第一話・「登城」
『登城』
先王シャルテの子、リィエル発見の報に王城の官はもとより城下の人々も等しく歓喜した。幼い新王の身柄は直ちに保護され、城内にて看病を受ける。その少女の御歳が10になると聞き、皆は困惑したという。その少女は先王が戴冠するより前に生まれていたから。それでも、王家の血が絶えずに済んだことは国民の安堵を招き、王国政府もまたその少女を迎えるべく体制を整えることにした。
リィエルが保護されてから2日。彼女の健康状態に問題なしとの判断が下され、この三ヶ月清掃の時にしか開放されなかった玉座の間が扉を開くこととなった。謁見の間の奥にあるその部屋は、国府の重臣か王の身辺に侍る者、そして王しか入室を許されず、謁見の間に比して幾分地味ながら建国三千年もの間装飾を一切変更することなく僅かな補修のみで維持されてきた部屋は、ただ王と重臣らが内々に対話する場合のみに使用されてきた。
歴史を感じさせながらもかび臭さの無い廊下を、リィエルは護衛だと言う二人の女性に付き添われて歩いていた。髪を短く整え軽甲冑を身に着けたほうはシュナ、厚手の黒いドレスに飾り気の少ないエプロンをかけた女性がレア、と名乗ったが、ちっとも共通性の無い外見をしながら鉄面皮じみた生真面目そうな表情がよく似ている。リィエルは最初、二人を姉妹か何かだと思ったくらいである。
「あの・・・これからどちらへ?」
侍従達の手によって着飾ったリィエルは歳相応の幼さを見せながら王族の気品を際立たせるようにと腐心した者達の努力の甲斐あって見事に愛らしく、これを馬子にもなどと言えば間違い無く天罰が下るであろう仕上がりとなった。着慣れないドレス姿にリィエル自身は少女らしい喜び半分、戸惑い半分であったが。
「はい。これからリィエル陛下には玉座の間にて、宰相以下大臣らとの謁見をなさっていただきます。皆の顔と名前を知り、陛下の下にあって国権の一端を担う者達ですので、これからの陛下のお仕事を学ぶ最初の行事ともなりますね」
リィエルの手を引く侍従長のレアが、きりりと引き締まった眉を少しも緩めることなく、それ故に不自然なまでに優しげな声音で傍らの少女へと説明を行った。あまりに不自然だったので、リィエルはおろかその隣を歩く親衛隊隊長のシュナまでもが思わずレアの顔を凝視したほどである。
「・・・・・・・・・わ、かりました」
「はい」
隣のシュナが呆れたようにため息をついたような気がして、リィエルはそちらの顔も見た。と、その時レアがリィエルの手を離し、そっと背に手をまわした。いつの間にか目の前には古びた木の扉がある。
「着きました。扉を開けたら臣下らが控えておりますので、まず玉座に座るまではお言葉を発しなさいませぬように。玉座に座ったら、面を上げよとお命じください。そこからは私どもが進行を補助いたします」
「はい」
「緊張しておいでですか?」
「え・・・いいえ、シュナさん。大丈夫です」
ふ、とシュナが笑った。微笑とはいえ毅然とした顔立ちからは想像できない子供のような明るい笑みに、今度はレアが、リィエルを交えて彼女の顔を凝視した。
「では、行きましょう」
シュナの合図に、扉の向こうに控えていた兵士がゆっくりとその取っ手を引いた。
まず、「広い部屋だな」とリィエルは思った。自分が生まれ育った家が六つは入るだろうか。まだ城内を詳しく見て回ってもいない彼女は、これ以上の大きさの部屋も数多くあることを知らない。が、ともあれリィエルは目の前に膝を着けてかしこまる老若男女を一瞬見落とすほど、驚嘆したふうだった。無論、同じような眼差しで彼らを見たことも付け加える。
「こ、こんにちは」
後ろでシュナのため息が聞こえたような気がして、リィエルはしまったと思った。扉の前でつい先ほど言われたことをもう失念してしまったらしい。
目の前の大人達が深々と頭を下げたまま微笑んだ気配があった。それでリィエルは少しばかり安堵し、レアに背を促されて歩いていく。荘厳な、派手では無くとも巨大な歴史の蓄積を一目で覚えるその玉座へと。その圧力を感じてリィエルはやや戸惑った。大丈夫かな、と口の中で呟いて。
玉座の前に立ち、じっとそれを見つめ、息を吸う。シュナとレアの怪訝そうな視線を受けたが意にも介さず。そっと手すりに触れてみて、目を閉じた。
「・・・・・・すごい。こんなに深いものは、初めてだわ」
「陛下?」
シュナがリィエルの様子を伺い、そっと話しかけた。リィエルはいま少しばかりそのまま目を閉じていたが、やがてゆっくりと瞼を持ち上げ、振り返った。そして腰を降ろし、深く玉座に身を預ける。
「どうぞ、面をお上げくださいませ」
春の野山に咲く小さな花のように、可憐でありながら凛と響く少女の声が広間に響き渡った。それがリィエルの意図せずして放たれた言葉だったか、だが既に堂々とした彼女の態度がそれまでの弱々しげな少女とは一変しており、むしろ彼女自身にもこの落ち着きの理由が分からないために、相まって座した歴々には気迫と映った。
少女は既に王の風格を僅かにも、だが確かに備えておられる。それが彼らの共通の感想となって面に現れ、一斉に上がる顔には一様に感慨深さとも取れる感情が浮かんでいた。ときにそれは、困惑とも見える表情でもあったが。
