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第二話・「覇道のススメ」

 執務室から通じるリィエルの寝室は、元々は先代の王までが書架などで利用していた小ぢんまりとした部屋である。とはいえリィエルの生家と比べてもやや広いほどの面積はあるのだが。

 朝。リィエルは趣味のよい小さなベッドの上でむっくりと起き上がった。

「・・・・・・・・・ん・・・」

 くしくしと目を擦って、ぼんやりとした眼差しを宙に向ける。

「おはようございます、陛下」

「・・・・・・ふぁ・・・おはようござ・・まふ・・・」

 顔を洗う水を持ってきたレアに声をかけられるが、リィエルはまだぼんやりしている。

 リィエルは、親譲りと思われる美しい金髪を持っていた。しかしこの髪、幼い頃から彼女自身も悩まされていたが、強いくせ毛である。湿度が上がると好き勝手に踊り跳ね、毎朝の寝ぐせも酷い。髪質が柔らかいのが救いで、頑張ってくしで撫で付ければなんとかまとまってくれる。

 もっさりと増量したような寝ぐせのまま、リィエルはレアに手を取られてベッドから降りた。ふらりとおぼつかない足取りで。

「お顔を洗って目を覚ましてくださいませ。今日は東の国境へ行く日ですよ」

「んぅ・・・はぁい・・・」

 普段の理知的な態度は何処へやら。あどけない返事にレアは微笑んだ。


 昨晩遅くまで(といっても大人にとっての遅く、よりは早く)、リィエルは宰相エンデル、騎士団長フォガリ、親衛隊長シュナ、侍従長レア、それに外務長官ウィバル・ランデミス、ラタレイ国土大臣も交えて今日のことで話し合っていた。

 国境に位置する湖の向こうは、東の隣国トルパトルの国境の手前に広がる無国籍地帯。とはいえ、国境の聖獣との対話は例え平和的な会話であっても他国への影響がある。国に程近い場所で王が聖獣と対話するという出来事そのものが諸国の動揺を招くのだ。

 通達に関しては外務長官のウィバルに一任された。遠隔念話を行う秘術士が外務庁には専属で居り、他国との距離を無視した会話が可能となっている。当然、念話であるということで無言での会話なので、良からぬ企みをする者があってはいけないという理由からこの念話は別の秘術士が似たような種類の術を用いて傍聴し、記録に残る。

「細大漏らさず話してよいものでしょうか?」

「隠す必要もありませんから」

「ムルエルファス様のことは?」

「そうですねぇ、話してもよいと思います。いずれお隣りも知ることだと思いますから」

「それもそうですな。では、仰せの通りに」

 ということで、トルパトルは後日この通達を受け取って大いに動揺したという。当のフィルラント王国がのんびりしているので、その内に納得するしか無く沈静化したが。

 リィエルの体調に関することでレアは最後まで渋っていたが、当人が不可欠な事案なのでと強く言うので押し切られる形で了承していた。そもそも、最近になって周囲もレアは少々過保護すぎるのではないかと言われていたので、レア自身もどこかで区切りを求めていたのだろう。

「万全の救護体制を整えておくぐらいはご了承くださいまし」

「あの・・・いえ、よろしくお願いしますね」

「それと医師の同行も。明日の着衣に関しても指示させていただきます」

「はぁ」

「それから恐らく昼食は現地で摂ることになりますが、緊急時に備えて多めに・・・」

『コーツハイン侍従長』

 と、一同からの突っ込みの声が無ければレアはいつまでもくどくどとリィエルの健康管理の話題を続けただろう。

 結局、数人の意見をすり合わせてリィエルの意見も尊重され、医師の同行に代わって軍医が護衛部隊に参加。食料は必要分、着衣は本人も好きに選ぶこととして決定した。これもレアは最後まで渋っていたが。

 他に決めたことと言えば、フォガリ騎士団長とエンデル宰相がそれぞれ兵隊をどれだけ編成して護衛に付かせるか、など。それほど大規模な編成を組む必要は無く、しかし国境付近まで遠出するということでそれなりの人員を揃えることになり、二人して唸り声を上げていた。これは最終的に50名ほどの兵士を親衛隊長の指揮下に臨時編入させることになった。親衛隊は全員が護衛のため出動することになっている。

 ムルエルファス王に関してどのように扱うかは結局ほとんど保留のような形になってしまった。そもそも彼に対して行動を強制するわけにもいかず、それ以前に彼なら妙なことはしないだろうし、そもそも客分でもあるし、での保留である。これについて皆はどうすべきかという案そのものが出てこず、リィエルの「ムルエルファス様に任せましょう」という一言で決定である。他にどうしようもあるまい。

 そんな話し合いが夜更けまで続けられ、連日の国内遊覧もあって疲れていたリィエルは会議の最後、執務室の机に突っ伏して倒れるように寝入ってしまった。慌ててレアが彼女を寝室へ連れて行き、会議はそこで打ち切られた。決めることはほぼ全て決定しているので問題も無い。

 後は、当日のクシャタラナトとの対話次第。


 寝室から執務室を挟んでもう一部屋、リィエル専用の衣装部屋がある。が、衣装がしまってある大きな箱やクローゼットは部屋の半分ほどで、残る半分はリィエルが家から持ってきた私物など。秘術の実験器具などは高価であり換えが利くものも少ないのでこうして実家から持ち込んで保管してあるが、レアはリィエルが今日着る服を選びに来てはため息を吐いた。

「もうちょっと、衣装を増やしましょうね」

「えぇ?そんなに必要ないと思うんですけど・・・」

「そうはいきません。いつも同じ服を着ていると、民からは何事かと思われるものです。それに外交の場でも、陛下は派手な服はお嫌かもしれませんがそれなりに着飾っていただかないと」

「そういうものなのでしょうか・・・」

 綿のネグリジェも部屋履きも、リィエルが生家で着ていたものとは比べ物にならないほど高価な品だった。敢えて金額を聞かずとも、この着心地の良さだけで判別がつく。やっぱり王族などの人々は着るものから違うんだな、と登城した頃は思ったものだ。

 多少着慣れてきても、リィエルにはまだ不相応という考えが残っていた。質素でも暮らしていければよいという、母との生活。あの頃を思い出しても不幸だと感じたことなど一度も無かった。飢えたり貧しいのは嫌だな、とは思うけれど。

「トルパトル国との間はずっと広く平原が続いているのはご存知ですね?」

「はい、知ってます」

「風を遮るものが何もないので、湖の辺りは特に冷たい強い風が吹きます。今日は確かに着飾っていただかなくても結構ですが、防寒着としていつもより多く重ね着していきましょう」

「それなら・・・はい、そうします」


 レアがしめた、という顔をした。

 リィエルはしまった、という顔になった。


 寒いフィルラント王国ならでは。この国では特に外套にこだわる者が多く、コートなどは他国に比べても優れた機能、デザインで知られる。

 結果リィエルは防寒着と称したレアによって、礼服としても用いる厚手のドレス、同じく手袋、帽子はもとよりストール、長靴下までしっかり着せられ、コートに至っては最上級の絹と子羊の羊毛で編みこまれた恐ろしく高価な品物を持って来られてしまった。

 嫌と言おうにも了承してしまっている。派手ではないのが救いだろうか。

「これ、あの、レアさん・・・?」

 金糸の刺繍とアクセントに小さな宝石類があしらわれた、ある意味これ以上無いほど華美な代物である。派手なものよりこういった地味な柄のものの方が遥かに高級であることが多いとリィエルが悟ったのは今の境遇になってから。これ一着で一般庶民なら家一軒が買える金額だとメイドの誰かが言うのを聞いて、リィエルは恐怖のあまり部屋の隅まで後ずさりしたものだったが。

「どうです、温かいでしょう。古いものですが丁重に保管されていたものなので新品同様に保たれているはずですし、誰に見せても恥ずかしくない一品です。これを着て行きましょう」

 そんな、とリィエルは小さく悲鳴をあげた。だがレアはこの上ないほどに満足そうにしており、リィエルの意見が聞き届けられそうな気配など皆無である。

「汚したらどうすれば・・・」

「汚さないようにしましょう。多少の汚れなら落とせますし、陛下の御物なのでそもそも汚そうがどうしようがお好きなように」

「ええと・・・・・・そう言われても・・・」

 と、そこでがちゃりと音を立てて執務室のドアが開いた。

 サエラである。片手に銀の盆を持ち、湯気のたつ紅茶を持ってきたらしい。

「おはようございまぁ・・・っと!?」

「わぁ!?」

 もしかしてこの二人、わざとやっているのか。そう思わずには居られないほどわざとらしい事態。

 サエラが紅茶のポットとカップ一式を片手に載せたまま足をつまずかせ、リィエルの方へよろめいたのだ。紅茶のシミが落ち難いのはリィエルも最近になって知ったこと。そして今、シミ一つ無い高価な衣服をリィエルは着ている。

 何故今日に限ってサエラは丸盆一つで飲み物を持ってきたのか。というか何故サエラが飲み物を持ってきたのか。いやそれ以前に、普段ならサエラは寝坊したとかでもう少し遅い時間まで顔を見せないのに、何故今日に限って早起きしているんだろうか。そんな思考が一瞬の内にリィエルの脳裏を駆け抜けていた。

「アル・ベルテル・エイン・イラ!」

 リィエルが叫んだ。途端、倒れそうになっていたサエラの体がまるで時間を止めたかのように停止してしまったではないか。

 サエラの驚いたような表情もそのまま、ぴたりと動かなくなった。

「これは・・・」

 レアが驚きリィエルを見ると、彼女はしかし慌てふためいていた。

「あっ、だ、駄目です間違えました!」

「えっ?」

「レアさん、お盆を押さえてください!」

「はっ、はい!」

 言われるままにレアが駆け寄り、空中に静止した銀の盆を掴む。上に乗った紅茶までもが停止しており、レアが掴んでも固定されたようにびくともしない。触れてみても、銀の冷えた感触すら無かった。

 一方でリィエルは自分の体をつっかえ棒のようにしてサエラの胸元あたりに潜り込ませ、うんしょ、と力を込めてその体を押し返しているようだった。何をしようとしているのかレアが問おうとしたが、その前にリィエルは鬼気迫る表情で叫ぶ。

「いきますよ!」

「えっ?はい!」

「オルート!」

 何が起こるのか、レアは少しばかり好奇心で期待してしまったことを直後に後悔した。

 しっかりと掴んでいたはずの銀の盆だったが、リィエルが秘術の公式を唱えた直後、本来の落下速度に増して鉄塊でも乗せたかのような重量と勢いをもってレアの手にのしかかってきたのだ。余りにも急激な変化にレアは体が予測しきれず、思わず足を滑らせた。

「きゃあっ!?」

「わ、ぁああああああっ!?」

 隣ではサエラが再び動き始め・・・いや、静止する直前よりも加速してリィエルを押しつぶすように倒れこんでいた。そしてその光景を見ながらレアもまた。

 がしゃん、どたん、と大きな音がリィエルの執務室に響き渡った。


 ごめんなさいと何度も言うリィエルの半泣きながらの説明によると、あれは物体に流れる時間を”き止める”秘術だとのこと。押し留められた時間は「オルート」つまり再動を意味する単語によって解放され、一気に流れ始める。結果、静止していた時間に比例して物体の時間は一時的に爆発的に加速してしまうという理屈。

 熱い紅茶をかぶったレアは体を拭きながら、サエラを介抱するリィエルの口から聞いて納得するしかなかった。サエラはといえばまだ気絶しており、リィエルが彼女の額に冷たく濡らした布巾を乗せたりしている。場所はリィエルのベッド。

 あの瞬間にリィエルが「間違えた」と言ったのは、つまりこの秘術は本来生物に対して使ってはならないものだったからだ。非生物の剛体に対してのみ使うべき時間停止の秘術は、サエラの時間を加速させた。この結果、サエラの体を巡る血流などの速度も一時的に増加。一瞬とはいえ体中で起こった血圧の異常で、サエラは伸びてしまったのである。

 一歩間違えば危なかったです、とリィエルが言うのでレアも調子に乗ったことを少々後悔していた。

「うぅ~ん・・・・・・あれ・・・?」

「あ、サエラ・・・」

 寝ていたのはほんの数分。サエラは目を覚まして、自分の置かれた状況を把握しようとしているようだった。

「ええと・・・どうなったんでしょうか、私。なんでリィエル様は泣いてるんです?」

「あの、あの、ごめんなさいサエラ。体は大丈夫ですか。どこかおかしいところ無いですか?」

「へっ?いえ別に・・・あれ?いえ。ああ、なんかちょっと目まいみたいな感覚はありますね」

「や、やっぱり!寝てくださいサエラ、安静にしてないと・・・!」

「うぇえ!?いやなん・・・だっ、大丈夫ですし!どういうことなんですか!?」

 あわわ、とリィエルが青ざめてサエラを無理やり寝かしつけようとするが、逆にサエラは慌てて起きようとするので妙な押し合いがベッドの上で発生していた。その様子を眺めながらレアが一言。

「とりあえずサエラ、陛下の言うとおりしばらく休んでいなさい。それと陛下、先程は申し訳ありませんでした。でもそのコートは着ていてくださいましね」

「・・・・・・レアさんはちょっといじわるですね」

「そういう職務ですので」

 珍しく反抗的なリィエルに対しても動じないレアであった。



 馬車が城門をくぐったのは昼より少し前。城下を走る馬車ではなく、舗装されていない道を行くための頑強な旅馬車である。

 護衛の兵団を率いて集団の先頭で馬を走らせるのは騎士団長フォガリと、親衛隊長シュナ。馬術に長けたシュナにもぴったり馬の歩調を合わせるのは、流石の騎士団長と言えよう。

 あまり大げさな編成をしなかったつもりだったが、振り返って見ればかなりの大人数になってしまっていた。これを指揮して移動するのは難しいか、とシュナは胸の内でため息を吐く。

「天気に恵まれてよかった。湖あたりは風が吹くと荒れるからね」

「ええ、まったく」

 のんびりと気持よさそうにフォガリが言う。確かに、こんなに天気も良く暖かい日は何日ぶりだろうか。春はもう目の前まで来ている。

 しかし、目の前まで来られても困るのだ。本格的に暖かくなると雪解け水が一気に増えてしまい、計画している工事にも影響する。時期としては本当にぎりぎりになっているのだ。

 市民に見送られながら、馬車の一団は市街地を抜けて草原へ。ここからは少々道が荒れるため、シュナはフォガリに断って馬を後ろへ下がらせた。途中で会釈を送る兵の列の中にはゼルガ・ハバトの姿もある。

 馬車の速度に合わせて並走し、コンコンと窓をノックした。小奇麗なレースのカーテンがちらりと動く。

「陛下、揺れますが大丈夫ですか」

 問いかけると、馬車の窓が開いた。中に乗るのはリィエルとムルエルファス、レアの三名。座席も用意してあるのだが、相変わらずムルエルファスはリィエルの腕の中に居た。

「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます、シュナさん」

 日差しに目を細めてリィエルは答える。

 あんなに厚着をして大丈夫だろうか、と出発前にシュナはレアに聞いてみた。返答は「着けばそうも言っていられないでしょう?」と。それもそうかとシュナが納得したのも当然、本当に東の平原は風が強く、身を冷やす。

 ところでレアの着ている外出用の服が妙に新しいものだがどうしたのか、と言うとレアは少しムッとしたように眉を曲げていた。これこれこういう事情よ、と大雑把に聞いたところでシュナは可笑しくなって爆笑し、近くに居たサエラにも笑われてレアは更に眉間に皺を寄せていた。

「この先は緩やかな坂道が続いて、それから平地へ出ます。少々速度が出ますのでお気をつけてください」

「はい」

 にっこりとリィエルの笑顔。つられて微笑みながらシュナは再び馬を先へ進めた。


「なかなか絵になる女性だな、親衛隊長は」

「そうなのですか?」

「後で彼女に伝えておきましょう。きっと喜びますわ」

 馬車内。ムルエルファスは閉じた窓の向こうを見たまま、ぽつりと呟いた。

 ニワトリなのに人間の女性の魅力について理解しているのかしら、とレアは遠い目をする。

「いい天気ですねー・・・」

「左様であるなぁ」

 ゆるゆると馬車の速度が上がり、景色は流れていく。

 日差しに照らされて馬車は少し蒸し暑かったが、レアが小さく窓を開けると涼しい風が吹きこんできた。ただし、まだ少し風の方が冷たい。

 たまにがたんと音を立てて大きく馬車が揺れたが、そのたびにリィエルの小さな体は座席から浮き上がるのでレアは気が気でない。一方で当のリィエルとムルエルファスは面白がっており、二人して笑っていた。

