと彼が渋い顔をしているのだろうなと感じ取ることができた。

「ノーマンとだめになったんだって?」

「うん」

 本当は、私からだめにしたんだけど。はたしてハルキは、どこまで知っているんだろう。

「どうせそれで、引きこもってるんだろ? ルイならすぐ新しいやつ見つかるって」

「別になぐさめてほしいわけじゃない」

 私に恋心の頂点を吸い取られてしまったノーマンは、もうこれから気持ちが衰えていく一方だとわかっていた。だから自分から離れただけ。でもそれを、ハルキに話してもわかってくれるわけがない。私はカーテンごしに、彼の影をじっと見つめた。

「ちょっと疲れただけよ」

 恋の花を咲かせることが、いつしか私には苦痛になっていた。

 花が咲いている間は、身体がとても軽くなる。店の花々の美しさがより一層際立つ。世界がとても輝いて見えた。

 花が落ちれば、その逆だ。世界は暗くなり、店の花もあっという間に枯れてしまう。

 そして私はいつしか、この恋の花の正体に気づいていた。

「私、ノーマンのこと、たいして好きじゃなかったのよ」

 はじめ、私は胸の花が、自分の恋心だと思っていた。身体から満ちあふれた心が、花となって咲いているのだと思っていた。

 けれど、それは違った。この花は、私が受け取る恋心だった。花を咲かせて相手の恋心を吸い取り、それが身体をめぐり、私の命の糧となっていたのだった。

 たしかに花が咲いている間は、相手のことを好きになる。とても幸せな気持ちになれる。けれどその恋心をすべて吸い取るころには、私はもう相手のことを好きな気持ちを忘れてしまうのだった。

 私は自分が生きるためだけに、相手の心を利用していただけだった。

 白い椿の花言葉は、『冷ややかな美しさ』。

 私はこのうまれもった姿で、自分が生きるためだけに、人の心を惑わしていたのだった。

「私のことを、ずっと好きでいてくれる人なんていないのよ」

 恋心が尽きれば、みんな私のもとを去ってしまう。あれだけ甘い言葉をささやいてくれていたというのに、みな、なにごともなかったかのように店の前を通り過ぎるようになってしまう。そして、あれだけ恋焦がれていたはずの私の気持ちも、自分でも恐ろしいと思うほどあっさりとなくなってしまうのだった。

「だからもう、疲れちゃったの」

 カーテンごしのハルキの影に、私はそっと手を伸ばす。窓ガラスに触れる指先は、日に日に、養分が不足して干からび始めていた。

「それと、おれとの約束は、別だろ」

「え?」

「店の花のデッサンの約束。まだ描いてない花いっぱいあるんだから」

「でも、みんな、枯れちゃったし」

 店を見回しても、咲いている花はなにもない。空の花瓶ばかりが置いてある、このなにひとつ彩りのない空間に、ハルキが描くようなものはなにもなかった。

「じゃあ、ルイを描く。別に、デッサンの被写体は花だけじゃなくていいし」

 そして彼は、店の扉を開けるように言った。

「どうせ店にこもってなにもやることないんだろ? 椅子に座ってるだけでいいから」

「でも……」

 言いよどむ私の唇とは裏腹に、小枝のような指先は店の鍵をあけていた。それは、生きるための私の本能がさせていることだった。

 この胸に咲く次の花は、きっと、ハルキの花なのだろう。


        ○


「別にそんなに背筋伸ばさなくていいから、楽に座ってて」

 一切の光をさえぎっていた店のカーテンをすべて開け、ハルキは一番日当たりのよいところに私を座らせた。

 とくに、服を脱げと言うわけでもない。いつもの服を着て、髪に櫛も通さず化粧もしていない私を、正面からではなく横から描こうとイーゼルとスケッチブックを用意していた。

 幸い、今日の私の服はゆったりとしたブラウスと足首まであるロングスカートだった。干からびた身体は十分に隠すことができる。頬はまだそんなにこけていなくて、ストールの中に手を隠してしまえばこの身体の異変にハルキが気づくことはないだろうと思った。

 描くのが横顔で良かった。今の私は、決して、彼の顔を見てはいけなかった。

「疲れたら言って。休憩はちゃんととるから」

 そう言って、ハルキはスケッチブックに鉛筆をすべらせはじめる。花々のおしゃべりもない、しんと静まり返った店の中、白い紙の上に私を描き出す音だけが響いていた。

 彼のその鋭いまなざしが、まっすぐに、私に向けられている。いつも店で花々に向けられていた、その真剣な空気がそのまま伝わってくる。まるで私自身が、大きな花になってしまったかのような気持ちになった。