「侍従長レア・サニ・コーツハインより皆様方へ前もって申し上げます。リィエル女王陛下におかれましては先日のご登城以来日も浅く、お加減も万全とは参りません。本日の謁見及びお歴々のお目見えは待望とは承知ながら、陛下の体調責任を預かる身として手短な進行に期待する所存でございます。・・・では、親衛隊隊長」
頷き、シュナが繋ぐ。
「宰相、ハンネル・オードネイ閣下。ご挨拶を」
立ち上がったのはリィエルの目の前、人々の最前列に座っていた初老の男性。柔和な雰囲気を湛え、渋い赤色の官服をよく着こなした御仁である。小柄な男だが恰幅はそこそこに良く、たくわえた髭もあり貫禄がある。
「お初にお目にかかります。宰相、ハンネル・オードネイと申します。陛下におかれましてはこれから先、王国の政務一般を執り行うため、私めがその全般の補佐として付き従うこととなります。以降お見知りおきを」
リィエルはそれを聞き、ハンネル宰相が礼を行った直後に思わず口を開いた。
「宰相さま?まあ、とてもお偉いお方なのですか」
ハンネル以下、一同はこれに対し噴き出すところだった。
「ええ、リィエル様。一応この王国、及びこの城内では貴女様の次に多く国権への関与を許された身ですよ」
「あ・・・そうでした。すみません、まだ慣れなくて」
「いいえ、よいのです。リィエル様のご事情を鑑みれば当然のこと。急ぐことなくゆっくりと、学んで行きましょう」
「はい、ありがとうございます」
まだ何か言いたそうにしているリィエルを慮ったのは偏に年齢と共に積み重ねた経験によるところがあろう。ハンネルは少女の困惑の理由が解からないでも無いために、柔らかい口調で促した。
「どうぞ、陛下。このハンネルめにお答えできることなら何なりとお尋ねください。私の職務でもあります故」
「・・・あの、では、宰相さま」
「宰相、または名前で。陛下は我々に敬称を用いてはなりませんよ」
「あ、はい。ではハンネルさ・・・ハンネル宰相」
「はい」
「・・・わたしは、本当に王様なんでしょうか。そう言われて数日が経ちましたが、実感がないんです」
ふむ、とハンネルは髭を揉む様に弄りしばし言葉を探った。
「・・・・・・医師の、秘術による判断が御座いましたな?」
「はい、ありました」
「王の遺灰は赤く染まったでしょう?」
「はい・・・あれは王様の遺灰だったんですか?」
「おや、ご存知なかったか。少々恐ろしげな響きもありますが・・・そうですな、あの秘術は神々が人間に託された特別なもの。一般に知られるものでは無いので、信憑性を疑う陛下の気持ちもお察しします」
「そうですね、似た術は知ってますが、あの術は知りませんでした」
「ほう、お詳しそうだ。ではご理解頂けるでしょうか。あの秘術による判別は絶対に疑いようがなく、正確なものです。赤く染まった灰は血統の繋がりを示すもの。そして、各国家の王族に対してのみあの術は機能する。国家の支柱を明らかにし安堵していたいという、人間の業ですな。それを神々は受けて、秘術としてお与えくださったとか」
いっそ理論的な説明を用いたのはハンネルの判断だったが、リィエルはそれで十分満足のいく回答と納得したらしい。それまでのどこかにあった不安は幾分か和らぎ、ほっとしたように笑んだ。
「お答えに感謝します、ハンネル宰相」
「恐悦至極に存じます」
ハンネルはそのまま座らず、一段高い玉座の隣に立つシュナの更に横まで歩くと、その場に並んだ。どうやら彼も司会としてこの場に参加する予定だったらしい。
「宰相閣下はなお、フィルラント王国軍軍団長も兼任しておられます。次に、騎士団長セイル・フォガリ閣下」
立ち上がった長身の男性。控えめに客観視しても美男子と形容し得る容貌を持つ騎士に、リィエルは少しばかりの感嘆の息を漏らした。
「拝謁を至上の喜びと存じます、女王陛下。このセイル・フォガリ、今日この日より貴女様の騎士としてこの剣を捧げましょう。どうかお受けになって頂けますか」
ざわり、と場がどよめいた。
「ご自重を、フォガリ騎士団長。今日はただのお目見えです。機会は皆等しく、後日設けられましょう」
リィエルは大人達の紛糾の意味がよく分からず、傍らのレアを見上げた。が、彼女は無表情の内に明らかな怒気を漲らせて正面をきっと見据えている。なんとなくそのまま口を開けず、リィエルもまた前を向き直った。が、当のフォガリ騎士団長なる美青年は煌びやかな笑みをリィエルに向けてくる。何か、どこか、それは恫喝めいた微笑みだとリィエルは感じた。
「・・・・・・騎士団長さん、ええと・・・フォガリ騎士団長」
「はいっ、陛下」
何を、とシュナが言いかけてリィエルはゆるりと目線で制した。この場を任せてほしい、と。
「わたしは、薪が割れなかったんです」
「・・・・・・薪、ですか?」
「はい、薪です」
急に何を言い出すのだろうとセイル・フォガリはきょとんとした。それは他の一同もだったが、ハンネルだけが何かを掴んだらしく感心したようにこの状況を眺めていた。
「知識としては、剣を捧げるという行為を知っています。わたしが騎士団長の剣を受けて、これを両肩にあてて忠誠と信頼を結ぶ行為、ですよね?」
「ええ、よくご存知で」
「では、それは今は無理です」
申し訳なさそうにリィエルは眉尻を下げた。目を丸くするフォガリ騎士団長は「は?」とだけ言葉を発し、ハンネル、シュナ、レアは(後ろ二人は表情こそ乏しいが)どこか得心がいったような顔をする。
