第二話・「戴冠式(前)」
フィルラント王国暦3191年、春。
例年以上の雪量に閉ざされたフィルラントにも緩やかな暖かい春の日差しが訪れ、雪解けの季節を迎える。
北に聳える峻峰シュエレー神山は先日の一件以来ほとんど雪も降らなかったこともあり剥き出しの岩盤を晒し続け、長年あの白壁に親しんだフィルラント国民には心穏やかならぬ風景となっていた。あの恐怖。這い上るような恐怖を伴った長く続く地響きは今でも全国民の心に傷を生み、そしてしかし、それ故にあの少女の尊さを知る。
ただ一人国家の存亡を回避せんと立ち向かった弱冠10歳の少女。今やその名を、その知性を、その奇跡のような存在を知らぬ者はこの国には居まい。愚王に呆れ官吏の腐敗に倦んだこの国は希望を与えられた。
先代シャルテ・フィルラントの子、フィルラント国新王リィエル・タナック・フィルラント女王陛下、本日戴冠。
花畑みたい。
リィエルは馬車に揺られながらそんな風に外の景色を眺めた。向かいに座るレアが、きょろきょろと辺りを見回すリィエルを微笑ましそうに見やりつつも、堂々としていてくださいと言う。
王城を出て十数分。フィルラント王国におけるセス教の教会は南部市街地の中央に座し、その門扉は王城に対面するように設けられている。中央通りは二本、その西側を教会まで行き、帰りは東側を通るのが通例だとか。それに倣いリィエルのためにと急拵えで用意された華やかな飾り馬車が市中を南下していく。
その道を、リィエル新女王陛下を一目見ようと集まった民衆が埋め尽くしていた。
「こんなにたくさんの人がいたんですね」
人口約三万人と言えば小国に数えられるフィルラントのほとんどの人間がこの場に集っているのではないか、そう思えるほどの群集であった。そして誰もが女王陛下の御前にあっては失礼はならぬとばかりに着飾り、その色とりどりの装飾はあたかもリィエルが過去に暮らした家からも見た、春の花畑を彷彿とさせる。もっとも、あの花畑はこれほど大きな歓声を聞かせることはなかったけれど。
馬車と護衛の兵士らを先導するのはシュナだ。この日のために警備を始め道程の速度、兵士の人員数、配置、果ては用いる馬の健康状態や馬車の安全性の点検まで計画し、自らも加わって入念に準備してきたという。その先導は城を出てから几帳面なことこの上なく、本当に一定の速度で馬車は走っていた。フォガリ騎士団長とハンネル宰相に言わせれば、シュナの能力の中で最も秀でるのは馬術であり、手綱捌きにおいては若年でありながら他の追随を許さぬ腕前だとか。
「法衣は重くありませんか?」
「大丈夫です。それより、この冠が・・・」
「ふふ、慣れてくださいまし」
「うぅ・・・はい」
リィエルは頭に載せた宝冠を幾度目か、また位置を直した。べたべたとあまり触れるのはよくないのだが、どうにも頭に重いものを載せるのは慣れず、少々げんなりしていた。
宝冠に法衣。どちらもリィエルの年齢とこれからを考え、彼女の体にはやや大きいサイズが用意された。アクセサリとして用いられるこの宝冠は、リィエルのふわふわと踊る陽光色のくせ毛によく映える、紅の絹地に自然風景をモチーフとして何種類もの宝石をビーズのようにちりばめた豪奢なもの。これがリィエルの大人しい性格には派手過ぎると映り、当初困惑していたもののやはり年頃の少女らしいというか、誰しも憧れる「お姫様の冠」に思えてきたのか外観は概ね気に入った様子だった。問題はこの重さで、綿や絹を用いた比較的軽い宝冠とはいえ、他のほとんどは金でできているのだ。重くないはずがない。
もう一度宝冠の位置を直そうと手を上げたところで、法衣の上に羽織った長いマントも手に引っかかって持ち上がってしまい、危うく宝冠を取り落としそうになった。レアが甲斐甲斐しく手を添えてくれたので事無きを得て。
「ドレスのほうがよかったのでしょうか・・・」
「いいえ、そんなことは御座いませんとも」
