表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

第二話・「シックル・レスト」

 事情が事情だけに、少し考えさせて欲しいという議員は少なくなかった。だが、ムルエルファスが頭を下げ、リィエルの勅命でもあるということで、結局は皆も納得したようだった。

 フィルラント王国にとっても破格の条件であることは間違いない。民にも動揺はあろうが、利点を考えればやはり歓待してくれるであろう。そういう結論に至る。

 ユクティラ国との同盟はフィルラント王国議会の全面的な同意を得て正式に成立した。

 王国東方の国境での騒動から二日。当初こそ大騒ぎで、ムルエルファスに対し叱責めいた言葉も聞こえたが、今はそれも収まった。

 今日も天気に恵まれ、城内には朝日が強く差し込んでいる。


「やあ、リィエル陛下」

「おはようございます、ムルエルファス様」

 執務室の机の向こうにちんまりと。リィエルは分厚い毛糸の部屋着を何枚も重ねた姿でムルエルファスに笑顔を見せた。

 ひくしっ、と可愛らしいくしゃみも付け加えて。

「むう、いや・・・すまなかったね」

「ひえ、らいじょうぶれふ」

 机に何枚も重ねられた安布のハンカチから一枚、ちん、と鼻をかむ。

 あれだけ体中ずぶ濡れにされてしまったのだ。よく拭いたものの、元々少し体が弱っていたリィエルは、ものの見事に風邪を引いた。それでこの格好。レアも大げさだとは思うが、実際まだ朝は寒い。

 来たのはムルエルファスだけらしい。どうやってドアを開けたのかと思ったが、先日見せてくれた彼の能力で戸を押したのだろう。

「どうされました?あ、朝御飯です?」

「いや、そういうわけでもないよ。ただ寄ってみただけだな」

「はぁ」

 爪をちゃかちゃかと鳴らしてムルエルファスは置かれた椅子に飛び乗った。そういえばあの壁際に並んだ二つの椅子は何のために置いてあるのだろう。たまにサエラが休んで座っていたりするが、リィエルが座るには少し背が高い。

 すんすんと鼻を鳴らしてリィエルは書類の一枚に目を通し終わり、玉印を捺した。

「順調かね?」

「はい。おかげさまで、種まきの時期までに間に合いそうです」

「それはよかった」

 北部農耕地の土砂除去作業に着工したのは、クシャタラナトからの許可が出てからすぐに翌日より。元々すぐにでも作業が始められるように資材等全て揃えており人員も待機していたので、急な決定にも関わらず作業は本当に順調だと聞いている。

 目を通した書類は追加の機材や細々とした作業内容の変更などに許可を求めるもの。宰相ハンネルに任せてもよいものだったし、財務長官のペリュークの所で決定印を捺してもよいものだが、他の部署を通す必要もない簡単な決済なのでリィエルが引き受けている。

「明日、視察に行こうと思うのですが、レアさんが止めてって言うんです。うんと暖かくしていけば大丈夫だと思うのですが・・・」

「はっはっは、まあ、気持ちはわかるが侍従長の言うことももっともだな。医者と相談して体調が良ければ、にするのがよかろう。見たところリィエル陛下は、成長すれば体も丈夫になるだろうが今の内は少々病弱だろうしな」

「お分かりになるのですか?」

「そういう目を持っているのでね。なに、数年の辛抱だ」

「そんなに待てないです。早く大人になりたいです」

「ふふ、子供は皆、同じように思うようだよ。自然に身をまかせておけばよい。誰であっても、いつかは必ず大人になるのだから。逆に子供には決して戻れないのだ。今を十分に堪能したまえ」

「はぁ・・・・・・」

 そうとだけ言ってムルエルファスはいつものように羽の付け根をクチバシでつついていた。

 時折鼻をかみながら、リィエルが書類を次々に片付けていく。ムルエルファスは黙ってその様子を眺めていた。

 どれくらい、そうして時間が過ぎたか。恐らく一時間ほどで事務は済んだと思われる。

 リィエルが書類の最後の一枚を置いたのを確認すると、やっとムルエルファスはクチバシを開いた。

「明日、帰ろうと思う。それを伝えに来た」

 急な言葉にリィエルは驚いて目を丸くした。

「まあ!早く言ってくださればよろしかったのに!」

 リィエルは慌ててペンを置くと、ムルエルファスの目線に合わせて彼の前に膝をつく。ムルエルファスの優しげな瞳が彼女を見つめた。

「もう少し居てくださっても・・・あ、でも・・・」

 察してリィエルは気まずそうに口を閉ざす。

 ムルエルファスが何のために国を留守にしたか、それを思い出した。

「そういうことかな。ふふふ、お気遣いに感謝する、リィエル陛下」

「はい・・・残念ですけれど・・・」

 では、とムルエルファスは続けた。

「今日のところは心残りの無いように、のんびりとこの国を見てまわろうと思う。城外は一通り見たからな、残るは城内の様子を見ておきたい。風邪を召されているところに悪いが、よろしいかね?」

「ええ、是非案内させてください。すぐがいいです?もうわたしもお仕事が今終わったのでご一緒できますけれど」

「いや、少し休憩をとってからでよいぞ。のんびりと、だ。お体に障ってはいかんからな」

「うふふふ、ありがとうございます」

 ちょうど執務室のドアがコンコンと鳴って、レアが紅茶の載った盆を持ってきた。

 昼前なので菓子は無い。

 さて、何と言って説得したものか。リィエルは話を切り出すタイミングを模索した。



 城の厨房を預かる料理長シワロ・ケジャックは、皺の入り交じった顔を歪ませて喉の奥を低く鳴らした。

「どうしましょう、料理長・・・」

「知るか。こんなに食いきれん。兵隊さんらを呼ぶしかないな」

「騎士団長と宰相様にお伝えするんですか?」

「ついでに千人長もだ。旦那のほうに手伝ってもらう」

「もう、本当にご婦人と仲悪いんだから料理長ったら」

 衛生服を着こむ料理長に気安く喋りかけるのは、同じく衛生服を着た長い黒髪の少女。厨房でコック見習いをしているベルミ・トタール・ケジャックである。料理長の親戚として同じくコックの道を目指した少女は、今では厨房の凸凹コンビという認識を城内の皆からは受けている。

 料理長の方はそう言われるたびに殺気のこもった形相をするので、口に出して言う者は少ないが。

 二人の目の前には、厨房の大きな調理台がある。そしてその上に置かれた大量の布包み。

 ひと抱えほどもある包みは全部で十個。中身は、全てあの魚介パイだった。

 二人がどうしようと悩んでいると、厨房にサエラが顔を出す。

「ベルミぃ、リィエル様も魚介パイでいいんだってお弁当・・・って、どしたの二人とも、そんな怖い顔して」

 包み一つにつきパイ三枚。総数三十枚の、一つでも巨大な魚介パイを持ってきたのはまさしくこのサエラだった。当然、運ぶために人を手伝いに使ってはいたが。

「馬鹿サエラ!どうすんのよこんなに!もう暖かいんだからすぐ腐っちゃうわよ!」

「え、ええ~・・・大丈夫だって。皆で頑張ればすぐ無くなるからさ」

「皆って誰よ!大宴会でもするつもり!?」

 サエラを見つけた途端に怒り心頭のベルミである。噛み付かんばかりの勢いにサエラも慌てて弁解するが、果たしてその的外れな意見には料理長シワロも渋面を深めた。

「まあ落ち着けベルミ。それとサエラ、これは兵隊の皆さんにも分けるようにするが、次からはこっちに量なんかもキチッと断ってから持ってきてくれるかい。こんなにあっちゃ食べきるまでに時間がかかる。城仕えが暇じゃねえのはこの一週間で思い知ったんだろ?」

