第二話・「戴冠式(後)」
風が吹いていた。
柔らかく、頬を撫でる気持ちの良い風が。
「お座りくださいませ」
目の前に置かれた椅子が差し出される。
招くのは絶世の美女、大天使インリューク。
白い光と、青い空。
「・・・・・・お部屋の中に、お庭・・・?」
教会の壁を抜けたその先は、どこまでも広がる空と緑の平原だった。
背後には白い壁と大きな木の扉。舞台のように床があり、たった二脚の椅子だけが置かれている。
他には何も無い。
「ここが、私と陛下の共通風景。心に根ざす最初の国土です」
「最初の国土?」
インリュークは微笑み、椅子に腰掛けた。リィエルも続いて座る。
「ここには何があると思いますか」
「え?ええと・・・何も・・・?」
何もない。が、それだけだろうか。
インリュークの微笑みは何も語らないが、リィエルは何となくその答えを知っている気はしていた。
「何も・・・いえ、全てが」
「そう、全てです」
無限に広がる青空と草原。そこには何もない。
だが、それ故に全てがある。
あらゆる可能性が。
「ここに、わたしは国を作るのですね。これから、国を・・・」
インリュークは頷く。
広い、どこまでも広い草原。無限の空。
リィエルが切り拓く、悠久の可能性。
「お聞きになりたいことがありますね?」
空を見上げるインリュークの横顔も、非現実的なまでに調和を感じさせる。
これは確かに人間ではない。ここまで整った顔形を持つ人など、居るはずがない。
聞きたいこと。そう、確かにある。
「・・・・・・ひとつだけ、聞いてよいでしょうか」
「何なりと。そのために私はここに」
これは聞いてもよいのだろうか。だがそんな迷いなどお見通しだと言うように、インリュークは変わらず柔らかく微笑んでいる。
リィエルは迷って、だが心を決めた。
「わたしのお父さんは、わたしを知っていたのですか?」
母の愛は杖に。父の愛は道に。
先王シャルテは、愚王として知られた。妾を作り政務を放棄したと。
だが、リィエルが居る。母ミュシェと父シャルテの間に生まれたただ一人の娘。
崇拝に近い感情を、自分の母に向けた。秘術士として、人間として。
その母が選んだのが父であれば、それは果たして皆が言う愚王なのだろうか。
そして、今がある。今この時そのものが証明する。
「はい、その通りです」
インリュークはあっさりと答えた。
そうですか、とリィエルは呆然と頷く。
「それは質問ではなく、確認。そうですね、陛下」
「・・・・・・そうだと思います」
答えに予想はついていた。父、シャルテは自分という存在を知っていたかどうか。
リィエルが新王に即位して見えたことがある。それは、彼女の前に敷かれた道が妙にまっすぐであったこと。
臣下の悪癖を正し、国の危機に立ち向かう。それは王の義務だ。
見つけるのがあまりにも簡単だった。問題は、リィエルの目に容易く見出された。
女性の官が多い。先王シャルテの放蕩の一つだとされていた。
だが結果、リィエルが玉座に座る、その補佐は多い。リィエルの遠慮も和らいでいる。
シャルテ王は自分を知っていた。でなければ、あれほど準備が整うはずがない。
では何故、会いに来なかったのだろう。
「お父さんは、王様だったのですね・・・」
「そのようですね」
王であるから。
最愛の人との間に子があることを知って、シャルテは悩んだだろう。玉座か、家族か。
だが彼は、それでも王であろうと決意した。リィエルを王室に招くこともできただろうが、ミュシェが何も言わず姿を消した意味を汲んだ。その結果、彼は自分の人生を諦めたのだ。
形ばかりの結婚、形ばかりの放蕩、傷の浅い家臣の腐敗、蓄積しても回復の容易な問題の数々。
全ては、次に王位を得る娘のために。
娘が王となるための試練として、そして助けとして。
父の愛は道に。
「・・・教えてくださって、ありがとう。インリューク様」
草原に風が吹いた。
いつの間にかインリュークとリィエルは緑の草原を踏みしめ、柔らかい風の吹くその中に佇んでいた。
風に波打つ草原を眺めながら、リィエルはぽつりと口を開く。
「わたしは王様になれますか」