 からからからから・・・がたん、からからからから

 その内に、徐々に馬車の速度が落ちてくる。平地に入ったらしい。

 水平になると、今までの緩やかな坂道が急斜面だったような錯覚がある。リィエルはまた窓の外を眺めた。

 草原と言えるほど、まだまだ雪も残る平原は緑色ではない。しかし、一面が白く覆われていた数日前と比べると格段に緑地と地面の土の色が増えてきている。

 ちらほらと花も咲いているのを見かけて、リィエルは複雑そうな面持ちながら、それでもやはり喜んだ。どんな事態であれフィルラント王国に生きる者にとって春の到来は待望のものである。

「・・・・・・余の治めるユクティラという国は、豊穣の神ユクティラによって守護されている」

 またムルエルファスがぽつりと呟いた。

「へぇ・・・」

「即ち、このイゥスィーリアの北極点に位置する国でありながら、常春の気候なのだ。花は年中咲き乱れ、木々は実り、それは美しい土地だ。最初にあの土地を見つけた時、既に妖精の姿は無かった。だが、それでもあそこは妖精郷と冠するにふさわしい土地だったのだ」

「わぁ、いいところなのですねぇ」

「うむ。素晴らしい土地だぞ」

 翼の付け根をつつくムルエルファス。ほう、と息を吐く様はまるで人間の老紳士のようだが、あまりにもその姿はニワトリでしかない。

「その楽園に八千年。余の王国は今も楽園のままだろうと思う。戦いも飢えも老いも無い国だ」

「はっせんねん・・・」

 窓の外を流れ始めた道沿いの並木を眺めつつ、ムルエルファスのしみじみと語られる言葉は続く。

 八千年。この天体イゥスィーリアにおいて最長の歴史を持つ国家、それこそがムルエルファス王に治められる獣の国ユクティラである。フィルラント王国の三千年と少しという歴史も、人間の作る国家の中では史上二番目と非常に長い。が、やはり別格というものだろう。

 戦いも飢えも老いも無い国。

 リィエルがどれだけ想像しても決して人間には届かない国。

「老いも無いというのは言い過ぎかな。臣の聖獣たちはともかく、膝下に生きる多くの動物たちは普通に生まれ、生きて、老いて死んでいくのだから。ただ、余は幸運なことに彼らが国に対して不満を言う声を聞いたことが無い」

「それはすごいです」

「ふふん、すごいだろう?・・・これを八千年続けられたのだから、まだまだ大丈夫だろうな」

「・・・永遠の王国、ですね」

 リィエルの言葉に、ムルエルファスは少し黙った。考え込むように頭を下げ、しばしあってまたクチバシを開く。

「それこそが余の理想だ。永遠の国、なんと甘美な響きではないかね」

「ムルエルファス様なら叶う理想ではないのですか?」

 八千年という遠大な年月ならば、人間にとってそれは永遠と言うに等しい。だが、寿命を持たない聖獣にとってはどうなのだろう。

 少し考えて、やはり人間の主観としてリィエルはそれも永遠に程近い年月ではないかと思った。

 だが、ムルエルファスは自嘲気味な響きを声に含ませる。

「叶わぬ夢だから、理想と言うのだよ」



 フィルラント王国、東方国境。

 湖である。

 冬はどこまでも白い平原に青い円。もやが立ち、寒い朝には凍結した空気中の水分が朝日に反射し煌き踊る。

 秋は枯れた黄色い平原に青い円。風に流された紅葉が湖面に朱を引き、一種のあでやかさが垣間見える。

 夏は鮮やかな緑の平原に青い円。太陽の光を最も強く照り返す日々は、渡り鳥たちが翼を休めるためにある。

 春。雪と緑の狭間の季節だけは、ただ静かな水面のみがこの湖の彩り。

『・・・・・・何用か』

 青い、透明な水は自然にできあがるものではない。この湖の主が、己が住みやすいように水中の泥を押し分け、水草を管理し、魚たちが住まうのも端へ追いやり、そうして長い年月を経て出来上がった光景である。

 空の色と水の色が溶け合わさって生まれる色は美しいが、それは拒絶の色でもあるのだ。

 湖の主の名はクシャタラナト。

 水竜クシャタラナト。

 フィルラント王国東方国境の守護聖獣である。

「お初にお目にかかります」

『・・・・・・・・・』

「わたしはフィルラント王国の主、リィエル・タナック・フィルラントと申します」

『・・・・・・・・・』

「本日はクシャタラナト様にお願いがあってまいりました」

『・・・・・・・・・』

「先日のシュエレー神山での崩落によって、山の斜面の農地が埋まってしまったのはご存知でしょうか」

『・・・・・・・・・』

「これを復興させるため、どうしても水路を作る必要があるのです」

『・・・・・・・・・』

「ですが、そのためには川を汚してしまうことになるのです」

『・・・・・・・・・』

「先日の崩落でも土砂が川に流れ込んだため、お怒りのことと存じます」

『・・・・・・・・・』

「ですが、どうか工事の許しをいただきたいのです。土が川に入ってしまうことへの、許可を」

『・・・・・・・・・』

「工事ができなければ我々は飢えてしまいます。国が立ちゆかなければクシャタラナト様にもご迷惑をおかけしてしまいます。憂慮する事態だけは避けたいのです。どうか、許しをいただけないでしょうか?」

 呼びかけに応じ、水竜クシャタラナトは姿を表した。

 美しい竜だった。水竜という種族は滅多に居るものではないが、聖獣ともなればその巨大さに見合うだけの体を持つのだろうか。全身は白いようであり、鋼のような黒光りする光沢も見える。鱗の一枚一枚はよく見れば微細な体毛の集合であり、水に濡れてまとまることで毛先が魚鱗の輪郭を描いている。それが細長い、蛇のような体を一面覆う。

 背には大きなヒレがあった。広げれば体の太さよりも長いだろうか、鱗と同じ白と鋼の色の骨格は澄んだ透明な膜を支えている。同じようなヒレが頭部の周囲にも二枚。

 角は無い。竜は総じて角か、それに準ずる骨格を頭部に持つものだがこの水竜の頭には見当たらない。代わりに、頭髪のように生えた無数の繊毛せんもうがあり、後頭部の両端から長く伸びて垂れていた。

 牙も無い。口は川魚のようなクチバシに似た形状になっており、やはり先端も尖っている。

『・・・・・・・・・』

 鎌首をもたげて水面に突き出した体は蛇に似ていたが、総じてやはり魚のほうに雰囲気は近いだろう。

 静かに、その目がリィエルを見据えていた。

「・・・・・・・・・」

『・・・・・・・・・』

 最初に一言を発して以来、彼はじっとリィエルを見ているだけで何も喋らない。何かを言いそうな雰囲気はあるのだが、それを待っているだけの時間はいつまでも続きそうに思えた。

『・・・・・・・・・確かに、国が立ち行かなければ私も困るかもしれぬな』

 口は動いたように見えない。声だけが周囲に響き渡り聞こえた。

 声変わりを終える前の少年のような声。ただしそこに無邪気さなどは無く、繊細な、まさしく澄んだ水のような声。

「川を汚してしまうことはどうしようもないのです。でも、なんとか最小限に抑えてみるようにはします」

 水竜クシャタラナトの体は巨大で、鎌首をもたげて見下ろすためリィエルは首が少々痛みはじめた。なにせ自分の背よりもずっと高いところに彼の顔があるのだ。半身でこれだから、全長はどれくらいだろう。アールカインよりずっと細い体だが、ずっと長いはずだ。

 剣呑な空気が流れていた。

 リィエルの周囲には王国軍、騎士団、親衛隊の兵士が総計100人近くで布陣していた。ただし、一応この場では国家の守護聖獣との対話ということもあって形式はリィエルを正面中央に配する儀礼的なもの。リィエルの両隣にはシュナとフォガリが立つ。

 クシャタラナトはこれら兵たちをちらりと見たようだった。

『・・・国王にしては若い。歳はいくつになる』

「今年で十歳になりました」

『・・・・・・風のアールカインとは友と聞く。そのためか』

「はい?」

『・・・・・・・・・この場で恐怖しておらぬのは、そなただけだな。子供と侮ることはできぬか』

 ぎくり、と空気が揺れたような気配。兵士らに動揺が広がる。

 淡々と語るクシャタラナトの眼差しは冷酷そのものの静けさを纏って兵士たちを睥睨していた。侮蔑にも似た眼光が、彼らの肝を射竦いすくめる。やはりこの水竜との対話は穏便に済みそうに無い。

「あの、皆さん怖いのです?」

 返答し辛いことを聞いてくれる、とシュナは答えに詰まり曖昧な苦笑とうめき声を出した。

「偽っても仕方がないので白状すると、そうですね。聖獣の方々を前にする機会はそうそうあるものではないですから」

 言ったのはフォガリ。表面的にはあまり怖がっている様子は見受けられないが、本人が言うならそうなのだろう。

 リィエルは、なら、と言い置く。

「わたし一人では・・・うぅん、失礼ですから。頑張ってくださいね、皆さん」

「そんな身も蓋もない・・・」

 威厳というものがある。リィエルは他者に誇示するような王では無いが、王として聖獣と対峙するにあたって最低限示さなければならないものがある。そのためにリィエルは兵を侍らせることを受け入れたが、なるほど、アールカインと親しく話した自分は感じなかったが、やはりこの巨大な生命体である聖獣は畏怖の対象だったか。

 あっさりと居残ることを強制したリィエルは、確かに聖獣との対話には慣れた様子だった。それでシュナたちも仕方あるまいと納得せざるを得ない。まさか王を残して自分たちが引き下がることなどできるはずもない。

『・・・許しと言ったな』

「はい」

『・・・・・・これ以上、私に汚泥にまみれよと言うのか』

「はい、そういうことになります」

『はっきりとものを言う娘だ』

「それ以外に言葉が見当たりませんから」

『・・・必要があれば、私との契約も反故ほごにすると?』

「・・・・・・はい?」

 ふん、とクシャタラナトは鼻息を鳴らした。

 契約とはどういうことだろうか。リィエルは彼の反応を怪訝に思い振り返るが、シュナやフォガリも首を傾げている。

『八百年か。人間には長い時間なのだろうな。だが契約は契約だ。私の領域をこれ以上汚すことはそれに反する』

「ま、待ってください。どういうことなのでしょうか、契約?その、わたしはその内容を知りません」

『・・・・・・・・・浅はかな。よく調べもせずに来たか。フィルラント王国も底が知れるな』

「そんな・・・」

 水面に波紋が広がった。

 クシャタラナトが身をよじり、リィエルの方へ顔をぐいと寄せる。

 巨大な竜の顔面を目前に対峙しても、リィエルはたじろがなかった。

『私はこの国境を守護するにあたり、この湖を譲り受けた。だが契約とはそれだけではない』

「・・・・・・・・・」

『この湖を決して汚さぬこと。我が領域を何人たりとも汚すことあってはならぬと、私は時の王に要請した。これを王は承諾し、契約は成っている。対価として私は国境を守護しているのだ』

「あ・・・・・・」

 もう一度、クシャタラナトはふんと鼻を鳴らした。嘲りの笑いを乗せて。

『領域は汚された。だが、あれは避け得ぬ事故だと見逃してやろうと思っていたところにこれだ。私との契約を一方的に破る王国を、私は一体これ以上どうやって守護すべきだろうか?信頼を裏切ったのはどちらだろうな』

 リィエルは呆然としていた。そんな契約があったことなど初耳だ。

 だがクシャタラナトがそう言うなら本当に存在する契約なのだろう。リィエルは無理にでも納得するしかない。


 アールカインと親しい彼女だからこそ知っていた。

 聖獣は、嘘をつかないのだ。


『・・・・・・湖を汚さなければならぬというなら仕方あるまい。私は契約を破棄してこの場の守護を辞めよう。そうすればお前たちも苦も無く工事とやらができるだろうな』

「まっ、待って!」

『何を待つ。これ以上の対話は時間の無駄だろう。お前たちも一刻を争う事態なら、こんな所に来ずにさっさと事を始めればいい。私はただ立ち去るのみだ』

「・・・・・・っ!」

 とんでもない事になってしまった。いや、そもそもクシャタラナトはまともに対話に応じるつもりなど最初から無かったのだ。

 こういう事態にリィエルは弱い。他人を言いくるめたり、煙に巻く言い方はリィエルが最も不得手とするところだ。先程のように、馬鹿正直にはっきりと物を言うのはリィエルの長所でも短所でもある。

 嘘をつかない聖獣に嘘をつけないリィエル。このままではどう考えても話は平行線のままになるだろう。

 言葉に窮したリィエルを、クシャタラナトはじっと見つめていた。だが、何も言えないで居るリィエルに呆れたか、彼はまた鼻息を一つ残してゆっくりと湖の中へ戻ろうとし始めた。

『人間にしては、偽らぬ姿勢は美徳だ。しかし、偽りかたり篭絡するのが人間というものだ』

「あ、あの・・・・・・あの・・・」

『王よ、お前は人間としては未熟だったな』

「・・・・・・・・・・・・」

 青ざめたリィエルを見据える目は、悔しいことに憐憫の色を浮かべていた。でも、哀れみと同情は違う。

 せめて俯くまいと気丈にもリィエルはクシャタラナトを見据え返した。

 交渉は決裂した。

 聖獣は決別の意を示した。

 予想した最悪の状況である。

 ただし。

『リィエル陛下のためにも、口は挟むまいと思っていたのだがな』

『・・・・・・!』

 今は、彼が居る。


 響く声にシュナは怪訝に思う。巨大鳥アールカインや目の前の水竜クシャタラナトがそうだったが、彼ら聖獣の言葉は空間に反響するような聞こえ方をしていた。だが、彼は違っていたように思ったものだが。

 念話の一種だと今気づいた。超常の存在である聖獣は己の親しむ領域、即ち風や、水などと同調して、それら全てを通じて言葉を持つ。その発露したものが今まで聞こえていた彼らの声だった。

 今にしてみれば、彼らは口を全く動かさずに喋っていたではないか。だが、彼は違っていた。

 クチバシが動いて言葉を発するところを何度も見ている。普通にそうしているので、そういうものだと思っていた。

 しかし、そして今、彼もまた空間に響く言葉を発している。

 この違いが意味するところとは、つまり。

『領域から出て気配を絶つと姿も見えぬか?クシャタラナト、見違えたのは図体ばかりか』

『・・・何故ここにおられる、ムルエルファス王』

『余が立つ場所をお前が指図するのか、クシャタラナト。余は己の立つ場所くらい己で決められるぞ』

『そういうことを言っているのではない!』

 いつの間にか歩いて来ていたムルエルファスが、リィエルの足下に立っていた。

 足下と位置できようか。今や、リィエルの目にそのニワトリはまさに聖獣そのものと映った。ならば彼の立つ場所はリィエルの足下などではない。その場所こそが、聖獣の王の座する場所。

『八百年を経ても変わらぬ、お前はまだ己の領域に閉じ込もって世を拗ねているのか』

『飄々《ひょうひょう》と世を弄ぶムルエルファス王に言われたくはない!』

『生まれて千五百年、たかだが八百年を隔てただけで口だけは生意気に育ったものだな』

『相も変わらず、よくもそこまで他者を見下せるものだ!』

『そう思っているのはお前だけだと知れぃ!このたわけが!!』

 明らかに異常な状況であることは疑いようもあるまい。

 シュナは呆然と横を見た。すると、やはり呆然と立ち尽くしてこの状況を理解しようとしているフォガリ騎士団長が居る。

 リィエルでさえ、ぽかん、と口を開けてこの様子を見ているしかないのだ。

 聖獣同士が口喧嘩をしている、余りにも前代未聞すぎて誰も付いて来れない状況。兵士らも動揺を通り越してわけがわからず、ただシュナたちと同じように目を丸くして仰天している。