「あ、あのあの・・・・・・はい、ごめんなさい・・・」

「今回はもう気にしなくていい。お前のとこの母さんに、あんまり調子に乗るなと伝えてやってくれるか」

「えぇ~?そんなこと言ったら母さん落ち込みますよぉ」

「こんだけ作る元気があるなら少々落ち込むくらいが丁度いいだろ・・・とにかく、少しは加減してくれと言っておけ。いいな?」

「はぁ」

 呑気な返事にベルミがつかつかと詰め寄りサエラに食って掛かる。

「本当にわかってんでしょうね!あんたってばいっつも面倒事ばっかり・・・!」

「ああ、はいはいわかってるよ。そんなに怒らなくてもいいじゃない」

「だから!そういう態度が・・・っ!」

「ああ~はははは・・・ごめんごめん」

 背の高いサエラに食って掛かる背の低いベルミ嬢。歳もサエラより一、二歳下だったはずだ。城ではサエラのほうが遥かに先輩のはずだが、性格的にベルミはいつもこうだった。サエラの自業自得でもあるが。

 ふん!と冷たく突き放してベルミはサエラを解放した。

「あんた、今時間ある?」

「は?あ、う、うん。リィエル様のお昼はお弁当だし・・・まだ出発まで時間あるよ」

「ならちょっといいかしら。おじ・・・料理長、サエラに味見してもらっていいですか」

 聞かれたシワロ料理長は少し考えて、にやりと笑った。

「うん、いいだろ。サエラの舌なら信用できる」

「?・・・え、なんです?シワロさんが笑うとか少しこわ・・・」

「何か言ったか」

「いいえなんにも!」

 などとやっている間にベルミが厨房の奥から何かを持って来る。使い古されたバスケットに大量に盛られた、色とりどりのパンや菓子。

「どうしたのこんなに?」

「陛下用よ。パンやクッキーの味とか練り方から変えてみようと思って」

「ほほー」

「あんまり食べてくださらないみたいだから、食べやすい味付けを調べたいの。あんたなら陛下と仲いいらしいし、どういう味付けが好みか大体わかるんじゃない?それで」

 見れば、かなりの量があるパンや菓子は全て一つずつ種類が違う。よくもこれだけの量を丁寧に作ったものだとサエラは感心してベルミを見た。

「おじ・・・料理長も一緒に作ったのよ、当然だけど」

「ははぁ、なるほど。ふーん・・・食べていいの?」

「そう言ってんじゃないの。順番に食べてみてちょうだい。ちゃんと食べ比べて意見を言ってよね」

「はいはい。なんだ、こんな用事ならいつでも大歓迎だよ」

 喜んでいきなり一つつまむサエラ。これで貴族の令嬢というのだからお笑い種だとベルミは半笑いだった。

 その様子を眺めてシワロは厨房の奥へ戻る。仕込みなどがあるのだろう。厨房の火というものは、基本的にほとんど消えることは無いものだ。シチューやソース作りなど、数日かけての仕込みを必要とするものもある。彼らほど休みという言葉と縁遠い職種も他に無かった。

「あ、この甘いのおいしい。そっちのしょっぱいのは、ちょっとしょっぱすぎ」

「ふんふん」

「そっちの甘いのもっかいちょうだい。・・・うん、これもっと柔らかくていいんじゃないかな。皮のとこカリカリだといいなぁ」

「・・・・・・うん」

「クッキーは、と・・・あー、この紅茶の葉のやつは駄目だなー。スースーする。あ、ミルクちょうだい」

「・・・・・・サエラ?」

「もぐもぐ。んー、あー、このジャム塗ったやつすごい好きだわ。このジャムどうやって作るの?」

「ちょっと、サエラ!?」

「な、なに」

 ひたすら食べ続けるサエラ。一応もごもごと寸評を喋っていたが、ほとんどが自分のための感想のように聞こえる。

 慌ててベルミが止めさせた時にはすでに三分の一ほどもペロリとたいらげてしまっていた。

「陛下のためにって言ったでしょ!あんたちゃんと食べ比べてるの?」

「ちゃ、ちゃんとやってるってば・・・」

「嘘おっしゃい。まったく・・・それにしても、そんだけ食べて太らないの?一口ずつでいいのに」

 まだもぐもぐと口を動かしながらサエラは目を泳がせつつ、自分の腹回りあたりをさぐった。

「ひ、人よりは・・・多少太りにくいみたいだけど・・・」

 腕組みをしてベルミが見下ろしてくる。視線が痛い。

「知ってるんだから、陛下がお残しした料理のつまみぐいしてることとか。あんた、二の腕太くなったわよね」

「うぇえ!?やめて!やめてよそういうこと言うの!」

「この脇腹の上のところとか」

 言いつつ、突付く。

「いひゃっ!や、ちょ、ベルミ!」

「ほらほらぷにぷにしてんじゃないのほらほらぁ」

 更に突付く。

「やぁーっ!もう、やめてよ!」

「うなじのとこも・・・あーあ」

 そして突付く。

 年下の少女にされるがままのサエラ。だが、何故か抵抗しきれていない。性格の差による本能的なものだろうか。

 レアに叱られている時と同じような表情のサエラは、涙目で悲鳴を上げ続けた。

「ほらほらほらほらぁ!」

「やーめーてー!」

 ベルミは実に楽しそうな顔をしていた。



「親の関係とは正反対なのね。面白いわ」

「笑い事じゃないですよレアさん。もう、私あの子苦手ですよう」

「仲が良くていいことじゃない。さ、それより早く」

「はーい」

 レアとサエラが昼食の入った籠やその他にも細々としたものを荷物用の馬車に積みながら、何かを話している。何の話かな、とリィエルも気になったが、馬車の窓がコンコンと叩かれてそちらを向いた。

「もうじき出発となります。お加減はどうですか、陛下」

 シュナが馬に乗ったまま窓越しに聞いてきた。

 リィエルは風邪を引いたままだったが、近場の遊覧であればきちんと暖かい格好をして薬を持参して、であれば問題ないだろうというのが医者の話だった。彼女自身も自分で検診してみたが、どうやらその通りらしい。

 専用の台座に座ったムルエルファスが少し心配そうに見てくる。

「辛くなれば言いなさい。余のために無理はかけさせられんからな」

「うふふ。いえ、大丈夫です。シュナさん、平気ですよ。お薬も飲んできましたから」

 伝えるとシュナは微かに微笑んで頷き、手綱を軽く弾いて車列の先頭へ向かった。

 それを見送り、ムルエルファスがぽつりとクチバシを開く。

「うーん、相変わらず、人馬一体とはああいうものを言うのか。絵になる女性だな」

「はぁ、そうなのですか」

「うむ。馬の乗りこなし方が実に自然体で素晴らしい。湖からこの城まで一時間で往復したと聞いたが、なるほど納得もいく。相当に馬術に習熟しているのだろう」

「早かったですものね」

「よほど幼少から馬と親しんで暮らしていたのだろう。互いに信頼しあっているのがよくわかるよ」

「へぇ・・・」

 おかげで助けられたなぁ、とリィエルは感謝を込めて心のなかでお辞儀をする。

 そうこうしていると、馬車の扉が開いた。乗り込んで来たのはレアだ。いつものメイド用の黒い作業用のドレスではない。きちんと外出用の服を着ている。先日の国境へ赴いた時にも似たようなものを着ていたな、と思い出す。

