第一話・「フィルラントの少女王」
『フィルラントの少女王』
事実として、シュエレー神山の異変を察知するのは神懸り的な直感を要するものだった。気象観測官を総動員しても雪量の異常などを看破するのは難しく、国内中を見渡しても独力で気付いた者は片手で数えられるほどだったはずだ。それ故に信憑性は皆無に等しく、他大勢から見ればいつも通りのシュエレー神山にしか見えなかったのも、事実。
ハンネル宰相が自分の目で見て問題なしと納得してしまったのも無理はない。彼とてこの国に生まれ育ち何十年もシュエレー神山の白壁と共に過ごしてきたのだから。なまじ若い観測官よりも確かな目を持っていると言っても過言ではない。
議員らの反発があったのも不自然ではない。王国議会は国家の運営そのものに直結するため、これを軽んじることは即ち国政を放棄すること。つまり、先王シャルテと同じ道を歩むのかと諌める声でもあったのだ。彼らとて後ろ暗い部分はあれど、何も国益を破壊しようと思ったわけではない。むしろ逆で、ある程度正常に国政が機能せねば彼らも立ち回れないのだ。自分のためであり国家のためでもあった。一から十を非難できるものではない。
ただ彼らは優先順位を間違えただけだ。ただし、妨害工作を行ってまで主張するほどのものかどうかは話が異なるが。
その日は朝から快晴だった。朝日がシュエレー神山を眩しく輝かせ、雪原は太陽の熱でじわりと融けて水路に流れを作り始めている。
北部市街は一面雪まみれだった。家から出る熱で道路などは雪も融けているが、一歩街から出れば平原を貫く黒い道も閉ざされ、シュエレー神山までただ広大な雪原が形成されていた。
昨日までの吹雪がこの景色を作ったのだが、これは本当に珍しい光景でもないのだった。年に一度か二度、毎年このように雪が積もって街は閉ざされる。例年通りの光景なのだ。
その雪原の中を一人の少女が無謀にも歩いていく。リィエルだった。
右手には白い杖を携える。一角馬の角と称される宝具である。重いものではないが、背の低いリィエルが持ち歩くには長く、どうしても多少邪魔になった。
時折リィエルは雪に足を取られて転んだ。その度にじたばたと手足を動かし、懸命に立ち上がり、歩いた。
リィエルは子供で、体重が軽いのが良かった。雪量は大人の背丈の二倍近くに達しており、この上を歩くのは小さな子供以外には不可能だったろう。大人では雪に沈み、そのまま凍死してしまう。
手袋、マフラー、厚いコート。全て雪にまみれ、もはや防寒着として用を成しているかは分からない。頬を痛々しく真っ赤に染めて、鼻水をすすり上げて、リィエルは必死に前へ進む。
先日のシュナを思い出す。絶望一色に染まりリィエルに手を付いて謝った彼女を。何を謝る必要がある、シュナはよくやっていたのに、とリィエルは何度も言った。だがシュナは涙混じりにリィエルに謝罪を続けた。
レアが沈痛な面持ちでシュナを部屋に連れて行った。サエラは空元気でリィエルを励ました。
ヒーム・エンデル学院長は最後まで議員らを説得し続けていた。だが宰相の決定の下、何よりペリューク・ヤカラボの声は大きく、総意が覆ることは無かった。
もう手立ては尽きた。陣公式が失われた今、秘術隊士を動かす意味すら無くなってしまった。
だからリィエルはたった一人、誰にも言わず城を抜け出したのだ。
雪原の中に巨大な円形の窪みを見つけて、リィエルはやっと一息ついた。恐らくこの場所が陣を敷いた場所だろう。街の一区画ほどもある巨大な円形は先日から陣の敷設作業の間中、雪をどかし続けていたため分かりやすく表れたのだ。
きょろきょろと視線を巡らせると、もしも雪に埋まった場合に備えて設置された巨石が雪から顔を出していた。リィエルはまた手足をばたつかせるようにして雪の中を這い進み、巨石の上によじ登る。腕力の乏しいリィエルにとってそれは非常な苦労を強いられる行動だったが、非力さに震える腕を渾身の思いで動かした。
岩の上で背後を振り返る。明け方に城を出て、もう太陽は真上に近い。正午を過ぎてはいないがじきに昼だ。それほど彼女にとって遠い距離。
荒い呼吸を整えていると、不意に涙が落ちた。ぽろぽろと流れ落ちて、すぐに止まってしまったが。
城に居たのは一ヶ月にも満たない。それでも彼女にとっては夢のような日々だった。食べるものも着るものも、寒さにも困ることの無い日々。城内の者は皆優しくしてくれた。
あの国はどうなるだろう。きっと迷惑に思うのだろう。でも、いつか分かってくれると信じる。
リィエルは岩の上に立ち、白い杖を両手で掲げた。
一角馬の角は霊力の動きを助け、増幅する秘術士の至宝。これが宝物庫に存在したのは幸運だった。
きっと成功させてみせる。皆を救ってみせる。
さあ、始めよう。
「アル・ヤトゥル・イルア(因果よ辿れ)」
公式陣の無いこの場では、リィエルは公式の全てを読み上げることで術を完成形に持っていくしかなかった。杖を掲げ、長い文面をひたすら読み上げる。その意味を想像し、事象として創造する。
アル・ヤトゥル・イルア。因果よ辿れ。
アル・イウス・イルア。万象よ巡れ。
他の秘術の公式では絶対に見られない文頭の文句を持ち、続けて綴られるのは神話をモチーフにした文章。扱われる事象は既に手のひらに収まる規模を超える。例えば、星。例えば、災害。
母ミュシェがこれを始めとする秘術をリィエルに伝える際、彼女はこう言った。
『これは神々がこの世を作った言葉。だから人間はこれを使ってはいけない』
ああ、ごめんなさい。
お母さん、お母さん、ごめんなさい、わたしは使います。リィエルは何度も心の中で謝った。
何故ならわたしはこの国の王さまだったから。皆を守らなくてはならないから。
ゼルガ・ハバトは言った。「民は家族だ」と。ならばこそリィエルは一層の意志の力を振り絞り、勇気は満ち溢れ覚悟を確固たるものとして促す。
疎まれても、飾りでも、家族。リィエルが一度完全に失ってしまい、運命によって再び与えられたもの。
家族を守るのならこの命も惜しくは無い。二度と失う恐怖に比べれば死をも恐れない。
秘術は完成に近づく。星々の物語の一片、太陽神オルヤの説話に基づいた荒々しい奇跡の発露。
神々の長兄たるオルヤは天の頂きに座し、イゥスィーリアを見守った。太陽の始まりである。
オルヤは不埒な星々を左手に繋ぎ、右手で天を掴んだ。天動説の否定、地動説の肯定。
太陽神オルヤは軍神の性格を併せ持つ慈悲の男神とされる。その愛情は天の陽光となって星々に与えられ、星々は感謝を示すため夜空に輝き彼を崇める。
オルヤの両手は常に炎に包まれており、それまで凍てついていた世界は彼に掴まれたことで暖められ、動物達が生きていけるようになったとされる。
「バイロウ・アル・ガレット イラ・セレ・オルヤ・ヤハンダ」
オルヤの右手よ、今一度の顕現をして奇跡を表し給え。
リィエルの眼前に巨大な球体が生まれた。
莫大な熱量と閃光を放つその球体は、太陽神オルヤの力の発露。即ち極小の太陽である。
