第一話・「疑心」
『疑心』
週が明けるとにわかに城内が慌しい空気に染まり始めた。来月の戴冠式、王国議会の準備のためリィエルが着るドレスや正装の用意、兵士らの配置確認で何人もの人々が外部から入城するためだ。これ以外にも、リィエルと臣下達の懇談なども頻繁に行われた。それはリィエルに王としての在り方を専門職の官の目線から説明するためであり、リィエルが彼らの仕事内容を把握するためでもあった。
王と内々に面会するためのサロンなどというものがあることに驚いたリィエルは、レアの出してくれた茶と菓子をいただきながら臣下達の話を順に聞いていった。ほとんど彼女はただ座っているだけで、臣下が勝手に話すばかりだったが。
セイル・フォガリ騎士団長のナルシズムを交えた親愛の証明などというよくわからない演説を聴き終え、彼がにこやかに退出してからリィエルは息をつく。
「今日は、後はどなたがいらっしゃるのでしょう」
レアがこれに答える。親衛隊隊長のシュナは城内作業の指揮のためここには居られない。レアも本来は忙しく手を離せる状況ではなかったのだが、リィエルの警護が誰も居ないのは問題なので仕事の一部を保留してまでここに居る。
「財務長官のペリューク・ヤカラボ閣下ですわ」
「ああ、あの」
あの、というのは先日の謁見の際の事である。セイル・フォガリの一件も冷めやらぬ内にこのペリューク・ヤカラボという初老の男性は、一礼の直後に「贈り物はどれほどご用意すればよろしいでしょうか?」と、いきなり揉み手を始めたのである。場が騒然としたのは言うまでもない。結局は宰相ハンネルの冷ややかな説得ですごすごと引き上げていたが。
思い出して、レアは暗澹とした気分になる。あの財務長官が”内職”に精を出しているのは明白であり、先王は彼が引き連れてくる美女や贈答品でごまかされ、放任してしまっていたことは今も大臣らを病んだ道へ誘う源だ。なまじこの財務長官が頭脳においては有能なので工作は表に浮上して来ず、巧妙に帳簿は改変されているらしい。どれほどの専横があるのだろうか。レアの立場ではそこに目が届かない。
「今日は何を言ってくるのやら。十分にご注意くださいませ、陛下」
「は、はい」
レアの淹れた紅茶で喉を潤していると、ドアが叩かれた。どうぞ、とレアが通す。
「騎士団長は今日も騒がしい男ですなぁ。ああ、これは陛下、ご機嫌麗しく」
「はい、財務長官。よくいらっしゃいました」
教わった通りの言葉で初老の男は迎え入れられた。後退しつつある前髪と額がやけに光沢を持っていて、脂ぎった皮膚が歳を紛らわしくさせており、それらを包む衣服は官服ではなく、高価な生地で作られた派手なもの。どことなく大臣、というよりは豪商、商人のほうが通りそうな男である。事実、商人の出から官位を得て議員まで昇りつめた人物らしい。
ペリュークはレアが椅子を引くのも待たず勝手にリィエルの正面の席に腰掛けてしまった。これにはレアもむっとした表情だったが、それでも丁寧にお茶の用意だけは欠かさなかった。
「さて・・・まず陛下には財務庁の職務を知って頂くということですがね。ええと、さてどう説明したものでしょうなあ」
瞳だけが小さく、草食獣のようにも見える容貌で上目遣いにリィエルの顔を窺うペリューク。
「かいつまんで要点を教えて頂ければ。わたしも一応お勉強はしましたので、後ほど質問などさせていただきますよ」
「左様で。ははぁ、やはり陛下は聡明でいらっしゃる。要点・・・ふぅむ、要点ですな。まあ、聡明な陛下には私の職務を今更詳しく説明する必要もあるとは思いませんが」
レアが片眉をぴくりと跳ね上げた。
「一言で言えば、国庫の管理ということです。つまり金銭の管理。国庫の残高を常に把握し、年度ごとに各庁、部署の要求する予算を微調整し、支払う。その際に詳細な金額の使途を記録する。これら記録を元に工業事業費など細々とした予算を再検討し、民間の職人連と交渉する。さらに掻い摘んで言いますと、要は政府の財布係です」
「分かりやすいです。それと・・・わたしはここに来て日も浅いので、とりあえず出来ることからと思いまして」
「はあ」
「これまでの出納記録など、ペリューク長官の業務内容についても一通り調べておきました。わたしのような子供にこう言われるのはお嫌かもしれませんが、とても優秀な方のように思えます。議事録も読みました。適度に適切な発言を行い、年度ごとの予算編成に不可欠、と宰相のお墨付きもありましたよ」
「そ、それは・・・光栄ですな。宰相閣下も・・・そうか・・・ははは」
ひとしきり喜んでから、今起こっている事態の異常性にペリュークは気付き始めた。
「・・・・・・読んだ、ですと?あれだけ膨大な量の資料を、全て?」
「はい」
「・・・・・・・・・」
冗談を言っているようには見えない。静かに付き従うレアも、何もおかしいことは無いと言うように黙っている。
こめかみに冷たい汗が流れた。聡明?いいや、この子供はそんな言葉で片付けられない気がする。
「驚きましたな、まさかそれほど・・・」
「それで、ペリューク財務長官。お聞きしたいことがあるのですが」
「ど、どうぞ」
ペリュークの言葉を遮るリィエルの言葉はいつも通り、柔らかく穏やかな口調。だが傍らに立つレアにも、どこか冷たいものが含まれているように聞こえた。