法衣かドレスか。リィエル戴冠の儀に際して彼女の着衣とするもので少々揉めた。それは、他ならぬリィエルが法衣を着て行きたいと望んだために。
法衣は、基本セス教の司祭を始め神職にあるものが身に纏い、王や臣は無論として民も、セス教の祭事には身に付ける場合がある。そして特に、秘術士の正装としてフィルラントでは用いられる。恐らくそれ故にだろう。リィエルの事情を把握する臣達は、最後には王立学院長エンデルの強い提案もあって秘術士の法衣を基にデザインした一着をリィエルへと献上する次第となった。
感極まってリィエルはありがとう、と涙ぐんで礼を言い、試着したまま庭にある母の墓前へ行こうとしたのを皆で何とか言い含めて止めさせ、と一騒動もあった。
「・・・・・・・・・」
「・・・・よくお似合いですよ」
レアの言葉に再びありがとうと返し、微笑むリィエルの表情。そのどこかに、奥深くに翳りが見える。
リィエルの母、ミュシェ・タナックは卒業に際して学院から渡されるはずの法衣を受け取らず、誰の見送りも受けず学院から姿を消したという。その当人の口から、リィエルは聞いている。
「お母さんが、あの時法衣を受け取らなかったのは失敗だった、と言ってました。服はあんまりこだわっていないつもりだったのですけど、やっぱり着てみると気持ちが違うものです」
「嬉しい、と?」
「はい。・・・お母さんにも見せてあげたかったです」
そして寂しい、と。
華やかな暮らし、華やかな行事があればそれだけ、リィエルは過去に目を向け母を想う。事ある毎に深く落ち込むほどリィエルは弱い娘ではなかったが、幼さ故の儚さがあった。
秘術の成績を修めた者は誇らしさを法衣に表す。ミュシェ・タナックは誰にも誇るわけにはいかなかったために、法衣の贈呈を辞退した。だがそれでも心残りはあった。それほどその女性は努力を重ねたということだろう。
リィエルもまた秘術を学び続け、ついに母と並ぶ知識を保有するに至った稀有な少女である。誰かに認めて欲しい、誇っていたいという心情があるなら、やはり王ではなく秘術士としての自分が第一に浮かぶのだろう。だから法衣を選び、今こうして身を包ませている。そしてそれは母には出来なかったことだから。
「・・・・・・」
リィエルは車窓の外に広がる鮮やかな民衆の花畑に再び目を向けた。レアはその横顔に、常に一抹の寂寥を見出し続けている。リィエルが登城してから、今に至っても。
ミュシェ・タナックとはどんな女性だったのだろう。レアはリィエルにとって大きすぎる存在であるその女性を思い浮かべようとしたが上手くいかず、幻想の存在のような人物像をおぼろげに想像するのみだった。
やがて、馬車が止まる。
「着きました。さあ、リィエル様」
「はい」
歓声が一際大きくなる。その時にはもう、リィエルの顔に翳りは見えなかった。代わりに、少女としての緊張、そしてもう一つは新米の王としての小さくも確固たる威厳。
馬車の扉が開き、シュナが手を差し出していた。
レアが法衣の裾を持ち、他の侍従や兵士らも集まってきてリィエルの歩みを守る。
石畳を金糸の靴で踏みしめ、教会を見上げた。
憂いと迷いは違う。リィエルに迷いなど無い。
見上げた顔は晴れやかだった。
ことん。足音は小さく。
巨大な門が開け放たれ、リィエルが無数の従者を伴って一歩を踏み出す。それを見下ろすのは門の上の二体の天使像。その名前も由来もリィエルは知らないし、誰かが知っていると聞く事もない。それほど古い、旧くからの意匠が施された建物。国家の基礎となる、神が与えし場所。
教会に入るのは初めてだった。私生児であるリィエルは教会の生誕名簿に登記がなされておらず、そのため彼女の身分を示す記録は本来どこにも存在しない。それは一般であれば教会や国家との関与が極端に希薄であるということ。税金は発生せず、代わりに保護も無い。婚儀や葬儀は教会が行うがこれも扱ってもらえず、そもそも生まれたということになっていないはずだった。当然、後に登録することは可能だが、母は拒んだ。理由はこれも知らない。