 ふむ、とムルエルファスが呟いた。なるほど、これはリィエルにも分かる。とても似合っていて、様になっている。パリッと着こなした地味めな色合いのドレスと厚手のコートが、実はそれも侍従用の制服の一つであるにも関わらず、レアを上流階級の令嬢のようにも見せていた。実際、出自はそれなりの家だと聞いている。

「お待たせしました。さあ、出発しましょうか」

「はい」

 レアが席につき、さあ出発しようかという所に、また誰かが戸を叩く音がした。

 御者はもう馬に鞭を入れているため、馬車はゆっくりと走り始めている。

「あれっ、サエラ?」

 慌てて窓を開けると、サエラが小走りしながら手を伸ばす。

「はいリィエル様。おやつです」

「えっ!?あ、あの」

「ちょっと、サエラ・・・」

「あははは。じゃあ行ってらっしゃーい」

 小包を投げ渡し、適当に手を振って立ち止まる。

 なんとも、雑な少女だ。

「・・・豪快な娘だな」

 ムルエルファスでさえそう言うのなら相当なものだろう。

 リィエルは渡された小包を開けようとしたが、なんとなくそのままにしておいた。

「後で食べましょう」

 包みを少し開いた時にいい香りがしたからだ。今ここで自分だけで食べるのではもったいないので、後で皆で食べよう。そう胸の内で決めて、開きかけた古紙の包みを元通りにした。

 くすくすと嬉しそうに笑い、包みを大事そうに持つ。

「きっと美味しいものです」

「まったくあの子は・・・陛下、あんまりサエラを甘やかさないでくださいまし」

「はぁい。わかりました」

 和やかな空気に、ムルエルファスは体を深く沈めるように台座に座り込み、目を細めた。

「・・・ああ、よいな」

 ぽつり、とクチバシを開いて。



 城郭じょうかくの北から中庭を挟んで内門をくぐり、大きな広場に出る。馬や馬車、騎竜などの乗り物はこの広場から出発する。

 広場の先には城のある丘陵の斜面にて螺旋を描く形の道があり、長い緩やかな坂道を作っている。途中何度か水平に戻る道は、丘陵に沿って建てられた施設などを横切り、およそ一周する頃に麓の城内町へと入る。

 一度リィエルが、この坂道ではなくまっすぐに斜面を下る坂道を降りられないのかと聞いた。すると、この質問を受けたハンネル宰相はこう言ったという。

「陛下はたまに、少々抜けておられますなあ」

 そう言われてリィエルは少し考え、あっと声を上げて赤面した。つまり、まっすぐ下る方の坂道では、人間の見た目に緩やかでも馬車の車輪がその斜面でどれだけ加速することか。少なくとも馬は大怪我をするし、馬車に乗る者も無事には済むまい。そういうわけで、この緩やかな坂道を馬車で下るのは少々面倒だが、城の立地的にも仕方のないことだと納得している。それに、ここを下りながら見る景色はなかなか悪くない。

 城内町の見学といっても、ほとんど見るべき場所も無い。ただ、のんびりと走りまわるだけの遊覧だった。ぐるりと城のある丘を一周するだけなら、馬車ならば一時間強で戻ってこれる程度の距離だ。しかし、リィエルとムルエルファスはこの遊覧を楽しんだ。

 この城内町の雰囲気は、言うなれば「平均的」だろうか。富豪が美麗な屋敷を構えているわけでもなく、かといって貧困に苦しむ人々が通る人の情けを恵んでもらうこともない。商店が立ち並ぶ一角でも、妻帯者の議員や兵士の妻や子がのんびりと買い物をしていたりする。が、城下町にあるような派手な客の呼びこみや、心地良い音色を奏でる路上の楽士が居るわけでもない。

 役人の家族、あるいは本人たちのための、安定。それこそが城内町の特色と言えよう。可もなく不可もなく、穏やかに。

 時々、馬車を止めて町の様子を見てみた。安穏な空気感のある町とはいえ、少々の娯楽として菓子を売る店などくらいはある。他に、これは城下町ではほとんど見られない大きな書店。聞けば古書店だとのこと。城の使い古しや、城内町の面々が読み終えた本を引きとっているとのこと。

「でも、やっぱり少しお高いのですねぇ」

「ええまあ、本はそういうものですから」

 ほんのりとカビの匂いのする一冊を手にとってリィエルは言った。タイトルは法律全書とある。

 実際、古書でも本は庶民に手の届くものではない。金貨一枚とはいかないが、銀貨単位での価格が普通である。印刷技術や製紙技術、どちらも試行錯誤は繰り返されているが、どうにも安価な書物の製造は難しい。

 本が並べられた棚は丁寧に管理されており、極力本が傷まないように様々な工夫が見て取れた。その一角にて、リィエルは足を止める。

「あらら・・・仕方ないですね」

 リィエルの腕の中でムルエルファスも苦笑した。レアは本棚を見て、やはり苦笑する。

 並んでいるのは王立学院で使われる、秘術などの教本だった。本来は持ち出しの許されていない書物である。

 王立学院の学習は困難を極め、落第する者は圧倒的に多い。入学した中で修士課程を無事に通過し、学院の学芸員となる者となれば全体の一割を遥かに下回るのだ。そして除籍処分となる際、貸与していた教本は回収されることになっている。

 が、どうやらそのまま持ち出してしまう者が多数居るらしい。それはそうだろう、とかく書物とは高価なのだから。内容如何に関わらず、本というものはそれなりの金額で売れる。それがフィルラント王立学院の教本ともなれば更に。

 古書店の店主は政府から許可を得て出店している者だが、確認してみるとどうやら秘術の教本については関知しているという。

「拒否はなさらないのです?」

「そうしてもよいのですが、他国に持ち出されたり廃棄されてしまうよりは良いと思いまして」

 とのこと。独断でやっているらしい。

 どうやっても無断持ち出しが止まらないなら、これは最善の手と言えよう。ムルエルファスも感心していた。

 レアと協議した結果、店主の判断を政府として支援することを決めた。ただし、そういう決定があったことを、次に売りに来る人に伝えてみてください、と言い残す。そうすれば、ちょっとは考えてくれるだろう。捨てるか、売るか、所持するか・・・復学か、返却か。学院の所持者、フィルラント王国政府はあなたの判断を見守ろう、と。

 教本はどれくら在庫があるのか聞けば、時折購入する兵士や議員も居るそうだが、ほとんどは倉庫に保管してあるという。結構な量なのだろう。店主の初老の男性は朗らかに微笑んだが、同時にほんの少しだけ困ったように眉を下げていた。

「政府で引きとって再利用しましょう。王立学院のお伝えすれば分かってくれるはずです」

「本当ですか。それは助かります」

「ええ。本は、大事にしないといけませんから」

 リィエルが個人的に所有している本はどれも読み古されてボロボロだが、それでも捨てたり売ったりなどせず大事に保管してある。今もたまに読むくらいなので中身は一切傷もなく綺麗なままだ。

 南側の街並みはこの古書店のように政府から許可をもらって出店する商店を中心にしており、この出入り業者らが城下にそのまま店舗を増やして広がったのが南部の繁華街とされている。件のペリュークやウィバルといった豪商上がりの議員が居るのも、こういった関係から当然といえば当然である。というより、その手の議員の方が基本的には多い。リィエルの代ではやたらバランスが取れているというだけだ。

 そのまま道なりに馬車は走り、西側へ。

 穏やかなりに活況のあった街並みは、この辺りから急に大きく美麗な建築物が目立つようになる。住宅もあるが、政府管轄の庁舎などが数軒、それに関連する資材倉庫などが数軒、など。