「全てを語ると時間が足りませんので、とりあえず出納簿の一部についてです。備品購入用予算と納品目録、これらの端々に食い違いがあるようなのですが、ご存知でしたか?納品されていない品物が多々あるのです」
リィエルの知性を目の当たりにして動揺していたペリュークは、この質問を聞くや急に余裕のある態度を見せた。慌てる様子は微塵も無い。
「お気づきでしたか!いやあ、あれだけの備品ですからなあ。先王時代のものでしょう?人員補充を要請したのですが聞き届けられず、少ない人数でやり繰りした結果ですよ。いやあ面目ないことです」
「・・・どういうことでしょう?」
「なあに簡単なこと。単なる小さな誤記入などの累積ですよ。何しろ忙しいものでしてな、我が部署は。無論、納品側に問題が無かったとは言えませんが、我々がそれを逐一指摘するのも酷でしょう。彼ら皆、真面目に努力しているのです」
「そうでしたか。わたしの一存で決めてよいものかは分かりませんが、人員については検討しましょう」
「ははーっ、ありがたく存じます」
ペリュークが笑いながらおどけたような口調で返すが、相変わらず微笑を絶やさないリィエルは分からないとしても、当人であるペリューク自身とレアの目は全く笑っていなかった。
僭越ながら、とレアが口を挟む。リィエルはやや驚いた風だが、これを止めなかった。
「なるほど財務長官は予算決議には熱心でおられますが、他の会期中、通常議会においてはどうも”居眠り”が多いと常々思っておりましたが。相違御座いませんか?」
かつ、と踏み出した靴の音が鋭く、リィエルはレアがこれから怒鳴り声を上げるものだと直感した。が、聞こえてきたのはあの鉄面皮の猫なで声だ。これを聞いてリィエルは軽い電流を流されたように背筋を小さく震わせた。
対するペリュークはレアの顔をちらりと見たが、すぐに視線をリィエルに戻したのみ。
「いやあ・・・はは。議員とは難しいものでしてな、足をただ動かして働けばよいものではない。頭を働かせるのです。頭脳労働はそれはもう疲れる。聡明な陛下にならお分かりでは?なにぶん私はこの通り、お恥ずかしいことながら不摂生でしてな。腹回りがたるんで仕方が無い。自分に腹が立つというものですよ、はっは」
笑うペリューク・ヤカラボ。だがその瞳は全く笑っておらず、リィエルも見ていない。空中に用意された見えない台本を読んでいるような雰囲気だった。
「特に私は一介の商人上がりということもあります。成り上がりの議員が優秀な他のお歴々に並ばんと欲するなら、当然人一倍の努力を強いられるものですとも。それが祟って無様を晒すことも多く、真にお恥ずかしい限り」
「・・・・・・・・・・・・」
レアは、ただ黙っていた。中身にレアに対する侮辱を込めたペリュークの言葉だったが、彼女がいつもの鉄面皮のままで何も言い返そうとしないためリィエルはやや焦る。
だが、その意は汲み取っていた。
「閣下のお言葉に感服致します。わたしも先日までは国民の一人でしたから、この先色々とご教授願えるとうれしいです」
「左様ですか!いやあ、それは光栄の極み!是非、陛下のお力になれるよう奮起する所存ですぞ」
「期待していますね」
そう言ってリィエルは手を差し出した。握手を求めて。
「!!」
レアがやや過剰に反応したが、リィエルはいつも通り微笑を絶やさず、ペリュークの前に掌を持ち上げている。
「こ、これはこれは・・・」
僭越ながら、とペリュークはその小さな手を軽く握り、儀礼的に簡素な握手を交わした。リィエルの表情はこの瞬間から、レアにもほとんど分からない程度の翳りを見せた。
「では、また」
「はい陛下。楽しい一時でしたな、ははは!」
ペリュークが鷹揚な態度で部屋を出るまで、レアは何も言わなかった。リィエルも何も言わない。二人はただサロンの置物のように、静かに佇んでいるのみ。
やがて外の廊下を歩く足音も聞こえなくなって、リィエルは軽く息を吐いた。
「レアさん、この後にはもう面会はありませんよね?」
「・・・・・・はい。午後はドレスの試着を少しばかり行って、それからはお休みになって結構です」
「そうですか」
レアがペリュークに出した茶と菓子を片付ける音だけがしばし室内に響く。二人とも言葉を発しないまま、しかし言いたい事は共通しているように思えた。
「・・・レアさん」
「はい、陛下」
「時間の許す限りでいいのですが、シュナさん、ハンネル宰相と一緒にペリューク財務長官の身辺を調べてください。特に財務庁の、全ての金銭の動きをこの五年分でいいです」
やはりリィエルは気付いた。レアは軽い興奮を覚える。この小さな陛下の聡明さは本物だ。
とはいえ財務庁の出納記録五年分とは手に余る量だ。リィエルは先日かき集めた様々な資料をたった二日ほどで本当に全て目を通してしまったらしく、一体どんな手品を用いたのか不思議でならなかった。
だが、王命は絶対だ。
「承知いたしました。少々お時間を頂く事になります。それと、多少人を使うことにも」
「はい、構いません」
「次の王立議会に間に合えばよろしいので?」
「そうです。さすがレアさんですね、頼もしいです」
「お褒めに預かり光栄です」