「母が亡くなる前、薪割りは母がやってくれました。わたしも手伝おうとしたことがあったんですけど、何度やってもできなかったんです。わたしが小さいからだと、母は言ってました。でも十歳になっても、わたしはあんまりお外で運動をしてなかったせいで、薪割りができなかったんです」
リィエルの事情は既にこの場の全員が知っている。どこからか息を呑む音が聞こえた。
「母が倒れて、薪が足りなくなったんです。でもわたしは何度試しても薪が割れなくて、お部屋はずっと寒かったんです。木の枝を拾ってきて使いました。でも、ちゃんと乾燥させた薪じゃないと煙がすごいんですよ。だからあんまりそれもできませんでした」
「・・・・・・・・・」
何を言わんとしているのか、リィエルがずっと申し訳なさそうな表情をしているためフォガリ騎士団長もすぐに察した。
「騎士団長の言う儀式は、わたしの細腕でもできるでしょうか。薪割りの鉈は小さかったけど、それでもわたしには重かったんです。ごめんなさい、わたしは・・・」
「い、いえ陛下!よろしいのです!!」
「あの・・・」
「差し出がましい事を言いました。どうかお許しを!」
「・・・・・・ごめんなさい、騎士団長」
儀剣は、王が臣下への信頼を示す際に用いられる細剣である。それは女王が居る場合でも容易に使えるように軽く、また刃を鈍く作ってあるもの。本来捧げられた剣に代わって、儀礼の場においてはこれを用いることが多い。が、果たしてこの小柄な少女に持ち上げられるものだろうか。人の手を借りてなら可能かもしれないが、それで王の信は示せるのか。リィエルはそれを言った。
フォガリ騎士団長は軽薄そうな笑みを引っ込め、恥じ入って膝を降ろし面を伏せた。危うくこの幼い女王陛下を辱める間抜けぶりを晒すところで、彼は自分の立場を思い出し同時に、この小さな女王陛下の聡明を悟ったらしい。赤面して滂沱の如く冷や汗を流し、黙り込んでしまった。
「では次へ。外務長官ウィバル・ランデミス閣下」
淡々と続けるシュナの声は、冷淡さと僅かに楽しげな響きを持った。
「宰相、ハンネル・オードネイ。憲兵隊隊長さん、ゲルミュラ・パラシェ。外務長官、ウィバル・ランデミス。財務長官・・・」
「ペリューク・ヤカラボ閣下」
「はい。ええと、法務大臣さんがベゼー・ルパジャニ。騎士団長セイル・フォガリ。王立学院院長、ヒーム・エンデル。貴族院院長、デンジー・・・」
「デンジー・イオルム・メイテ伯爵閣下」
「でした。教会の司祭長さんが、カテュ・マリアッキナ。国土大臣の・・・えっとビーレッテ・パストゥ・ラタレイ。それからええと、王立病院長シャン・・・シャンダイン・ハルザッハ。で、裁判所長のマルッカ」
「マロッカ」
「あはい。マロッカ・・・エルヘザーク?」
「はい、よくできました」
「それから侍従長のレア・サニ・コーツハインと、親衛隊隊長のシュナ・ミュテス・ルゼですね」
シュナは微笑んでもう一度、よくできました、と言った。
「あんまりたくさんなので覚えきれませんでした・・・宰相補佐官さんや副騎士団長さんはお名前は何と?」
「いえいえ、急に覚えずともよいのですよ。今日のところはお目見え、名前と顔を一通り見て、これからお役目を通して覚えていただければ」
玉座の間での臣下らとの顔合わせを終えて、リィエルの私室の一つとなった執務室にて。リィエルらは先に退出したのでまだ玉座の間にはハンネル宰相以下の官達が残っており雑談などしているだろうが、そこに触れてやらずにいるのは城内の慣習と言えよう。
「今日お会いしたのは主要な方々のみ。副官以下の面々とは王立議会を通してまた会うことになりましょう」
「こんなに人がいないと国のお仕事はできないんですねぇ」
「もちろんですとも」
現在城内仕えの官名簿を見返すリィエルは傍らに控えるシュナに頼りながら頭の中で今日会った人々の名前と顔を一致させようと苦心していた。今日の公務はこれで終わりということなので、リィエル自身が時間を有意義に使いたいと考えてのことである。この後は休憩を挟んで城内の案内も予定してある。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます、レアさん」
さん、は要らないと何度か言ったのだがどうしてもこうなってしまうので、シュナとレアは訂正を諦めることにした。リィエルの礼儀正しさは母親に学んだようだが、杓子定規すぎるきらいがあり柔軟性に欠ける。それもまだ幼いためだろうと考え直し、なにより愛らしくて良いと二人は判断している。
「お砂糖は幾つ入れましょうか?」
「え?えっと・・・どのくらい入れるものなのでしょう?」
紅茶を用意するレアに、リィエルは戸惑った。ふとシュナもレアも気付く。北国のフィルラントでは栽培できない紅茶は高級品で、庶民が日常的に飲用するものではない。一般庶民が飲む茶とは、ある花を葉と茎ごと乾燥、発酵させたもので淹れる薬茶というものになる。これは甘味が元々含まれているため、砂糖を必要としない。
「では二つと、ミルクも入れましょう。薬茶は体が温まって眠くなるお茶ですが、紅茶は目が覚めます。ご公務の際に飲むお茶とお思いください」
「へぇ・・・」
柔らかく背を暖めるソファに深く腰掛け、温かいミルクティーを飲む。レアは更に茶菓子としてクッキーも用意してあり、リィエルは夢みたい、と口の中で呟いた。
「・・・・・・あんまり味がしないお茶ですね?」
「うふふ、いいえ陛下。紅茶は香りを飲むお茶です」
「香りを?・・・あ、本当。いい匂いです」