全身の血が奪われるようだと、リィエルは感じた。霊力の急激な消耗が体力に影響している。
小さな術ならいくら使おうがリィエルには影響が出ない。それほどリィエルの先天的な霊力は巨大だったが、今使おうとしている術は桁が違いすぎる。流石は母の作った術だ。
「やっぱりお母さんはすごい人です」
笑顔で。
白い杖の先端をゆっくりと振り下ろす。
巨大な火球が雪原に落下し、秘めた熱量を撒き散らした。
「あれは何だ」
城内からは既にリィエルの術が確認できていた。当然だろう、火球の直径はあの公式陣と同等、つまり街の一区画ほどもの巨大さなのだ。眩い閃光が雪原に反射して城下町を照らす様は、まさに地上に現れたもう一つの太陽。
何が起きた。あれは何だ。戸惑う声が城内を駆け巡る中、シュナもまた走った。
「陛下!陛下!」
どうしてリィエルが居ない。
シュナはもう泣き出しそうだった。先日の公式陣の破壊以来塞ぎこんでいたが、今朝になって事態は急変した。どこを探してもリィエルが居ないのだ。
レア、サエラも城内を駆けずり回っている。だがシュナはもう、頭では分かっていた。あれはリィエルだ。
「・・・・・・どうして!」
何故一言も、何も言い残さず行ってしまった。やはりあの会議での一件は大きかったというのか。シュナは頭を抱え、北のシュエレー神山が見える窓の近くにまろび寄った。
あそこに行くまで馬を飛ばして半時は要する。だがそれ以前に、自分が行って何になる。
視線の先で火球が動く。空中に浮いていたものがゆっくりと落下していき、雪原に叩き付けられた。その途端、爆発的な量の水蒸気が山の麓に溢れていく。雪が一瞬で蒸発しているのだ。遅れて爆発音が届いた。
どれほどの熱量があればあんな真似が可能になる?秘術士隊の隊士が何十人も連携して発動させる術というものもあるが、その中にもあれほど巨大な規模の術は無かったように思う。そしてそれをリィエルは恐らく一人で使っているのだ。
戦慄した。あの小さな体の我が君は、その内側に恐るべきものを秘めていたらしい。
「陛下・・・・・・!」
「これだけの爆音でも雪崩が起きないなんて・・・!」
リィエルは悲鳴をあげそうだった。目の前に見える白い壁は、いつしか地面に溶け込んだ水分もろとも地盤と同化するように凍結し、巨大な一枚の氷の板になってしまっているらしい。予想を超える事態だ。
今の水蒸気爆発が発した音で何も起こらなかった。新雪は多少流れてきたが、火球に飲み込まれて蒸発した。しかしそれも微々たる量。
もしも雪解けの時期になればどうなっていたか。水が地盤に流れ込み、その強度を弱らせる。発生するのは地滑りなどではない。山が半分崩れてしまう。
地面に染み込む前に全ての雪を気化させてしまわなければ。
「間に合って・・・お願いだから・・・」
今日は朝から快晴だった。随分雪は融けて水になったことだろう。どれほどの水量が地中に流れ込んだだろう。
もはや一刻を争う。
思えばあの雪崩避けの防壁は失策だったのではないか。あれがあるから雪は堆積し、水分は地中に入り込んでしまう。先人達は雪崩を恐れる余り簡単で短期的な効果の望める対策を打ったが、長期的な影響は予測できなかったのだろう。
火球の熱量によって生まれる水蒸気で頭がくらくらする。術の熱量を防ぐため結界を張っておいたが、防ぐのはあくまで熱量なので水蒸気は侵入してしまう。蒸気は高温になっていて、リィエルは額を流れる水が汗なのか結露した蒸気なのか、もうわからなくなっていた。それにコートも暑い。今すぐ脱ぎ捨てたい。
雪はみるみる内に融けて無くなっていく。だが、やはり懸念したことが当たった。
「だめ・・・あれじゃあ大雨が降ってしまうわ」
もうもうと立ち昇る水蒸気は上空に溜まっていき雨雲を作り始めていた。この雪全てを溶かした量の水分が雨になったらどうなる。春の雪解け水は川の水位を一ヶ月に渡って三倍まで増水させるというのに。
焦って火球の制御を誤るわけにもいかない。確実に地面を乾燥させながら山肌に沿わせなければ、自分の手で雪解け水を作り地盤を崩してしまう。ゆっくりと、火球を押し出すように動かす。
農地として再生できるだろうか。地下深くまで熱量に炙られて水分を失った土地が。懸念するが、仕方の無いこと。ここで失敗すれば農地がどうこうと言っていられる場合では無くなる。
この地表はもう乾いたと見て、更に火球を押す。汗が流れ落ちて目に入るが、ぬぐい取る暇もない。喉がからからに渇くが、休んでいる暇などない。
山を見上げる。なんて無慈悲なんだろう。わたしがここを動けばフィルラントの民は皆死んでしまう。その重責をただ一人に、災害の形で押し付けてくる。
「・・・負ける・・・もんか・・・」
脚が震える。立っていられず、岩の上に座りこんだ。体力が保ちそうにない。
「負けるもんか・・・!」
城の北門には大勢の人が詰めかけていた。シュエレー神山の異変を見届けようとしているのだが、おかげでエンデルはシュナを見つけることができた。彼女は他の人とは違い、外に出ようとしていたのだ。
「親衛隊長!」
「ああ、学院長」
顔色を見て直感した。やはりあれは陛下が一人でやっている。
「陛下ですね!?」
「そうです!は、早く・・・陛下をお助けしないと!」
だがどうやって。親衛隊長のシュナは元々騎士団の人間だったが、秘術には詳しくないはずだ。行ったところで何ができるというのか。
複雑な心中を察し、エンデルは俯いた。
その時後方から野太い怒鳴り声が響く。
「お前達、何をしている!あれは一体なんだ!?」
ペリューク・ヤカラボだ。いつの間に城に来ていたのだろうか。
いらいらと眉をひそめる小太りの男は集団の中にシュナを見つけると、その顔色を見てにやりと笑った。
「どうした親衛隊長。あれはもしや貴様の差し金だな?独断で秘術士隊を動かし、勝手な真似をさせている。そうだろう、シュナ・ミュテス・ルゼ!?」
シュナが顔を上げた。この男は何を言っているのだろう、と。
「学院長殿も!あなたも共犯であることは明白だ!即刻あの馬鹿騒ぎを止めさせなさい。さもなくばお立場を危うくしますぞ!無論、議会での査問はお覚悟していただきますが」
エンデルもシュナと似たような顔だった。この愚か者は一から十まで念入りに説明しても理解しないのか。いや、確かに理解しがたいこととは思う。技術的な内容なら先日の会議で他ならぬリィエルが例を示した。彼らは理解しないのだ。
呆然としていながら、いつしかエンデルは身を震わせていた。
「陛下も陛下だ!こんな騒ぎを放置するとは、品性を疑う!所詮市井の育ちということですかな!」
だがエンデルは自分の怒りは抑えねばならなかった。それより、シュナを止める必要があった。
「おのれええええええええっ!」
城内では数少ない常時帯剣を許された親衛隊長が、ペリュークに向かって抜剣していたのだ。エンデルは咄嗟に彼女を羽交い絞めにし、押さえつけた。
「貴様っ、陛下が、陛下がどんな思いでっ!!」
「ひっ・・・じ、城内で剣を抜くのか!?」