 店中の花々が、次は自分を描いてもらいたいと熱心に想いをぶつけていたことを、私は傍観者として見ていた。

 でも本当は、違った。私はずっと、ハルキに描いてもらいたいと思っていた。

 他の花のように、彼のその真っ白な世界に描き出してもらいたいと思っていた。

「……こわいわ」

「こわい?」

「ハルキの目が、こわい」

「うまれつきなんだからしかたないだろ」

 むっとした声で言う彼を、私は見ることができない。もし今、彼と目があってしまったら。私はきっと、新しい花を咲かせるために、彼のことを惑わしてしまうのだろう。

 たまらず、私は身体を折ってうずくまった。

「私を、見ないで」

「は?」

「やっぱり、だめ。お願い、帰って」

「ルイ?」

 ハルキが立ち上がり、近づいてくるのがわかる。私はただただうずくまることしかできず、肩に手を乗せられると身体がびくりとふるえた。私の突然の異変に、ハルキはおどろくというよりすこし怒っているようだった。

「ルイ、こっち向いて」

「だめ」

「ちゃんと言ってくれないとわからない」

「お願い、帰って」

 肩をつかまれ、無理やりハルキのほうを向かされる。けれど私はぐっと目を閉じて、彼を見るまいとかぶりをふった。

 ハルキの手が、とてもあたたかい。そのあたたかい身体に、胸に、頬をうずめてみたいと思う自分がいる。それをふりほどきたくて、私は両手で顔を覆った。

「お願い、ハルキ。私を見ないで……!」

 私は、ハルキが好きだ。

 だからこそ、この身体に、彼の花を咲かせたくなかった。

 彼と恋におちたくなかった。彼の恋心を吸い取りたくなかった。恋心をすべて吸い尽くして、ハルキが去ってしまうのがこわかった。

 だからこそ、ずっとノーマンの花を咲かせ続けていたかった。

 それが枯れてしまったからには、他の人の花を咲かせるしかなかった。けれど私は、他の人を見る余裕までをも失ってしまっていた。

 こんなにも深く、人を好きになったのははじめてだった。

「ルイ、手が……」

 言われて、私は自分が隠していた手をさらけ出してしまったことに気づく。枯れかけの花のように、干からびてしまっている手は、とても彼に見られたくないものだった。

「お願い、帰って!」

 私はもう、そう叫ぶことしかできなかった。

「――ルイ!」

 叫ぶとともにめまいがして、私はそのまま椅子から崩れ落ちてしまった。


        ○


 目を覚ました私がはじめに見たものは、紙の上に描かれたジャスミンの花だった。

 ややあって、私は自分の顔にスケッチブックが乗せらていることに気づいた。大きなスケッチブックは私の呼吸を止めないよう、テントをはるようなかたちで乗せられている。とっさに顔から引きはがそうと手をかけ、けれど私はそのままでいることを選んだ。

「ルイ、気づいたか?」

 そう、ハルキが声をかけてくる。私はスケッチブックで顔を隠したまま、からからに乾いた声で返事をした。

「ここ、どこ?」

「店だよ。勝手にあちこちいじるのも悪いと思って、床に寝かせてる」

 どうりで、腰が痛いわけだ。いちおう枕と身体の下になにか敷いてくれているようだけど、それはまったく意味をなしていない。手でさぐって、敷かれているのはどうやらいつも肩にかけているストールらしいと気づいた。

「もしかして、なにも食べてないんじゃないか? 栄養失調みたいにがりがりだぞ」

「見たの?」

「服の上からでも、少し触ればわかるって」

 栄養失調。ハルキのその言葉はたしかに私の状態に当てはまっていた。胸に咲かす花がなくなってしまった以上、私は自分が生きるための命の糧を得ることができない。

「見ないでって言うから、いちおう顔は隠しておいたけど」

 理由がわからないなりにしてくれたハルキの配慮に、私はスケッチブックの中に深い安堵の息を吐いた。

「……お願い、ハルキ。このまま、私を見ないまま帰ってほしいの」

「こんな弱った身体のルイを置いたまま帰れるわけないだろ」

「お願い、帰って。そして、もうこの店には来ないでほしいの」

 それが私にできる、精一杯のことだった。

「ハルキがいなくなることがこわいの」

「言ってることが矛盾してないか?」

 もし、この胸に彼の花を咲かせてしまったら。そして、彼の心をすべて吸い取ってしまったら。それこそきっと一生、私はハルキと逢えなくなってしまうだろう。別の人を探して花を咲かせれば、また、店で彼が来るのを待つことができるようになる。