『だから!何故ここに居ると聞いている!』

『余が何処に居ようと余の勝手であろう!』

『それが王の言い草か!』

『違う!このムルエルファスの言い草だ!』

『っ・・・詭弁を・・・!』

 言い争いだとか、激論とも形容し難い。やはりこれは口喧嘩と言い表すのがしっくりくる。

 はた、とリィエルが気をとりなおして割って入ろうと声をかけた。

「あの、あの、喧嘩はだめですよ。冷静になってくださいお二方とも」

『黙っていろ人間!』

『お前の主君であろうッ!』

「あう・・・」

 余計に話がこじれそうなので、リィエルは大人しく引き下がった。

 というか、なんだろうこの状況。何故ムルエルファスはこんなにも熱くなってクシャタラナトに対し激昂しているのか。よく分からないが、ともあれ先日まで、いや先刻までとは一変したムルエルファス王の様子は、何故だかリィエルの目に必死さを読み取らせた。

 伝えたい事があるのに伝えられず、もどかしそうにしているような雰囲気である。

「・・・・・・・・・あのう、もしかしてお二方は肉親なのです?親子、とか」

 そんなまさか、とシュナが眉を潜めた。フォガリも苦笑している。

『ああ、そうだ。この不肖の馬鹿息子の父親だよ、余は』

『誰が馬鹿だと言うのです、父上』

『名の半分をくれてやったのは身勝手な出奔を許すためではないぞ』

『恩義に思えとでも?かつてクシャタラナト・ムルエルファスと名乗った我が父よ』

『・・・・・・たわけが』

 そんなまさか、とシュナとフォガリが口をあんぐりと開けた。思わずリィエルがシュナの表情を見返してしまう程の驚愕の事実である。ざわつく兵士たちの間にも寸分違わぬ衝撃が走っていた。

「ええと・・・あまり似ていないようですね?」

 ムッ、とクシャタラナトが顔をしかめるのが見えた。一方のムルエルファスは何故か満足そうな面持ちだ。

『こやつは母親に似てな。あれも美しい龍だ』

『・・・母上を見出した点においては父上を評価しましょう』

 母親好きなのだろうか、この水竜は。

 リィエルだけが会話に付いていっていたが、後ろの大人たちはもう意味がさっぱり解らなかった。

 ニワトリと龍でどうやって子を成したのだろう。まず第一にして最大の疑問が彼らの思考を苛んだ。

「なら、なおのこと喧嘩はダメですよ。仲良くしましょう」

『余はそうしたいと思っているのだが』

『気色の悪いことを!』

 聖獣は嘘はつけないのだから、これは本心のはず。本心から、クシャタラナトはムルエルファスのことを嫌がっているということだろうか。

 素直じゃない、だとか本心を明かさないだとかは、聖獣に限って有り得ないはずなのだ。

 だが、クシャタラナトの態度にリィエルは不自然なものを感じていた。どうにもこの二体の聖獣は人間くさい様子を見せているせいか、クシャタラナトの態度の裏には父王への敬愛が垣間見えてくる。

 言っていいものか。いや、やめておこう。

 流石にリィエルも他の家庭の事情に口出しはできない。果たしてこの二体の聖獣の関係を、単なる家庭と一言で言い切ってよいものかは別として。

 それに不自然と言えばもう一つ。

 わざとらしいと、感じていた。

「ムルエルファス様は、何をお考えなのです?クシャタラナト様に会いに来たのが本当の目的だったのではないのですか」

 そう判断したリィエルだが、どうやら雰囲気が違う。

 嘘は付けなくとも、それは隠し事ができないという意味にはならない。

『目的の一つだとも。リィエル陛下に会いに来たのも目的だったな』

 何かを隠して話している。それに気付いて、やっとリィエルは少しだけ後ずさった。

 何か、恐ろしいものを隠されている。

『ふぅ・・・まあ、ここまできて喧嘩ばかりしても仕方ないな。第一クシャタラナトと喧嘩など初めてやったぞ。いい体験をさせてもらった。礼を言うぞ、我が息子よ』

『大概に不遜な物言いを・・・しかし、本当に何が目的なのですか、ムルエルファス王。あなたはいつもそうだ。民が混乱していても面白がって事を面倒な方向へ持って行きたがる。結果だけは良いものにするから始末に負えない』

 思い出すのは母、ミュシェ・タナックだった。

 何かわからないことがあると、大抵それは秘術の勉強の間のことだったが、リィエルが質問をすると決まってミュシェはいたずらっぽく笑っていたものだ。そして、決まってこう言う。

『さて、どうだろうなあ』

(さて、どうかしらね)

 思い出せる限りで最初にあれを聞いたのは、リィエルがまだ母の腰ほども身長がなかった頃のはず。5歳かそこらだったか。

 今は理解している。いや、今ここで理解した。

 あれは、余裕だ。親や年上というだけではない。自分の場合ならば秘術の、その先輩としての、豊富な経験から来る余裕。

 ざわ、とリィエルの背に粟立つものを感じた。

『・・・・・・勘も鋭い。ますます見事だぞ、フィルラント王国の新王リィエル・タナック・フィルラントよ。この数日で君を教授したつもりだったが、こちらが学ばされることすらあった。感謝しきれぬな』

 クチバシを、斜めに上げて。

『クシャタラナト、我が息子よ。数多く産まれた我が子の中で唯一生まれながらに聖獣であった水竜クシャタラナトよ。お前は我が膝元、ユクティラから余に何も言わずに出奔しおったな?』

『・・・それが何だと言うのです』

 笑みは、リィエルが見たことのない表情となった。

 悪ぶった、狡猾そうな笑みだ。

『我らユクティラの民の数少ない規範は何度も言い聞かせたはずだ。我々はその強大な存在と力故に、無用に世を混乱せしめることを避けるために、余の許し無く勝手にユクティラを出てはならないと。見よ、フィルラント王国はお前という存在に振り回されておる』

『それはこの者どもの責任でもありましょう』

『だから?だから何だ、クシャタラナト。それは余の断罪の鉄槌を回避する言い訳にはならぬ。これも言い聞かせたはずだ。たとえお前であろうと、息子、妻、同胞らであろうと、最低限敷かれたユクティラの規範を破ることは、このムルエルファスが許さぬとな!』

『・・・・・・あなたは、何を』

 リィエルは振り向いた。シュナとフォガリ、後方にゼルガ・ハバトも居て、彼らはリィエルの真剣な表情に驚いている。

 リィエルが口を開くのと、ムルエルファスが翼を広げたのは同時だった。

「に、逃げて!逃げてくださいみなさん!!」

『名の半分をも今は名乗ろう!クシャタラナト・ムルエルファスと!』


 クシャタラナト・ムルエルファス。

 秘術に用いる言語に即して訳するならば、意味は「断固たる決意の下に振り下ろされる鉄槌」となる。

 今、その鉄槌は振り下ろされた。


 音が。

 あのシュエレー神山の崩落の際に聞いたものよりも更に巨大な爆音が。

 空気を唸らせる轟音が。

 大気を絶叫させる衝撃波が。

 右から左へ突き抜けるように、信じがたいほどの大音響が静かな湖の上を駆け抜けた。

「・・・!・・・・・・っ、・・・っ!?」

 耳がおかしい。きぃーん、と耳鳴りが続いて何も聞こえない。

 そして眼前、湖の上をクシャタラナトの巨躯が恐るべき速度で吹っ飛ばされていく。

 きらきらと舞うのは水しぶきではない。クシャタラナトの体から剥離した繊毛、鱗だ。血飛沫は無いようだが、水竜の胴体の一部に赤いものは確かに見える。

 何が、とリィエルは横を見た。だが、そこに居たはずの派手な尾羽根のニワトリの姿が無い。

 何処に、とリィエルは前方を見る。そして、異様なものを見た。

 湖の水面を、盛大な水しぶきを跳ね上げて疾走する一羽のニワトリ。速度は馬などの比ではなく、まるで大砲の砲弾だ。

 どうやって水面を足で歩けるのか、そもそもあの速度はどういうことなのか、今はそんなことを考えるよりも目の前の光景に唖然となる。

『ぐっ・・・ううっ、ち、父上っ!』

『フフハハハハハァーッ!さあどうした、かかってこいクシャタラナト!』

 耳鳴りが治ってくると、聞こえてきたのはムルエルファスの高らかな哄笑。そして荒れ狂う湖面の水しぶきの音。

 水面が爆発した。いや、一瞬の後にそれはムルエルファスが水面を蹴った衝撃だと知る。

 垂直に飛び上がったムルエルファスの小さな体が、クシャタラナトの巨体の目の前まで上昇した。

『父上であろうと、私の領域でぇっ!』

 上昇速度が無くなり空中に停止したムルエルファスを、湖の中から大量の水流が蛇のように伸びて絡め取ろうと襲いかかる。クシャタラナトの領域、即ち水を司る彼の親しむ場にあって、彼はまさに水を得た魚なのだ。

 だが。

『コ、コ、コケェェ───ッ!!』

 鳴いた。

 ムルエルファスが、ニワトリの声で鳴いた。

 鳴けたんだなぁ、とリィエルはなんだか脱力感に襲われた気分でその光景を見ていた。

 大気が高速で歪む。

 水流がことごとく粉砕され、同時にクシャタラナトの巨躯も何かの衝撃を受けて盛大にはじき飛ばされる。

 見えない力、とリィエルは小さく呟いた。

『例えユクティラの領土の外であろうと、罰は罰だ。余の仕置きはお前であろうと受けてもらう、クシャタラナト』

 ムルエルファスはそのまま、つまり、空中に静止したまま大声で話している。羽ばたいているようには見えないので、やはり翼で飛んでいるわけではなさそうだ。となれば彼の能力によるものか。

 リィエルはニワトリ王の視線に射竦められる。

『そして、今はまだ国境の守護者であるならば、余の行動は即ち侵略に等しい。そうだな、リィエル陛下』

 上空から振りかかる声は距離を問わず、リィエルの耳にもしっかり聞こえる。聖獣としての力を発露したムルエルファスが、己の領域を介して話しかけてきているのだ。

「は・・・はい」

『クシャタラナト、お前がまだ守護聖獣である内にその職務を完遂してみせよ。そしてリィエル陛下、いや、フィルラント国王陛下。余の矛先は貴君へも向けられようぞ!』

「あ、えっ!?そ、そんな!」

『君はよい王だ。それ故に学ばねばならぬ。王の義務とは田畑を見守り民を導くのみにあらず。民を守りてこそ国家の王たり得るということを。君が学ぶべき最後の一つ、即ちそれは』

「・・・・・・・・・!」

『戦争というものを!』

 リィエルの周辺、湖に近く湿った土と草が何らかの圧力によって軋み、めりめりと剥がれて浮き上がっていく。

 本能的な死への恐怖がリィエルを突き動かした。

「イラ・マハタヤー・アル・パッゼ!」

『クォッココココココ、コケ──────ッッ!!』

 はっ、とリィエルは後ろを見た。まだ兵士が、シュナたちが居る。

「や、ヤトゥール!ヤトゥール!ヤトゥールっ!!」

 薄く光る靄のような膜がリィエルの目の前に生じる。霊力そのものを放出し、高密度に空気と絡めて構築された防護壁。

 母から教わった時にはこのような使い方はしなかった。嵐が来た時に家を守ったり、秘術の実験に失敗して小さな爆発が起きるのを押さえ込むために使っていた。

 ヤトゥール。大きく。言葉に応じて光の壁が更に更に巨大化する。

 そう、守るのは自分だけではない。今この場で皆を守れるのは自分だけだから、皆を守ることも考えねばならない。

 じわりと押し寄せてきていた不可視の力の奔流が一挙に加速し、怒涛の勢いでリィエルを飲み込んだ。

「陛下っ!」

「うくっ、ううううううううっ!」

 猛烈な勢いで土が巻き上がり地面が吹き飛んでいく光景の中、リィエルの盾によって守られたその後方だけは風も無く無傷。ただ地面は先ほどから振動を続けている。

 シュナが駆け寄る。また、リィエルに託すしか無いのか。その悔恨は彼女をこの異常な事態への茫然自失から解き放った。

「に、げて・・・逃げて、シュナさん。みんなを連れて・・・!」

「駄目です!今度こそは陛下をお守りいたします!」

 シュナの後悔をリィエルは知っている。

 息を整え、光の壁を安定させるとリィエルは首だけで振り向いた。

「いいえ、この場であのお方に立ち向かえるのはわたしだけでしょう。ですから、ならお願いがあります」

「なんです!?」

「杖を、一角馬の角を持って来れますか。あれがあれば・・・」

 フォガリが近寄ってきていたが、そんな無茶な、と言う。

「城まで遠すぎます。それより、我々がどうにか陛下のお助けを」

 だがシュナは遮った。

「了解しました。一時間で戻ります!」

「・・・・・・い、ちじかんですか。あは、凄い。じゃあ、お願いしますねっ!」

「はい!」

 馬車で四時間近く。城からこの国境まで、そこそこ急いで来た。しかしそれでもかなりの距離があるのに、往復で一時間と言い切るとはリィエルにも予想外だった。だがシュナの目は本気だ。

 フォガリもそんな馬鹿なと漏らしていたが、言い切った以上彼女はやってくれるかもしれない。

 駆け去るシュナを見送り、リィエルはフォガリを呼んだ。

「シュナさんが戻るまで、なんとか持ちこたえてみます。騎士団長さんは、レアさんたちを。馬車のみなさんが心配です」

 レアや付き添った数名の侍従たちは兵士ではない。この状況に対応できないのだ。いや、彼女らのことだから冷静さを欠かずに居てくれそうだが、彼女たちの護衛が必要だろう。

「しかし何をすれば。護衛と言っても」

「隙を見せたらあのムルエルファス様のことです。みなさんに襲いかかる可能性は十分に考えられます。ですから」

「!・・・承知しました!」

 そうしてフォガリも走り去る。兵士を連れて後方の馬車の所まで移動するのを見届けて、リィエルはふと遠くに立つ人影を見た。

 ゼルガ・ハバトだ。他に弓兵と思しき兵士たちの姿が、それぞれ距離を空けてまばらに立つのが見える。いつの間に移動していたのか、彼らの立つ場所はムルエルファスの攻撃の余波も少なく無事らしい。だが、いつ巻き込まれるか。

 逃げてと伝えたかったが、距離がある上にこの状況。まだ力の奔流は止まっていないのだ。どうにもならず、歯を食いしばって耐えるだけを続けるしかなかった。

 それに、彼らのことだ。何か独自の策を持っているのかもしれない。

『準備は済んだかね。うむ、なかなか早い。よい働きをするな、君の臣は』

「・・・そのお言葉を後悔なさらぬように、ムルエルファス様」

『ふふっ、ふははは!幼きとは、やはり見られぬ!その貫禄、君はやはり素晴らしい!!』

 光の壁にかかる負荷が消えた。だが終わりではない。

 浮遊していたムルエルファスが、何も無い空中を蹴るように動いた。途端、またあの砲弾のような加速。

 どういう原理の能力を持つのかを知る前に、彼の猛攻を防ぐ必要がある。あの圧倒的な存在感、そして圧倒的な自信と余裕。

 打ち負かせるイメージが全く見えない。

 誰も彼を止められない。

「ゲーメッゼー・ベオトーレーレ・アル・カフ」

 焦りは禁物。母の言いつけはもう破らない。

「アンク マセトレガ マザガテオル」

 礼拝するように大地に両手を置き、眼を閉じる。

 見るのではなく想う。

 聞くのではなく確信する。

 秘術とは事象の再現であり創造ではない。

 あるはずの事象を世界に思い起こさせる、その現象そのものを想起する感覚。

「ルーテ・イラ」

 今や、リィエルは確かに戦意を持った。

 十歳の少女ながらにも王であれば、戦への覚悟も芽生えるということか。

 鮮烈なる赤い閃光が、少女の周囲で発生する。

「アル・ロンフォーン・マーザガトーレ」

『・・・・・・!』

 異様な気配にムルエルファスが虚空を踏みしめる足を止めた。

 す、とゆっくりリィエルは目を開き、立ち上がる。

 土に汚れた両手を正面、ムルエルファスに向けて突き出して。

「・・・・・・”フォロソ”」


 先程のムルエルファスの一撃にも劣らぬ大音響が炸裂した。

 リィエルを中心に赤い光が迸り、その一点から一条の赤い光の線が伸びる。

 そう、光だ。

 ムルエルファスですら回避できない速度は、つまり光速に達しているものであるがため。

 赤い光がムルエルファスの小さな体を確かに捉え、飲み込んだ。

 直後、どこまでも伸びる遠大な赤の光が上空を貫き、高空の雲と衝突したのだろう、轟音を鳴り響かせた。

 大気中の雲に命中した赤の光が水分を一瞬で霧散させ、爆発を起こしたのだ。

 この赤い光は触れた全ての物体を気化させ蒸発させてしまう。いや、それ以上に粒子まで分解させてしまう性質を持つ。

 神話に語られる魔獣の放った炎。その再現。

 神の言葉の一つでは無く、あくまでこの地上で再現できる物理的な事象の一つである。かつてこの力を持った魔獣は、神々によって討伐されたという。それほどに凶悪な性質を発揮する光。