 西側の城下町は公共施設が多いが、ここにあるのはその中でも国民との接点が少ない庁舎ばかり。つまり、税務署などの施設は直接国民との事務的なやり取りがあるため城下にあるが、一方でこちらは外務省や法務省など国民との直接的な関わりが薄い施設が多いことになる。

「・・・派手よのう」

「そうですねぇ」

「誰に見せるわけでもないでしょうに・・・」

 三様に同様な意見だった。

 誰が先に始めたのかは知らないが、この辺りの建物は競いあうように年々豪華になっている。湯水のように、というわけではないが、補修という名目にかこつけて税金が多く使われているのはこういった部分だろう。

 先王時代までの、少々首を傾げたくなる役人たちの風習とでも言おうか。

「ここでみんなお仕事してるんですね」

「ええ。城の部屋だけでは限りがありますし、専用の機材を用いる部署も多いですからね。城下にあった公的機関とは少し趣を異にするのもその辺りでしょう」

「ほほう」

 西門に面する広場を貫く形で道は通っている。煉瓦の敷き詰められた広場には役人と思しき人々がそこかしこに歩いているのが見られ、皆それなりに忙しそうではあった。だが、リィエルの乗る馬車に気づくと畏まって礼をする。

 リィエルが笑顔で手を振っていると、ふと目に止めた人物があった。

「あれ、ハンネルさんです」

「本当ですね。まだお仕事でしょうか」

「そういえば今日はお城でお姿を見てませんねぇ」

 ハンネルはこちらに気付かなかったらしく、歳の割に早い歩調である建物へと入っていった。

「財務局ですね」

「あ、じゃあ今朝渡した書類の決済が終わったんでしょう。でも、ご本人が持ってきたのかしら」

「そうなるのでは?」

 財務庁から上がってきた作業員の給与、資材の代金、農家への補償、その他諸々の経費の調整は、今朝までやっていた書類でほぼ片付いた。ハンネルが精査してリィエルに渡したもの、リィエルに直接届けられたものなど全てまとめてもう一度ハンネルの所で最終的な微調整が行われ、そしてまた財務庁を通して予算の中から特別枠を設けて支払いが行われる。

 今回、北部農村地域の復興に関して財務庁の担う仕事はかなり多い。その最後の部分をまとめて、ハンネルは届けに来たのだろう。なるほど、書類を渡してしまえばハンネルもしばらく手が空く。どうせしばらく暇になるのであれば、しっかり仕事をするよう財務局に直々に釘を刺しに来たというところか。

「ご挨拶をしていきましょう。財務局も見てみたいです」

「余も同意だ。宰相閣下には何かと苦労をかけた。直に礼を言いたい」

 という両陛下の意向で、レアは頷く他無かった。

「わかりました」

 馬車を止めさせる。先頭では急な停止にシュナが気付き、ゆっくりと引き返して来た。

「どうされました?」

「財務局の見学を。ハンネル宰相閣下をお見かけしたので、一緒にご挨拶を、と」

「了解した。では、こちらへ」

 そう言ってシュナが馬車を先導し、財務局の前へ着ける。

 役人たちの礼に迎えられてリィエル一行が馬車を降りた。


 要するに、国の金庫番である。以前ペリュークもそんなことを言っていた。

 財務庁というと一概に何をするのか広義的すぎる気はするが、税務、国庫管理を引き受ける部署というわけだ。

 金の行き来がこの庁舎に集束するということで、数ある省庁の中でも期間を問わず、また特定の期間は更に、多忙を極める部署とも言われる。処理する書類の数は気象観測局の使用する紙の量に匹敵する。

 その多忙な財務庁には、城下から許可を得て門をくぐりやって来た大勢の商人などが詰め掛け、税金等の決算を行ってもらおうと列を作る。皆必死だ。この処理を経なければ税金は規定の満額を納めることになるので、かなりの差額を損することにもつながる。控除を求める列は長い。

「ほとんどの商人は春頃に決算期を迎えますからね」

 そうレアが説明し、シュナも頷いた。

 先年までの国家予算、税率が決定し施行される直前がこの時期に相当する。決算書類の受領は春先の、新予算、新税率が施行される直前までと規定されている。これを過ぎると税額控除は取り消されてしまう。

 この財務庁に直接出入りして決算報告を行うのは、政府御用達の大きな取引を行う豪商や、公的に管理下に置く組織などになる。取り扱う額面が大きすぎるため報告は一度で終わらず、何度も足を運ぶそうだ。そしてそれ以外、中小の規模の商人は国内に点在する役所などの一部署である税務署で同様の処理を行うらしい。

「忙しそう・・・」

「これは余の国では真似したくないなぁ」

 あまり邪魔をしてはいけないな、と入り口の扉をくぐってすぐに隅に避けていたリィエル達。だが、豪商や公的組織に属する人々といえばつまり上流階級の商人、貴族、あるいはそれに連なる家柄を持つ国民ということだ。

 先日の戴冠式、教会の前で馬車を降りたリィエルを、その取り囲んだ群衆の最前列に並んで目にした者が居ないわけがない。

「陛下・・・・・・?」

「おい、国王陛下だ」

「リィエル様!?」

「王様だ!」

 と、まあこんな調子になるのも無理からぬことと言えよう。

 わっ、と列を作った群衆が歓声を上げた。

「人気者だな」

「あぅ」

 これはまずい、とシュナも察したか。素早くリィエルの前に立って群衆の機先を制する。ここで取り囲まれていたらこの後の行動に差し障る。

「諸君、陛下はご公務中であるため静粛に願いたい」

「諸く・・・あれ?」

 よく通る落ち着いた声。シュナより先に群衆を抑えたのは、ハンネル宰相だった。

 長年この国を支えてきた名宰相のお出ましである。その顔は上流階級の人々にとってよく見知ったものであり、圧倒的な発言力を持つ人物として記憶されている。騒ぎは一瞬にして静まった。

 シュナが役目を奪われて口をぱくぱくさせている。

「諸君らも暇ではあるまい。さあ、列に戻りたまえ」

 さあ、ともう一度。商人たちはそれでもリィエルのほうにお辞儀をしたり跪いて礼拝する者も居たが、ハンネル宰相の気迫に圧倒されたか皆静かに列を作り直した。

「こんにちは、ハンネルさん」

「こんにちは陛下。奇遇な所でお会いしましたな」

「ええ。ムルエルファス様と、城内の街並みを見て回っていたのです」

「ほう、それは」

 その前に、とハンネルが一行を局内の奥へ案内した。さすがにロビーでムルエルファスの名前を出したりリィエルを立たせたまま話すのはよろしくないと判断したのだろう。向かった先は、長官室。

「財務長官、すまないがまた失礼するよ」

 と、軽い調子で片手を上げ部屋の主に挨拶をする。つい先程までここに居たらしい。

「おや宰相閣下、どうして・・・・・・あっ!?」

「え?あっ!?」

 リィエルはため息をつきそうになり、思いとどまった。そして何も言わなかった。腕の中のムルエルファスが「どうした?」と言うが、黙って両側に立つ二人の女性の動向に任せる。

「はぁ・・・」

「またですか、お二人とも」

 シュナが深くため息を吐き、レアが甘い猫撫で声を発したのを確認して、リィエルは満足そうに前に出る。「だから、どうしたんだ?」

「ごきげんよう、ペリュークさんにウィバルさん。突然来てしまってごめんなさい」

 財務局の奥、建物のほぼ中心に位置する部屋が、財務長官に割り当てられた執務室である。防犯のため窓に面さず、扉は重厚。壁の厚みから考えて、防火処置も施されている部屋だ。