既にレアはリィエルの信頼を得ていた。レア、そしてシュナもリィエルに対して誠実であれ、忠実たらんと心に決めてしまっている。せめてこの二人くらいは、リィエルの味方がいてよかったとレアは思う。
官の腐敗はある。どんな時代でもどんな王朝でもそれは避けられない、ある意味自然現象じみたものだが、先王シャルテの代にその腐敗は急激に拡大してしまった。だがそれは当然だろう。先王は政務を半ば放棄した。つまり、議員らに全てを丸投げしてしまっていたのだから。手綱を取り払われ権力を浮遊させた彼らは、めいめいの領分で好き勝手に振舞うようになってしまった。
だがそれらは、国家を運営していく上で急いで切除しなければならないほどの腐敗にはならなかった。彼らは一様に狡猾であり、本来課せられた職務もそれなりにこなしていたために。当然、だからといって許されるわけではない。横領罪はフィルラント王国の法律では少なくとも私財の没収、官位の剥奪、一定年数の謹慎が罰則となり、最悪で極刑もあり得る。その法律の下にありながらも、彼らは見た目は慎ましやかに甘い汁を吸い続けている。
レアがこの事実に気付いたのは侍従長に任命されてからだった。先王の代に異動を受け入れてからは若いながらも懸命にその職責を全うしてきたが、それ故にこの歪みはすぐに目に付いた。今では恐らく”内職”をしていない議員のほうが少ないのではないだろうか。やっていないと確実に言えるのは自分とシュナ、そしてそんなものを必要としないハンネル宰相とマリアッキナ司祭長くらいか。シュナとレアについては、ただ実直であるからというだけ。もしも心が揺らげば悪癖に染まる可能性は否めない。一方で宰相は高齢であることと、あの地位に辿り着くまでに得た様々な利権で十分に私益は得られている。むしろ彼の場合はとにかく仕事をしていたいという特異な人物なので、金銭は不要とすら公言しているが。
司祭長はその地位故に否定が容易である。セス教の司祭長とは国神の認定を受けた人物であり、いかな私欲にも揺らいではならないと定められている。この戒律を破れば、官位を証明する教会の「鉄の名簿」と呼ばれる金属板に記された名前が消えて失せるそうだ。これはその教会ごとに所属する神官の名を記録されるもので、神々が教会の設置にあたって必ず一つは与えるらしい。これを見て彼らは自分が潔白であることを知り、日々その身を引き締めていける。
「・・・陛下、国というものは・・・」
「レアさん、いいんです。分かっているつもりです・・・・・・こんな子供が、と言われるでしょうけど」
「そんなことはありませんよ。陛下の聡明さには私どもも感服しておりました」
払拭は可能だろうか?可否を問うなら、当然”可”になる。一時的ではあれど、外科的な手段を用いるならば。つまり強引に汚職者らを武力などを用いて排斥することはできる。だが、その後訪れるのは彼らが保持していた利権と職務の崩壊であり、瞬時に国府は機能を停止するだろう。代役を立ててからという考え方も出来るが、正常な引継ぎも無く国権の半数以上をすぐに機能させられるとは到底思えない。何か上策が必要なのだ。
「ありがとう、レアさん」
「さあ、ともかくお部屋に戻りましょう。ドレスを試してお湯浴みでもなさって、おいしいご飯を食べて明日に備えるんです。明日も面会はございますから」
「そうでしたね。明日はどなたがいらっしゃるのですか?」
「王立学院院長のヒーム・エンデル氏です。お母上の事など聞ける機会かもしれませんね」
「それは嬉しいです。エンデル院長は先日以来、初めて来るのでしたね」
「はい。なにぶんお忙しい方ですから」
会った事も無い父は何を遺したのだろう。遺産はリィエルを王にしたが、その先は平坦なだけの道ではなかった。幸いにして彼女は亡き母から受け継いだ知恵を持ち対処できているが、所詮10歳の少女にどこまで出来るものだろうか。
サロンの窓は南向きだった。窓の外を見れば街並みと平原と海が一望できたが、今の関心事はこの方角には無い。雪に霞んだ景色を眺め、リィエルは口を硬く引き締めた。
彼女は既に選んでこの場に居る以上、諦めたいとも思わない。精一杯やれることをやろう。リィエルはそう考えた。
その日も雪は多く降った。今やシュエレー神山の峻峰は一切の山肌を隠し、ひたすらに純白のみを敷き詰めた巨大な壁となっていた。が、それを見て人々は「今年は雪が多いな」程度にしか考えなかったという。
翌日、朝食を終えたリィエルはレアも引き連れず一人で城内を散策していた。ヒーム・エンデルとの面会にはまだ時間があることだし、レア達は何かしらにつけて忙しそうなので「必ず衛士の目が届く場所に居ます」と告げた上で許しをもらったのだ。真面目なリィエルがこの約束を破る事は無いと判断した上であり、無論リィエルも約束は破らない。
「おはようございます」
警備兵らに声を掛けては軽い足取りで歩くリィエル。そのふわふわと跳ね回るような姿はどこか幻想的な存在にも見え、その後姿を見送る兵士らの顔を緩ませた。
やって来た場所は母の墓所。遠目に兵士が見守っているが気にせず、墓石の前にしゃがみこんだ。
「・・・・・・・・・・・・」
綺麗に手入れが行き届いている。誰かが小まめに掃除してくれているらしい。