 人間の、リィエルの秘術として再現した場合は、オリジナルと比較して効力は減衰しているはずだ。しかし、一体何十分の一まで威力が落ちているのかは知らずとも、この破壊力。

 己の行為にリィエルは思わず身震いした。

「・・・・・・それでも、やっぱりムルエルファス様は耐えてしまわれるのですね」

 震えは、自らの術への恐れだけでもなかったが。

 クチバシを斜めに向けるムルエルファスの姿は、まだ空中に確かに存在していた。

『絶空の魔鳥ロンフォーンの力、大地を粉砕する光フォロソか。懐かしく、今も思い出すたび恐怖する。かの恐るべき邪悪なる獣よ』

「・・・・・・・・・・・・」

『神々の戦列に加わった日を今も覚えている。それでも苦戦したのだ。あの当時の群雄割拠は二度と訪れまい。余りにも奔放なる世界の荒ぶり。秩序無き世の終末の一つ。あの戦いも、今という時代の礎である』

 怖い、という思いは先ほどからずっと消えない。そもそもリィエルは争いごとを好まない。

 だが後ろには皆がいる。王国の民が。

 そして自分は王だ。

「今ですっ、クシャタラナト様!」

『言われずとも分かっている!』

『ぬうっ!?』

 湖の彼方へ吹き飛ばされたクシャタラナトだったが、既に復帰し再び水流を操り始めていた。

 リィエルの秘術で多少はムルエルファスも体力を消耗しているはず。これを好機と見て。

 そう、聖獣の能力は即ち秘術の本質と等しい。霊力を消耗するのだ。

 霊力の消費はそのまま体力の消費に直結するから、リィエルが放ったあの破壊力を受け止めて耐えたならばどれだけの体力を消費したか。例えそれが微々たる量でも、現にムルエルファスはほんの僅かに、焦りを見せた。

 先ほどのような何本もの水流ではない。それらを束ねた、クシャタラナトの体よりも太い巨大な水の柱が二本、螺旋を描くようにうねってムルエルファスの小さな体目がけて突進していった。

 今度は水流がはじけ飛ばない。防げなかったのだ。

『まだまだ!』

 二本の水流がムルエルファスの体を挟みこんでぶつかり、衝撃で大気が鳴動する。それほどの威力に加え、クシャタラナトの水を操る能力はまだ留まらない。

 水流の両端が湖面から剥離し、衝突した一点を目がけて全ての水が収束していく。

「これが聖獣・・・」

 リィエルでも我が目を疑った。いや、リィエルだからこそ、目の前で起こる事象の原理を理解して驚愕できた。

 水流が空中の一点まで恐るべき圧力をもって凝固しはじめる。形作られるのは、莫大な量の水が常温の大気中にありながら凝結し固体と化した巨大な氷塊。

 一体どれほどの水圧が加わればこんな真似ができるのか。

 摂理を乗り越え、超越種とも呼ばれる聖獣の力。確かに彼らは常軌を逸した存在なのだ。

 そして、その王と呼ばれる者であれば、それはどれほどの。

『・・・余裕か。おのれ、まだ遊ぶか』

「・・・・・・・・・どうしましょう、クシャタラナト様」

『知るものか。あれに勝利し得た存在など、私はユクティラ神以外に知らぬ。それがどうやって勝利したのかすら想像もできぬ』

「うーん、それは困りましたねぇ・・・」

 氷塊を睨みつけるクシャタラナトと、その傍まで駆け寄るリィエル。

 先程から湖の波しぶきでリィエルは全身がずぶ濡れになってしまったのもあってか、彼女は自分が着ている服などもはや頓着せず水際に足を浸らせていた。寒さは感じない。感じている暇が無い。

 そのリィエルが妙にのんびりと言うので、クシャタラナトは呆れたように傍らの少女の姿を見下ろした。

『何か考えがあるのか』

「いいえ、特にありません」

『そのわりにお前も余裕そうだ』

「強がりです。やせ我慢をしてるんです」

『・・・・・・・・・ふん』

 小さな震えはクシャタラナトの目に見えただろうか。

 彼から見ればリィエルなど小さな蟻のようなものだろう。小さく、弱く、臆病な生き物の一匹に過ぎない。

 だが、この少女はそれでも逃げ出さない。

「一角馬の角を取りに戻ってもらいました。あれがあればもう少しうまく秘術を使えます。それまで何とか耐えていただけますか」

『どれくらいだ』

「一時間です」

『・・・そんなものか。ふん、よいだろう。父上もその内に飽いてしまわれるだろうからな』

 びし、と音を立てて氷塊にヒビが入る。

 リィエルは首を横に振った。

「そうは思えません」

『・・・・・・私が私の父を語るよりも、お前は我が父に詳しいのか』

「どうでしょう。わたしは自分のお父さんも知らないものですから、詳しくはないでしょうね」

 氷塊が揺れ、砕けた小さな破片が落ちる。

 クシャタラナトは鼻息を鳴らした。

『ならば何故そう思った。父上は我らを皆殺しにするとでも言うのか。いや、父上のことだ、そう父上が言うなら本当にやるだろう。だが今は言質を取っていまい』

「飽きたと言って教鞭を置く教師は居ないと思いますから」

『・・・・・・人間の風習は知らぬ』

「うふふふ」

 ヒビが大きくなる。氷塊は今にも砕けそうだ。

 リィエルは表情を改め、空中に浮く氷を見据えた。

 何故この少女がこれほど虚勢を張るのか、それが例えやせ我慢だとしても、その理由がクシャタラナトには分からなかった。

「ムルエルファス様の能力、クシャタラナト様はその正体をご存知ですか?」

『いや、知らぬ。ユクティラには争いごとも少なかったためだろう。私の前で父上が力を振るう所をほとんど見た記憶が無い。ただ、漠然とその大きさは感じていた』

「そうですか」

 氷塊のヒビに沿って、氷が砕け始める。砕けた氷は圧力を失っていくようで、即座にただの水に戻っていった。ただし、圧縮されていた水は体積をも戻し、その量はまるで滝のようだ。

「あれは、推測ですけれど恐らく”力そのもの”です」

『・・・・・・・・・・・・なに?』

「物理力学の運動系の第一関数を制御する能力ということでしょうか。秘術においても非常に重要な関数です。これを支配するということは、確かにこの世の全てを支配することに近しいと思います」

 こと学問的な言葉を発するにあたってリィエルは雄弁である。その内容を誰が理解できなくとも。

 あまり他人にものを教えるのは向いていないのが彼女の欠点の一つでもあった。

『意味がわからん』

「ええと・・・ええっと、つまり、ええと・・・」

『”力そのもの”だと?ふん、よく解らんが、つまり万能に等しい能力だということだな』

「はい・・・ああ、はい。そんな感じです」

『・・・・・・やはりお前は人間としては少々未熟なようだ』

「うう、精進します」

『もういい。それより、水が砕ける。来るぞ』

 ひどくのんびりと氷は砕けたものだ。

 これも、彼の余裕なのだろう。あの力であれば瞬時に氷塊から脱出してのけることも容易いだろうに。

 氷塊は今やただの水に戻り、全て湖に降り注いだ。

 そして、羽毛の一本も濡れずに空中に佇む一羽のニワトリ。

『なかなか呼吸が合ってきたようじゃあないか!よいぞ、興が乗ってきたな!』

『興が乗っているのはあなただけだろう、ムルエルファス王』

「命がけです・・・」

 いかにも悪そうな声音で、ムルエルファスは低く笑ってみせた。

『そうかね?先程のリィエル陛下の秘術といい、なかなかだったぞ。ふうむ、それでも緊張感が足りぬと言うならこうしようか』

 何気なく。

 言葉も、仕草も、表情も、全て何気なく。

 リィエルの横を爆発的な速度の風が吹き抜ける。ムルエルファスの放った一撃が一直線に王都上空を貫き、雲に穴を開けた。

 そして、聖獣の王はこともなげに言い放つ。

『次は当てる。言ったはずだ、これは戦争だと』

 今、大気を切り裂いて駆け抜けた力場の塊はたとえ一発でも市街に命中すれば、その周囲もろとも広範囲を壊滅させるだろう。それほどの力の発露を感じた。

「・・・・・・一体、何をお考えなのですか。国民のみなさんに罪はありません!」

『戦争に罪など無いとも。ただ勝者が残るのみ。敗者は消えて失せるのみだ』

 しれっと言うムルエルファスには冗談めいた感情が見てとれない。本気だ。

『だから言ったはずだ。あの王はふざけた態度のままでも、本質は聖獣のそれそのものなのだ』

「・・・・・・で、でも」

 何の予備動作も無く、ムルエルファスの体がふわりと落下し水面に足をつける。まるで固い地面を踏みしめるように、当たり前のように湖の水面に佇んでみせた。

『さて、ここからは言葉少なに参るぞ』

 恐怖は消えない。

 自分が死ぬのはもちろん怖いが、それは些細なもの。それより、家族が傷つけられるほうがずっと恐ろしい。

 そして、皆を守りきれる自信が全く無いのだ。

『術を用意せよ。不本意ながら協力してやろう。お前との話はその後だ』

「クシャタラナト様・・・」

 湖から一斉に水の球が生み出され、空中に泡のように漂い始める。そのどれもが膨大な水圧によって押し固められた水の砲弾。クシャタラナトはこれらを操り、ムルエルファスに真っ向から対峙した。

 リィエルはそれを見て、俯いて、手を握って、口を固く結んで。

 持ちこたえると約束したから。

『決意したと見る。ならば、ゆくぞ。地上最強と謳われし聖獣の力、その目でその身でとくと体験するがいい!!』

 ムルエルファスが水面を蹴った。

 あの聖獣の王はどこまでも雄大である。力に際限を見い出せず、精神の豪胆さなどはいかなる生物の追随も許さないだろう。

 あの余裕。

 リィエルの母、ミュシェ・タナックのように、後に続く者達へと手向けられる魂の偉大さ。

 母は秘術士だった。いつも彼女にだけはかなわないと感じていた。それは彼女が母であるから、そして誇張無く一人の秘術士としても偉大であったから。

 ならば聖獣の先達たるムルエルファスの余裕は、一体どれほどの高みに在るだろう。永遠に生きることをも可能とする生命体の持つ、己という存在への絶大な自信と能力への自負。

 幼きと侮れぬとムルエルファスはリィエルを評してくれた。だがそれはリィエルも、彼女は他の者に比べて他者を外見で簡単に判断しないとはいえ、やはりムルエルファスの外観が小さなニワトリであるせいかどこかで侮った部分は確かにあった。

 侮る、というのはリィエルの場合表現としておかしいだろうか。逆により不敬ではあるが、愛玩というか、小動物を愛でるような感覚を持ったということになる。否定はできない。

 否定したくもなるが。


 ムルエルファスの姿が消えた。いや、消えたように見えるほどの速度で動いた。

 水面が爆発したように水しぶきを跳ね上げ、それと同等の規模の爆発が湖面の各所で次々に発生する。そして、直後に耳の鼓膜を強く叩く爆音。

 音速を超えた疾走速度だと気づくまでリィエルは唖然としてしまっていた。むしろ気づいたからこそ唖然としたのかもしれず。

『とおうっ!』

 次にムルエルファスの姿が見えた時、そのニワトリは水竜クシャタラナトの巨体に猛烈な速度で突進するところだった。体を回転させ、ねじり込むような動きで片足を突き出して肉薄する。

『!!』

 どぉんっ!という轟音を共に、小さなニワトリが巨大な水竜に強烈な蹴りをめり込ませていた。ただし威力は、まともに受けてしまったクシャタラナトの体が水面から完全に出て空中に浮き上がるほど。まるで隕石か何かが縦横無尽に駆け回るようだった。

 だがクシャタラナトもさるもの。浮き上がった状態、苦痛に顔をしかめたまま、それでも水流の制御を手放さない。

『これしきっ!』

『フハハハハハハハハ!!』

 箍がはずれたように爆笑し続けるムルエルファスを無数の水球が取り囲んでいた。クシャタラナトの操る澄み渡った青い水。

『お覚悟っ!』

『ぬるいわっ!』

 水の砲弾が全方位からムルエルファスに殺到する。その一つ一つが必殺の破壊力を秘めた水球は、相手が見た目のままのニワトリであればその肉体を木っ端微塵に粉砕していたであろう。

 だが、ムルエルファスには通用しない。

 無数の水球はクシャタラナトの制御に従って無尽蔵に放たれるが、ムルエルファスの体に命中する直前に片っ端から破裂させられ、ただの水へと戻って落ちていく。湖面は雨が降るような光景になっていた。

 クシャタラナトの巨体が水滴と共に落下していく。

『・・・・・・』

 水面に着水する直前、彼の体を大量の水滴が取り囲んだ。それは集結すると巨大な水のクッションを作り、クシャタラナトの体を包んで落下速度を弱める。とはいえ、自在に水を操るといってもそのまま浮遊することはできない。水は地に溜まるもの。ゆっくりと、彼の体は湖に戻った。

 そして再びあの水流の蛇が幾本も生み出され伸びる。

『・・・・・・あれは、何をしている?』

 攻撃を緩めること無くクシャタラナトの視線は下へ。

 リィエルは湖の周囲を走っていた。

「エールテ・ミステル イルア・アンカトゥー・エネ・アル・ハイク」

 走る途中、少しだけ立ち止まる。

 奇妙な光景だった。リィエルが立ち止まった場所が、印をつけたようにぼう、と淡く発光しているのだ。よく見るとリィエルが走ってできた足跡も、その一歩一歩が全て星のように光っている。

 そしてまた走り始める。

「エールテ・エネ エールテ・エネ・・・はふ、エールテ、エネ・・・はぁっ・・・エールテ・エネ・・・」

 また立ち止まった。

「エールテ・エネ イルア・アンカトゥー・ゼノ・アル・ハイク」

 やはり印だ、とクシャタラナトは気づく。あの光で湖を囲んで何かするつもりらしい。

 湖は広いがリィエルの走る速さはなかなかのもので、それに走り慣れているのか安定している。

 一周するまでに、およそ一時間ほどか。

『!・・・・・・ふん、なるほど』

 あれを止めてはならない。そう気付いて、クシャタラナトは水を操る力を一層深めた。

『何かするつもりのようだが、さてさて・・・』

『邪魔はさせぬ』

 ムルエルファスも気づいたらしい。クチバシを斜めに傾けると、一転リィエルに狙いを定めた。

 だがクシャタラナトは阻む。

 水流の鋼の巨躯が滑らかに動き、ムルエルファスの体を取り巻くように形を作った。能力の制御は、聖獣にとって手足を動かすことに等しい。体からより近いほど精密に操れる。

 水流、水球を手繰りムルエルファスにぶつける。その圧倒的な破壊の光景。

 だが、遠い。

『コ、コケッ!コッケェェ───ッ!!』

 一点への集中ではなく、球面全天へ向けられたムルエルファスの力の発露は、全ての水を吹き払う。止めど無く押し寄せる暴力的な水の奔流も、彼の力の前にはただただ呆気なかった。

『そうやって慢心するがいい。我が父上ムルエルファスよ、私とて聖獣なのだ』

 力の発露が止まった瞬間、何かがムルエルファスの直上から高速で落下しその体に命中した。

『ぬぅおっ!?』

 雨のように小さく細い水滴だった。だが、やはりその内部には高い水圧によって閉じ込められた必殺の破壊力がある。それが矢のように次々と降り注ぎ始めた。

『やりおるわ!』

『お覚悟をと言った!』

『ふん!せいぜい手こずらせてみせよ!!』

『言われるまでも無い!』

 ムルエルファスは、更にクチバシを斜めに傾ける。

 ハッ、とクシャタラナトが気づいた時にはもう遅い。小さなニワトリの姿は、水竜の眼前から瞬時の遠ざかった。

『フハハハハハ!後ろがお留守だぞ!』

『しまった!』

 煽るだけ煽って、なんとムルエルファスはリィエルがその場を離れたことで手薄になった後方、リィエルの臣下の面々に狙いを定めたらしい。哄笑を上げて一羽の弾丸が平原に着地し、そのまま地を這うように疾走し始める。