 壁には一面、膨大な量の書類を保管する棚が配置していた。長年に渡り蓄積し続ける極めて重要な数字が記されていると思しき書類束がそこには保管されており、仮にこの部屋が焼失でもすればフィルラント王国は財源の三分の一を丸ごと失うことになる。残る三分の一は王城に、もう残る三分の一は各財務局支部、つまり税務署に分散保管されているらしい。

 部屋の主はペリューク・ヤカラボ財務大臣。先日リィエルが官舎まで赴いて念を押したので、最近はきちんと財務局に顔を出していると聞く。だが、たまたまかもしれないが現実はご覧の通り。

 ウィバル・ランデミス外務長官が紅茶の入ったカップ片手に来客用の椅子に座り、目の前には例のボードゲーム、シックルがご丁寧に置かれていた。試合途中らしく駒のいくつかは移動している。

「うん?・・・ああ、ははは。なるほど」

 シュナとレアが渋面を作る理由を察したらしく、ハンネルが笑った。

「さ、宰相・・・」

「まあ、こ奴らは仕方ないでしょうな。これでも昔より落ち着いた」

 何の助け舟にもならぬ言葉でフォローされ、ペリュークとウィバルは当然のごとく更に慌てた。なにやらもごもごとリィエルに対し弁解でもしたそうだが、言葉が出てこない。

「ええと、お仕事はちゃんとやっているのですよね?」

「う・・・は、はい。それはもちろんです」

「同じく。私はあまり多忙ではありませんが・・・」

 答えるペリュークとウィバル。それはそうだろう、財務局のこの忙しい時期に仕事を放り出して遊んでいたら、内紛が起こる。一方の外務省が今はまだ仕事も少なく暇だということも聞いていた。

 それにしても、仲のいい二人だ。というより、このシックルというゲームが好きすぎるのか。

「随分と熱心なことで」

 冷ややかに言うのはレアだ。

「いや、まあ、最近時間が余るものでつい・・・久々に対局してみると、やはり面白いもので」

「・・・同じく」

 と、中年二人。なんとも優雅なことだ。

 それまで黙っていたムルエルファスだったが、ふぅん、と呟いてからクチバシを開いた。どこか楽しそうに。

「シックルか。久しぶりに見たな」

 リィエルが知らないのは周知となったが、ムルエルファスがこのゲームを知っているとは皆も驚いた。

「ご存知なのです?」

「ん?うん、まあ知っているといえば知っている」

 だが、次に発せられた言葉には更に驚かされた。

「余が作ったのだからな」


 ───は?


 もう何がこのニワトリ王から出てきても驚かないと皆も思っていたが、これは予想外だった。だが、ムルエルファスはリィエルの腕から降りると椅子に飛び乗り、ボード上の駒をしげしげと眺める。懐かしむように。

「直接作ったというと語弊を招くか。うむ、余が発案し、人間がそれを受けて作ったと言うほうが正確だな」

 ほとんど意味が変わっていない。

 駒の並びを見てムルエルファスはふむふむ、と感心するように首を振っていた。

「この遊びの起源って・・・」

「相当に古いとは知っていましたが、まさかムルエルファス様が考案されたとは」

 シュナとレアが呆然と呟く。リィエルはそんな二人の顔を見上げて、その凄さがよく伝わっておらず首をひねる。

 見ればハンネルも固まっていた。彼までも驚愕させるほどの事実ということなのだろう。

 ムルエルファスはそんな人々の驚きの表情を見て、やけに満足そうに一つ頷く。

「対局中か。そこな二人かね?」

 突然声をかけられて、ペリュークとウィバルは大いに焦った。そういえば、この二人はまだムルエルファスと直接会話したことがない。

「そ、そうでございます。私はペリューク・ヤカラボ。財務大臣を務めさせていただいております」

「私はウィバル・ランデミス。外務大臣です。お初にお目にかかり光栄に存じます、ムルエルファス様」

「うむ」

 それで、とクチバシが呟く。

「中盤、膠着しておるな。黒がやや優勢か・・・どうだ、白駒のほう、余と交代してみぬかね」

「へぇっ?」

 仰天して声を上げたのはペリュークだった。白駒を使っているのは彼らしい。

 以前リィエルが官舎で見たシックルのボードとは違って、今日のものはとても高価そうに見えた。木彫りの駒ではなく、石彫りの美しい光沢が映えるしっかりした造りの一品である。新品のようには見えず、どうやらペリュークの私物らしい。

 慌てるペリュークを差し置いて、ウィバルは対局を所望されて逆に落ち着きを取り戻したようだった。

「途中から交代ですか。それでよろしいので?私としては、陛下との対局とあれば序盤から始める光栄に預かりたいところですが。よもやシックルの創始者とは露知らず、これは是非私のほうからも対局を挑みたく存じますな」

 ムルエルファスはクチバシを斜めに傾けた。ウィバルの言葉の端に何を捉えたのやら。

「ほう、言うではないか!よいな、よいぞ。貴公、外務大臣だと?」

「ええ、左様です」

 何故か強気なウィバルである。シックルというゲームに関してこれほど熱くなる性格だったとはハンネル宰相も知らず、苦笑まじりのため息を一つ吐いた。

「盤はここからだ。よいかね財務大臣殿、この対局を引き継いでも」

「は、はあ。それはもちろん、ご随意に・・・」

「よいかねリィエル陛下。少々時間を戴くことになるが」

「ええ、是非対局を拝見させてください。わたしはこの遊びを知らないので、お勉強にさせていただきます」

「なんと、シックルを知らぬとな。ふむ、ではよく見ておくとよいぞ」

 やはり知らない方が少数派ということなのか。さすがにリィエルもここまで皆から驚かれると、少々落ち込んだ。とはいえ、知らないものは知らない。母も教えてくれなかったし、そもそも思い出す母ミュシェはこういうゲームを好まないほうだった。

 まあ、なんにせよ新しい知識に触れる機会だと気を取り直す。

「はい、よろしくお願いします」

 そう告げて、テーブルを囲む席の一つに座る。

 ウィバルも席につき、ムルエルファスと向かい合った。

「すまぬが駒を動かすのはどなたかにお願いしたい。余がやってもいいが、見たところこの道具はよいものと思える」

「・・・では、私めが」

 申し出たのはレア。本来ならペリュークの役目かもしれないが、駒を預けた立場ということか。大人しく自分の席からこの状況を静観していた。ハンネル宰相も興味深そうにし、椅子が足りないため立ったままだが覗き込むようにボードに注視する。シュナも同じく、立ち見。

 ウィバルは余裕そうというわけでもないが、寡黙な性格ながら表情は楽しげだった。この稀有な対戦相手、ムルエルファスとの対局とあっては彼も興奮を隠しきれない様子である。

 ふとリィエルは思う。そもそも、ムルエルファスはこういったボードゲームに堪能なのだろうか。いや、そんなはずが無い。ユクティラには道具を使う文化が無いと、彼の口から聞いたはずだ。日常的にこういった遊戯を出来る環境そのものが彼の国には存在していない。

 では、どうなるのだろう。

 そんな事を思っていると、ウィバルが駒に触れた。順番は彼から。


 シックルは、要するに我々の言うところのチェスである。基本的なルールも同じ。ただ、駒の形と名前が違っている。

 キングは「王」、クイーンに「騎士」、ビショップが「投石機」、ナイトには「弓兵」、ルークは「聖獣」、そしてポーンに「歩兵」。動かし方も同じ。元々存在していた簡易な類似するゲームを、戦争という枠を当てて作られたため、という由来の一部はよく知られる。