「・・・・・・お母さんは言ってましたね。本当にやるべきことを見つけたら力を惜しんではいけない。恐れず諦めず逃げ出さずに全身全霊を注ぎなさい、と」
目を閉じて黙祷を捧げる。母の言葉はこの胸に、脳裏に全て刻まれている。心はいつも共にある。
リィエルは立ち上がり、スカートの裾に付いた土を払い落とした。いつの間にか近くに女性兵士が来ており、手に付いた土を拭うタオルを差し出してくれた。リィエルが手を拭き終えるまで待ってから彼女はタオルを回収すると、物も言わず一礼してまた遠くから見守ってくれる。
礼儀正しく、かつて母に教わったように女性兵士に礼を言うと、リィエルは再び城内へ戻った。次に向かったのは執務室である。
扉の前に立っていた警備兵にしばらく誰も入れないでください、と言い置いてリィエルは執務室に篭った。時刻はまだ昼にもなっていない。ヒーム・エンデルが来るのは昼過ぎだから、まだまだ時間はある。
リィエルはかつての自宅から引き上げてもらった私物を大きな棚を用意してもらい、そこに詰め込んでいた。その中から数冊の分厚い本を取り出す。
「・・・・・・防壁なんていらないのに、お母さんたら。ええと、暗号表は・・・」
一冊には語学辞書のように単語と対応する言葉、あるいは文章の組み合わせとそれがどう意味を曲解するのか、などが全て直筆で記されていた。著者名はおざなりながら、ミュシェ・タナックとある。
一冊には膨大な量の文章が一切途切れること無く延々と書き綴られていた。句読点すらない文章は1000ページを超えて続いており、巻末にはそっけなく、ミュシェ・タナックと記されている。
残る3、4冊は全て秘術の教本だった。ミュシェ・タナックが王立学院を卒業した際に持ち帰ったものである。紙は製造が難しいためここにあるだけでかなりの貴重品になるのだが、本来門外不出の王立学院の教本とあれば輪を掛けて貴重品だろうに、これは所々虫食いがあり、手垢で汚れて読み古されている。リィエルが幼い頃から受けた教育は、この教本を理解する所から始まった。今や懐かしい記憶である。
秘術。このイゥスィーリアという世界に住まう者達に与えられた発展した技術がそれである。太古には奇跡、中世には魔術、呪術、法術などと呼ばれた超自然的テクノロジー。扱うには膨大な知識と素質が必要とされるため、ほとんどは学問として習得される。そこには数学、言語、生物学、科学、気象、哲学的分野を内包しているため総合学問という見方もできるが、つまりこのフィルラント王国が学問の聖地として名高いのは、秘術の聖地としてという意味に同義となる。
この秘術というものはありとあらゆる現象を代用する技術で、簡単なものは小さな火を点けたり、大気中の水分を凝縮させて水を作ったりというものになる。より複雑なものになると、物理的な機構とも組み合わせて大規模な機械を作成したり、天候の一部を制御する術まで存在する。
「雪を溶かす・・・雪・・・大熱量で瞬時に水蒸気にするのがいいかな。でも、雨で洪水になっちゃう。ううん、なら風も同時に制御して・・・」
ページをめくり、横に置いたもう一冊の辞書のような本と見比べながら読み進めていく。句読点の無い本はその全てが暗号になっており、特定の場所にある特定の単語を一つの文章の区切りとしている。その項目数はページ数の三倍ほどになるだろうか。とても子供が気軽に読めるものではないが、リィエルは慣れた様子で次々と目を走らせる。
時折リィエルは暗号書から目を離さないまま、手をそっと秘術の教本に触れて軽く目を閉じた。それが何を意味する行動なのか客観的に知ることは不可能だが、往々にしてその動作の直後には何かを閃いたように暗号書のページを飛ばしてめくったり、手元に用意した紙束に羽ペンで複雑な紋様や文字列を記述したりもしていた。
「困ったわ。風・・・山からの吹き降ろしを利用して・・・でもシュエレー神の領域だわ。ううん、それでも雪と一緒に落ちて来る大気を巻き上げるなら・・・いえ、やっぱりだめ。それだけの上昇気流だと公式が・・・」
再びページをめくり、目を閉じ、紋様を記す。これは秘術の公式を組み立てているのだ。秘術は万物の持つ真の名前を基礎として原始的な文法に当てはめるところから始まる。これを術として実行するのは個人の資質だ。霊力という力は誰でも持っているもので、個人差はあるがこれが術を行使する際の代償となる。
公式を霊力で起動させる。これが秘術を端的に説明したもの。実際は遥かに複雑な処理を必要とするのだが。
「・・・・・・・・・お母さんの公式だと古いのかなぁ。学院長先生が来たら聞いてみようかしら」
少なくとも10歳で秘術を学ぶ者など前例が無い。リィエルはこの違和感ある光景の一部になっていることを不自然などとは感じていないのが最大の不自然だった。
「・・・だめね。わたし一人だとどうしようも無いわ」
ぱたん、と本を閉じた。仕上げとばかりに一枚の紙を取り、円形の複雑な紋様を書き込んだ。身に纏う部屋着に羽ペンからインクが飛んで黒い染みを作るのも構わない。
「できたぁ」
書きあがった紙を乾かしていると、部屋の扉がコンコンと音を鳴らした。
「はぁーい」
「失礼します。お着替えの用意ができました」
「はい、いま行きます」