「あなたがそう望み、そう在ろうと思えば」
「・・・わたし、まだ王様がどんなものなのか、よくわかりません。知識としてなら知っています。でも・・・」
「思うままに」
「でも・・・」
ふ、とインリュークが微笑んだ。
美しい顔がリィエルに近づき、その頬を撫でる。
優しく、暖かな手のひら。
「望みはありますか?」
「え・・・・・・?」
「欲しい物、やりたいこと、叶えたい夢、行きたい場所、知りたい事、会いたい人。そのどれでも」
「それは、どういう」
「一つだけ、私がその望みを叶えて差し上げましょう。大天使の名において」
きょとん、とリィエルは傍らに立つ美しい女性の顔を見上げた。白銀に光る慈悲に満ちた眼差し。
申し出はリィエルの心をくすぐる。
「そ、れは・・・・・」
「私からの贈り物。我が君、リィエル陛下への」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
リィエルは深く俯いた。
欲しい物、やりたいこと、叶えたい夢、行きたい場所、知りたい事、会いたい人。
リィエルにだって、それくらいある。
無いというほうがおかしい。
誰にだって存在する望みだ。
「どう、して・・・」
震える声が喉から出てきた。
「どうして、そんなことを言うのですか。わたし、わたしは・・・」
座り込み、椅子の背もたれに深く腰掛ける。再び椅子のある場所に戻っていた。
ぐるぐると脳裏を思考が巡り、苦しさに頭をかかえる。
「・・・・・・このフィルラントに暮らす全ての人の、幸福。それが、わたしの望みです」
決然と言い切った。
悔しくて涙を流すのは、もう何度目だろう。
「そうですか」
インリュークはしばらく静かに押し黙り、リィエルの決意を見守っていた。
たかだか十歳の少女に、その決断はどれほどの重さになるだろう。
この大天使は、それらを理解していて質問したのだ。
「・・・・・・意地悪なことを言ってしまいましたね」
「いいえ。そんなことはないです」
「ふふ・・・・・・そう、それでよいのです。それが、王であるということの第一歩」
民の幸福を願うということ。
「王は望まず、望みを叶える者。王が独善に走ると、民は憤るでしょう」
王の資質。
「王は望まれる者。大願の体現者。民の夢、民の希望。王の望みは、民の望み」
リィエルが目指す最初の境地。
「どうか、泣かないで。あなたには私がついています」
「・・・・・・でも、とても難しいです」
「そのために、民は居ます。民のための王は、民に支えられています。そしてあなたは、私が守っています。あなたの運命、あなたの意志を、私が証明し続けましょう。決して杖を手放さず、道に迷うことの無いように」
リィエルの手をとり、インリュークは傍らに立つ。
母の手のひらの温もりを思い出して、リィエルはその手をしっかりと掴んだ。
「共に在りましょう。国王陛下、リィエル・タナック・フィルラント。いつも私はあなたの傍に居ます。あなたが決して寂しくないように、いつでもあなたを見守っています。望むなら問いかけに応え、馳せ参じましょう」
「・・・それは、あなたが守護天使様だからです?」
「そうです。そして、あなたを愛する者の一人として。あなたのために生まれた者として」
「インリューク様・・・」
インリュークの言葉は、懇願に聞こえた。
あなたと共に在ることこそ私の望み。私の希望。そう言うように。
ただリィエルのためだけに在る者。
王の守護者。
「これから・・・よろしくお願いします、インリューク様」
「はい、リィエル陛下」
王あっての守護天使。
王が見る最初の奇跡。
戴く王冠が輝いた。
「ありがとう、陛下」
「こちらこそです、インリューク様」
光が満ちた。
フィルラント王国歴3191年、春。
守護者、大天使インリュークを従える新王リィエル・タナック・フィルラント、ここに戴冠。
リィエルは名実ともに新王と認められ、儀式は終了する。
10歳の新王、少女王リィエルの誕生の日だった。
ここまでが第二話となります。
第一話から長々と間が開いてしまい、申し訳ありませんでした。