 シックルという単語は、本来”首刈り”を意味する。そういう名前の道具が実在し、実際に斬首刑などに用いられる大型の刃物を指す。これにちなんで、相手の「王」に対し王手を仕掛ける場合には「シックル」と宣言するのが習わしとなっている。そして、相手を投了させる一手を打った場合には「シックル・レスト」と宣言することになる。「レスト」は”首”。よってシックル・レストとは”首を刈り取った”という意味。

 なかなか悪趣味な名称だとリィエルは思ったが、少なくともこの国では斬首刑は行われていない。シックルという道具の存在も知っているが、この国は所持していないはずだ。死刑の執行はほとんどが絞首刑と定められている。

 ウィバルの手が動き、駒の一つを動かした。

 投石機を縦5、横7へ。

「黙ってやるのも面白くないな。一つ、この遊戯の発案者として薀蓄うんちくでも喋ってみようか」

 手を考えながら、ムルエルファスが言う。

「ほう、それは是非にもお聞きしたい」

「ふふふ、うむ、任せておけ」

 ウィバルも興味深そうに耳を傾けた。

「そうだな・・・・・・由来から話すか。この遊戯が、今はあまり行われないようだが、代理戦争の一手段としても用いられることは知っているかね?」

「ええ、まあ」

 頷いたのはウィバル、ハンネル。この事実は彼ら二人に限っては知っておく必要はある。他にリィエル、フォガリなども。そのため、知らなかったリィエルは驚いて目を丸くした。

「戦争はせねばならない、だが流血は避けたい。二国間において利害の一致を見た時に、シックルの提案は為される。では、余の一手。・・・投石機を縦3、横5だ、よろしく頼む、侍従長殿」

「はい」

 レアがムルエルファスの指示に従って駒を動かした。手の良し悪しはまだ不明。

「ある、二つの国があった。両方ともがそれなりの大国であり、瞬く間に版図を広げる強力な国家であった。ただ、その二つの国は建国より以前から、王の祖先の代から終わりの見えぬ戦争を続けていたのだ。二つの部族として100年。建国してから終戦まで250年」

 ムルエルファスが軽く言うので錯覚しがちだが、人間の間で行われる戦争としては破格の長さである。異常とも言っていい。

 ウィバルが次の手を指した。また投石機を縦6、横8に、ムルエルファスを見つめ話に聞き入りながら。

「弓兵を縦6横5に。・・・昔のものは、これと比べて盤面がずっと大きかった。大体これの倍ほどかな。あまりに煩雑なので、最初から不便だといって駒の数を減らしていたものだよ。そして・・・ああ、思い出したぞ。そうだ、ウィペシェーラ国とトルルカンティア国、そう、この二国だ。なんとも仲の悪い国同士でな、先祖代々よくもまあ飽きずにあれだけいがみ合ったものだと、逆に感心した」

 当時を思い出し、ムルエルファスは笑った。

 小首を傾げてリィエルが問う。

「どれくらい昔の国なのです?わたしは、聞いたことの無いお名前です・・・」

 そういえば、と皆も同じように思案していた。全く聞いた覚えの無い国名だ。相当に昔の国なのは分かるが、どれほどの過去の話をしているのだろうか。

「そう、だな・・・フィルラント王国が建国およそ3200年・・・うむ、およそ6、いや7000年ほど前になるかな」

 沈黙が流れた。

 そして、皆の視線はシックルのボードへ向けられる。

「そんなに歴史のある遊びだったのですねぇ」

「想像を超えておったな。そこまでとは・・・」

「誰も由来を知らぬわけですな・・・」

「そんなに昔からあったのか・・・」

「実は凄いものだったのね・・・」

 ウィバルだけが黙ったまま盤面を見つめる。手は投石機を縦6、横5。ムルエルファスの弓兵が一つ落ちる。

 ムルエルファスは軽い笑い声を上げた。

「なに、そんな大層なものでもあるまい。古ければよいというものでもなかろうに。ただ、まあ廃れなかったのは素晴らしいことだな」

 今さらではあるが、先ほどムルエルファスが言った「久しぶり」という言葉を皆は考察していた。久しぶりに見た、とは一体どれほどの時間の間隔を示した発言だったのだろう。

 スケールが大きすぎて想像がつかない。歴史の密度が違いすぎるのだ、このニワトリは。

「その後、その・・・ウィペシェーラとトルルカンティアという国はどうなったのですかな?」

 ウィバルが聞き、ムルエルファスが自分の番だと思い出して盤面に注視する。

 確かに、その両方とも聞き覚えがない。つまり、現代の世には残っていない国なのだ。

「順を追って話そうか。・・・最初、余は二国の状況を見かねて仲裁を申し出たのだ。余という存在によって、戦乱は小康状態になった。その間に二国の重臣を余の面前に招集し、和睦を結ばせようとしたのだ」

 翼の付け根をつつくムルエルファス。まだ手は決まらない。

「ひどいものだった。何度か開いた会合は、全てただの口喧嘩の場だった。どうにもならんので、脅迫して両国の王を呼び出したよハハハ。ああ、決まった・・・歩兵でその投石機を取ろう」

「は、はい」

 恐ろしいことを軽々と話すムルエルファスに動揺しつつ、レアが指示された通りに駒を動かす。

 この時初めて、ウィバルが片眉をぴくりと動かした。

「二人の王は臣下に比べればずっと冷静だった。どうすれば戦争を終わらせられるか、真剣に模索していた。だが、先祖代々積もり積もった互いへの憎悪は、もはや取り返しのつかぬほどに蓄積されてしまっていた。どうあっても、精算など出来ぬほどに。しかしそれでも二人は夜を徹して話し合いを続けていたな・・・・・・結局、それでもどうすることもできなかったのだがね」

 ウィバルが少し考え一手、歩兵を縦6、横6へと指す。

「そこで余が提案した。こういうことはより単純に解決すべきだと。例えば何か、簡単なお遊び程度の規模の勝負を行って、その勝者を戦争の勝利者としてはどうかと。まあ、暴論と言えば暴論だ。だが、両国はこれ以上領土など必要ないほどに肥大化している国だった。勝つことの意味など、ただの感情論に過ぎぬ状況になっていたのだ」

 ムルエルファスが指示を出し、投石機を縦4、横6。弓兵を一つウィバルがまた眉をひそめる。

「結局、承諾した。だが既存の勝負方法では面白みに欠けるし、民も納得すまい。そこで余と、二人の王を交えてこのシックルを作った。戦争の縮図、知略のみに重点を置いた代理戦争の手段として。これなら、民も臣もある程度は納得できるだろう、と」

 ウィバルが長考するが、次にムルエルファスがクチバシを開くまでには手が出た。縦4横6、同じく投石機で投石機を取る。

「三度の練習試合、そしてたった一度の本番。いやあ、制限時間を設けるべきであったな、あれは。開始から終局まで一週間を要した」

 ムルエルファスはほとんど思考する様子を見せず次の手を指す。歩兵を縦2、横5。歩兵を一つ落とされてウィバルは更に険しい表情になる。

「勝ったのはどちらなのです?」

 のほほんとリィエルが聞く。ムルエルファスはクチバシを斜めに傾け、思い出すように目を閉じた。

「トルルカンティアの王、ケルンセッテ。自ら戦陣を駆ける武勲の女王・・・彼女が勝利した」

 ウィバルの次の手は返す歩兵の縦2横5。ムルエルファスの表情は全く読み辛いため、彼の内心が不明すぎてウィバルは自分の手だというのに苦しそうに顔を歪めていた。最初は優勢だったはずが、高度なレベルにおいてムルエルファスが押しているということか。