なるほど、と両手で持ったカップを見つめてその香りを嗅ぐ姿が子犬のように見えて、レアは一層目を細めた。その眼差しの中で、リィエルはふう、と息を吐いて遠くを見つめる。
「・・・・・・本当に、色んなことが急に変わってしまいました」
「お辛いですか?」
「いいえ。必要とされるのは嬉しいです。どこかに居場所が持てるのは素敵なことですから」
「・・・分かります」
痛みが見えた。リィエルの表情はどこまでも健気で、高い知性を窺わせる。早熟な聡明さと未熟な体を持つ少女は、既に大人顔負けの人生観を持つに至っているらしい。それ故に、ある意味で子供じみた感情の発露が上手くいかない。これはもう生来の苦労性としか表現できないな、とシュナは心の中でため息を吐いた。その顔を見てレアが苦笑するのも構わず。
そんなシュナの心中をよそに、リィエルは大きめのクッキーを口から離すタイミングが分からなくなったらしく、リスのようにクッキーをほお張り一所懸命に飲み込んでいた。それを見て思わずシュナとレアは肩を震わせ噴き出しそうになってしまい、直後に慌ててレアが紅茶を息で冷まして飲ませるという騒動もあって。
一段落して、さてそれでは城内探検にでも、という時になる。
「あ、そうです。お友達に連絡を取りたいのですが・・・だめでしょうか」
リィエルが尋ねたが、シュナは渋めの表情をとった。
「さてどうでしょう。手紙などを託してくだされば届けますが・・・火急の用事がおありでしょうか?」
「いいえ、ただ挨拶をと思ったのですけど。お手紙は・・・ううん、あの方はお手紙はちょっとだめでしょうから」
どういう友人なのだろう、とシュナは想像してしまう。とはいえリィエルもあまり深刻そうな顔をしていないので、これをやんわりと説得することにした。
「しばらく、状況が落ち着いてから機を見て計らいましょう。それまではご辛抱くださいませ。陛下のお体のことも御座いますし、来客を受け入れられる用意も整っておりませんので」
「ああ、そうでよすねぇ。ごめんなさい、無理を言って」
気遣うようなリィエルに、シュナは慌てた。
「滅相も無い。陛下のお頼みごととあらば、何にも優先するもの。今は時期が悪いというだけのことです。お詫びするならこちらからでしょう」
リィエルの控え目な態度は好ましくもあり、シュナにとってはいっそ子供らしく我が侭に振舞って欲しいと思わせるものでもあった。
「そうですか。ありがとう、シュナさん」
だがこの素直さもリィエルの特徴とする性格であろう。言葉を重ねるたびにシュナは、レアもだが、この小さな女王陛下を愛らしく好ましいと感じるようになっていった。それ故に、その幼さを不安にも思うのだが。
よいしょ、と床に着かない足を椅子から降ろして立つリィエルは、さほど小柄でもないレアの腰あたりまでしか身長が無い。その小さな陛下の背後に回り、防寒着を羽織らせる。城内とはいえ廊下などはかなり寒いのだ。
「では、まずどちらから参りましょうか」
「ご公務に関する場所からでよいのでは?」
「まあ、シュナ。せっかくだから陛下も楽しいほうがいいでしょう?」
「え・・・そういうものかな?議会場くらいは見ておいたほうがいいと思うけれど」
「ああそうねえ。うーん・・・」
「そろそろ宰相閣下らも引き上げていらっしゃる頃だ。議会場、謁見の間とまずは案内しておきたい」
「そうね・・・陛下はどこか、行きたい場所はおありですか?」
シュナとレアの会話を興味深そうに観察していたリィエルは尋ねられて、ぱっと明るい顔をした。
「尖塔へ。外からいつも見ていたんです。あの高い塔に登ってみたいと」
「尖塔ですか。いいですね、私も登ったことが無いので、是非行きましょう。見張り番に直接挨拶をするのもたまにはよいものでしょうし」
シュナも無邪気さを垣間見せる一方で、レアはさっと暗い顔になった。
「せ・・・尖塔ですか。高い所ですけど、だ、大丈夫でしょうか」
「・・・・・・陛下、覚えておくとよいでしょう。レアは家の二階から地面を見下ろすのも泣き叫んで拒否するほどの高所恐怖症です。叱られたりして逃げたくなったら高い所へお逃げください」
「それはいいことを聞きました!」
「シュナ!?陛下も、お止めくださいまし!」
青ざめたままのレアに、リィエルはすまなさそうにしながらも笑みを崩さずごめんなさい、と言う。シュナも硬い表情を破顔させているので思わずレアも息を付いて本当にもう、と腰に手を当てた。
そのまま執務室を出て、まずはと謁見の間へ向かったのが昼下がり。赤みが差し始めた陽光が城内を程よく照らし、寒々とした空気もほんのりと柔らかく感じられる時間帯になっていた。
「でもレアさん、高いところが苦手なのによくここでお勤めが続きましたね。丘の上ですし、お城も大きいから、ここもそれなりに高い場所のはずなのに」
フィルラント王国は王城を中心に東西南北にそれぞれ特徴を持つ市街を広げる。中心にある城は高い城壁に囲まれたなだらかな丘の上に建造されており、城の東西にある高い尖塔に登らずともその辺りの窓から外を眺めれば、南は海、東は国境線のある川と湖、西も国境の長大な壁、北は農牧地帯がほぼ全体まで一望できる。北のシュエレー神山から吹き降ろす冷たい風を城内に通し難くするための、敢えてこれほど縦に長い構造になったらしい。事実、上空を流れる風が吹き込むことはあっても北の強い吹き降ろしは城のある丘で割れて南に流れるため、北側の窓辺に立っても強風に身を冷やすことは無い。