「離してください学院長!こいつだけは!こいつはっ!!」
いっそ離してしまおうかとも思った。だが、こんなことをしていて何になる。
「やめなさいシュナ!無意味だ!」
暴れるシュナ。後ずさるペリューク。状況に気付いた周囲の者が驚いて兵を呼び、遠巻きに様子を見ている。
兵士達にシュナが取り押さえられ、ペリュークが安堵して意地悪い笑みを浮かべた。その時。
「・・・・・・!?」
「な、なんだ?」
ずぅん、と地面の奥底を何か振動のようなものが駆け抜けていった。周りを見れば皆も何かを感じたらしく、不安そうな顔をしている。
兵に両手を掴まれたままのシュナと、エンデルが顔を見合わせた。
『・・・・・・!!』
もう一度だ。今度は先ほどより大きい。
城の天井からぱらぱらと破片が散っているのを見ても間違いあるまい。確実に今、揺れた。
「じ、地震か・・・?」
それにしては妙だ。まるでこれは、巨大な爆発の衝撃波のような振動だった。
まさか、とエンデルは山が見える場所に駆け寄った。そして驚愕に目を見開く。
「何が起きてるんだ・・・」
雪が消え失せて黒土の平原が広がる、あの辺りにリィエルは居るのだろう。その先に巨大な火球が赤々と炎を撒き散らして雪を蒸発させているのが見える。だが、更にその少し先。
地表の黒土と同じ色の巨大な壁が次々とシュエレー神山を封鎖でもするかのようにせり上がっていく。周囲の人々もその異様な光景に呆気に取られ、ペリュークやシュナも呆然としていた。
だがエンデルが気になるのはその先だ。
エンデルは山を見ていた。あの黒い壁はリィエルが発生させたものだろうが、何故そんな必要がある?あの振動は一体何だというのだ。それらは、半ば予測の付いていたことではあった。
山が白く霞んだようになった。その数秒後、またあの振動が響く。
エンデルの顔がみるみる恐怖に引き攣っていき、脂汗を流し始めた。何が起きているのか。何が起こるのか。彼はそれを明晰な頭脳で看破してしまった。そしてある問題にも。
「山が・・・山が崩落を始めるぞ。今の振動は地盤がズレた時のものだ。雪崩なんて生易しいものじゃない。シュエレー神山がそのまま滑り落ちてくる・・・」
エンデルが呟くように言った言葉だったが、予想以上に聞こえた人々が多かったらしい。メイドの一人が悲鳴を上げた。
「本当か、それは!?」
ペリュークでもエンデルが演技などしていないことは一目で分かった。だがもう、今更どうしようもない。
心底哀れむような目でペリュークを見ていると、誰かが後ろからエンデルの肩を叩いた。
「学院長、それは本当ですか」
「・・・・・・フォガリ騎士団長か。ああ、本当だ。もう逃げる時間は無い。今すぐにでも崩落は始まる」
「我々はどうすれば?・・・いや、ともかく避難を。市民を南へ・・・」
拘束を逃れたシュナが真っ青な顔のまま、ゆっくりとフォガリの前ににじり寄った。剣は兵が預かっている。
「・・・秘術士隊を動かされたそうですが。私に断り無く・・・」
シュナも、エンデルも。もう我慢の限界だった。
「あれは、陛下だ!あれは陛下なんだ!たったお一人で行ってしまわれたっ!!」
「!?」
「秘術士隊など動かしておらんよ、騎士団長。それに財務長官。貴様が陣を壊させたから動かす意味が無くなった!」
「な、何を根拠に・・・」
シュナが心底憎しみを込めてペリュークに掴みかかろうとし、今度はフォガリ騎士団長がこれを抑えた。エンデルはもうシュナを抑える素振りすら見せなかった。
「落ち着け、親衛隊長。あれが陛下というのは本当か」
「本当だ!今朝から・・・どこを探しても居なくて・・・」
「杖もありません!間違い無くあれは陛下です!」
レアだ。青ざめて、息を切らせている。今までリィエルを探して走り回っていたのだろう。だが、シュナと同じく諦めがついたようだ。
フォガリが傍に控えた部下達に取り急ぎ市民の避難を命じている。どの道間に合わないだろうが、リィエルがあそこで頑張っている限りは大丈夫かもしれない。エンデルはそこまで考えて、先ほどの思考の続きを思い出した。
背筋が粟立つ。馬鹿な、何故こんな重要なことを忘れていた。
「騎士団長・・・・・・騎士団長!!」
「なんです、学院長!」
「陛下を・・・秘術士隊を出して陛下を助けるんです!陛下はお一人であんな術を使っている!!」
「ああ、大した才能だが・・・」
この場に秘術に堪能な者はいないのか。エンデルは頭を抱えてしまいたかった。
「馬鹿か君は!陛下は死ぬ気だぞ!」
一瞬で場が静まった。エンデルの言葉を信じられないと言うように、皆黙って聞いている。
「なっ、何を・・・」
「あんな規模の術だ、いかに陛下の霊力が巨大でも体力が持たん!10歳の少女が耐えられるわけが無いだろう!?」
霊力の消耗は体力も同時に消耗させる。これはどうしようも無く、どれだけ霊力が大きくても体力が伴わなければ必ず術は体を蝕む。小規模な術ならほんの少し走る程度とか、ジャンプしたくらいの体力の消耗で済む。だが、霊力や体力に見合わない大規模な術を使えば、下手をすれば心身衰弱による気絶、昏睡。最悪で死に至ることもある。
そんな、とレアが悲鳴をあげた。シュナはもう言葉も無い。遠くにサエラが立っていたが、彼女も無言で青ざめた。
フォガリ騎士団長は絶句した。ペリューク・ヤカラボ財務長官も同じだった。
見落とすべきでは無いものを見落としていた。あの少女が何者なのかを。
「陛下は覚悟している。でなければたった一人で行くわけがない。そうだろう!」
もう長らく忘れていた。
王だ。彼女は、リィエル・タナック・フィルラントはこの国の王なのだ。
先王シャルテの遺児だからと、どこかで侮ってはいなかったか。まだ子供だと蔑ろにし、その言葉に耳を貸さなかった。だが彼女は王だ。王あっての民、民あっての王。どちらも欠いてはならない。
それ以前に、10歳の少女に全責務を押し付けて見殺しにするなど人間の所業ではない。欠片でも仁義を知るなら、ここで動かないのは罪悪にすら相当した。
「隊を編成する。シュナ、一緒に来たまえ!」
「は、はい!」
騎士団長が駆け出した。シュナが後を追う。
レアがメイド達を引き連れて行った。万一に備え、医療体制を整える必要がある。
エンデルはペリュークを引きずるようにして走る。
「避難勧告を出す。手伝えるな、ヤカラボ!」
「も、もちろんだ!」
「私は学徒と教員を分けて陛下の援助と、避難誘導にあたらせる」
「では私は使いを走らせる。宰相以下大臣を皆集めたほうがよかろう」
兵士達も慌しく走り始めた。
たかだか10歳の少女。そう誰もが侮り軽んじた王は、それでも己の責務を忘れず我が命を賭して民を救おうとしてくれる。王国に住まう者達が最も避けるべき罪を、あの少女は厭わなかった。
この国の真の王。人々はリィエルへの敬意を思い出しつつある。
意識が飛びそうだった。
「・・・・・・っぐ、う・・・」
歯を食いしばり堪えるが眩暈が消えない。リィエルは唇を血が出るほど噛み、痛みで意識を保った。