 ムルエルファスの回想は続く。余りにも遠大な過去の記憶を、じっくりと掘り起こして。

「それで戦争は終わった。350年に及ぶ戦乱は、このシックルが決着をつけた。両の王は帰還し、勝利と敗北をそれぞれに告げたようだった。睨み合っていた平原の兵士たちは引き上げ、周辺諸国も安堵していた。これでやっと楽になる、と」

 ざわり、とリィエルは元より部屋に居る皆が一様に何か、背筋に冷えた感覚を持った。

 ムルエルファスの声。どこか、何かが妙だった。

「投石機を縦5、横4に」

「はい・・・」

 次の手が指され、ムルエルファスは盤面を見つめる。

 ウィバルがまた長考を始めた。


「・・・・・・そして、余はウィペシェーラとトルルカンティアを滅ぼした。一夜にして、二国の領土全てを焦土と変えた。これが顛末だ」


 空気が、凍った。

 何を言った?何と言った?

 皆の表情を見もせず、ムルエルファスがクチバシを開く。

「二国の存在は既に神々の怒りをも得ていた。全く無意味に他国から搾取する二つの大国は、聖獣や神々の神殿、聖域をも踏み荒らす度し難い存在でしかなかった。そもそも、そのために余はあの場に訪れたのだ。シックルの発案は、最後の機会をくれてやったようなものだ。だが両国は全くその意味を理解していなかった。シックルの勝負の数日後、あの二つの国は性懲りも無くまた戦争を再開していたのだよ」

 寂しそうでもあり、超然とした態度にも見えた。

 ウィバルが震える手で次の一手を指す。聖獣を縦1、横2。相手の聖獣の駒を一つ落とす。悪い手では無い。だが、ムルエルファスは間髪入れず次の手を指示してしまった。騎士を同じ縦1横2。ウィバルが動揺に震え、椅子が音を立てる。

「王城に攻め入り玉座の前で聞いてみたよ。何故、戦争を止めなかったのか、と。・・・・・・二人とも、同じことを答えた」

 ウィバルはまだ考えている。大丈夫だろうか、顔は真っ青で、脂汗が目立つ。

 無理もないことではある。だが、今対局しているのはウィバルだし、ここには彼以上に上手いシックルの指し手が居ない。

「あれで勝負がついた気がしない、とな。・・・余は、迷わず二国を滅ぼしたよ。このまま放置して、一体どれほどの犠牲を周辺に強いるのか。周辺にあった小国はな、その王すらも奴隷に等しく扱われていたのだよ。いや、王とは名ばかりか。奴隷達のまとめ役として二国がそれぞれに指示した者というだけだったのだから。酷い、余りにも残酷な仕打ちが周囲では起こっていた。だが二つの大国に敵う者など、どこにも居なかった。そして大国であれば、それがまともな国であれば発展を望み、利益を生んだだろう。だが、二国は互いに滅ぼしあう以外には何もしようとしなかった。ただ搾取し続け、ただ戦った。余とて、これを無視するわけにはいかなかったのだ」

 ウィバルが真っ青な顔のまま次の手を指す。駒がカチカチと音を鳴らし、ムルエルファスの「大丈夫かね」という白々しいお言葉。それでも、ウィバルの手は堅実である。騎士を縦4、横7へ。動揺はほとんど影響していない。

 こんな胆力があったとは驚きだと、リィエルを除くウィバルを知る者達は少しばかりの驚きと共に対局を見ていた。ムルエルファスの放つ異様な迫力に憔悴しているようでも、ウィバルはしっかりと手を考えている。

「ふむ。・・・では騎士を縦1、横7だ。さて・・・滅びた国の後には小国が次々と建国し、その後はまあ、いつも通りだったな。興り、消える。長続きした国は無かったが、極端な滅亡に至った国も無かった。皆、あの二国を忘れずにいたためだろう。そうして平穏は戻った」

 何も事情を知らない者がこの部屋に入って来れば、余りにも異常な光景に驚くだろう。ニワトリがシックルを指している。しかも、そのニワトリはどうやらこの国で最上のシックルの腕前を持つ人間よりも強いらしい。

 ウィバルはまた長考。だが、聖獣を縦3、横7。手は尽きていない。

「シックルは広まったようだった。人間の間で盛んに行われるようになり、ついに最初の目的通り、国家間の代理戦争の手段として頻繁に用いられるようになっていた。とはいえ、あくまで代理戦争の一手段に過ぎぬ。どちらの国の王が戦略に長けているかを簡単に示す手段であり、実際の戦況というものは天運に左右されるところが大きい。が・・・そうだな、例え小国の主であろうと、シックルで強いと分かれば他の大国も容易には攻め入らない、そんな状況が生まれた。小国と侮って痛い目を見たくはないものな」

 騎士を縦2、横6、とムルエルファスが指示する。ウィバルは苦しそうにその一手を見つめ、取り囲んで観戦する皆も似たようにハラハラと落ち着き無く見ているしかなかった。

「駆け引きの道具になったのだ。大国の王ならばわざと弱く見せかけることもできたし、知略を駆使して圧倒的な勝利を見せつけて出鼻を挫くことも可能だった。盤面で行われる戦争の縮図・・・人間たちの戦争はその回数を激減し、無益に流血があるのも少なくなっていった。それは、余から見ても驚きであったし、喜ばしいことだ。各国の王達も同じだっただろう。誰だって痛い思いはしたくない。民に辛い思いを強いる王などあるはずがないからな」

 聖獣を縦2横7、ウィバルの一手。恐る恐るではない、確かな手つきの一手だ。まだ彼は挫けてはいない。

「そんな状況がどれだけ続いたか・・・聖獣を縦1、横8に。”シックル”。・・・ある小さな国が興った。シックルが代理戦争として認知されたとはいえ乱世の中、あんな小国がそうそう生き長らえるはずもあるまいと誰もが思った。五年・・・そう、五年保てばいいほうだと思ったな。あんな規模の国家で、この乱世をどうやっても乗り越えられるはずも無し、とな。・・・だが実際は違った」

 ムルエルファスの手はウィバルを追い詰めていく。堪能であるはずがない、と漠然と考えていたリィエルは、様子を見てそれが完全な思い違いであったことに気づいていた。どうやら聖獣ムルエルファス王は単体としての戦闘能力は元より、シックルを始めとする知略においても地上最強を称するに相応しい存在であったらしい。

 ウィバルの次の手は王を縦6、横7に。だがムルエルファスは変わらずほとんど即座に次の手を打つ。騎士を縦1横6へ。

「その小国は生き延びた。一度も他国と戦争をすることなく、だが圧倒的な戦果を上げて・・・そう、シックルだ。その国の王は、恐ろしくシックルが強かった。シックルというものはね、いいか、国家間で行われる場合、互いの戦力差を反映して最初の盤面が考察され決定される。駒落ちというやつだな。小国らしく、ほとんどの駒を持たない状態から大国の磐石ばんじゃくたる軍勢に挑む・・・だが、その小国はそれでも無敗を貫き続けた。いくら、どれだけの大国が挑んでもその小国をシックルで負かすことはできなかった。ただの、一度もだ」

 ウィバルが震える手で次の手を指す。騎士を縦3横7に、だがやはりムルエルファスが即座に対応し騎士を縦3横6と。ウィバルが更に血の気を失い、苦しそうな息遣いが皆にも聞こえた。