レアはリィエルの手を引きながら過去を思い出し、少しげんなりとした顔になった。
「窓に立たなければいいのですよ。外を見ないようにお勤めするのは苦労しますが・・・」
「私より以前から城仕えなのにか。すごいな」
感心したのか呆れたのか、シュナの顔は判断が付かない。
「18歳でお城に来て9年。流石にそろそろ結婚をと思いますけど、嫁ぎ遅れだし、二階に窓の無い家のある殿方なんてどこを探しても見つかりませんし・・・・・・あらいやだわ。申し訳ありません、俗っぽい話で」
「27歳だったのですか。随分お若く見えました」
「私もだ。年下だと思っていた」
謁見の間の扉が目の前に現れた。執務室から出てここまで、やけに道は複雑だったようにリィエルは感じた。今歩いた道を少し振り返っても、先ほど曲がった角の奥など見えはしない。
「・・・・・・・・・」
シュナに先導されてリィエルがもう一つの玉座の前に立つ。地味ながら重々しい迫力を湛えていた玉座の間の席とは対照的な、洗練された優美な派手さを持つ玉座。座面と背もたれは無地に近い。きっとここに座る者によってこの玉座は性格を大きく違えて見せるのだろう。優れた意匠に、美術には疎いリィエルやシュナでも感嘆のため息を漏らした。
「あの、シュナ?・・・は、お幾つなのですか?」
「え、うん?私か。再来月で24になるが」
「わたしは少し前に10歳になりました」
リィエルも嬉しそうに言うので逆に、レアはよよと泣き真似を挟んで悔しそうにしてみせるしかなかった。流石のシュナも心中を察する。
「と・・・歳からすればレアの外見はまだ十代でも通用するほどだと思うし、器量も良いし・・・なあ?」
「・・・・・・・・・ちなみに聞きますけど、私何歳くらいに見えるんです?」
何故この人はこれほどショックを受けて涙目で恨めしそうな顔面を私に近づけてくるんだろうか、とシュナは激しく当惑する一方でリィエルはやはり額面どおりに言葉を受け止めているらしくさほど深刻そうな表情でもなくむしろ謎掛けの回答を楽しむような表情をしており、いやここは正直に答えてあげるべきなのだろうと結論した。
「じ、じゅうきゅう、にじゅうくらい・・・」
「20歳くらいかと思いました。お母さんも見た目は若いのよって言ってて、でもお母さんよりお若く見えますよ」
「本当ですか!?」
一応、城内の各所には警備の兵士が配置している。もちろんこの謁見の間にも。来客を迎える部屋だけに比較的見晴らしがよく入り口も大きい部屋だけに、声もよく響いた。そのせいであるのは間違いなくこの場の警備兵を務める二人の男性が扉の前で直立したまま、明確にそわそわしていた。酷な仕事だ。
「・・・・・・。はぁ、安心しました」
「それはよかったです」
裏表なく喜ぶリィエルの頭上、レアがちらりとシュナの顔を見て、シュナが頷いた。
「こほん。さて、では議会場に向かいましょう。ここからだと執務室の反対側になりますので、少し歩きます。お疲れではありませんか?」
「大丈夫です。腕力はありませんけど、歩くのは得意ですよ」
さもありなん。あの僻地に暮らしていれば脚力だけは嫌でも身に付くだろうなあ、などとシュナもレアも感慨にふけった。一目見たところではわからないが、先刻の着替えの際などに目に入ったリィエルの体は筋肉が薄く痩せて全体が細い印象を受けたが、立ち姿はしっかりしているし、ふくらはぎも子供にしてはかなり丸みがある。よほど日常的に歩き回っていたのだろうとは想像に難くなかった。
その軽やかな歩みで謁見の間を出て、先ほどとはまた違う順路で城内を行く。途中何度か角を曲がり階段を昇って降りて。流石にリィエルもなるほど、と感づいた。
「道が複雑なのは、防犯のためですか」
この質問には城内の警備総責任者であるシュナが答える。
「よくお気づきですね、そうです。・・・・・・慣れるまでは決してお一人で城内を歩き回ってはいけませんよ?よく観察しないと気付きませんが、この」
シュナの手が石造りの壁面に触れる。何度も重ね塗りされた漆喰の壁は時代を追うごとに改良された素材に置き換わることで内部は年輪のようになっているだろう。その表面には、どうしても発生する塗りのムラを逆に利用してぼんやりと陰影で浮かび上がる抽象的な模様が描かれている。
「・・・この壁です。この薄模様、よく計算して塗られるよう研究されており、別の場所でも同じような形状の通路にはほぼ完全に同じ模様が描かれています。そのためあてもなく廊下を歩くと、現在地を見失って容易に道に迷ってしまう。私も城仕えになって半年ほどは城内の地図が手放せませんでした」
「へえ・・・」
確かに、今歩いている廊下もどこかで通ったような気がする。注意して歩かなければとシュナは言ったが、むしろ周囲を見ながら歩けばこそ道に迷うのではなかろうか。結局は慣れと経験だろうとリィエルは納得した。
「謁見用の玉座、綺麗でしたねえ」
「ええ。一部に象牙という素材があるため、現在では同じものを再現することは不可能だそうです。石造りの部分ならシュエレー神のお許しを頂いてなら、鉱山からいくらでも採れるのですけど」
「絶滅してしまった動物ですね、象さん・・・どんな動物だったんでしょう。言葉だけだと姿は想像するしかないですね」