目を上げると山が白く靄に包まれている。ゆっくりと地すべりが始まっているのだ。咄嗟に別の術を構築して巨大な土の壁を築いたが、これで防げるかどうかは分からない。
「大地の神さま、ヤヌアフ。どうかお力をお貸しください」
海神カンヤジャラの背に五つの船を載せた五柱の大陸神。ミールハン、ヤヌアフ、ベゾッテュラ、ウェセアトア、オルゴレン。フィルラント王国があるのはヤヌアフ大陸だから、必然ヤヌアフ神の加護の下に我々は生きている。
加護。リィエルにはあっただろうか。
セス教が予言をするなど初耳だった。母の死は、あの日の雪は、全ては予言に無かったという。リィエルにとって母こそが全てだったのに。
神に祈る度に一抹の虚しさを感じた。国土神セスの加護は母を守ってはくれなかった。
代わりに王位を与えるというなら、王位を返上して母を返して欲しいとすら思う。それが不可能だと分かっていても。
霊力が極限まで消耗され、消え失せそうになる意識でリィエルはそんなことを考えていた。それは弱気なのだ、とリィエルは頭のどこかで理解していたが、思考が止まらない。
悔しさに泣けてきた。結局、自分がここでこうしていることも神々の手のひらの上なのではないか?自分の運命は全て利用され、消費されるだけなのではないか。そんなのは御免だ。
だがそれでも、リィエルは力を振り絞ることを止めない。
「アル・ヘーレバタ アル・ヤヌアフ・カマル セレ・ユラス・シュエラス」
大地の加護よ、ヤヌアフの恩恵よ、我らを守る盾となれ。
黒土が更にせり上がり先ほどの壁を包むようにもう一段、構築された。何もかもが巨大で、圧倒的な光景。その光景を支配するのがこのちっぽけな少女だと誰が信じよう。
揺れが酷くなる。もう限界だ、あの山は今この瞬間からでも崩落を始める。いや、これだけ揺れているのだから既に内部では地盤の隙間に水脈が入り込み、大規模なズレが発生している。ぎりぎりで引っかかっているような状態だろう。
リィエルの周囲は完全に雪も無くなり、黒土の大地が見えている。ここまで乾燥させてしまわずとも、せめて表面の雪だけでも溶かせば被害は減るだろうか。そしてあの黒土の壁をぶつけ、強引に押さえ込む。
どれだけ霊力を消耗するだろう。まだリィエルの中には枯渇しきれないほどの霊力を感じるが、体力のほうがもう限界を既に超えているのだ。汗すら出なくなり、吐く息に病的な熱を感じる。倒れこみそうになりながら杖に縋りつき、火球と壁を維持するために左手だけは前方に突き出されている。手のひらで距離と角度を見ているのだ。目測だけでは難しい。だがその左手も、もうリィエルには重い岩でできているように感じられた。肩がきしみ、肘が悲鳴を上げ、手のひらが焼け付くようだ。今すぐ降ろしてしまいたい。でもそれはできない。
シュナはどうしただろうか。レアは、サエラは。城のみんなはもう逃げてくれているだろうか。流石にこの状況を見ればエンデル学院長が事態を察しているはずだ。
少なくとも北部の市街は全員避難していてもらわなければ困る。万が一リィエルが失敗して力尽きれば、少なくとも最初の見立て通りの被害は覚悟せねばならない。南部まで土砂が到達するようなことはさせないが、王城のある丘、そして城も壊滅は免れないかもしれない。
何度も何度も意識が暗転しそうになり、堪え、持ち直す。もう時間の感覚もほとんど無い。ここに来てからどれだけの時間が経過したのだろうか。
既に火球は麓を舐め尽くし、山肌に到達していた。斜面の雪を吹き飛ばし、途方も無い量の水蒸気が立ち昇る。だが、ああそれだけでは駄目だ。やはり一手足りていない。上空に達した水蒸気が凝固し、雲になっている。いつ雨が降り始めてもおかしくない。それではせっかく乾燥させた土壌がぬかるんで地盤が脆くなってしまう。どうにかして雲を海まで流さないといけない。
リィエルは泣きたい思いを耐えながら、更に別の術を唱えようとした。風を起こしてあの雲を流す。民は困るかもしれないが、弱い風でも市街までなら動かせるかもしれない。そう考え公式を口にしようとした。
その時、今までにない大きな揺れがリィエルの体を突き上げた。
「!!」
岩から転がり落ち、地面に肩から着地する。左肩を強く打ってしまった。左手全体が痺れたような感覚に襲われ、痛みで気が遠くなる。
いっそこのまま眠ってしまおうか。気の迷いが首をもたげ、リィエルの弱気をくすぐる。
だがそれでも、こんな状況になってまでも。
「・・・・・・まだ、まだよ・・・まだ、負けない!」
もう嫌だ、と言えない。リィエルらしい長所であり、短所が彼女を悲惨で過酷な判断へと突き落とす。
泥まみれのマフラーが鬱陶しくなり、剥ぎ取るように外して投げ捨てた。痛む左手を懸命に上げて、火球の制御を取り戻す。杖を右腕に抱きかかえるようにして体を支え、土壁の形状を維持する。
揺れが更に強くなり、シュエレー神山は白煙に包まれた。
何かが聞こえる。低く、太く、巨大な咆哮。山が鳴いているのだ。
崩落が始まった。
土壁に土砂が衝突した瞬間、その抵抗と土壁の形状維持のために霊力が一瞬恐るべき勢いで消費され、リィエルはほんの数秒だけ完全に気絶していた。
「っ、いけない!」
防雪壁がある部分が次々にひび割れ脱落し、植樹が根元から倒れて軽々と転がりまわる。同時に地中を血管のように流れて地盤を剥離させた水脈が溢れ、怒涛の勢いで水が流れ落ちてきた。
轟然と音を立てて山が崩壊してくる。雪と混じって土石流となった暴力的な力の奔流が次々に土壁を打ち据え、内部の水分が火球に触れて一瞬で気化し破裂音を鳴らす。
なんとか土砂は土壁によって横に逸れ、水路に沿って流れている。だがリィエルは一瞬たりとも気が抜けない。
崩れたのは斜面の下側、ほんの一部だった。ここから見える頂上まではまだ健在であり、そして揺れは依然として続いている。まだ続きがある。それも今のものとは比較にならない規模が。
風を、そうだ風を起こさなければ。公式を読み上げようとして、だがリィエルの喉は渇ききっており、張り付いて声が出なかった。代わりに掠れた吐息だけがひゅうと鳴る。
リィエルは喘いだ。もう打つ手がない。火球と土壁だけでなんとかするしかない。
雪がある程度無くなったら火球を上空に放り上げてみようか。熱量は気流を生むから、うまくすれば雲を押し流せるかもしれない。
雨が降る前に土壁をもう一枚作って水路を形成しようか。東の守護聖獣クシャタラナトは怒るかもしれないが、川まで水路を繋げば流水が土砂も流してくれるかもしれない。
まだ出来ることはある、とリィエルは気を持ち直した。だがそれも、もう遅かった。
「あ・・・・・・あれ・・・」
脚が動かない。這って進むこともできない。いつの間にか右手は杖を支えず、肩にもたせ掛けて保持していた。左手だけが辛抱強く火球を支えるように突き出されている。
呼吸が弱い。強い睡魔が襲ってきて、リィエルは必死に眠るまいと耐えた。だが視界は徐々に暗くなり、彼女の意思とは無関係に意識が途切れようとする。