紙片は丁寧に巻いて筒状にする。何か入れるものをと探したが見つからず、仕方なくそのまま綴じ紐で縛って持って行くことにした。
迎えに現れたのはメイドの一人。レアの部下で、名前はサエラ。
「あら陛下、お持ち物があれば預かりますけど」
「そうですか?じゃあお願いします」
「はーい確かに。学院長様がいらしたらお返しすればいいですかね」
「はい、そうして下されば」
「承知しましたー」
やけに気安いこの少女。少女と言えるだろう、生まれつきの栗色のくせ毛を頓着することなく暴れさせた快活なその少女は、年齢はまだ十代半ばを過ぎたくらいらしい。仕事はともかく余りにもお偉方に対する態度がなっていないので、いっそ陛下付きの専属メイドにすればリィエルも話し相手が出来るだろう、とレアの指示でこうなった。出会って数日だが、実際に二人は特に気負うものも無い関係を築けているようである。
「サエラさん」
「サエラですー。さんは要りませんよ陛下」
「じゃあサエラ・・・あの、じゃあわたしも陛下とは・・・」
「じゃあリィエル様ですね。何でしょうリィエル様」
「その、サエラはお城で働くのは楽しいですか?」
「楽しいですよ?」
余りにも迷いの無い即答だったので質問したリィエルが言葉に詰まってしまった。サエラは真実楽しそうにリィエルの手を引きながら次の質問を待っている。
「母さんがここのメイドだったんですけどねー。この前の先王様の事故の時に馬車に乗ってたんですけど、一緒に巻き込まれちゃって」
「え・・・・・・」
「命は無事だったんですけどね。足を大怪我しちゃって、もう働けなくなっちゃったもんだから代わりに私がって頼み込んでやっとこさこの前からここで働かせてもらえることになったんで・・・どうしましたリィエル様?」
「い、いえ。その・・・ごめんなさい」
辛そうに俯くリィエルを怪訝な表情で眺め、サエラはその肩を強く掴むように叩いた。
「なぁーに言ってんです!リィエル様が謝ることじゃないでしょう。逆に私の母さんがリィエル様に謝らなくちゃいけないじゃないですか、それじゃ」
「そういうものですか」
「そういうものですよ。あ、働き始めたのがこの前だからって心配しないでくださいね。子供の頃から母さんの手伝いでよくお城の中を走り回ってましたんで、そこらの新人メイドよりはいい働きしますよ私」
「ふふふ、そうですね。サエラはお城の中に詳しいのでびっくりです」
これも事実である。先日シュナとレアに城内を案内されたが、サエラはあの二人よりも城内の細部に詳しい様子だった。下手をすると城内にいる誰よりも詳しいのではないだろうか。
面会用の衣装に着替えるため、数人がかりでメイド達が手伝った。サエラは着替えの手伝いはせず、持ち物の点検など細々したところをやっていたが、リィエルが衣装替えをするたびに「かわいいですねー!」や「似合ってますねー!」などとはしゃぐので、仕舞いには笑いながらも年上のメイド達に追い出されてしまった。
「あの子は仕事は出来るんですけどねぇ」
「本当に、陛下に対してもあんまり不躾だって侍従長にも言ったんですけど。まあいい子なんで・・・」
長く城内に仕えた彼女らとしては、同じく長く成長を見てきたサエラがかわいいのだろう。概ね庇うような態度を見せていた。
「わかっていますよ。サエラとはわたしも仲良くしていたいです」
「まあ、陛下にそう言っていただけると」
着替えを済ませた頃、外にいたサエラが部屋に入ってきた。リィエルの姿を見て「あら可愛い」と言うので、リィエルは周りのメイド共々噴き出してしまった。
「なんです皆して。それじゃリィエル様行きましょうか。丁度学院長様もお着きになったそうですよ」
「そうですか」
レアが居ない時には大抵このサエラがリィエルのお供をしている。基本的に借りてきた猫のように大人しいリィエルとは正反対の性格だが、なんだかんだで彼女が騒がしくしているのは見ていて楽しいものだった。
「侍従長も来られたら良かったんですけどねえ。あの人若いもんだから早く皆に認められなくちゃって自分からたくさん仕事を引き受けちゃって。難儀な人ですね」
「そ・・・そうなの?」
「あ、内緒ですよ。私がこんなこと言ってたって」
「はい、内緒にします」
二人して笑い合いながら廊下を歩く。サエラに手を引かれているので最初は気に留めなかったが、サエラには城内の複雑な構造も目くらましの模様も通用しないらしく、まったく迷うことなくスイスイと歩いていた。そのためリィエルは感心してサエラを見上げながら歩いていった。
「お、レアさんです。じゃなかった侍従長ですよリィエル様」
「はい」
「ここからは侍従長にお任せですね」
サエラが親しげにリィエルと手を繋ぎ話しかけているので、レアは呆れたような顔をしていた。
「あなたはここじゃ先輩だけど、本当に礼儀は学ばなかったのねえ」
「でへへー。礼儀の方も侍従長にお任せしますよ」
面白いこと言う、とリィエルは再びサエラを感心したように見た。視線に気付いたのかサエラはリィエルに笑いかけ、また気安い調子を見せてリィエルを見送った。
「それでは私はここで。あそうそう、これ返しておきます」
例の紙筒を受け取るリィエル。サエラはその頭を軽く撫で、レアが睨むので舌を出して退散していった。