リィエルはこの国のどこにも存在しないまま生まれ、生きて、あの日飢えて朽ち果てようとしていた。だがその血を証として、彼女はこの場所へやって来たのだ。顔も知らぬ父が遺した唯一の、そして絶対の財産によって。
迎えた教会の古い匂いがリィエルの鼻をくすぐる。何もない平原に神が国家に対し与える唯一の建造物。人間による補修を重ね、この国にあっては三千年を超える歴史の塊。
長椅子が並び、中央に道。正面の奥に低い舞台があり、祭壇が設置されている。周囲の壁は全て石造りで、防寒のため厚手のカーテンが壁面全体を覆う。それらにほぼかび臭さは無く、常に丁寧な手入れが施されていることが分かる。
門をくぐったリィエルを、先に列席した臣達の誇らしげな顔ぶれが迎え入れた。
「どうぞ陛下、ここからは教わった通りに」
「はい、わかりました」
幾分緊張もあろう。やや上ずった声音になり、リィエルはレアに苦笑してみせ、レアも微笑んだ。するりとマントの裾を手放すと、リィエルは再びことん、ことん、と軽い足音を伴って歩き始める。マントは教会の静謐に佇む空気に泳ぎ、ふわりと翻ってまたリィエルの背に収まった。
歩みは軽く。だが強く、強く。
フィルラント国セス教司祭長カテュ・マリアッキナが祭壇で待っている。祭壇の上には小さな冠が恭しく祀られており、その金色が天窓からの陽光と蝋燭の灯火で眩く輝く。リィエルは目を細めた。
ことん。足が止まる。
「ようこそ、リィエル・タナック・フィルラント女王陛下。セス神と人の盟約に基づき、貴女へ三つの奇跡を示しましょう。心の準備はよろしいか?」
「はい、マリアッキナ司祭長」
老齢を如実に語る結わえた白髪は長く、足首まである。カテュ・マリアッキナ司祭長は若い頃にシュエレー神に礼拝し、以来断髪を自ら戒め教義に殉じるべく覚悟を示した男だという。鉄の名簿は彼の名を50年以上に渡り、その最上段に刻み続けている。
皺だらけの手が、しかし微塵も震えぬ流水のような動作で王冠を持ち上げた。そのままマリアッキナは跪き、リィエルへこれを差し出す。
「どうぞ、お受けを」
「・・・はい」
手渡された王冠は、リィエルの手に予想外に軽かった。さほど華美でもないシンプルなその外見は、むしろ全体が金属製であることからずしりと重厚に思えたものだが。
「裏側に文があります。朗読を」
「文?・・・これは」
言われるままに王冠の裏側を見ると、確かに小さな文字で文章が彫られて・・・いや、浮き彫りにされていた。傷や曇りが見えないということは、鋳型で成型したのだろうか。
文字は、面白いことにリィエルにも読めない太古の言語で書かれたものだった。面白いというのは、読めないのにその内容が理解できたことである。頭の中に文章の意味だけが浮かび上がってきた。文字そのものの読み方は分からないが、リィエルはこの事象を臆することなく受け入れた。
「フィルラント国王 シャルテ・フィルラント ”運命が汝 汝が宿命 思うまま在れ”」
リィエルが目を見開き、何か言う前にマリアッキナが口を開いた。
「先代、シャルテ王の戴冠に際してもこの王冠は天意を示した。意味は王ただ一人が知ればよいもので、この文章の意味は私は知りません。先々代の王も別の文章を与えられましたが、やはりその意味は問うべきではない」
「あ・・・・・・」
「文に触れてごらんなさい。なぞって、拭い取るように」
まさか、と思いリィエルはしばし躊躇した。じっと文章を見つめ、やがて深く息を吐いた。
リィエルの指がゆっくりと文字をなぞると、その下から全く別の文字が出てくる。前の文字は消え失せ、新しい文章へと変わっていく。
神が父へ送った言葉はこうして消える。全ての王がこうして先代の歴史を上書きしていくものであり、過去と決別してきた。だがそれは必要な儀式なのだと、リィエルも理解できる。