駄目だ、ここで眠れば火球が制御を失って消滅する。土壁も形状を維持できず、土砂が溢れてくる。
混濁する意識の中、僅か10年の記憶が脳裏に蘇ってくる。母のこと、秘術のこと、数少ない友のこと。
「・・・・・・お・・・母さ・・・ん・・・」
城のこと。シュナのこと、レアのこと、サエラのこと。
「・・・・・・・・・・・・」
・・・・・・風。
「・・・・・・カイン・・・さん・・・」
友を呼んだ。
風が吹いた。
『小さく幼き我が友よ。よくぞここまで頑張った』
「・・・・・・・・・?」
言葉は空から聞こえた。いつの間にか日が翳っている。リィエルは僅かに上を見た。
昔、リィエルは西の森で迷ったことがある。森を抜けて辿り着いたのは国境に聳える巨大な壁だった。そしてその中央、壁の上に座した巨大な鳥に出会った。
彼はたった一人、いや一羽のリィエルの友だった。時折リィエルは森を抜け、彼に会いに行った。彼もまた小さく幼い友人が訪れるのを喜んだ。
しばしば彼は遠くを、城を見ていた。城とリィエルを見比べ、何かを思っていた。
幼くして聡明だったリィエルは彼と色んな話をした。秘術の話、動物の話、世界の話。建国より以前から生きる彼は、三千年以上の歴史を語りつくせるものかと笑った。
そしてあの冬が来て、会うことができなくなった。春になればまた会えるとリィエルは信じたが、彼はそうはならないことを知っていた。いや、ある意味で春になれば会えることは分かっていた。
今ここで助けるために。
彼は風を司る者。
フィルラント王国西方国境の守護聖獣、巨大鳥アールカイン、飛来。
天が捻じ曲がる。そう形容してもおかしくない光景が彼らの前に広がる。
「あ・・・あれは、まさかアールカイン様か!?」
馬よりも遥かに大きな騎竜を駆るのはフォガリ騎士団長であり、同じくシュナも同乗していた。その上を巨大な影が通り過ぎていったのはたった今のこと。後方に続く馬上の兵士らも目を見張り、天を仰ぐ。
何故守護聖獣が国境を動く。まさか王のためだとでも言うのか。フォガリは信じられないものを見た思いで呆然としていたが、空の動きを見て更に驚いた。
「風だ・・・」
山麓で発生した膨大な量の水蒸気が雲になっていたが、上空を猛烈な勢いの風が吹いてこれを南へ流している。その雲が真上を流れ、ほんの微かに水滴が頬を打ったがそれだけだった。雲は雨になる前に海まで流れていく。
「た、助けてくれている・・・のでしょうか」
「・・・分からない。だが、我らも遅れを取るまい!」
「はい!」
騎竜、ゲマトルダットというレムダット種、つまり飛竜の仲間だが、飛ぶよりも走る方向に進化した竜は馬よりも圧倒的に速く、巨大だ。先行することで北方の雪道を蹴り払い、後続する部下達の道を切り開いて行く。
なにより雪が溶けかけていたのが幸いした。朝までの雪量のままであれば騎竜でも雪の壁に道を阻まれていただろう。だがあの火球の熱量によって、その雪も半分近くが溶けてしまっていた。
改めてシュナはリィエルを想う。彼女の存在こそが奇跡のようだと。フォガリ騎士団長にもその感動は乗り移ったのか、先日までの軽薄な雰囲気は微塵も無かった。必死に騎竜に鞭を入れ、更に加速させる。
目指す先、黒土の平原に巨大な鳥が舞い降りようとしていた。その、あまりにも幻想的で優美な光景。鳥は艶やかな木目に似る翼を揺らし、その度に風圧で羽毛が波立った。翼長はもはや考えるのも馬鹿らしいほど巨大だ。
何もかもが巨大なので、フォガリやシュナは遠近感が狂ってしまいそうだった。雪原も、シュエレー神山も、小さな太陽も、黒い土の壁も、あの大きな鳥も。そしてその中心に彼女はいる。まだ10歳。年齢に比して体はかなり小さく、足腰は強いが腕力が無い。ちっぽけな少女だ。本当に小さい。
シュナは泣いていた。あんなに小さいのに、あんなに幼いのに、我が君よ。我が王は誰よりも大きいではないか。
フォガリ騎士団長はシュナの嗚咽を聞いて、粛然と黙り込んだ。彼はつい先刻まで、王のことを単なる可愛らしい飾りくらいにしか考えていなかったような気がする。それを恥じ入っていた。
その恥を拭わんがため、フォガリの鞭打つ手に一層の力がこもる。距離はもうそう遠くは無い。早く、速く。
突然の雨に市街は動揺していたが、概ね誘導に従って国民は南へ向かい逃げ始めた。皆シュエレー神山の異変に気付いていたため僅かな説明で事態を把握し、誘導に従っている。問題はパニックが起きないかどうかだが、こればかりは何とも言えない。
エンデルは部下の教員らに後を任せると、先日から声をかけ集めていた数十人の教員と学徒の集団に声をかけた。
「これより我々はシュエレー神山に赴き、陛下の術を補佐する!だが、行きたくない者は無理に付いて来なくてもよろしい!なにより君達の命に係わるかもしれん!親兄弟が心配だろう、自分だけのことを考えても構わん!だが陛下は、御身を投げ打って我々を救わんとしていることを忘れないで欲しい!」
命に係わる。そう聞いて一同に動揺が広がるのが分かった。だがここで逃げたいと言う者があっても止められはしない。彼らは兵士などではなく、市民と変わらないのだ。
しばらくの沈黙が流れた後、一人の教員が前へ出た。
「学院長、そのリィエル陛下があのミュシェ・タナックの遺児という噂は本当でしょうか」
教員の間に驚きの波が広がる。当然だろう、その名前は既に学院の伝説であり、学院に籍を置く者達が最後に目指すべき目標なのだから。
エンデルは無言で頷いた。その教員はまたしばらく黙ったが、やがて苦笑した。
「では、我々教員一同は是が非でも陛下をお助けせねばなりません。あの術を見ればわかる。陛下は、ミュシェ・タナックの夢の続き。我々の理想の続きです。失うくらいならこの命を身代わりに差し出したい」
「君・・・・・・」
私もです。僕もです。教員らが次々に意思を示した。そして学徒の一人が前へ出る。
「学院の伝説、ミュシェ・タナックのことは僕らでも知っています。どうか学院長、逃げろなんて言わないでください。それに王様なのでしょう?王様一人に頑張らせて僕ら国民が逃げ出したんじゃ、僕らはこの国に居る資格がありません。どうぞ僕らも連れて行ってください」
その青年に、後ろの若者達も続いた。皆決意を秘めた表情で、エンデルは目頭が熱くなる思いだった。
「・・・・・・ありがとう。協力に感謝する」
ご覧ください陛下。あなたは民に愛されている。
ペリューク・ヤカラボ名義の緊急召喚状によって城内の会議場に議員全てが集められた。彼らも異変に気付いていたが、最初のペリュークと同じようにシュナ辺りが暴走したのだろうと決め付けようとしたため、当のペリュークは顔から火が出る思いだった。自分は何と愚かな事を言ったのだ、と。
「お聞きください。緊急を要する事態なのです」
珍しく殊勝な態度のペリュークが説明を始めた。あそこで今何が起こっているのかを。
説明が続くにつれ、議員らの顔はみるみる青ざめていった。そしてあの火球を作り孤軍奮闘しているのが他ならぬリィエル陛下であると言葉にした瞬間、数名の議員からは悲鳴すら漏れた。