「え?・・・ええ、そうですね。・・・・・・まあ、もしかしたら聖獣に聞けば分かるのかもしれません」
「聖獣。そっか・・・アールカインさんは知ってるんでしょうか」
「どうでしょう。建国時から護国の聖獣の契約を交わしたお方ですから」
西の国境を守護する巨大鳥アールカインを何故かやけに親しげな呼び方で表したのも、リィエルだから、ということで説明がつく。しかし、なるほど自身の言葉ながら守護聖獣との意思疎通や情報交換を行う者は無かったのだろうか。セス教と国家と聖獣に共通の摂理においてそれは”忌避される”であって”認められない”ではなかったはずだ。
リィエルが歩きながら目線を巡らせるので、シュナとレアもそれにつられた。見えるものは通り過ぎる部屋の扉。描かれた精緻な模様は製作を請け負った職人らの遊び心も相まって、動物、人、風景、建物などが賑やかに彫り込まれている。
「一つ一つ違うのですね。すごい」
実はこの扉の数々も全く同じ装飾のものが複数あり防犯と城内の迷宮化に一役買っているのだが、今更くどくど説明する必要もないだろう。
そうしてやっと辿り着いた王立議会場。今しがた歩いてきた道は城内に住む者が使うもので、城外から来る場合は専用の通路があるらしい。ならそれを使えばよかったのでは、とリィエルは尋ねたが、その場合は一度城の外まで出て庭を歩かなければならないのだとか。いくらなんでもそれは遠い。
「円卓なのですね」
「ええ。そして陛下はあちらの椅子で、議員の面々を見下ろしながら参加します。陛下から見て正面の席が宰相閣下のものですね。宰相は議長でもありますから」
「はぁ~」
広大なすり鉢上の部屋の中央に巨大な円卓があり、部屋の奥、つまり今リィエル達が入ってきた扉の横には一段高く設置された、これもまた雰囲気の違う玉座があった。やたら地味で、艶やかな漆塗りの木の椅子。だがリィエルはこの椅子を見て、一目で気に入った。余計な装飾を排除しひたすら事務的に徹する。それは”怠るなかれ”という戒めの言葉を物言わず主張しているようだったから。
リィエルはそのまま歩いて、部屋の壁に沿って並ぶ二段の席と机をぐるりと辿った。これらは書記官を始めとした低等級議員が座るものらしい。シュナとレアはここに座ったことがないと話した。
「私は一足飛びで親衛隊を任されましたから・・・下からは疎んじられ上からは青二才扱いされ、ありがた迷惑でしたね。しかし、最近では何も言われなくなりましたよ」
「そもそも侍従長より下のメイドや執事達は会議中、ここに立ち入りできません。私も私ですけど、侍従長になって初めてここで会議に参加することを知りましたからね。メイドは噂好きなものですし、まあ、長の一人くらいが参加する程度で丁度いいのは間違いないでしょう」
議員、とはつまり王国政府の中枢を担う臣を筆頭とした人々を指す。当然、親衛隊隊長、侍従長も上級議員として数えられる役職である。議員というには二人は若すぎるような気もするが、シュナの言うように最近では不満を聞かなくなったというのなら、二人とも政治に関してもそれなりに優秀なのだろう。
リィエルは何か巨大なものを間近に見るように議会場の中央を見つめ、黙り込んだ。
「・・・不安ですか?ご自身もこの場所で会議に参加することが」
はた、とリィエルの目がシュナを見つめる。そして見透かされたことに気付いて恥ずかしそうに苦笑した。
「わかっちゃいましたか?」
「ええ。私も・・・レアもそうでしたから。急に周囲が変わったという点においては、私達は陛下と似ているとも言えましょう。あまり大それたことは言えませんが」
レアが「ああ~・・・」と何かを思い出したのかうんざりしたような笑っているような、一種の苦笑を顔に浮かべていた。気苦労はあったのだろう。けれど、悪くないものだったのだろう。
「幸いにしてハンネル宰相閣下は面倒見のよいお方です。私達もかなり助けられましたから。陛下もまず、頼れる臣下が居なければ彼を頼りにしてみてはいかがかと」
言葉尻に付け足すようにシュナは少し、硬質な態度を覗かせた。それが意味するものをリィエルはまだ察せず、ただ言葉通りに受け取った。
「そうしてみます。ありがとう、シュナさん」
リィエルとシュナ、二人してにっこりと微笑み合う。そしてリィエルがはたと気付いて付け加えた。
「でもシュナさん、レアさん。わたしはお二人のことも頼りにしてますよ」
例えば姉のように。
シュナとレアは自分達がまだこの城内では未熟者であることを自覚している。しかしこの小さな女王陛下はそれに輪を掛けて何も知らないのだ。非常に利口ではあるらしい、が、規範とはいかなくとも支え、先導者、そういった存在が彼女には必要である。
教えを請われて解答を示すには知識と経験が要る。宰相ハンネル・オードネイは60歳に届くが、城仕えは30年を超えるという。何人もの先輩に学び、何人もの後輩に教えて自身の能力を磐石なものとしたのだろう。論戦で彼に敵う者は他国にもそうそう居ないと言われる。その彼の口癖が「教える身になって初めて知識は意味を持つ」だった。
ハンネル宰相は四六時中この城内に居るわけではない。彼が指針を示してくれても、リィエルを間近で導けるのは傍仕えするシュナとレアだけなのだ。二人はリィエルの言葉を喜ばしく、誇らしく思う一方で心身を引き締めていた。
「光栄です、陛下」
「私も。お言葉を励みにさせていただきますわ」
リィエルが照れたように笑う。