 ムルエルファスが語る話は、誰に向けられたものだろう。なんとなくリィエルは自分に言い聞かせられているような気がしていた。

 その時ムルエルファスがちらりとリィエルを見た、それは偶然では無いだろう。

「あまりにもシックルが強いので、他の国はその小国へ攻め入ろうともしなかった。皆賢かったのだな。が、たまに血気盛んな者も居る。その小国に軍隊を用いて攻め入った国がただ一つあった。大軍勢・・・さしものその国も、これまでと思われた。いかにシックルが強くとも、実際に軍隊を持って行けば持ちこたえられはしないだろう、とな」

 ウィバルが長考に入る。ムルエルファスはクチバシを斜めに傾けた。

「あの国は何といったか・・・・・・小国は、ほんの僅かばかりの部隊を率いる王本人によってこの大軍勢に対抗した。無謀に過ぎると誰もが断じたが、結果に誰もが恐怖した。・・・攻め入った国は名だたる将の全てを直接暗殺され、更に王城、玉座にまで侵入されたのだ。シックルの勝負以来、対面した二人の王。小国の王は玉座の前で何も言わず、ただ大国の王が・・・そう、投了するのを待ったそうだ」

 ウィバルの手、騎士を縦2横6。シックルの宣言にムルエルファスは少し熟考するようだった。

「・・・・・・うむ、王を縦6横1にな」

「お強い・・・流石と、言ってよろしいのか」

「ふふ、ふ・・・小国は、それ以降もシックルのみの戦争を続けた。誰も勝てず、誰にも勝たぬ・・・いつしか他国の王は皆、その国にシックルの勝負すら挑まなくなった。気付いたのだ。小国の王は、自分たちが足下にも及ぶ存在ではないことを。余りにも次元の違う、高みに立つ偉大なる者であることを。その尊敬が捧げられ、小国は乱世に生まれ落ちながら平和を享受し、そのまま今に至る。王の直系は存続し、栄冠は名にし負う。・・・3200年も昔の話だよ」

 ハンネル宰相が驚いてうめき声を上げた。遅れてシュナ、レア、ペリュークも。

 聖獣を縦2、横8へ。ウィバルが次の手を指し、耳に届いていた言葉をやっと理解して顔を上げた。

 リィエルは首を傾げる。

「賢人エリヤルク。建国の後は国号を冠してこう名乗る・・・エリヤルク・フィルラントと。そう、このフィルラント王国の初代王だ」

 ムルエルファスは思い出しながら、クチバシを斜めに傾ける。

「聖獣を縦1、横6に」

 指示を受けて、レアもまた震える指先で駒を動かした。かつん、と盤が音を立てる。

「・・・・・・ぐっ」

 ウィバルが盤面を見て呻き声を上げた。ムルエルファスは満足げに息を吐く。

「シックル・レスト。よろしいかな」

「・・・・・・もはや無理ですな。投了、です」


 風邪を引いて少しぼんやりしていたのだろう。リィエルにしては、この一戦が意味するところを理解するのが遅れた。

 シックルは代理戦争の一手段。ウィバルはこの国で最もシックルが上手い人物。

 それにムルエルファスは勝利してしまった、その意味。


「見事だったぞ、外務大臣。素晴らしい腕前だ」

「いや、はは・・・参りました。これほどお強いとは」

「どうだねリィエル陛下、勉強になったかな?」

 唖然とする一同の中、リィエルはまだ少々理解がおぼつかない様子だった。無理もない、盤面が示すのはシックルの上級者にしかわからないほど複雑な戦況の結果であり、どういう状態なのか素人であるリィエルには皆目見当もつかないのだ。

 まだ駒は動けるが、どう足掻いてもムルエルファスの勝利は揺るぎない。だからムルエルファスがシックル・レストと宣言し、ウィバルはこれに承諾して投了を受け入れるしかなかった。

 なんにせよ、勝負を挑まれたウィバルがユクティラ国の主たるムルエルファスに敗れたという結果は変わるまい。

 椅子に丸く座って、ムルエルファスはリィエルの瞳をじっと見据えた。

「余はフィルラントという国を尊敬している。初代王エリヤルクの代から脈々と受け継がれたこの血筋を。リィエル陛下、君はまさしくこの国の王に相応しい人物であった。同盟を受け入れてくれたことは本当に感謝しているよ」

「あ、はい。こちらこそ」

 人間であれば、ムルエルファスはにっこりと満面の微笑みをたたえていただろう。細めた眼差しは優しく、リィエルを見守っていた。

 居並ぶ面々はリィエルを除き、等しく戦慄と畏怖を込めてこの聖獣の王に礼を送る。そうせずにはいられなかった。

「エリヤルクは・・・あれはまさに英傑と呼ばれるべき人物であった。万事に卓越し、志は高く。その意志は今も受け継がれていると確信したよ、リィエル陛下。余はこの国に来て本当に良かったと思っている。頼らせてくれてありがとう。余の選択は間違いでは無かった」

「ムルエルファス様・・・」

「ははは、いや、うん。さあそろそろ行こう。リィエル陛下のお体も心配だ。さっさと観光を済ませて城に戻ろうかのう!」

 流石に照れてムルエルファスは椅子から飛び降りた。床をチャカチャカと鳴らし、扉の方へ歩いて行く。その後姿はまさにニワトリと言う他ないものだが、もう誰も、その姿を侮って見ることはない。

 何故、このニワトリが地上最強の聖獣と呼び称されるのか。皆はそれを理解した。

 遥かな高みに座して、それでも地に歩み続ける。

 聖獣ムルエルファスがこの逗留中にリィエルに託した最後の授業であった。



 思い返せば一週間にしかならない、ムルエルファスの滞在期間。

 だがこれほど濃密な、慌ただしかった一週間がかつてあっただろうか。リィエルも自室で臣下に苦笑を見せたという。

 シックルの勝負の後の城内市街の視察はつつがなく終わり、翌日、ムルエルファスはリィエル始め王城の皆に見送られて帰還していった。

 シュエレー神山を越えての行程ということで、途中まで見送りをと申し出るもやんわりの固辞し、ただ一羽、徒歩で。

 姿は見せなかったが、アールカインとクシャタラナトの別れの言葉もあったのだろうか。聖獣の用いる言葉は、人間には聞こえない領域のものもあるというから。

 見送るリィエルは涙ぐんで別れを惜しみ、その涙が伝染したのかシュナやレア、並ぶ臣下の面々も感極まった様子だった。そしてそれはムルエルファスも同じく。親愛の涙での送別となった。

 同盟の条件に従って聖獣が来るのは、当分先になるということだった。いつ頃になるかは分からないが、とはいえそれほど先でもなかろう、とムルエルファスは言い残している。

 土産をきっと持たせようと言うのでリィエルがお構い無くと返すと、ムルエルファスは大笑いして、そういうわけにもいくまいと言った。

 黒から赤へと染め上げる一枚の羽は、リィエルの部屋に飾られている。ただの羽だとムルエルファスは言っていたが、不思議なことにその後全く古くなったり痛む様子もなく、艶のある光沢を保ち続けていた。

 工事は順調。川へ流れこむ土砂の量については、やはり少量は仕方なかった。だが検討を重ねた工法により、可能なかぎり少なく留めたと言えよう。見事な水路が作られ、復興は着々と進んでいる。


 春は近い。

 フィルラント王国の民は誰もが、その顔に精彩を帯び新しい季節を待望している。

 順風満帆、王国の冬は終わった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