ハンネル宰相が馬鹿な、と叫ぶ。
「何故、そんなことになっている」
「へ、陛下は・・・陛下はお一人で我々をお救いくださるおつもりだったのです。秘密裏に陛下が指示なさっていた秘術の陣が壊されて、そ、そのため・・・そのために秘術士を出せず、唯一対処できるのが陛下で・・・」
「なっ・・・・・・なら、その秘術の陣が壊されたというのはどういうことか!?」
ペリュークの顔にさっと血が昇り、また引いて真っ青になった。そうだ、これを説明せねばならない。
冷や汗を流しおろおろと落ち着かないペリュークを見てハンネル宰相は大体のことを悟った。そもそも、彼ならやりかねないなとは感じていたからだ。
「・・・・・・ぼ・・・妨害、工作を・・・し、指示したのは・・・わ、わわ、私・・・なのです」
会議場が水を打ったように静まった。ペリュークの独白が続く。
「兵に・・・兵に金を握らせ、雪が降ったらそれに紛れて陣を壊せと・・・それが、そ、それがあんな・・・」
ハンネル宰相が眉間を揉んだ。他の議員らは唖然とし、だが思うところが無いわけでもなく罵声はまだ無い。
「・・・・・・こ、こうなった以上、死罪を覚悟しています。ですが、ですが・・・どうか、償いたい。陛下をお助けせねば、私は死んでも死に切れない」
「その陛下こそが死をお覚悟し今まさに決死の場におわすのではないかッ!!」
「ひぃ!」
ハンネル宰相が拳を机に叩き付けて立ち上がった。叫び声に議員らは驚く。宰相が激昂する姿など一度たりとも見たことがない。
ハンネルはペリュークを睨み付けていたが、目を閉じてまた座った。ため息が漏れる。
「・・・・・・私も陛下を侮った所があったようだ、貴様をこれ以上は詰れん。構わぬ、兵を出すなりするなら軍団長としての全権を一時的に分配して皆に託す。今からできる全ての対策を講じ、動きたまえ。では解散!」
ハンネルが手を打ち、それに弾かれたように皆が立ち上がった。思い思いに部屋を駆け出し、それぞれが居るべき部署へと向かっていく。そしてペリュークとハンネルが残った。
「・・・どうした、行かんのか」
「・・・・・・死をもって償わんという覚悟はお認め下さい。私は、余りに愚かだった・・・!」
「気持ちはわかる。事ここに至って相対的にあの陛下は我らの遥か天上の存在にも思えるからな。余りに聡明、余りに勇敢。だが思い出すがいい、長官。陛下はまだ10歳の少女だ。軽々しく死罪など頂けまい」
「・・・・・・・・・・・・」
「どうなるとしても、まあ陛下が生き延びてくださってから、だがな」
「そう、そうですね・・・」
祈らずには居られない。ペリュークは再びリィエルの御前に出てこれまでの所業を謝罪し裁定を受けねば気が済まない。その結果として死刑に処せられようとも、それがリィエルの意思なら彼は満足するだろう。
どうか生きて帰って欲しい。ペリュークもまた心から願った。
『風に聞いた。エリー、無茶をする』
「カインさん、どうしてここに・・・」
『友だからだ』
「・・・・・・ありがとう、とっても嬉しいわ」
『それは光栄に思う』
岩に背を預け、掠れた声でリィエルが話している。会話の相手はリィエルの体の何十倍あるだろうか、途轍もなく巨大な鳥、西の守護聖獣アールカイン。
シュナとフォガリは目の前の光景に目を丸くし、呆けたように言葉も出なかった。何故なら、守護聖獣は基本的に人々とは関わらない。フィルラント王国史三千年で西の国境兵が彼と対話したことすら十回も無いとされる。例外的に王や司祭長などが対話を求めて応える場合があるとも言われるが、少なくともシュナとフォガリはこの聖獣の姿を見た事さえ少なく、ましてや声など初めて聞いた。
そしてそれ以上に、そのアールカインと親しく話すリィエルが信じられなかった。この少女は一体どこまで自分を驚かせてくれるのか。
ましてこの空前の風景。太陽と見紛う巨大な火球が山肌を焼き尽くし、雪を吹き飛ばし気化させ、土砂の内に含まれる岩石は半ば溶解して灼熱の溶岩となり、地表に落ちて固まっていく。黒土の壁は国境の壁よりも高い。これに比べれば城の周囲を巡る城壁など紙切れのようなものだ。それが轟音鳴り響かせ山へと迫り、大量の土砂を押し阻んでいる。リィエルが火球で巻き上げた水蒸気は上空で雲に変わっているが、恐らくアールカインの御技だろう、空が渦を巻き突風を生み出して有り得ない速度で雲を南方へ押し流している。風を操る聖獣アールカインならではと言えた。
だがそこまでを見て気付く。リィエルは岩に背を預けてアールカインと会話をしながら、左手を前に突き出したまま。彼女は今も術を制御しているのだ。そして、その体はほとんど身動きもしない。
「陛下・・・・・・陛下ぁっ!」
騎竜の背から飛び降りて走る。自分に何ができるわけでもない。ただそれでも、リィエルの傍に居てやることはできる。せめてそれだけでも。
アールカインが瞳の動きでシュナをちらりと見ると、リィエルに何かを言った。リィエルはそれに反応し、立ち上がろうとしている。もう、体力がどれだけ残っているのか。
岩陰に回りこみ、リィエルの姿を見て愕然とした。泥にまみれ、衰弱し、虚ろな目で、だがゆっくりと確かにシュナを見て笑った。
「シュナ、さん・・・」
「陛下!ああ、こんなになって・・・!」
遅れてフォガリもやってくる。彼もリィエルを見て絶句していた。
「だめ・・・だめです、逃げてください。抑え切れなかったら、みんな死んでしまう」
リィエルはぼろぼろの姿で、掠れた声で、それでもシュナ達を気遣った。シュナが言葉を失って俯き、フォガリは険しい表情で目を逸らす。
だが、まずフォガリ騎士団長が顔を上げた。
「逃げるなど、聞けません陛下。我々に恥をかけとおっしゃるのですか」
「・・・・・・?」
フォガリが後方へ目を向ける。ほぼ同時に音が聞こえてきた。無数の騎馬が地を駆ける勇壮な交響曲。
先陣を切って到着したのは騎士団麾下秘術士隊、剣士隊の面々である。この到着を待ってフォガリは前方へ歩み出ながらその腰に提げた剣を抜き放った。
リィエルが彼を止めようと喘ぐ。それはそうだろう、黒土の平原には今も多量の水蒸気が満ちており、これは火球の熱量に炙られてかなり高温になっている。現にフォガリも少しばかり眉をひそめていた。
だが、彼は堂々たる態度でその剣を地に突き立てて吼えた。
「よいか諸君!我々はフィルラント王国女王、リィエル・タナック・フィルラント陛下の剣であり盾である!故に陛下の背後に身を隠し使命を忘れるは末代までの恥と思え!」
馬から降りた兵士達が次々に駆け寄り、リィエルの前に整列していく。だめ、とリィエルは叫ぼうとしたが声にはならなかった。そしてそれを、アールカインは面白そうに見下ろしていた。
「ここに立てた剣より後ろに退くことまかりならぬ!一歩でも退けばその者は既に騎士団の一員ではない!いや、退いたその瞬間に私がこの手で成敗してくれる!分かったな!!」
応!!