「・・・定例会期は来月の頭から。陛下の戴冠式など行事も控えておりますので、少しずつでも準備をしていきましょう」
「はい。がんばります」
「よいお返事です。さて・・・・・・ではお待ちかねの尖塔登りといきますか」
「はいっ!」
シュナとリィエルはレアを見る。果たして期待通りの彼女がそこに居た。
「・・・・・・・・・はい。行きます」
リィエルの笑顔を絶やさぬように。シュナもレアも、それが今の務め。心から楽しそうに笑うリィエルの手を取って、議会場を後にした。
尖塔は城の東西に位置し、城内から階段を使って頂上の見張り台に繋がっている。平時そこには見張り番が常駐し、東西の国境をひたすら監視するために用いられる。そのため常駐する兵士は例外なく視力の飛びぬけて優れた者が王国軍の中から抜擢され着任している。それなりに過酷な任務であるため、給金など手当ての面で優遇される職務と言われる。
リィエル達一行は東側の塔へとやって来た。長大な階段を昇ったが、やはりリィエルは平気そうにしている。
「高い・・・高い・・・・・・」
「わぁ、すごい眺めですねぇ!」
レアがリィエルの手を引いているのか、リィエルがレアの手を引いているのか。どちらにせよリィエルの手を握ったままうずくまって震えるレアを呆れたように笑い、シュナは見張り番の兵士に一礼した。
「お役目ご苦労。しばらく邪魔をするが、見逃してくれ」
「いえ、光栄です!どうぞごゆっくり、お心ゆくまで!」
「ふふ、寒いからあまり長いはさせられないけれど」
「そ、そうでしたね・・・」
元は弓隊士だと男の兵士は言った。訓練中に足を負傷したことと、視力が優れていること。合わせて隊長に推薦されてこの場所に着任したらしい。
「どちらの部隊に?」
「4番弓術部隊でした。隊長が五十人長だったので鍛えられましたよ」
「叩き上げか。なら、能力一切は問題ないのだな」
「そう自負しております」
冗談めいたところの無い兵士の言葉に感心し、肩を叩いてシュナは彼を賞賛した。美女と名高い親衛隊隊長に近しくしてもらったことを感激したのか頬を紅潮させ、感極まった声で礼を返した。
一方のリィエル。なかなかレアが顔を上げないので困ったように笑った。
「ほらレアさん。いい景色です。見ないともったいないですよ」
「いいえ陛下、どうか、どうかご堪忍を。本当に私・・・駄目なんです、高いところ」
「そうですか・・・・・・」
残念ですね、と横に近づいてきたシュナに目で語った。彼女もまた同じ表情を作り、二人してこの雄大な景色を眺める。
まず近くに見えたのが城のある丘の麓、堀に沿って作られた円形の城壁と、その内側に立ち並ぶ建物の群れ。あれは半数ほどが官舎であり、議員の宿泊の他に城内で仕事をする人々が仮住まいとして居住する場所らしい。
南に伸びるなだらかな斜面。さらに遠くには小さく街と、そして海が広がる。雲の動きが速い。また雪が降るのだろうかと天を仰いだ。
西のリィエルの実家はここからは見えない。山から流れるように落ちて広がる森林地帯が平原と丘陵をまだらに黒く染めているためだ。ただその向こう、国境を形成する長大な壁が山と海を繋いで平原を分断しているのは見える。あの壁の中央には台座と屋根があり、巨大鳥アールカインが住まう場所としても機能している。
東の国境には壁が無く、代わりにシュエレー神山から流れる川が草原を切り取り、一部盆地状になって湖を形成する。さらに川は海まで流れ、これを東の国境線としている。あの湖には東の守護聖獣、水龍クシャタラナトが住んでおり東への睨みを利かせているため、湖と川の上流で漁をすることは禁じられている。
そして北。シュエレー神山は一面の雪化粧で覆われ、今は暮れ始めた陽光を浴びて茜色に染め上がっている。あの照り返しが強く、城の北側は日照に困るどころか、冬でも日焼けすることがあるらしい。その強い日差しを受けての労働を強いられる農業従事者はこの北側、シュエレー神山の麓まで家と農牧地を広げているが今は雪に閉ざされ、休耕期とのこと。あの雪の中でほとんど外出もせず辛抱強く春を待つのだとか。
目線を上げると、シュエレー神山の急な斜面のそこかしこに水平に伸びる黒い線が見えた。聞けば雪崩用の防壁だとか。複数を点在させることで雪崩の勢いを弱め、麓まで雪が届かぬように配置されているらしい。この百年近く、雪崩が麓まで流れてきたことは無いのだとシュナは言う。
「・・・・・・百年も?」
「ええ。何度も補修、増築を重ねていますから壊れることもありませんし」
「・・・今年の冬は、雪崩は?」
「いえ、今の所観測されていませんね。・・・でしょう?」
監視兵は急に問われてしどろもどろになってしまった。
「は、はい!今季の冬はまだ一度も雪崩は発生していません!」
リィエルは何かを考え、黙り込んだ。目線はシュエレー神山の斜面に釘付けのままである。
「・・・何か?陛下、どうされました?」
「・・・・・・いえ」
風が少し強く吹き始めてもリィエルはそのままだった。やがて日の光が急に遮られ、空から重くのしかかるような空気が落ちてくる。気温も急激に下がり始め、監視兵が見張り台に設置してある木箱から毛布のような厚手の布を取り出した。
「防寒着です。これから雪になるでしょうから、このままこちらにいらっしゃるのであれば、どうかこれを」
差し出された布を掴もうとしてリィエルは逡巡し、やがて小さく首を振った。