 状況を眺めていた人間たちにも緊張が走った。ついにこちらが狙われたか、と。

 そして騎士団長セイル・フォガリが真っ向に立ちはだかる。

「私がお相手しましょう!」

『その意気やよし!』

 リィエルは信じた。任せると言ったのだ。

 クシャタラナトは首を伸ばし、水を操って追った。だが遅すぎる。いや、ムルエルファスが速すぎるのだ。

 秘術も使わぬただの人間が、ムルエルファスの猛攻にどう耐えるというのか。

 フォガリが抜剣する。白銀に煌く重厚な両刃の剣は、彼の淡麗な容姿に似合わぬ無骨な造り。それを軽々と右手に構え、左手には盾。いや、この場に盾を持ってきてはいなかったはず。矢面に立つ必要も合戦の準備もしていなかったのだから。

 それは胸元から外した軽甲冑のプレートだった。これを皮の紐で腕に巻き付けて盾としている。即席の合戦装備だ。

 元よりムルエルファスの攻撃に薄い甲冑程度でどうこうなるものでもない。ならば、と彼は戦術を構築した。

『クオッッッケェェェ─────ッッ!』

 ムルエルファスが吼える。放たれた目に見えぬ力の砲撃。

 フォガリは盾を正面、向かってやや斜めに角度をつけて構え、体の側面を前に、右手の剣も盾、体のラインに合わせて一直線になるよう独特な形の構えを作った。

 後方には部下の兵士、侍従たちが居る。彼もまた護られるのではなく護る立場にある者。

 長い赤毛を風圧になびかせて、腰を低く落とした。

「・・・っ、ぐっ!」

 直後、目に見えぬ巨大な力の塊が彼の体に衝突する。

 だが。

『おおっ!?』

 ムルエルファスが目を見張る。クシャタラナトも遠くで驚いている。

 耐えた。

「せっ・・・・・・えいっ!」

『なんと、耐えおるか!』

 ねじ伏せるように左腕を強引に持ちこたえさせ、不可視の砲弾は盾の角度に沿ってフォガリの斜め後方に受け流される。着弾。爆発。

 赤毛が翻る。

 ムルエルファスは勢いを止めず突貫する。

「でやあっ!」

『かあぁーっ!』

 全身を捻って遠心力も加えた白刃は地をかすめ、ムルエルファスの移動線上にぴたりと照準を合わせられていた。この速度で狙いを定めるとは並大抵の技術ではあるまい。

 完全にムルエルファスも回避不可能なタイミングだった。しかし、ならば避けなければいい。

 剛剣がムルエルファスの体に衝突すると、ガキン!と音を立てて弾かれる。金属を叩いたような音にフォガリは一瞬だけ唖然とするが、すぐに姿勢を改めるとムルエルファスの側面に移動する。

 そうそうこの聖獣に並みの攻撃が届くはずもない。体表を守る力の渦は、常に防壁としてあらゆる攻撃を無力化する。剣が弾かれたのもそのせいだった。

『ふんぬ!』

「っ!」

 ムルエルファスが飛び跳ねる。位置はフォガリの顔あたりの高さ。ざわり、と赤髪の騎士の背に寒気が走った。

 フォガリが素早くステップを踏んで姿勢を低く、ムルエルファスの背後目がけて飛び込む。直後、彼が立っていた場所から直線状に遥か彼方までの地面が抉れ飛び、土埃が巻き上がる。

『貴公、本当に人間か!?』

「でぇい!」

 フォガリの振り下ろした剣がムルエルファスの首あたりを打ち落とそうと接触するが、やはり防がれる。刃は羽毛の手前で静止し、それ以上びくとも動かない。が、フォガリは更に体を動かす。

 剣を引き、左手の盾を前へ。

 ムルエルファスがまた力の砲弾を撃ち出すが、盾をかすめたのみ。フォガリは既に体を屈ませていた。

 盾は目眩まし。剣が突き上げられる。

『効かぬわ!』

 ほとんど死角からの攻撃だったが、それでもフォガリの剣は無効化されてしまう。突きはムルエルファスの体を傷つけることなく、体表を滑らされて逸れる。

 そしてまた直後。フォガリは転がるようにその場を離脱し横に避ける。ほぼ同時にムルエルファスの力が、彼の居た場所を打ち据えた。地面が沈下しクレーターのようになる。

 距離が開いた。

『・・・・・・見事だ。人の身でよくぞそこまで練り上げた。音にも聞こえぬが、貴公、本当に一体何者だ。余の攻撃をことごとく避けるとは只者であろうはずもあるまい』

 ここまでフォガリ騎士団長が見せた反射神経、体捌きは確実に人間離れしたものだった。恐るべき手練てだれと言う他無いものだ。

「自己紹介は二度目ですが、フィルラント王国、騎士団長セイル・フォガリと申します。それ以上でもそれ以下でもありませんとも」

 そして、とフォガリは続ける。

「我が陛下も既に見破っておられたようだが、私も気づいたことがあります」

『・・・・・・なんだね?』

「貴方のお力、”溜め”がありますね?連続して放つのは弱々しいようだ。呼吸のようなものだろうか」

『ほう、なるほど、言われてみればそうだな』

「接近して私を打ち負かせるとは思わないでいただきたい」

『そのようだ』

「後ろではクシャタラナト様が待ち構えている。どうされます」

『ふふん、では、こうしようか』

 ムルエルファスが飛び上がり、フォガリと更に距離をとった。

「!」

『コココ・・・コッ、コッ・・・』

 気合充溢じゅういつ。ムルエルファスを中心に異様な圧力にも似た気配が収束していく。

 次の一撃は防げない。そうフォガリも判断できた。

 だが、ここに戦いに臨む者はまだ居る。

「今です!」

『コ・・・コ?』

 ぴゅうん、と何かが音を立てて高速で飛来した。

『うおおわぁっ!?』

 飛翔体はムルエルファスの鼻先すれすれをかすめ、そのまま飛び去る。

『なんだ!・・・矢か!?』

 再び、音。

 今度はムルエルファスはその音の正体を辿り、眼前で力を駆使して受け止めた。

『・・・これは、なんだ?』

 矢じりに穴の空いた特殊な矢だった。これが飛翔する際に音を立てていたのか。

 それにしてもどこから?

『先ほどの弓兵か。しかし、どこだ。姿も見えぬ』

 探す内に再びあの音が聞こえた。だが、今度は簡単にはいかない。

『正体が割れればこんなもの』

 次々と矢は飛んでくる。だがもはやムルエルファスはそれに頓着もしない。何本かは命中したが、そのまま失速して地に落ちていく。

 余裕を取り戻したムルエルファス。だが、フォガリは笑った。

「さて、こんなもの、ですかな。我々の弓兵は強力ですから」

『なんだと?』

 その瞬間、一本の矢がムルエルファスの目の前を通過した。眼前を一瞬とはいえ急に塞がれ、ムルエルファスはぎょっとしたように身を引く。

 今度の矢は音が無かったのだ。

 そして、またあの甲高い音が聞こえてくる。

 矢を放つ者は見つからない。

『・・・・・・まさか』

「聖獣との戦い方を心得ていないとでもお思いか。いや、真相も定かでないものだが軍の記録にはある。聖獣の王の戯れだった、と。貴方がこの国に伝えたのです」

 聖獣とて生物。本能的に危険を回避しようとする肉体の反射というものが存在するのだ。

 眼前を矢がかすめれば、自然と身は強張る。

 思い出した。

『ああ、確かにそんなことを・・・い、いや、よもや律儀に伝えているだと?三千年も昔のことだぞ』

「人口の少ないフィルラントの中にあって三千年、弓兵は主戦力ですよ。彼らの研鑽けんさんは私とて及ばない」

『くうっ、おのれっ!』

 ムルエルファスが空を蹴り、フォガリに飛びかかった。流石にこの高速の動きに対して矢を放つことはできまいと。

 弾丸のような小さな体がフォガリの構えた盾目がけて飛び込む。正面から受ければフォガリの技巧といえど、片腕を負傷するくらいは見えている。だが、それでも構えは解かない。

『コケェェ───ッ!』

 ムルエルファスの足がフォガリの盾に衝突した。フォガリが膂力を頼りに受け止め、ムルエルファスが力を頼りに押し込もうとする。

 この瞬間。

 ひゅん、と。

『くおおっ!またか!鬱陶しい!!』

 刹那の間隙を突く矢の軌道。こんな芸当、フォガリにはただ一人しか可能とする者を知らない。

「・・・ゼルガ、相変わらず見事だ」

 体が勝手にびっくりしてしまう、その反射を利用した妨害によってムルエルファスは止む無くその場を離脱した。

 フォガリの技巧は確かなものであり、加えてあの矢。まさか、人間の技術とはこれほど力頼みで突破できないものだとは思ってもみなかった。

『くうーっ!ならば、そこだ!』

 再びムルエルファスは駆けた。次に狙うのは、リィエル。彼女は今最も無防備に見える。

 フォガリは追いすがろうとしたが、ムルエルファスはやはり速すぎた。伸ばした手の先、あっという間に小さなニワトリの姿は湖まで走り去ってしまう。

「ゼルガ!」

 信頼する友は狙いを定めているはずだ。彼の弓が今は頼りだ。

 応える声は無いが、届いているはず。フォガリは油断無く後退し、再度馬車団の護衛に戻った。

 そして信頼といえば、もう一人も。

『コケッェェ────ッ!』

『届かぬ・・・王よ!』

 クシャタラナトが焦って叫ぶ先には、ふうふうと息を吐いて走り続けるリィエル。あまりにも無防備だった。

 そう、あからさまに無防備だった。

 少女が立ち止まり、振り向き、両手を揃えて突き出す。

 見えないが、ムルエルファスの力の砲撃が迫っているはず。タイミングは何度も見てそろそろ分かってきた。

 公式は既に暗唱してある。残るは起動術式のみ。

 ここだ。

「アル・イナンドゥ・”ヨーネリ”!」

 リィエルの眼前上方、空中で何かが衝突し炸裂した。それはムルエルファスの放った力の塊であり、同時にリィエルが構築した秘術の発露。

 渦だ。極小の嵐のような、高速で蠢く空気の渦が、ムルエルファスの力を受け止め攪拌かくはんしている。

『なにぃっ!?』

「・・・・・・・・・よしっ、うまくいきました」

 上手く術が起動したことを見届けると、リィエルはそっぽを向いて再び走り始めた。

 馬鹿な、とムルエルファスはおろかクシャタラナトも呟きを漏らす。

『怪猿イナンドゥの”渦”だとう!?馬鹿な、どこまで広いのだ、リィエル陛下の知識は!』

『信じられん・・・ムルエルファス王の力を真っ向から無力化しただと?』

 やがて空気の渦は消滅してしまったが、同時にムルエルファスの放った力の塊も消え失せてしまっていた。

 全ては先を読むことだとリィエルはそろそろ理解してきていた。如何なムルエルファスの強大な力とて、着実に先手を打って対処すれば防げないことはない。それを可能とするだけの知識がリィエルにはある。

 ただ、もう彼女も気づいている。ムルエルファスは明らかに手加減しているということを。

 あの、クチバシを斜めに傾ける仕草がまた行われた。

『ふ、ふふ・・・ふっはっはっは!よろしい、ならば残るは貴様だクシャタラナト!お前という一角を崩して戦況の流れを引き戻そう!』

『やってみせよ、傲慢なる覇鳥ムルエルファスよ。お前の息子はそうそう容易くは無いことを目に焼き付けておけ』

『よくぞ言った!』

 そうして再び聖獣同士の戦いが始まる。

 流石にリィエルも、この両者の争いに関わることは難しかった。なにしろ規模が桁違いすぎるのだ。

 ムルエルファスが力の塊を打ち出せば、クシャタラナトは水の塊を盾に防ぐ。防ぎきれるものではないが、威力は確かに減衰する。この隙にクシャタラナトが水圧を固めて矢と打ち出し、しかしムルエルファスはこともなげにこれをあっさり受け止める。

 じりじりとクシャタラナトが追いつめられてはいるが、今や彼の目的は残る一時間弱をどう耐えぬくかどうかにかかっている。問題は無い。それに、先程から手助けが始まっていた。

『くっそう、またか!ええい鬱陶しいことこの上ないな!』

 矢が、ムルエルファスの眼前をかすめて飛ぶのだ。あれは集中を乱されるだろうな、とクシャタラナトも感心していた。

 そもそもあの精度はどうだ。矢とはそう簡単に狙った場所に届くものではないだろうに、やすやすとムルエルファスの眼前のみを狙って飛んでくる。人間の戦法など詳しくあろうとも思わないが、神業とはああいうものを言うのではないだろうか。

『おおおおっ!』

『ぐ、くううっ!』

 クシャタラナトが吼える。ムルエルファスが呻く。

 戦況は膠着こうちゃくし始めた。




 芦毛あしげの馬がどう、と倒れる。息は荒く、全身が汗で濡れている。

 それでもシュナがたてがみを撫でて「ありがとう」と言うと、心得ていたかのように小さく嘶いた。

「杖を!」

 あれから馬を駆けさせ城に到着するまで、シュナは本当にたった半刻しか要しなかった。代償として駆った馬は疲労に倒れ、自身も必死に手綱を操り足を踏ん張っていたことで全身が強張っている。

 何事、と城内に居た者達がシュナの様子にびっくりして飛び出してくるが、シュナは目もくれず走った。

 杖は、確か宝物庫ではなくリィエルの私物室にあったはず。秘術の器具と同じ場所にレアが保管したのを自分も確認している。

「親衛隊長、どうした!?」

 宰相ハンネルだ。どうした、と聞く彼は恐らく事態の検討が付いている。でなければ冷静に歩調を合わせてくれたりはすまい。

「先ほどの爆発はなんだ。上空で何かが・・・」

「ムルエルファス様が、我々を試しておられる。陛下が陣頭に立って戦っています」

「な、何だと!?」

「クシャタラナト様も助力してくれていますが、一角馬の角を取りに戻るよう指示されました。直ちに持って引き返します!」

 衛兵の静止をも振り切るようにしたため、ハンネルがこれに構うなと声をかける。

 開け放ったリィエルの執務室。サエラが居た。

「うわ、どうしたんです!?」

「杖を!一角馬の角を!」

「!?・・・あ、は、はい!」

 シュナの必死な形相に察するところもあろう。サエラは部屋の掃除をしていたのも放り出して隣の部屋に駆け込んだ。続いてばたばたと何かを探す音。

 リィエルの持つ秘術の器具はそれなりに高価だが、壊していないだろうな。と、こんな時にも関わらずシュナはちらりと心配していた。

「急ぎ騎竜を用意させる。乗って行きたまえ」

「しかし、騎士団長の許可が・・・」

「私の権限で済む。国境への道は下り坂だ。帰りで馬はもう息が上がっただろう?」

「え、ええ」

「下りは半分も持たん。足を壊すだけだ。騎竜ならば馬よりも速いし、下り坂にも強い。乗りたまえ・・・これは命令だ」

「・・・・・・はい」

 よし、とハンネルはシュナの肩を叩くとすぐさま部屋を出て行った。

 確かに、騎竜があれば心強い。舗装された道よりも荒れた斜面や山岳地形に強いゲマトルダットなら、緩やかに傾斜する国境までの遠大な道を楽に走ってくれるだろう。

 なんとも、ハンネルの即断のありがたい事だとシュナは今更ながらに思う。

「ったた、ありましたよ!」

「急いで!」

 サエラが白い杖を持ち出してくる。まごう事無き、まさしく一角馬の角だ。

「で、何があったんです!何か事件ですね!?」

 杖を受け取り走りだしたシュナに、サエラも続く。

「リィエル様が、戦っておられる!」

「・・・・・・なんで止めないんですかッ!?」

 思わずシュナも立ち止まった。

 サエラは泣き出しそうにも怒っているようにも見える紅潮した顔でシュナを睨む。

「あんた親衛隊長でしょう!?なんでリィエル様を危ない目に合わせるんですか!」

「それは、サエラ・・・」

「リィエル様が秘術士だからですか!とっても才能のある秘術士だから、戦うのもお任せってわけですか!?」

「そんなことがあるか!」

「だったら!」

「私が命を捨てて陛下が救われるならいくらでもそうしている!だが陛下は、あの方々は!我々がどうやっても手の届かぬところに居るんだ!どうやっても!」

 シュナはサエラの襟首に掴みかかっていた。サエラもサエラで、苦しがることもなくその両腕を掴んで強く握りしめている。

「・・・・・・我々は無力だ、サエラ。無力なんだ・・・できることがあるならそれをする。それだけが、我々に許されたあの方々に届く手段でしかないんだ。私だって、剣でも弓でも陛下をお守りできるならなんだってやるさ」