一糸乱れぬ兵士達の雄叫びが響き渡る。直ちに彼らは作業に入った。剣士隊が小さな塹壕を掘り、盾を地に固定して熱風を防ぐ場所を作っていく。秘術隊が各小隊長の指示の下、リィエルの使う術を検分し同時詠唱の公式を決定する。その工程が終了するまで、三分も要しなかっただろう。恐るべき手並みだ。
作業が終わるや否や秘術隊士の面々がその穴に飛び込んだ。さほど深くない穴の中で跪き、前方を見据える。
「詠唱、用意!」
号令に従い彼らは手帳のような大きさの本を開いた。
「・・・陛下、自分は秘術士隊隊長のモルトレと申します。あの術、見たところ火球ですが、ただの炎ではありませんな?使用する術は考慮すべきでしょうか」
近くに立っていた秘術士隊の制服を着た男に問われ、リィエルは頷いた。
「あれは太陽の複製です。炎を使うなら焦点をずらしてください。土の壁は大地の基です。壁を重ねるなら岩を用いて被せてください」
「了解致しました」
ごく手短に会話は済んだ。彼にもリィエルの惨状は一目で理解できる。いや、秘術隊士だからこそだ。どことなく辛そうな表情だった。こんな子供に辛い思いをさせて、自分は今まで何を。そう自身を責めるような。
「項目一を開け!第四章六番!・・・・・・始め!!」
隊士らが一斉に公式を読み上げる。まるで合唱のような全く乱れのない詠唱にリィエルも驚いていた。だが、これほど整った詠唱であろうと、ほんの僅かなズレだけで術の完成度には影響が出る。それが長文公式を詠唱する欠点だったからこそ陣を敷こうとしたのだった。今更ながら悔やまれる。
『アル・フォーラド・アンク!』
炎を操る公式が完成し、一同の眼前に無数の火の玉が生まれた。リィエルの術の何千分の一にも満たないが、これだけの数が複合すればそれなりに補助はできる。
隊長の命令と同時にそれらは空中を疾走し、リィエルの火球の周辺で霧のように拡散した。次々に火の玉が同様の変化を見せ、火球周辺の気温を一気に引き上げていく。術同士の干渉を防ぎ、効果を相乗させる上手いやり方だ。
リィエルは火球と雪が衝突する際の負荷がかなり軽くなったように感じた。手のひらにかかる圧力が和らいだような、そんな感覚だ。これなら体力の消耗も随分と抑えられる。
「おお、もう始めているのか!よし皆、すぐに詠唱の用意だ!」
加勢は更に続いた。エンデル学院長と学院教授陣、それに学徒達が馬と馬車から飛び降り、秘術士隊の背後に整列する。その誰もがリィエルを見てはっとしていた。彼女を見るのが初めてだという者のほうが多いだろうが、それ以上に新女王がこれほど若い、少女であること。そして命を賭してという言葉に偽り無いことに衝撃を受けた。
剣士隊が新たに塹壕を掘り、その短い間にエンデルはリィエルの容態を診る。
「・・・・・・もう、限界では?制御は手放せないのですか」
「はい、だめです。わたしが止めたら、あれは消えてしまいます。だから・・・」
「・・・・・・承知致しました。騎士団が火球を担当しておるので我々は壁を補助します」
その時エンデルの背後から秘術士隊の隊長モルトレが歩み寄り、挨拶をしてきた。彼が先ほどリィエルの指示を受けとっていたのでそれをエンデルに伝える。
やはり塹壕は三分もかからず出来上がり、学院の面々もそこに飛び込んだ。エンデルも彼らと共に参加するらしい。
「・・・シュナ、君がそんな顔をしてどうする。君はここで陛下を支えるんだ、いいな」
「は・・・はい。分かっています」
「よろしい。では陛下、また後で」
エンデルがその場を後にし、連れて来た面々と公式の詠唱に入る。だが秘術隊士でもない者達が即席でそうそう連携が取れるわけがない。どうするのかと思っていると、予想通りてんでバラバラな詠唱が聞こえてきてしまった。
これでは駄目だ、とシュナは頭を振るが、リィエルは逆に笑顔を見せた。
「あは・・・す、すごいです。やっぱり、学院・・・お母さんの居たところって、すごいんですねぇ・・・」
「え?」
直後、シュナは背後で大きな音が鳴って振り向く。そこには何枚もの石の壁が地中から発生し、津波のように次々と黒土の壁に押し寄せてその表面から押さえつけるという光景が広がっていた。
連携が取れないなら取らなければいい。秘術士隊という道を捨てて研究の道に人生を捧げた連中だ。少なくともその才能は本物で、個々の能力だけなら秘術隊士の面々を遥かに上回る。その証拠に隊士らからは感嘆の声が漏れ聞こえてきた。
『見事だ。どれ、随分軽くなったのではないか?』
「あ・・・はい、本当です。だいぶ楽になりました」
アールカインは笑ったようだった。目を細め、獰猛な外見にも係わらず随分と優しげに喉を鳴らす。まるで鳥のようだな、とシュナは思ってしまい、直後に思わず噴き出しそうになった。鳥だ、彼は。
『・・・・・・そうか・・・そうか、エリーは王になったのだな』
「はい、王さまになったんです。でもまた遊びに行きます」
『うむ・・・・・・』
屈託無くリィエルが答えたが、こういうところは子供らしい。シュナにはアールカインが何を言わんとしたのかすぐに察していた。なるほど、幼い頃のリィエルを知る者の言葉だ。
『ならば祝いだ。この身に宿す風を司る力、とくとご覧じよ!』
アールカインが翼を広げ、飛翔した。風圧であちこちに風の渦が巻き起こり、雪が舞い上がる。だがそれで終わりかと思っていると、その全ての風の渦が勢いを止めることなく成長していくではないか。
「すごい・・・!」
風の渦は竜巻となり、それでもまだ勢いを緩めず更に更に巨大化していく。それらは火球に吸い寄せられるように動くと、ついにその中に飲み込まれてしまった。何が始まるのか、皆も興奮気味に目を輝かせている。なにせ聖獣が力を発露するところなど滅多に見られるものではないのだ。戦争が勃発すれば話は別だが。
火球に飲み込まれた竜巻は山の斜面の方に突き抜けて姿を表した。それは今や火球の熱量を纏う、炎の渦と化している。莫大な熱量を持つ空気の渦が雪山の斜面を駆け登り、その表面の雪を蒸発させて吹き飛ばしていく。
負けていられない、とリィエルは火球を押し、秘術士隊も続いた。雪が無くなっていく速度は今までの比では無く、山の斜面は炎に巻かれて上空の大気まで歪んで見える。
その時、一際大きな振動が皆を襲った。ついに山頂から垂れ下がっていた斜面が剥離し、崩落を始めたのだ。
学院の面々は更に詠唱の速度を上げて石版を生み出し、その枚数と量で黒土の壁はもう見えなくなるほどだった。彼らもまた体力の配分を考えず、衰弱した様子の者も散見される。