「いいえ、ありがとう。もう降りることにします。お仕事中だったのにご迷惑をおかけしました」
折り目正しく礼をするので監視兵は慌てて頭を下げた。一国の主となったリィエルに頭を下げられては、一兵卒でしかないこの男性はたまったものではないだろう。シュナは苦い笑みを浮かべてリィエルの手を取り、その後ろのレアは引きずられるようにして見張り台を降り始めた。
「・・・シュナさん、気象の記録管理は王立学院で行っているのですよね?」
「え?はい、そうですが」
長い階段を降りながらリィエルは聞いた。やはり何か考え事をしている風なので、シュナは誤ってリィエルが階段を踏み外さないように強く彼女の手を握る。
「城内に資料はありますか?」
「さあ・・・資料室には書物以外にも王国史などが編纂されて保管してあるそうですが」
武官らしい言葉である。軍務関係者で資料室を頻繁に利用するのは、軍団長も兼任するハンネル宰相閣下くらいだったとシュナは記憶している。
「・・・・・・では、王立学院に依頼して気象記録と、災害記録、あと、城内にあればですが公共工事の記録も。明日までに執務室に届けて頂けるようお願いしてよいでしょうか?」
本当にこの少女は10歳なのだろうか、とシュナは一瞬本気でわからなくなったが、すぐに彼女の母親が一部で名を馳せた学院の神童であったことを思い出した。どれほどの教育を施されたのだろう、それを思い身震いしながら。
「わかりました。先ほど気にしておられた、雪崩に関するものですね?」
「そうです。古いものも、どれだけ多くなっても構わないです。可能な限り集めて持ってきてください」
「・・・了解しました」
古い記録、公文書は保存する媒体、つまり紙や木の板、石版などでは物質自体の劣化によって内容が消失してしまう場合がある。歴史ある国の数少ない弊害と言えることだが、これを防ぐため秘術によって素材の劣化を防ぐ手段は遥か昔に開発された。が、これによって蓄積された太古の記録は今も現存しており、公文書を始め各種記録文書は膨大すぎる量になってしまっている。今、リィエルによって指定されたものだけでどれほどの量になることか。そしてそれをリィエルが一人で全てに目を通せるのだろうか?シュナは不思議に思いながらも、王命とあっては聞かないわけにはいかない。
「この後に指示しておきましょう。ご指定のものを全て、でよろしいのですか?」
「はい。一度に全部持ってきてください。執務室に入りきらなかったらどこか広い場所を借りましょう」
「は、はい」
本気で言っていることが分かりシュナは混乱した。一体どうやって・・・?
階段を降りた頃にはもう、外は完全な雪模様になっていた。そこかしこでメイド達が木窓を閉め城内の灯りに火をつけていくのが見える。レアは仕事ができたらしく、ここで申し訳なさそうにどこかへ行ってしまった。そろそろ夜がくる。冬の夜ほど用意の必要な時間帯もあるまい。
シュナに手を引かれて歩く内に、リィエルはどうやら執務室か寝室にそのまま戻るわけではなさそうだと気付いた。
「シュナさん、どこに行くの?」
「さあ、どこでしょう」
いたずらっぽくシュナが言うので、リィエルも面白がって黙っていることにした。
道順から察するに中庭の方面らしい。まだ庭の散策はしていないので楽しみだが、時間も今からでは薄暗くなってしまうだろう。何か他に目的があるのかな、と一層楽しみを募らせる。
中庭に出るには正門から直通の廊下まで出て、そこから交差する大きな廊下を突っ切りテラスに出る必要がある。今二人が来たのは西側のテラスだった。春はここで茶会などを楽しむのだろう、美しい庭園を見渡せる場所である。そこで二人は衛兵から防寒着を手渡され、厚着しているというのにその上から更に厚手の布を羽織った。流石に重く感じて、リィエルはシュナにしな垂れるようにして歩く。
そうして着いた場所には一本の小さな樫の木が生えていた。細い幹だが風にも揺れず、広く枝を伸ばして雪を葉に代えて乗せている、そんな木。その下に真新しい墓標があった。
「・・・・・・正室ではないため王族の墓所には迎えられず、申し訳ありません。ですが、ここであれば陛下もいつでも来られるだろうと相談し、決まりました。葬儀は陛下ご自身で済ませておいでのようですが、お望みならもう一度教会に依頼することも可能です」
墓碑銘には「ミュシェ・タナック」と。碑文は無い。リィエルが以前作った教会のシンボルにも何も彫らなかった。言葉ならいくらでも遺していってくれたから。
ここに来た時、遺骨は持ってこれなかった。埋葬したままどうすればよいのかリィエルは考えていたが、こんなに遠く離れてしまっては何もできないと諦めていた。思い出が心に残ればいい。偶像は不要、と。
でも、それでも、リィエルは涙を流し始めていた。
「・・・・・・ありがとう、シュナさん」
「・・・・・・いえ」
ミュシェ・タナックの墓所の移転には多々意見があり紆余曲折あったが、結局城内に移すことに決まった。王族の墓所は城内地下の霊廟になるが、ここに先王シャルテは埋葬されている。せめてあの寂しい家よりは、かつて愛した者同士、そして娘と近い場所に居たいだろう、と。
リィエルはしゃくり上げながら何度もシュナにありがとうと言い、ミュシェの墓標の前に跪いた。寒さに悴み始めた赤らむ手で墓石を抱き寄せ、母を呼ぶ。
どうしていってしまったの、おかあさん。そう、何度も。