「・・・・・・・・・シュナさんは、どっちも苦手ですもんね」

 シュナはこの言葉に苦笑したが、心底悔しそうな苦笑だった。

 ほとんど泣き出しそうに顔を歪め、サエラの胸元に頭をこつんと当てる。

「私は馬が得意だ。だから、リィエル様に杖を取りに戻るよう指示された。私だから出来ることだ。短時間で杖を取りに戻れるのは私だけなんだ。そう道中で何度も自分に言い聞かせた。他に何もできなくとも、せめてこれくらいはさせてくれ、サエラ」

「・・・・・・・・・」

 はあ、とサエラは息を吐いた。

 結局、自分にも出来ることが無いという事実をシュナの身に転嫁してしまっていただけだ。情けない、ともう一度息を吐く。

 シュナの両肩に手を置き、ぐいと押しやった。

「ああ、もう。泣かないでくださいよ。悪かったです、無茶言っちゃって」

「泣いてなどあるものかっ」

 顔を上げてシュナが噛み付くが、確かに涙の跡も見当たらない。

 だがサエラは、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。

「涙流すだけが泣くってことじゃないでしょうに。まあ、シュナさんが登城し始めの頃に比べたら・・・」

「うおおい!?やめろ馬鹿!」

 ぎょっとして周囲を見回すシュナ。人気の少ない通路だったため、辺りには誰も居ないようだ。

「迷子になって泣くなんてねぇ。いつリィエル様にお教えしようかしら」

「あのなぁ・・・・・・もう忘れてくれてもいいだろう?」

「嫌ですよ。死ぬまで覚えてますから」

 今度はシュナがため息を吐いた。珍しく、吐息を伴うため息。

「はぁ・・・まあいい。その代わり絶対に誰にも言うんじゃないぞ。弱みとして持たせておいてやるから」

「へへん、そりゃどうも」

「・・・もう行く。すまなかったな」

「こちらこそ。後で母さんに頼んで魚介パイを焼いてもらいますよ。帰ったら皆で食べましょうか」

「うん、是非頼む。食べたい」

 食べ物のこととなると、シュナが妙に子供っぽく言うのでサエラは思わず噴きだしてしまった。

 それじゃ行ってらっしゃい、ああ行ってくる。

 シュナは再び走り始めた。



 気象観測局は大騒ぎだった。

 局長のハッゼ・テステッタを始め、局員のほとんどが望遠球のある部屋に詰め掛けて国境の様子を見ていたのだ。おかげで部屋の床がみしみしと音を立てている始末。

「ああ、危ないっ!」

「そこだ、やっちまえ!」

「・・・あー、惜しい。もうちょっとだったのになあ」

「弓兵の人らすごいですね。全然見えないですよ」

「え?ほらあそこ、居るだろう」

「どこです」

「そこだよ。草かぶってるだろ、ありゃ見えないさ」

「・・・ああ、本当だ。凄いな本当に」

 裏技、とでも言おうか。

 望遠球を用いて市街の人々を拡大して視認することはできない、と先日の視察の日にテステッタ局長も紹介していた。だが、ちょっとした秘術の公式を加えて起動させることでご覧のとおり、非常に鮮明に遠隔地の映像を投写することは可能なのだ。

 昔、暇な気象観測官の誰かが思いつきで試したのが始まりと言われている。以来、文字通り暇つぶしに彼らは時折こうして望遠で遊んだりもするわけだ。

 とはいえ、定期的に気象情報を記録しなければならないため長時間の私的使用は記録の空白につながる。ほんの数分のみのお遊びに、こっそりやっていたことだったが、今はそれどころではなかった。

 国境付近で起こった聖獣同士の戦いと、それに参戦したリィエル・タナック・フィルラント陛下及び兵士の面々。

 局員らがこれを見過ごす手は無くこうして狭い部屋に押し寄せているわけだが、そうそう楽しんでばかり居るはずもない。そもそも楽しめるような状況でも無い。

「観測、これで間違い無いな?」

 膨大な数字の羅列に目を通すのは局長テステッタ。最初こそ彼も一緒になって観戦に興じていたが、やはり職務を忘れるわけにはいかない。

「ええ、規則通りに三度、一応もう二度ほど記録を出して照合しましたから」

「ふぅん・・・こりゃあ、どうなるかな」

 一般人が見ても何を示す数字なのかさっぱり解らないだろう。リィエルでも難しいかもしれない。

 数字は、ある特定の気象の発生を示していた。

「関連していると思うか?」

「そりゃそうでしょう。あれだけ水しぶき上がってんですから。というか、これって人為的なものですよね?」

 さて、とテステッタは呟く。

「人為的、という表現に当てはまるのかな。人じゃないんだから」

「ああ・・・ははは、そうですね」

「陛下も暗に察していたのかな。物凄いな、あのお方は」

「本当ですよ。王様じゃなかったらウチに欲しい人材でしたね」

「局にも収まるまい。そんな小さな器じゃないだろ」

 望遠球が投写する映像でも既に視認できていた。

 クシャタラナトが多量に空気中に撒きあげ、リィエルが秘術の炎で霧散させたあの連携。

 雲が、湖の直上に生まれ始めていた。

「積乱雲って秘術で作れるんですね・・・」

「いや、私らには無理だろうよ」

「はは、そうですね・・・」

 乾いた笑いは畏怖のために。

 天候を創りだすほどの秘術の使い手となれば、やはりあの女王陛下は人智を逸している。何百人もの優秀な秘術士をかき集めれば同じことができるかもしれないが、それを彼女は一人でやってのけた。

 知識、発想、才能、実力、その全てをこの気象観測局の塔から俯瞰して、一様に彼らも己の戴く国王陛下の凄みを理解せざるを得ない。

 望遠球からもはっきりと見える、巨大な聖獣の闘争。これをも支配しようとする幼い少女。

「勝てますよね?」

 局員が聞いた。

 テステッタは当然のように縦に頷いた。

「勝てないわけが無いな」

 そう言い切って望遠球を見た。映し出される小さな姿。走り続ける幼い姿。

 シュエレー神山の一件が彼らの確信を生む理由だった。信頼など当然。それ以上に、気象観測局の者達は特別、リィエルに対する信仰にも似たある種の確信がある。

 彼女なら絶対にやってくれる。




 天候の異変には既にムルエルファスも気づいていた。いや、気づくのが遅すぎたほどだ。

 もうリィエルは湖の円を回りきる頃になって、クシャタラナトとの戦闘に没頭していた小さなニワトリはやっと、周囲が影に包まれ暗くなっていることを知った。

『一体、いつの間に・・・』

 上空に浮かぶ雲は厚く、暗い。非常な量の水分が無ければあれほどの雲は生まれない。それもただの雲ではなく、垂直に高く伸び上がる巨大な積乱雲だ。あんなものをいつの間に構築したというのか。

 ハッとなってクシャタラナトを見ると、彼は薄くせせら笑ったようだった。

『まさか、お前・・・』

『人間の王にしては優秀だ。それもあの歳で。我らでもこれほどに知略を持つ者は居ない』

『いつの間に結託した!?い、いや、こんなに緊密な連携など・・・会ったのは今日が初めてなのだろう!?』

 両者とも攻撃の手は緩めていない。一撃必殺の水と力の砲撃合戦は常時続き、水流の蛇と力の奔流が絡み合って弾ける。

 矢の数に限りがあるのも当然だが、配分を考えたのだろう。あれから数十分経った今も、どこからか飛来する無音の矢がムルエルファスの眼前を横切りその集中を乱す。

 クシャタラナトはまた低く笑う。

『もはや認めざるを得ないということです。私とて愚かしくありたいとは願わない。真に知性ある者くらい、少し見れば分かる。あの王は、まったく見事と言う他ありますまい。最初から策略は始まっていたのですよ。私はそれに便乗したに過ぎませぬ』

『なんだと・・・』

 大地を粉砕する光フォロソ。そう言ったのはムルエルファスだった。だが、あまりにも昔のことでその性質を失念していたのだろう。

 大気中に放出された赤い光は熱量のような性質を持ち、消失するまでにかなりの時間、空気中の物質に触れ続けながら残留する。そして、この湖の上空において触れ続けた物質とは、ほとんどが水分。

 あの赤い光は、触れた物質を粒子状になるまで粉砕し尽くす。それは既に述べた。

 水滴は微細な水の粒子として、つまり強制的に水蒸気のサイズまで霧散し、この状態がこの一時間、休まること無く続いたことになる。

 クシャタラナトが上空に撒きあげた水はどれほどの量になるだろう。その大半が水蒸気化し、浮遊し、フォロソの光によって冷却されることもなく大気の中に漂い続けた。結果、あの雲。

 あの秘術を用いた瞬間から、リィエルの策略は始まっていたのだ。クシャタラナトが水を操り、それが空気中に撒き散らされることまでも織り込み済みで。

 クシャタラナトの伸ばした鎌首よりも高く、上空の空気を踏みしめるムルエルファスは、眼下に今も走り続ける少女の姿を見た。

 もう、湖を一周するまでに残り四分の一を切っている。数分で一周を終えるだろう。

 そして、それが終われば何が起こるのだろうか。

『ふ・・・ふははは・・・末恐ろしい。いや、驚嘆に値するのは今この瞬間もだな』

 満身創痍に追い込んだクシャタラナトも、まだ闘志を捨てていない。矢も、まだ尽きていないらしく時折思い出したように飛んでくる。

 再び馬車団を狙うのはさすがに格好が付かない。それに、これを戦争と言ったのは自分だ。主力たるリィエルをどうにかして止める必要がある。それを捨てて他を狙うのは、少なくとも自分にとって戦争とは称し難い。

『・・・・・・それより父上、何故手加減しておられるのか。少々本気を出すとは聞いたが、そこまで抑えるとは何をお考えだ』

 怪訝そうにするクシャタラナト。そう、リィエルも既に気づいていたが、ムルエルファスは確かに手加減している。それも、恐らく実力のほとんど全てを押さえ込むほどに。

 だがムルエルファスはこれを聞いてもクチバシを斜めに傾けるばかりだった。

『手加減、んん~・・・手加減なあ。そうだな、確かに加減しておるな』

『・・・・・・』

『だが、多少本気を出しているというのも本当だぞ?』

『それは知っている。我々は嘘をつけない』

『なら、それでよかろう。わざわざ頭の中をいじくって能力を封じたのだ。こうでもせねば、余も楽しめぬであろ』

『・・・!・・・そういうことか』

 そこまでするか、とクシャタラナトは暗に冷や汗をかいた。この王はやはり、その全てが荒唐無稽だ。奔放たる旧時代そのものの象徴、故にその思考までもが自由自在に過ぎて、誰にも理解が及ばない。

 思慮深く、大胆で、豪胆でもあり、無軌道、予測不能、無秩序。それでいて最後には完璧足り得る。

『・・・・・・・・・』

 急に、この場にあってクシャタラナトは自分がとても矮小わいしょうな存在に思えた。自分だけではないだろう。あの兵士たちも同じく思っているのではあるまいか。

 ムルエルファス王とリィエル女王。この二者の御前において、よもやこのクシャタラナトまでもが卑小にも見えるほどとは。

 世界の広さを思う。

 今の状況を見れば、いっそ世間は狭いとしか言えない。だが、この世とは押し並べてそんなもの。

 卵からかえって、この世に産まれて1500年。あの楽園を出奔して、この湖を得て800年。あれから長い年月が経ったと思っていたのに、父との差は全く縮まっていない。

 この八百年、自分は何をしていた。ただ立ち止まっていただけだ。この狭い湖を得て満足し、閉じ篭り、世を斜に構えることでよくもこれだけ傲慢になれたものだ。

『私は、貴方のようで在りたかったのです。父上』

『なに?』

 リィエルが走っている。王都から騎竜が来るのが見える。

『母を愛している。だが、私はこの竜の姿が嫌いだった。父上と同じ鶏の姿が欲しかった。この世で最も尊敬に値するお方と同じ姿で在りたかったのです。得られないと知り、私はあなたの居られる場所がひどく遠いものに思えた。傍らに侍らされても、その距離は無限だった』

『ふむ・・・・・・』

『せめて私は私だと確認したくなった。だから国を出た。ただ、自分は王とは違うと拗ねることで自分というものを確立させておきたかった。そうでもせねば、私には存在価値など無かったのです』

 滔々《とうとう》と語るクシャタラナト。

 ぽつり、と雨粒が落ち始める。

『そんなに良いものでもないのだがな、この体は』

『些細なものだ。その姿に与えられた威厳こそを模倣したかった』

『余はこの姿に威厳を携えたことなど無いぞ』

『私には見えていた』

『・・・・・・・・・』

 ムルエルファスは右の翼の付け根をつついて、しばらく口をつぐんだ。

 そうして、クチバシを斜めに向ける。

『余が、余であるという意志を携えたのはこの魂に、だ。お前に見えていたのはそれだ。そして、それが見えていたのならばいずれ理解できる。お前も余の何たるかを知り得るだろうよ。流石は我が息子だ』

 雨が、音を立ててクシャタラナトの体を打つ。

 水滴に濡れて、水竜の姿は煌めいていた。

『・・・・・・光栄です』

『よし。それでよい。さあ、かかってこい』

 クシャタラナトの巨体がするりと宙に浮いた。

 彼は水に親しむ聖獣。ならば、今この水滴に満ち満ちた雨空は彼の親しむ領域に他ならない。

 うっすらと茜が差し込み始めた空、リィエルが創りだした雲の下、水竜は空を泳いだ。



 一時間と、わずかに数分。

 大会でも開いて競技とすれば、この記録が塗り替えられることなく面白くもないものになってしまうだろう。

「陛下ぁーっ!!」

 叫ぶ声に兵士たち、侍従たちも振り向いた。レアが安堵に表情を緩ませ、フォガリが感動のあまり拍手している。

 恐るべき早さだ。まさか本当に一時間ほどで戻るとは。

 白い杖を持ち騎竜に跨り懸命に手綱をさばく、シュナ・ミュテス・ルゼ親衛隊長。彼女はまさに宣告に違わず舞い戻った。

 目の前に広がるのは、あのシュエレー神山の奇跡を思い出す光景。聖獣の王と水竜が降り注ぐ雨の中、熾烈を極める戦闘を繰り広げている。そしてその下に、リィエルは湖の周囲を走り終えようと息を荒げ、懸命に体に鞭打って足を動かしていた。

 手綱を引いて騎竜を操り、道を逸れて草原へと踏み出させる。聞こえてくる轟音に多少の怖気を持つ気配を察するが、騎竜はそれでもシュナの手綱に応えて走ってくれる。

「陛下!」

「シュナさん!」

 ぱっと明るい表情を見せてくれるリィエルに、シュナは湧き上がる衝動を抑えきれそうになかった。役に立てることが嬉しい。

 速度をほとんど緩めず、器用に体を鞍の上から乗り出す。危ない、とリィエルが軽く悲鳴を上げているが、気にしない。こんなもの、自分には慣れた芸当だ。

 ぱしんと騎竜の背を叩くと、応えて彼は湖への直進からその脇へ、上手く離脱できるように向きを変えた。そのタイミングを測ってシュナは体を宙に躍らせる。

「ふっ!」

 息を吐いて体を弾ませ、騎竜の走る脚をわずかに蹴る。その反動を利用してシュナは華麗にジャンプし、見事にリィエルの目の前に着地した。

「あ、危ないですよ!?」

「得意技ですので。それより、これを」

 事もなげに言うので、リィエルは驚いてシュナの顔をまじまじと見つめた。ここまで馬術が上手いとは。

「は、はい。ありがとう、シュナさん。急いでくれて本当にありがとう」

「陛下のためならば」

 リィエルが潤んだ目で満面の笑みを見せてくれた。そして、思いがけないことにそのままシュナに抱きついてきた。

「・・・ありがとう。頑張ってくださって、本当に感謝しています」

 馬に乗るのは体力を使う。騎竜も同じだ。馬も騎竜も疲労するが、乗り手も比例して体に負担をかける。

 手綱を握り続けた両手は手袋が擦り切れて皮が破れ、血豆も潰れ、赤黒く染まっていた。リィエルに渡された杖だけは布で包んでいたため、純白の表面を保っている。汗で額に張り付いた髪は乾いてしまい、ごわごわになってしまっている。