「面白いひとですねえ、サエラは」
「少々面白すぎるきらいはありますが・・・まあ、有能ですから。私が引退するようなことがあれば次の侍従長は彼女に任せることになりましょうし」
「そうなのですか、すごいです」
今度はレアに手を引かれ、連日通い慣れつつある面会用のサロンへ向かった。レアがリィエルの持つ紙筒を気にしたが、リィエルはどのみち学院長との面談時に話すから、と説明するのみ。
時々リィエルは窓の無い方角へ首を巡らせた。北へ。
「先日以来ですか。間近で見るほど、なるほどよく似ている。母上にも、お父上にも」
ヒーム・エンデル王立学院長。老齢ながら先見の持ち主として三十余年の間も学院を纏め上げる人物である。既に七十代を超えているが、見た目より遥かに若々しいとレアは感じ、リィエルは母を知る人物に喜んだ。
面会はまず挨拶的な会話から始まり、リィエルはその中でこのエンデル氏がどれほど秘術に堪能であるのかを探った。
「セス教の教義、いえ神話にありますな。始め天は塗りつぶされ、次にセスなる者ありき」
「天使様の公式ですね。人間には与えられなかった法則。兄弟は太陽神オルヤを中心に戴き星々の中核たるイゥスィーリアを作った。かくて兄弟は長女ハウリュエテーと次男バンリューヤに夜を預け、大海はカンヤジャラに任された」
「所詮人間に手の届く範疇ではありませんな。地上に下された物質万象を介するのみが秘術」
「・・・と、お思いでした。そうですね?」
「・・・・・・ですな。陛下のお母上・・・ミュシェ・タナックが示した。いや、或いは遥か神代には存在したのかもしれませんが」
レアには最早二人の会話の内容がわからず、ただ飲み物の用意をし、傍に控えるばかりだった。一つ気付いたことがあるとすれば、それはエンデル学院長がリィエルの知識を目の当たりにしてもあまり驚いていない、という点だろう。
「しかし、ならば陛下はもしやあれを託されて・・・?」
鋭い雰囲気を持ちながらどこかにユーモラスなものを隠し持つ。エンデル学院長を知る人物は皆こう言うが、今この場での彼はどこか堅苦しい態度を見せていた。例えば、学徒に講義をぶつ教授のような。
「・・・・・・あれ、とは」
「・・・よろしい、そのお答えで十分です。私はタナック君が卒業する際に直接相談を受けましたからな、あれの内容はともかく存在だけは知らされてますよ」
「そうですか。なら、先生を信頼することにします」
「はは、これは手厳しいことだ」
愉快そうに笑うエンデルに、リィエルは黙ったままあの紙筒を手渡した。エンデルは興味深そうにこれを開き、描かれた模様を眺める。老齢ながら視力に衰えは無いらしい。
「・・・・・・公式陣ですが、さて見覚えは無い。これをどちらで?」
「先ほどわたしが作ったんです。母の知識を使って」
「・・・・・・・・・・・・作っ・・・は!?」
エンデルはもう一度この模様を見た。教本に載っているものどころか専門の研究機関で扱う公式よりも複雑でありながら高い完成度の公式。常識で考えれば年端の行かぬ少女がこれを作ったなどと信じられるものではない。
だが思い出すのは在りし日のミュシェ・タナックである。あの才能、あの知識が確実に受け継がれたというのなら不思議なことではない。ただ信じられないだけで。
「これを、陛下が?」
「はい。一部暗号のまま公式にしてますので読めないと思いますけど、ほぼそのまま実行できます」
「・・・・・・タナック君の知識を、と言いましたな」
「はい」
「・・・これは気象操作か?ここは精霊、で支えて接続と。受動詞なのですね?」
「起動形式は。すごいです、解読できたのですか?」
「うん?いえ周辺の単語から推測しました。ふふ、あの子らしい。暗号化が適当ですな、どうやら。修正すべきです」
「量が多いけど、検討してみます」
「・・・・・・神々の存在を仮定した術、ですかな?」
「はい、あくまで仮定ですね。現実には天文学も混じってます」
「実在の超越種を公式には取り入れられなかったと?」
「いえ、そうではないみたいです。対価を抑えるためのレプリカですね、これは」
「ああこの公式は、陛下が編んだものでしたな。そうか・・・・・・」
「同じ形式でオリジナルが作れます。でも、そっちは母が組んだので門外不出です」
「はっはは、そうですな・・・秘密にしておくべきだ」
レアが混乱している。二人とも時として主語などを省略して話しているためだろう。
「しかし、これで何を?というより起動するには相応の代償が必要ですが、これはどうするのです。規模を察するに陛下がお一人で使うのは、失礼ながら少々・・・」
「え、そうですか?たぶんぎりぎりですけど使えますよ、わたし」
「・・・・・・そ、それはまた。なるほど、タナック君の娘であり、フィルラント王家の血か・・・」
ヒーム・エンデルが納得したようなので、リィエルは立ち上がって彼を招いた。
「レアさん、尖塔に行きます」
「あ、承知しました。・・・え、尖塔・・・いえ、今外套をお持ちしますので少々お待ちを」
現役で教授も務める学院長、というと想像もつこう。エンデルは尖塔の階段で体力の限界に達し、見た目若々しいとはいえ流石に生命に危険を及ぼしているのではないか、という荒い呼吸をしながらリィエルに引き連れられた。レアが手を貸してくれたため何とか塔の頂上まで来れたが、その時にはもう完全にへばってしまい、汗だくで見張り台の床に座りこんでしまった。