ただし、時にこんなこともある。
「これは・・・・・・・・・お父さん・・・お母さん・・・」
「・・・文は、何と?」
浮かび上がった文字を見てリィエルは涙を目端に浮かべた。背後で、肩を震わせるリィエルを見て息を呑む気配があって、リィエルは慌てて肩口で目を拭った。
「フィルラント国王 リィエル・タナック・フィルラント」
これは悲しい涙ではない。むしろ、嬉しさがリィエルの胸を突く。
「”母の愛は杖に 父の愛は道に 汝は運命の子”・・・・・・」
教会内がざわめいた。リィエルは拭った先から涙が溢れ、鼻を啜り上げる。
「涙の意味は問いませぬ。誰に説明せずともよろしい。真意はお分かりなのですな?」
「・・・はい。よく、分かります。分かってます・・・」
何もかもを言葉にすれば、民は怒るかもしれない。臣も同じく。きっと父が受けた言葉もそうだろう。この言葉の真に意味するところを明らかにしてはならない。
王座に着き国家を見渡した、母の知識を受け継ぎ秘術の奥義を学んだリィエルだからこそ、その重さは理解し得た。
マリアッキナの指示に従い、王冠を再び彼の手に手渡し、リィエルは頭を下げた。
王冠はやはりリィエルの頭にも軽く、まるで最初からその体の一部であったかのように馴染んだ。
「これが第一の奇跡。今この時をもってリィエル・タナック・フィルラント女王陛下は正式にこのフィルラントの国王となられた。列した御一同、新王陛下に礼を」
マリアッキナが深くリィエルへと礼を送る。背後に控える大勢の臣も同じように。
金の王冠を戴いたリィエルが振り返り、朗らかな笑みを浮かべる。頭を上げた臣の面々は万感の思いを込めて拍手を送り、この小さな女王陛下への祝辞とした。
「私めの役目はここまで。第二の奇跡をお待ちくださいませ」
「第二?」
マリアッキナが身を引き、祭壇のある舞台の袖へ下がる。では、ここから誰が続きを行うのだろう。リィエルは不思議な心持ちながら、興味深くその時を待った。事前にこの展開は知らされてはいない。
その時は、それほど長く待つほどでもなく訪れた。
「・・・風が・・・」
ふわ、と教会の中を柔らかな風が駆け抜ける。暖かく、慈しむような風。天窓からはより強い日差しが降り注ぎ、リィエルの姿を照らし出した。
とん。
「・・・・・・!」
リィエルの足音よりも更に軽やかな足音が壇上から響いた。その場所には今まで誰の姿も無かったはずが、いつの間にか一つの人影が生まれていた。
淡く光り輝く純白。身に纏う僧衣も、肌も透けるほどに白く、髪は殊更に眩しい白銀。表情は優しげで、底知れぬ慈愛の眼差しをリィエルに向ける。
白い貴婦人がそこにいた。そしてその美貌。誰もが、リィエルでさえもが息を呑み目を見張るほどの絶世の美女。
とん。まるで時間の流れが緩やかになったような錯覚を覚える、たおやかな動作。
見とれるリィエルの前へと、その女性は歩み出て立ち止まる。
『私の名は既にお分かりですね』
涼やかに、それでいて柔らかい、春の知らせを告げる草原の風のような声音にリィエルは聞き惚れる。その言葉に頷き、リィエルは魂の奥底から湧き上がる名を口にした。
「はい・・・大天使、インリューク。わたしの守護天使様」
もう何度目だろう、教会のそこかしこから息を呑み驚愕する気配がある。マリアッキナ司祭長でさえ感嘆のあまり口をぽかんと開いていた。
『こちらへ。王の祭壇を開きましょう』
天使に招かれ、リィエルは差し出された手を取り壇上へ上がる。天使の示すのは壇上の奥、扉のような彫刻だけが施された白い石の壁。
怪訝に思っていると、天使インリュークがその壁に触れた。
「わぁ・・・!」
壁の装飾はどこにも継ぎ目などなかったのに、その滑らかな壁面は一直線に切り開かれ音も無く動いた。扉がそこに出現していたのだ。
微笑む天使に導かれ、二人はその奥へと入っていく。
王の祭壇。王と天使だけが入る事を許され、対話を行う秘密の小部屋へ。
扉が音も無く閉じた。