 疲れていた。だが、充足感があった。

 こらえ切れず、なんとか頑張って、一粒だけに抑えた。

「・・・・・・・・・そのお言葉だけで、私は全てが報われます」

 きらりと光って落ちた水滴にリィエルが顔を上げると、シュナはもういつもの勇ましくも堅苦しい表情だった。

「シュナさん・・・・・・それじゃあ、シュナさん」

「はい。心得ております」

 リィエルはこれから大規模な術を使うつもりだろう。シュナが近くに居ては巻き込まれてしまい、迷惑をかける。逃げていてください、とは言わせたくなかった。先に言葉を乗せて、シュナはリィエルを残して足を引いた。

「お助けできることがあればなんなりとお申し付けを。そして、ご武運を」

「・・・・・・ありがとうございます、シュナさん」

 もう、気遣いは自分たちの日常だ。今更だった。だから言葉は少なめでもいい。

 シュナは一礼し、踵を返すと走った。後方、馬車のある辺りまで。騎竜も察したか、着いて来るように並走している。

 遠くで何かが動いたのが見えて少し振り返ると、恐らくあれは弓兵だろうか。草でマントを装飾し草原に擬態した何人かの人影が、湖から距離をとるようにゆっくりと動いている。

 あとはリィエルに。

 そもそも相手が王のただ一羽だけであれば、その相手が務まるのは同じく王のみでしかない。

 国民の誰もが介在せず、王と王の勝負が望まれた場だ。

 元より、家臣が出しゃばるのは無粋。それをあのニワトリは構うものかと豪快に受け入れてみせた。

 ならば見よ。ここからが我らの王の真骨頂である。


「エールテ・シュラハ イルア・コール・アンカトゥー・エネ・アル・ハイク!」

 第八の星より円環巡りて第一の星へ導け。


 全ての光点はつながった。それらは線となり、四つの大光点と四つの小光点を通る円となった。

 最初に踏んだ光り輝く基点に立ち、リィエルは目を閉じる。

 謳うように。

 一角馬の角を両手で握り、祈るように。

「アンク・エネ・イラ・エールテ キルシュ・ヨフ・イラ・エールテ ハーツ・ゴーニ・イラ・エールテ フッウィルミ・リル・イラ・エールテ」

 火は一に。水は三に。石は五に。風は七に。

「フォロソ・ゼノ・アル・キルグーン ギリアナァタ・ケノ・アル・ハザッハ アクテルオル・ニコ・アル・ニキム ヨーネリ・シュラハ・アル・リールキリー」

 第二にフォロソの憤怒を。第四にギリアナァタの冷徹を。第六にアクテルオルの狡知を。第八にヨーネリの放埒を。

「ゼ・イルア・ノーフィム アル・カーハ・アル・コルン」

 糾合せしめん。我とならしめん。

「コール・ウィル・アンカトータ・イラ・ヴァリハ・ケノ・ロンファーナ」

 四つの明星は輝きて。

「コール・ウィル・ネーゲン・アル・シェリハ・ケノ・ロンフォーン」 

 四つの暗星は抱きて。

「アルカーナヴァ ゼ・イルア・アル・ミステル・ハイク」

 空よ、導き給え。

「ウィルト ゼ・イルア・アル・ミステル・ハイク」

 土よ、導き給え。

「エンデリオ イラ・ケールハウナ・ゼ・アル・ハイク・オルゴン」

 わたしというそんざいをしるべとみなして。


 すう、とリィエルは息を吸った。


「アル・クシャタラナト・ムルエルファス」

 断固たる決意の下にこの力を振り下ろさん。

「”エクセヴァ”」

 其は”万象の詩篇”なりや。



 光り輝く八つの星に導かれた円環は、湖を明るく照らし上げる。

 その円の内側、湖の水面から上空の雲のあたりまで、茫洋とした光の粒子が瞬時に満ち溢れ、秘術の公式によって切り取られた特殊な空間を形成した。そこにムルエルファスとクシャタラナトをも包みこんで。

 リィエルが一歩、湖へ踏み出す。と、その前に彼女は「よいしょ」と言って靴を脱いだ。

 裸足でもう一歩。ぬかるんだ湖の岸を、その中心を目指して歩く。

 皆がその姿を目で追った。

『では、いきますよ。覚悟してくださいね、ムルエルファス様』

『────────!?』

 響く、声。

 大気に響く声。

 ムルエルファスのように。

 クシャタラナトのように。

 アールカインのように。

 聖獣のように!

『てやっ!』

 リィエルが杖を振るった。目で狙う場所は上空、ムルエルファスの小さな姿。

 気の抜ける掛け声に、しかしムルエルファスはこれまで一度も見られなかった必死の様子で素早く空中を走った。


 轟ッ!


 空間を駆け抜ける不可視の砲弾。

 眼に見えない力の奔流。

 力そのものの発露。

 それは。

『な・・・・・・なんだとおッ!?』

 それは、聖獣の王ムルエルファスの能力そのものではないか。

 眼下を見れば、リィエルはまだ歩いていた。

 水面を歩いていた。人間が、身長よりも遥かに深い湖の、その水面を、ごく自然に。

『ば・・・かな・・・馬鹿な、なんだと・・・ええ?いや・・・えええ!?』

『・・・・・・・・・・・・』

 クシャタラナトなど人間のように口をぽかんと大きく開けて唖然としていた。

 水面に波紋が広がる。降り続ける雨とは違う、一際大きな波紋がリィエルを中心に広がる。

『もう一度いきますよー。せぇー、のっ!』

 声に合わせて元気よくグーを突き上げ

『うわあああああああああああああっ!』

『危ない!危ないぞ!』

 加減を知らないらしい。放たれた不可視の力の砲撃は凄まじい太さと勢いを伴ってムルエルファスを吹き飛ばそうとした。だが、そこはさしものムルエルファスである。なんとか急降下して回避に成功している。

 そしてクシャタラナトだが、突然のことに驚く彼は何の影響も与えられなかった。そよ風が、鱗を優しく乾かす。

『・・・・・・えっ?』

『げえぇっ!信じられん、こうも容易く模倣するか、リィエル陛下!』

 水面、眼前にて両の王は対峙する。

 驚愕の事態にムルエルファスですら心の底から動揺させられたが、ここにきてやっとリィエルが彼の舞台に上がった。

 本番はここからなのだ。

『アル・ベルテル・エイン・イラ!』

 両手を仰ぐようにかざして公式を紡ぐ。

 今日、二度目となる術だ。ムルエルファスはあの出来事を知るまい。

『コ、コココッコ、コケェェェェェッ!』

 既にムルエルファスの両眼は戦いに臨む獣のそれだった。全身全霊の喜びを込めて。

 今や目の前に居るのは少々秘術の得意な少女ではない。

 このムルエルファスにも匹敵する、恐るべき存在だ。故に、故に。

 水面を迸る力の塊は、大きさこそまさに大砲の砲弾ほど。だが密度はこれまでの比ではない。まさしく砲撃となって、リィエルめがけて撃ち放たれた。ほんの少しでも人間の体をかすめただけでも木っ端微塵にしてしまう威力である。

 だがリィエルは避けようともせず、掲げた両手の内右手を目の前に突き出した。

『やあ!』

 水面が真っ二つに割れた。

 力の塊に対し、真っ向から同じ規模の塊をぶつけたのだ。巨大な爆発が起こるが、力のベクトルに従い衝撃は直交するラインに。

 そしてムルエルファスが気づく。

『むぅ!?』

 雨粒が全て空中に静止している。

 これは一体、と呟く間にリィエルの口が開いた。

『オルート!』

 左手を振り下ろした。

 途端、堰き止められた全ての雨粒の時間が流れ始める。静止していた時間はおよそ十秒。

 物体の持つ運動の時間を堰き止める術は、解放した際にある効果を生む。それは、例えばこの雨粒などは顕著だが、空気抵抗なので抑えられる速度を無視して内部では運動量が蓄積され続けるということだ。

 雨粒は鉄板をも穿つ凶器と変貌した。

『くっ、ぅぅぅううううおおおおおおおッ!───クォッケェェーッ!』

 ズガガガガ!と異様な音を鳴り響かせて雨は降り注ぎ、ムルエルファスの体を叩いた。だが力の壁に護られた彼には傷ひとつ付かない。

 気合の咆哮と共にムルエルファスは能力によって雨粒を一挙に迎え撃ち、大規模な力の爆発によって全て吹き飛ばす。そして、そのまま水面を力強く蹴った。

 リィエルに対して接近戦は挑まなかった。それは彼女の性質を考えれば当然だった。剣の持ち方も知らぬ少女を研ぎ澄まされた大剣で斬りつけるような行為は本意では無い。だが、今のリィエルはこれまでとは違う。

 リィエルはキッと闘志をあらわに身構えた。

 拳の扱い方など知らない。剣の扱いなど知るはずがない。弓も、どんな武器でも。

 薪を割る手斧すら満足に扱えなかったのだから。

 だからただ、力任せに。

『よいしょっ!』

『コケッ!?』

 振り上げた白い杖。非力にしか見えない動作で杖の一端を持ち、見よう見まねで後ろに構える。フォガリの振った剣。背後から地を這って振り上げるあの動作。ただしどこまでも素人の動きで。

 だがムルエルファスは本能的に、何か得体の知れない恐怖を覚えた。とはいえ一度走り始めた以上、せめて一撃、試してみたい。

 その超音速の疾走の中でムルエルファスは動物の範疇を軽く凌駕する動体視力と反射神経でもう一度よく見た。

 白い杖。

 あれは。

『一角馬ラムシルトの幼角ッ!あんなものを!?』

 国宝として伝わる一角馬の角。その元々の持ち主は、隣国トルパトルだったと記録にある。建国に際して助力を惜しまなかったフィルラントへの感謝の印として、トルパトルの守護聖獣ラムシルトの申し出で彼の角を受領した。

 一角馬、つまり角のある馬だが、希少動物である彼らは子供から大人になる時期に角が生え変わる。これを幼角と呼び、特に秘術士によって珍重される道具となる。つまり、持つ者の霊力を幾重にも増幅するものとして。

 その一角馬の中でも聖獣として生まれついた者の角だ。世界でも類を見ない貴重品である。効力のほどは、リィエルが先の事件において示した。

(いかん、力を減衰している今あんなものを受けられん!)

 本気の焦りを覚えて、だがムルエルファスは気付いていなかっただろう。いや、周りから見てもわかるはずもあるまい。人間であればそこに、知らずに浮かんでいたであろう。深い歓喜、戦いへの充足、狂喜が。

 その深層心理によるものか、次の瞬間ムルエルファスは全力で水面を蹴り、跳躍した。狙う先にリィエルの胴体。

 既にリィエルは杖を振り上げる動作に入っている。

 見えなくとも感じられた。あの杖が纏う、リィエルの巨大な霊力。

 その霊力が、この秘術の力場を介してリィエルの貧弱な腕力を杖に伝達している。何倍にも、何十倍にも、いや。

 何万倍にも。

『へやあっ』

『コッ、コケェ────ッ!!』


『オルートっ!』


 すとん、と。

 ムルエルファスの視界が急に青く歪んだ。同時に軽い衝撃。

 体の動きが鈍る。

 水球だ。


『だからいつの間に連携しとるんだ貴様らァァッ!?』


 ムルエルファスの体は水球に包まれていた。それは、クシャタラナトの作り出した水球に他ならない。

 だがムルエルファスの速度を捉えるのは至難の業だった。そこへあの秘術。

 リィエルの考えを察して、クシャタラナトは彼女の身長ほどの大きさの水球を作った。密度は低い。弾くのではなく、捕らえるためのものだからだ。水球の檻、作るだけなら容易いものを。

 アル・ベルテル・エイン・イラ。物体の運動を引き止めて静止させる秘術。その効力は、術者の認識の及ぶ場所に。

 つまりこの秘術の力場全てに。

 そして、静止させられる物体やその解除のタイミングまでもリィエルは自在に変動できた。

 水球はクシャタラナトの居る上空からほとんど一瞬で着弾した。一秒もかからなかっただろう。

 父を知るクシャタラナトだから、その移動する先を読みきった。

 リィエルの秘術に感動したからこそ、その眼前に狙いを定めた。

『八百年。僅かだがやっと、届いた』

 リィエルの振り上げる白い杖が水球ごとムルエルファスの体を強打した。


 水球がぜる。

 この水の檻があったのは幸か不幸か。ムルエルファスは吹っ飛ばされた瞬間、その一秒の十分の一にも満たない時間、ただその刹那の間に自分の置かれた状況を全て把握していた。

 ぎりぎりで、本当にぎりぎりで防御は間に合っていたのだ。そして、この水の檻があればこそ、リィエルの一撃は水圧の抵抗を受けて減衰してしまっていた。

『コケェェェ────ッッッ!』

 力の砲弾を放つ。これまでのものと比べると小さな砲弾。

 だが今度こそリィエルは無防備に陥っていた。

 この小さな砲撃でも、人間の体が耐えられるような威力ではない。


「あっ」


 そして、一瞬が過ぎる。



 絶望的なまでに長い一瞬だった。

 リィエルの体が軽々と宙を舞い、同様にムルエルファスの小さな体も放り上げられる。

 シュナも、レアも、フォガリも、ゼルガも、クシャタラナトも、大勢の侍従、大勢の兵士たちも、皆我が目を疑い息を呑んだ。

 まず、ムルエルファスが空中に足を着いて静止した。

 聖獣の王は健在。外傷すら無い。

 あれほど肉薄していようと、やはり地上最強の聖獣の呼び名に違わぬ実力であった。

 そしてリィエルは、


『王っ!』


 リィエルは。


『アル・エクセヴァ・ウィルヒムト!』


 健在。


 リィエルの姿もまた空中に静止した。だがそれはムルエルファスのようではなく、何か別の外力が働いたようにふわりと、落下速度を弱めて浮遊するように見えた。

 まるで、巨大な誰かが片手で彼女の体をすくい上げたような挙動にしか見えなかった。

 直後、空中に静止していたはずのムルエルファスの姿が消える。

 同時、聖獣の王はリィエルへの突貫を敢行していた。

 だが、少女の眼前でニワトリの姿が耳をつんざく轟音と共に停止する。

 刹那、ムルエルファスは驚きと共に瞬くがすぐにもう一度空中を蹴る。

 眼前、またあの矢が飛来してムルエルファスは一瞬の動揺と行動の停止を余儀なくされた。

 そしてリィエルが叫ぶ。

『クシャタラナト様!』

『わかっている!』

 膨大な数の水滴が、水流が、水球が空を切ってムルエルファスへと殺到した。その数は既にクシャタラナトも体力の温存など一切捨てた決意すらを示す、余りにも莫大な量である。聖獣とて能力を使うには体力をすり減らすのだ。

 水はムルエルファスを乱打したが、このニワトリの姿をした聖獣の王は不動。空中に座して耐えるのみとはいえ、攻撃が通っているようには見えない。それどころか、クチバシを斜めに傾けてリィエルをまっすぐ睨み据えていた。

 その姿もすぐに水圧の壁の向こうに消える。

 常温の氷。水圧によって生まれる超自然の現象。

 だが、本当にムルエルファスもぎりぎりの状況であったことをリィエルも知っていた。

 故に、杖を強く握り締め、勇ましく笑んでみせる。


『アル・”クシャタラナト”!!』


 断固たる決意の下に。

 これまでのどれよりも巨大な轟音が鳴り響き、目に見えぬ鉄槌が水の塊ごと聖獣の王の体を粉砕せんと恐るべき破壊力を伴って叩きつけた。その余波によって生まれた風圧で湖が大きく波立ち、草原の地表が剥ぎ取られて吹き飛び、付近にいた弓兵たちがこらえ切れず転倒し、馬車の列では家臣の者達が呆然とその光景を見るしかなく。