「はっ・・・はぁっ・・・で、陛下・・・見せたい、ものとは・・・」
「あれです」
「し、少々・・・はぁっ・・・お待ちを・・・げほっ・・・」
レアがひたすら見張り台の床を眺めている隣で常駐の兵士が苦笑していた。せっかくいい景色なのに、とリィエルと二言三言の言葉を交わしている。
やっとの思いで立ち上がったエンデルは、リィエルの指差す方角、北を見た。雄大なシュエレー神山の峻峰が一望できるこの場所に来るのは初めてだったが、なるほど素晴らしい景色だ。
「下からだとわからなかったんです。角度の問題でした。ここからならわかります。・・・わかりますか?」
「さて・・・・・・」
エンデルの目にシュエレー神山の山肌は最初いつも通り、冬の見慣れた風景に見えた。深く降り積もった雪の肌と、雪崩の勢いを弱めるために何重にも設置された防壁。その防壁に沿う、地盤を固めるための植樹。
壁の上には雪が既に多量に積もっており、それが作る影が山肌にある種面白い陰影を彫りこんでいる。
「これがどう・・・」
どうしたというのか。そう言おうとして、エンデルは何か違和感を覚えた。
「・・・・・・?」
リィエルも山肌をじっと見つめている。誰よりも真剣な表情で。
「・・・・・・まさか、陛下・・・・・・」
「資料を集めてもらいました。雪崩を見たことはおありです?」
「以前に・・・・・・いえ、そういえばここ数年は・・・」
「この五年、一度も雪崩が起きていません。どんな小さな規模のものも。地盤に食い込んだ雪が地熱を奪い、万年雪になって一年中融けずに残った箇所もあるようです」
「五年も?」
「雪解け水は麓の水路に流れ込んで川に合流するのですが、本来この時期にはもう川の増水が始まっていてもおかしくないはずです。でも水路にほとんど水は無く、それどころか雪が詰まって凍りついたままの場所もあるとか」
エンデルは手を笠にして再び目を凝らし山肌を観察した。なるほど、防壁の上に降り積もった雪が小山のようになり、今にも溢れだしそうに見える。だが問題はその見た目ではない。
「雪量は人の背丈を超えておりますな。雪の中はほとんどが氷の塊と見るべきか」
「調査に向かわせようにも道が埋まって山に入れません。シュエレー神殿の昇山者も昨年は入山を諦めたみたいです」
「・・・・・・気象観測官を呼ぶべきです。専門家に意見をもらって対策を打たねば大変なことになります」
「騎士団と王国軍の秘術士隊にも要請するつもりです」
「宰相はこれを?」
「まだ知りません。たぶん、見せてもお分かり頂けないと思って」
「でしょうな。私でもここに来て言われるまで気付けなかった。そもそも、教会の予言に載っていない」
「・・・・・・予言?」
リィエルでも知らないことがあることに、彼女以上に周りの者達が驚いた。そういえばこれはごく一部の関係者しか知らないことだったか。
「そうか戴冠式もまだでしたかな。いいですか、教会は年の初めにその一年の大まかな出来事を神託として受け取り記録しています。政府はこれを参考に年中行事を決定します。予言された内容は確実に実現しますが、あまり具体的なものではありません。ですから教会と学院はこの内容に具体性を与える機関があり・・・・・・」
リィエルの表情を見てエンデルは言葉を切った。青ざめ、打ちのめされたような表情を。
エンデル、レア、監視兵までもが気付いた。彼女の両親のことだ。
「・・・あ、あの・・・先王、シャルテ王の死は、予言されて・・・?」
「・・・・・・いませんでした。だから皆焦った。王の事故、くらいなら予言されていてもおかしくなさそうだったものを、それすら無かった。それに・・・あの雪も」
王の死が、あるいはその命の危機が予め分かっていれば前もって後継者を探す動きはあっただろう。そうであればリィエルとその母ミュシェがあんな目に遭うことも無かったかもしれない。
かも、しれない。それだけではある。
「陛下、お気を確かに。そもそも予言は人の死を明確に示してくれない。それは運命だからです。命の運命の先を示すことは、ある意味運命を捻じ曲げる行為です。お分かりですか、神々もその部分には触れずにいてくれる」
「・・・・・・分かります。ごめんなさい」
「謝る必要など・・・!」
しばらく沈んだ表情をしていたリィエルを見守る一同。やがて彼女は辛そうな表情のまま、それでもきっぱりと口を開いた。
「大臣達を集めてください、臨時会議を開きます。先ほどの通り王国軍にも伝えてください。レアさん、いいですか」
「はい・・・承知致しました」
「学院長先生、気象観測局への連絡をお願いできますか」
「もちろんですとも。というか、ウチの隣の建物だ」
「いつかお伺いしてみたいです」
「是非に。学生としてでも、教授としてでも」
やっとリィエルが微笑んだので、レアは息を吐いた。が、まだレアには何が起きているのか明確に理解できていない。予想はついていても。だから尋ねた。
「陛下、その前にお聞きします。何が起ころうとしているのですか?」
リィエルは振り返り、決然と答えた。