だが、ここで己の命を惜しむ者などいなかった。それはどの道ここで術を止めれば土砂に飲み込まれ死んでしまうからであり、幼いリィエルの覚悟とひたむきさを思い知ったが故の決意である。
「・・・っ・・・うっ、く・・・あっ・・・!」
リィエルが小さな悲鳴を上げた。術に圧し掛かる負荷が彼女の体力を瞬間的に奪い、全身が激痛に襲われるほどに蝕まれているのだ。それでも彼女は耐え続け、同じく誰も逃げ出す者は無かった。
『三千年、この国にあってこれほどの災害は初めてだな』
アールカインですら唖然とする。それは恐ろしい光景だった。シュエレー神山の斜面が完全に剥離し、都市サイズの一枚岩となって滑落してくるのだ。あんなものをこの国は長らく抱えていたのかと誰もがぞっとした。仮にあの巨大な岩が落ちてきていたら、この国は完全に壊滅していただろう。
リィエルが気付いていなければ今頃・・・。シュナは恐怖し、そしてリィエルに感謝した。当のリィエルは必死に土壁を維持しているので声をかけることもできなかったが。
前もってリィエルが黒土の壁を作っていなければどうなっていたことか。斜面を轟音を鳴り響かせ滑り落ちてきた一枚岩は起伏に衝突して砕け、大小の岩のかけらとなって土壁に次々と降り注いでいく。
「・・・・・・っ・・・・・・っぐ・・・う・・・」
リィエルは必死に耐えていた。火球のある辺りでは今も水蒸気が発生し、土壁にはまだ大量の岩と土砂が降り注いでいる。遠くに見るので小さい規模に見えるが、実際あの山の近くまで行けばどれほどの速度で巨岩が降り注いでいるのか、想像した者は背筋を寒くさせた。そしてその衝撃を壁で受け止めている、その抵抗が跳ね返るリィエルの体力が心配だった。
その時、空から朗々と声が響く。アールカインだ。
『エリー、炎はもういい。雪は消えたぞ。岩土を固めて崩落を抑えよ』
「・・・は・・・はい!」
リィエルが火球への霊力の供給を止めたらしく、急速に球体が小さくなっていった。まだ大気の渦と秘術士隊の術の残滓があるため熱量は炎となって残っていたが、それらもすぐに小さくなっていく。
火球の制御を止めたため、リィエルの顔色は急に良くなってきた。青ざめた頬に赤みが戻り、杖も再び右手に握りしめて先端を前方へ向けている。
いや、それ以上だ。
「!!・・・陛下!?」
「う、うう・・・・・・ううううう・・・!!」
黒土が盛り上がっていく。リィエルが過剰に霊力を供給しているのだ。
何を、とシュナが言おうとして誰かの悲鳴が聞こえた。同時に衝撃も。
「なっ!?」
フォガリが立つ前方に巨石が落下してきたのだ。あの一枚岩が落下した衝撃で地面に跳ねたものがこんな距離を飛来してきている。今落ちてきたものは明らかに巨大な一つだったが、握りこぶし大のものが降って来ても頭に当たりでもすればそれだけで死んでしまう。
続いてばらばらと小さな破片も飛んで来ていた。死の恐怖が突然目の前に迫り、隊士や学院の者達は動揺している。だがその中でフォガリ騎士団長は仁王立ちを崩そうともせず、シュナは身を挺してリィエルを庇おうとし、エンデル学院長もより力を込めて術を詠唱し続けている。
「へ、陛下、おやめください!」
「いいえやめません!」
「陛下!」
一角馬の角にリィエルの膨大な量の霊力が注ぎ込まれる。それを介して黒土の壁に霊力が送られ、更に巨大化は進んでいく。今や壁はシュエレー神山の標高半ばまで届いていた。だが今も落石が止まっていない。
「陛下っ!!」
「うう、うううううあああああああああああああ!!」
見ろ。誰かが言った。
黒土の壁が更に巨大になり、ある一瞬を境に急激に形を変えて行く。
上部の両端が伸び、棒のようになる。それは全体を支えながらシュエレー神山を包み込むように前方に動き、地に突き立った。その衝撃がこの場所まで響く。
今やその黒土の塊は、巨人の上半身にしか見えなかった。誰もがその光景に目を疑う中、リィエルは悲鳴に近い叫びを伴って黒土を制御する。そしてアールカインが一声を、震えるような声を漏らす。
『ヤヌアフ神の再現か・・・!!』
大陸神の形骸を地上に再現する。そんな秘術、今まで見たことも聞いた事も、それどころかエンデルですら想像もしたことが無かった。
黒い巨人は崩落した山の斜面を完全に押さえつけ、落石が跳ね上がるのも一つ残らず防いでいる。
さしもの聖獣アールカインですら驚愕し、シュナはリィエルの身を案じ、フォガリ、エンデルは言葉もなく呆然とその光景を見ていた。既に隊士や学院の者らも術を行使するのも忘れ、見入る。どの道彼らではリィエルを補助しようにも付いていけない規模だった。
まるで神話の風景のような。
巨人が崩落を抑える間に、徐々に地面の振動は収まってきていた。山も白い靄が消え、むき出しの地盤を晒すのみ。既に崩落は止まり、後は落下した土砂が重力に従って巨人の体に沿いゆっくりと流れていくだけ。
そうしてどれだけ時間が経ったか、不意に巨人の体がしぼむように縮んでいった。遠目にそう見えるが、実際は黒土の体が崩壊し、地面に降り注いでいるのだとわかる。
あれほど暴れ狂った山が、今はただ静寂に身を沈めていた。
「終わった・・・」
誰かが呟いた。
「崩落が止まってる」
「終わったのか?」
「・・・やった」
「助かったんだ!」
歓声が上がった。
フィルラント王国史上空前絶後の大災害は、一人の死傷者を出すことも無く終焉を迎えたのだ。
フォガリが安堵のため息を吐き、地に刺した剣を鞘に戻した。彼は隊士らに覚悟を示し続けた。彼が一歩も退かなかったから皆は鼓舞され、勇気を振り絞ったのだろう。
エンデルが立ち上がり山を眺めた。無残な姿になったが、どうせ崩落したのはシュエレー神山帯のごく一部。山岳の奥深くに神殿を構える女神シュエレーはこの程度、意にも介さないだろう。
シュナも喜び、リィエルを見た。リィエルは杖に縋りつきながら笑顔を向け、そして
「・・・・・・陛下!?」
リィエルが倒れる。全身の力が失せたように、糸の切れた操り人形のように。
シュナが駆け寄って抱き起こすが、目を覚まさない。呼吸も弱く今にも止まってしまいそうだ。
一瞬の思考。直後シュナはリィエルを抱きかかえフォガリの騎竜に跨っていた。
「騎竜をお借りする!」
「分かった!行け!」
鞭を一閃。騎竜はシュナの意に応えたか、全力で走り始めた。
空では聖獣アールカインがこれをしばらく見送るように旋回していたが、やがて彼は西へと飛んで行った。その間際にこう言い残して。
『このアールカインがお前達を見ている。王の従者としてな』