「ハルキとさよならしたくないの。だからこのまま、帰ってほしいの」

 きっと、私がなにを言ってるのかさっぱりわからないのだろう。彼のため息が聞こえた。

「……なら、最後に、おれの絵を見てくれないか?」

「え?」

「ルイのことを見ないって約束する。だから、そのスケッチブックの中身、見てくれないか」

 そして、私に向けられていた彼の視線が消えたことを感じた。

 おそるおそる、私はスケッチブックから顔を出す。ハルキは壁に背をもたれながら、膝の上に私の頭を乗せていた。彼は静かに目を閉じ、再び「見ないから」と言った。

 身体にうまく力がはいらず、私は頭を彼にあずけたままスケッチブックを手に取る。その絵はちょうど、この店で最後に描いたジャスミンの絵。その精巧なスケッチを見ながら、私は次のページをめくった。

 そこに描かれていたのは、店に立つ私の姿だった。

 ページをめくれば、ちゃんとした花のスケッチもある。その合間に、私が店で働く姿が描かれていた。水やりをする姿、花束を作る姿。どれも丁寧に描かれてるのに、私はいままで自分が被写体にされていたことにまったく気づいていなかった。

 さまざまなポーズで、スケッチブックの上に私が描かれている。全身もバストアップもどれも狂いがない。表情までもが、写真を見ているようにはっきりと描かれていた。

 そして。

「花、が……」

「また枯れちゃったんだな」

 彼の絵には、見えないはずの恋の花が、はっきりと描かれていた。

「ノーマンとは、うまくいくと思ってたんだけどな」

「……ハルキには、見えてたの?」

「この店には、ずいぶんめずらしい花が咲いてるんだなと思ってさ」

 目を閉じると、彼は優しい顔立ちをしているのだと私ははじめて知った。

「花が咲いてるとき、ルイはとても幸せそうな顔をしてるんだ。そして、誰かのことをいとおしそうに見つめてる。でもある日突然花がなくなると、店にはいつも通っていたはずの人が来なくなる。そしてルイはとても悲しそうな顔をしてるんだ」

 ページをめくるたびに、たしかに、いろんな表情を浮かべた私があった。胸の花が大きくほころんでいる時の笑顔は、スケッチブックいっぱいに描かれていた。

「おれ、なんとなく、その花がなんのために咲いてるかわかってたよ」

「ハルキ……」

 目を伏せたままの彼の穏やかな顔を、私はじっと、見つめた。そして、手を伸ばして、彼の鉛筆で汚れた指にそっと触れてみた。

「私、ハルキが好きなの」

 今思えば、自分から人に気持ちを伝えたのは初めてのことだった。

「いま、ハルキが私と目をあわせてしまったら。きっとこの胸に新しい花が咲いてしまうわ。そして、ハルキの心を吸い尽くしてしまうと思うの」

 大輪の花を咲かせ、蜜で蜂を誘い花粉を運ばせるように。私は、ハルキの心をも自分のために使ってしまうのだろう。

「ハルキがいなくなることがこわいの」

 すがるように指先を握った私の手を、ふいにハルキがふりほどいた。

 そして、覆いかぶさるように身をかがめ、私の頬を両手で包み込む。ハルキ、と、名前を呼ぼうとした私の唇を、彼の唇が塞いだ。

 深い口づけをおとし、やがて唇を離した彼は、両のまぶたを開いて、しっかりと私の目を見つめていた。

 その凛々しい眉と、鋭いまなざしに、私は動くこともできずただただ吸い込まれるように見上げ続けるしかできなかった。

「あいにく、飽きっぽい他のやつらとは違うんだ。めちゃくちゃ一途だよ、おれ」

 おそるおそる自分の胸に手を乗せると、今までにないほど激しく鼓動を打っていた。自分のすべてがそこに集まってしまったのではと思うほどに、熱く燃えてしまいそうだった。

「おれはずっと、死ぬまで、ルイのことを好きでいると思うよ」

 やがて私の胸に咲いたのは、いつもとは違う、真っ赤な椿の花だった。

 その花言葉は、『You’re a flame in my heart』。

「私も、ずっとハルキのことを好きでいるわ」


 ――あなたは私の胸の中で炎のように輝く。 



             END


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― 新着の感想 ―
[良い点] 読んでいくうちにすっかり物語の中に引き込まれました。 私の胸に咲く花というような、たとえが見事で、さらには主人公の気持ちがすごくよく伝わってきました。 [一言] 地球の星と申します。 先生…
[一言] ハルキを好でいたいが為に好きになれない…そんなルイの心の葛藤が、自分の身にも迫るように伝わってきました。 花言葉を使ったストーリーや、心に咲く花という障害物の設定が素晴らしいです。 ハッ…
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