「雪崩が起きます。凍結した雪が防壁を突破し、山腹の地盤ごと滑落してきます。大規模な土砂崩れなので、未然に防げなければ下手をすると城下の半分が海まで削られることになります」
「なん、ですって?」
「陛下の見通しではまだ楽観的です。いいですか侍従長、あの山肌が地盤ごと崩落すれば、まず農地は全て埋まり、雪と混ざって液状化した土砂が城下まで到達します。北部の街で一時的に勢いが弱まっても次々に流れ込む土砂が押すため勢いは止まりません。流れ込む土砂が王城の丘で東西に分かれ、いえ跳ね上がり、津波のようになって市街を埋め尽くします」
「そんな!」
「シュエレー神山の神殿は山岳の奥・・・なるほど、神殿に影響の無い外輪山だからシュエレー神の神託は降りなかったのですな。いや、仮に影響があってもご自身で手を打ったでしょう。シュエレー神は氷雪と試練の女神。昇山して神職に認められるのは他国の神々にも増して栄誉だと言われる存在ですから・・・そうか、我々はこれを試練として乗り越えなくてはならないわけだ」
レアはやっと事態を悟り、急ぎ先ほどの指示を完遂すべく階段を駆け降りていった。監視兵も真っ青になっていたが、リィエルは彼にいつも通り職務を果たしてください、と言い置いた。
「連絡をつけた後は公式の作成をお手伝いします。よろしいですか」
「そうしてくれると心強いです。ありがとうございます、学院長先生」
リィエルはまだ戴冠式すら終えていない、つまり正式な王ではない。にもかかわらずこの城に来た途端、問題は山積し始めた。シュエレー神山の件と、臣下の間に蔓延する不正。どちらも表面化していなかったが、リィエルは天性の知性をもってこれらに気付いた。ならば、やはり彼女は試されている。
エンデルはごくりと喉を鳴らした。もしこの推測が本当なら、リィエル・タナック・フィルラントは神々にその存在を期待された王だということになる。だから敢えて彼女の前の障害を取り除かず、助言を与えるべき戴冠の儀にも間に合わないこの時期に問題を浮上させたのだ。それが神々の手によるものか、単なる自然現象と偶然を利用したのかは誰にも判断できないことだが、どちらにせよ国家元首たる地位を与えられたリィエルはこれに立ち向かう以外の選択肢が無い。知っていてこれを見過ごすならば、自らも国民も国土の半分以上を奪われるだけだ。
何故ミュシェ・タナックは死なねばならなかった。リィエル一人だけでなく彼女が存命であれば、あの学院創立史上最高峰を謳われた頭脳でリィエルの助けになっただろうに。
悔やんでも詮無いことだが、エンデルはリィエルが余りにも気の毒だった。年端も行かぬ少女に、それが例え一国の王と認定された者であったとしても、これだけの責務を押し付けてよいものか。誰かが彼女を助けてやらねば。
エンデルもまた決意した。この少女王の力になろうと。
「・・・ミュシェ・タナックがどのような経緯で学院を去ったかはお聞きですかな」
「はい・・・あ、少しは。使ってはならない術を作ってしまった、ですよね」
「そう、彼女は禁術を作成した。いや禁忌ではないが、彼女の言った術が実現するならばそれは、人間の世にある限り必ず破滅を招く。それほどに強力な術の数々です。彼女はその存在を隠蔽するため身を隠さざるを得なかった。当時は少々他国ともキナ臭い情勢でしたからな・・・まあ杞憂でしたが」
遠い目をしながら階段を歩くが、考え事をしながら歩くのに慣れているのだろう。エンデルは手すりも使わない。
「今にして思えば、陛下を身ごもったのも理由の一つでしょう。タナック君と先王の関係は誰も知らず、先王も身分を隠していたがあのミュシェ・タナックだ。隠し通せるわけがない。故に、王族の面子に傷を付けまいと配慮した、か」
「・・・そうですか」
「あれをしてまさに鬼才と言うべきか。彼女が自筆した公式の記述を・・・本の形でしたが、お持ちですな?そう、それでよろしい。で・・・あれを見た時は驚愕したものだ。在り得ないと思っていた公式の全てが、暗号化されていたとはいえそこにあったのだから」
「はぁ」
エンデルはいつしか目を輝かせていた。十年前のあの日に覚えた知的興奮は忘れようもない。革命だと確信したし、同時に恐るべき危険性を孕んでいるものであるとも直感した。だが、それ故の興奮。危険であると知ってなおその先を見たいと願う学者らしい欲求があった。
「物理法則の支配こそが秘術の基本であり真理。だが神々は我々が分をわきまえるよう霊力という枠を示された。どれだけの才覚を生まれ持とうと、一般に我々の霊力は聖獣や天使の足元にも及ばない。タナック君はどうやら常人と比較して遥かにその枠が巨大だったし、陛下もそうらしい。だから私は彼女を支援した」
「・・・・・・」
「タナック君は聡明でした。独力でも大抵のことはできたし、かの術のこともほぼ単独で対処できただろう。今も生きていればどれほどの秘術学者になっていたか・・・」
エンデルは階段を降りる足を休ませ、振り返るとリィエルの目をひたと見据えた。
「陛下を見れば分かる。彼女は良き母親でもあったようだ。その知識は受け継がれたのなら、私は今日以降全霊をもって陛下を助けましょう。それが私の大願です」
「・・・はい、ありがとうございます、学院長先生」