 やがて、全てがおさまって。

 雨の上がった空の下、クシャタラナトはゆっくりと下降して着水した。そして小さな異変に気づく。

『・・・・・・湖の幅が広くなっているな』

 気絶して湖面に浮かぶ我が父を呆れたように見やりながら、長い溜息を吐いた。




 夕暮れの少し前。

 空は茜というより黄色く見える時刻。

 ムルエルファスとの戦いが終わって、リィエル始め一同は馬車団の所で休息をとっていた。

「起きません・・・」

「大丈夫でしょう。息もあります」

 リィエルの腕の中にはムルエルファスが。気絶したようで、あれから声をかけても一向に目を覚ましてくれないでいた。

 そうこうして困っていると、一羽の小鳥がどこからか飛んできて、リィエルの肩に留まった。見たことのない可愛らしい小鳥だ。やけに人馴れしているのか、肩から離れようともしない。

 さすがにその小鳥が朗々と響く声で話し始めるとは思わなかったが。

『してやられましたな、ムルエルファス王』

「カインさん!・・・なのです?」

『うむ。眷属を越しての挨拶にて失礼する』

 当のムルエルファスはこの声に対し、五月蝿そうに呻きながら目を覚ました。

 リィエルはずぶ濡れの体をレアに拭いてもらっていたが、そのためかムルエルファスの体も同じくずぶ濡れだった。

『・・・・・・旧き友アールカイン。ああ、余は負けたか?』

『それはもう、見事に』

『ふ、ふははっはは・・・あー、痛い』

「だ、大丈夫ですか?」

 リィエルの腕の中でむっくりとムルエルファスは起き上がった。が、見たところ外傷は無いようだ。あれほど強烈な一撃を浴びたというのに。

『羽が抜けてしまった。どこかその辺りに落ちてないかね?』

「えっ?あの・・・」

 何を言っているのか。リィエルはきょとんとして聞き返すが、ムルエルファスはクチバシでごそごそと自分の翼をいじくっていた。

『ひぃ、ふぅ・・・おおう、三本も抜けたぞ!』

 驚いて声を上げるムルエルファス。人間たちはこの言葉に対し一様に「はぁ?」と間の抜けた表情を浮かべた。

『なんですと、三本?三本と仰ったか、ムルエルファス王』

『ああ三本だ。三本も抜けておる。凄いな、こんなに羽が抜けたのは初めてだ』

『ならば間違いなくエリーの勝ちでしょう』

『うむ、そうだな。余の負けだ』

 どうやら真面目に言っているらしい。

「ええー・・・・・・」

 ひどく釈然としないものを感じてリィエルは少々むくれて、その場にぺたんと座り込んでしまった。

 あれだけ頑張ったのに、戦果が羽三本を抜いただけとは。

「ああ、御髪についていましたよ。はい、陛下」

「はぁ、ありがとうですレアさん」

 手渡されたのは、確かにムルエルファスのものと思われる黒と赤の綺麗な羽だった。たった一本、リィエルの髪に引っ掛かっていたのだろう。手に持ってしげしげと眺めてみたが、抜けた付け根部分にも血の一滴すら見当たらない。本当に綺麗に抜け落ちたらしい。

 さすがに、リィエルも大きくため息をついた。

 湖を見ると、クシャタラナトがなにやら落ち着かなさげにこちらを眺めている。そろそろもう一度話をしに行ったほうがいいのだろうが、まだレアが体を拭くのを止めてくれない。

 そういえば、とリィエルは自分の格好を見た。

「あの、ごめんなさいレアさん」

「はい?」

「こ、コートが・・・」

 ああ、とレアは微笑んだ。そしてまた乾いた布を手にとってリィエルの髪や肌を丁寧に拭く。

 コートはずぶ濡れな上に泥まみれで、草などもあちこちに引っ付いて大惨事になってしまっていた。

 どうしよう、どうしよう、とリィエルはおろおろとレアを上目遣いに見る。が、レアはすまし顔であった。

「服は、肌が傷ついたり汚れたりするのを防ぐためにあるものですよ」

「でも・・・」

「それにほら、高価なだけはあるようです。どこも破れていませんね」

「そうですけど・・・」

 この二人の会話に呆れたような声を出したのは、二羽の聖獣。

『衣服の心配とは・・・御身はご無事のようだが、このムルエルファスが傷一つ与えられぬとはのう』

『大したものだ、エリー。友として鼻が高い』

 アールカインの鼻が高かったかどうか、リィエルは少し思い出そうとしたが、それが単なる言い回しの冗談だと気付いてくすりと笑った。言葉遊びであれば、嘘では無い。聖獣とて言葉で戯れることもあると、リィエルはこの稀有な友との思い出の中に知っていた。

 そうしてしばらくして、やっとレアが体を拭くのを止めてくれた。肌着まで脱がせられそうになり、慌ててこれだけは譲らなかった。子供とはいえ恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。

 フォガリ騎士団長、シュナ親衛隊長がしっかりと護衛し、遠くにはゼルガ・ハバトも居る。その状況でムルエルファスは心なしか息苦しそうにしながら、そしてリィエルの肩に止まったアールカインの眷属とやらが小気味よさげにしながら皆で歩く。

 湖の前に再び勢揃いすると、クシャタラナトは静かに一礼をしてみせた。頭をゆっくりと下げて、確かにあれは礼だ。

『父上、お怪我は』

『うむ、羽が三本抜けたぞ』

『な・・・三本!?そんなまさか・・・』

 どこが凄いのかさっぱりわからず、人間一同は反応に困るばかり。口、もといクチバシを開いて補足してくれたのはアールカインだった。

『何を我らが驚くのか、分からないといった顔だな』

「え、あの・・・はい」

『ふふ・・・ムルエルファス王、あれからは?』

『無かった。実に六千年ぶりになるぞ』

 リィエルの肩に乗った小鳥は低く響く声で、ふふん、と笑った。

『というわけだ』

「はぁ・・・え?どういうわけなのでしょう」

『つまり、この六千年、どれだけこの不遜な王が手加減していても、その羽一本を抜き取ることすら誰にもできなかったというわけだ。負傷などもってのほかである。そもそも、多少の傷は自ら治癒してしまうことでもあるしな』

『待て、一言多いぞアールカイン』

『何がです、ムルエルファス王』

『・・・・・・・・・うん』

 そもそもこの二羽の聖獣、やたらと親しげだ。と、リィエルは思い出すこともあった。

 あれはアールカインに会いに行って、直接聞いた話だったはずではないか。そう、『聖獣の王と、このアールカインはエリーが生まれるずっと昔からの友だ。いずれ会えるとよいものだな』と。あの西の国境で、幼い日々に。

『それで、ムルエルファス王。皆に申し開くことがおありでしょう』

『む・・・うむ、そうだな』

 アールカインの言葉にムルエルファスは神妙な態度になる。ひょい、とリィエルの手の中から降りて、皆の前に見える場所まで歩き、立ち止まった。そしてそのまま座り込む。

『すまなかった。随分怖がらせてしまっただろうか』

 本心から言っているのは知っているが、思わずリィエルすらも軽く怒気を含んだ引きつった笑いを浮かべていた。

「その・・・ムルエルファス様、それは本当に偽り無いお言葉ですね?」

『そうだが。本当にすまんと思っておるよ』

 フォガリの言葉にも真摯に答えるムルエルファス。

 だが、どうにもこのニワトリの王、態度というか何か、どこかおどけたような、軽い雰囲気を覚える。

 大きなため息の音は上から聞こえた。

『こういう者なのだ、ムルエルファス王とは。私が最初嫌がっていた理由が理解できたか』

 ただアールカインのみが低い声で愉快そうに笑ったが、リィエルも他の皆も、笑ったものかどう答えたものか。理解できた、と言うわけにもいくまい。

『力の扱い方は、どうやって把握したのかね?あの瞬間の一撃は勝ったと思ったのだがなぁ』

「ええと、相打ちになった時のことですか?」

『うん、それだな』

 ほんのりと悔しそうなムルエルファスだったが、本当にあれで勝ちを貰ってもよかったのだろうか。

 首を傾げるのはムルエルファスだけでなく、リィエルもだった。

「えっと、あの秘術は湖全体を覆っていたのです」

『うん、それで?』

「それで、ムルエルファス様のものと同じ力を再現したのです」

『ふむふむ』

「だから、あの光ってた全体がわたしの感覚の延長線の範囲内にあった、というわけです」

『・・・・・・ふむ。うん、そうか。うん・・・それは凄いな』

 要するに、あの光に満ちた領域内全てがリィエルの五感の延長の範囲内であったということになる。それ故、その内部で起こる全ての事象はまるで皮膚で触れて理解するように容易く把握できたのだろう。例えば、ムルエルファスの体を覆う力の渦はどうやって作られているのか、など。

 ムルエルファスは当然、同じようなことはできる。だがそれを、こうも容易く模倣されてしまうとは。

『凄いな・・・・・・・・・・本当に凄いな・・・』

『さしものムルエルファス王も自信を砕かれて落ち込むか。流石はエリーだ』

「えへへ・・・・・・?」

 褒められているポイントが今ひとつ掴めていないのは本人だけ。どれだけそら恐ろしいことをこの少女がやってのけたのかは、周りで見ていた全ての者がよく理解できている。

 ちゃぷん、と湖に波が立つ。

『それで、結局何をなさりたかったのか。ムルエルファス王』

 傷だらけのクシャタラナトがため息混じりの声を出す。この水竜、エラ呼吸のように見えるのだが、竜ともなれば普通の生物と一概に同じとは言えないのだろうか。

 息子の呆れ声に、ムルエルファスは首を傾げた。

『ん・・・わからなかったか?』

「ええと、わたしに戦争を教えてくれた・・・」

『それと私を叱りに来た、か?後は、何です。ただ戦ってみたかった、久しぶりに訪れたフィルラントで羽目を外したくなった、それから?』

『よく見ておるなぁ』

 息子ですからな、という上からの声に、ムルエルファスはやれやれと呟いて首を縮めた。

 聖獣の王の主張は、どうにも全てが薄いようだとは皆も感じていた。建前を積み重ねて理由とし、それを押し通してこのお遊びとも言える戦いを起こした、そんな雰囲気はずっとあった。

 フィルラント王国の面々からすれば、聖獣の戦いの規模は冗談でもお遊びと済ませられるものではないが。

 そもそも嘘を言わぬ聖獣が言ったあの言葉の数々。リィエルが勝利していなければ、本当にムルエルファスはこの国を粉砕する腹積もりがあったのは間違いないのだ。

 ムルエルファスは、また翼の付け根をクチバシで何度かつついた。そうしてから首をキョトキョトと傾げ、また翼の付け根をつつく。

『リィエル陛下は実に、お強かったな。息子の成長も見られた。この国の人々は真面目で、王をよく助けているようだ。今は少々問題も抱えているようだが、なに、すぐによくなる。怠らぬことが肝要だ』

「・・・・・・?」

『何の話です』

 また翼の付け根をつつき、クチバシを斜めに傾けた。

 アールカインが優しげな鳴き声を小鳥の喉で鳴らしている。あれも、笑った声か。

『まずは、先にそちらの問題を片付けよう。クシャタラナト、よいか』

『は・・・何がですか、だから』

『リィエル陛下』

 心得てリィエルは頷いた。ムルエルファスに促されるように隣に立ち、湖の主を見る。

 クシャタラナトも理解したようだった。もたげていた鎌首を下げて、リィエルの目線に合わせる。

 恐ろしげな、頼もしい水竜の顔が間近にある。

「フィルラント国王、リィエル・タナック・フィルラントからお願いがあります」

『・・・・・・うむ』

「先日のシュエレー神山の崩落によって、この国の農地は壊滅的な被害を受けました。これを早急に復旧し、春の農作に間に合わせなければ、今年はまだ耐えられても来年からの食べる物が無くなってしまいます。そのため、必要な工事があります」

『うむ、続けろ』

「土砂の除去と灌漑かんがいを行うため、水路を作りたいと考えております。そのためには、川の上流にて工事を行う必要があります。土砂が発生して湖に流れこむことにもなるでしょう。けれど、どうしても必要なことなのです。ですから、どうか工事の許しをいただけないでしょうか。湖が汚されるのを厭うお気持ちは理解しています。けれど、そこをなんとか」

『・・・・・・・・・』

 自分の小さな領土、この湖に暮らして八百年。澄み渡る青い水だけが彼にとって最上の環境なのだ。故に、魚や虫を湖底に追いやり、他の生物が住み難いほどに澄んだ水を作った。

 水を通して感じる。湖底には、先程の戦闘に驚いて怯える魚が数十匹、うろうろと泳いでいる。どれだけ追いだしても川から流れて来て住み着いてしまうのだ。それに、湖底の暗くて土の匂いのする部分は好かないので敢えてそのままにしてある。関心は無い、はずだ。

 土砂が流れ込めばどうなるだろう。薄い泥水なら大丈夫だろうか。岩が転がってくるのだけは駄目だ。

『・・・・・・この湖から海までの間に、まだ距離はある』

「・・・はい?」

『枝流をそこに作れ。溜池を作り、この湖に住む私以外の魚と虫たちにはその池に移るように言おう。その後でならば、工事をしてもよい』

「あ・・・」

 どれだけ追い出しても住み着いて、魚たちはこう言うのだ。「わたしたちのおうさま、いつもみまもってくださって、ありがとう」と。人間には聞こえぬ、自分だから聞き取れる微かな言葉で。

 小さな脳みそしか持たず言葉もたどたどしい生き物が何を言うのだとそっぽを向いてきた。その度に彼らは困ったように、またうろうろと泳ぐ。それで、どうにも苛立って追い出しても、また別の魚が住み着いて同じことを言う。

 八百年、それが続いた。

 今さら無碍むげにできるものか。

「・・・・・・必ず、そうします。ありがとうございます、クシャタラナト様」

『・・・・・・ふん』

 クシャタラナトは照れたのだろうか。それからむっつりと黙りこんで、湖の上で眼を閉じてそっぽを向いてしまった。

 理由あっての拒絶だったのだ。それがやっと分かって、リィエルは嬉しくて微笑んだ。

 うんうん、とムルエルファスは頷いている。

『良き哉、他者が解り合う瞬間というものは、実にのう』

 やはり面白がっているだけだろうか。クシャタラナトが非常に嫌そうな顔つきをしてフンと鼻を鳴らしていた。

 だが当のムルエルファスは至って大真面目、に見える態度である。恭しく畏まってリィエルの前に移動し、また座る。

『最後の要件である。聞いていただきたい、フィルラント国王陛下』

「は・・・はい」

 自分もその場に座ろうかと思ったが、地面はかなり濡れている。土に汚れることは自分は構わないのだが、服を汚すとレアに申し訳ないだろうかと彼女の方を見てみた。

 すると、いつの間にか近くにいたゼルガ・ハバトが黙って何かを差し出した。大きな布地のようだ。

 心得たレアがこの布地を受け取って礼を言い、リィエルの足下に敷いた。それは、ゼルガのマントだった。

 リィエルも丁寧にお礼をしてそこに座り、改めてムルエルファスへ向いた。

『・・・八千年、余の国は平和だった。今もその平和は続いておる。あの極北の土地、極寒の山々に囲まれた幻想の土地に。余を加えて十五の聖獣と、大勢の動物たちと共に』

「・・・・・・ふぁ」

 途方も無い。やはり八千年という年月は想像し難い。

『だが、それは獣の国だ。発展性など要らないが、同時に柔軟性にも欠く。余の国は完成されているとは思うが、固いのだ。そう、つまり、面白みが少ない。退屈なのだよ。春に生まれた赤子らを愛でるのが最大の娯楽なぐらいだ。その平和な退屈の中を八千年、まどろむように皆と共に生きてきた。が、そろそろ限界らしい』

「・・・どういうことです?」

 クシャタラナト、アールカインも不審そうにしていた。

『何かあったのか、ムルエルファス王』

『父上・・・?』

『・・・・・・・・・教えておこう。余は、三年に三日という非常に短い周期で休眠するのだが』

「えっ」

 何を言うのだ、と二頭の聖獣が気色ばんだ。

 聖獣にとって、休眠期の長さなどを明かすのは自殺行為に等しいのだ。

『まあ聞け。その短い周期、休眠期のために、余はこのような性格を形成するに至ったわけだな。だが、他は違う。大抵の聖獣は数百年だとか、千年単位の年月につき何年、何十年という長大な期間を眠りに必要とする。余が例外なのだよ』

「・・・・・・はい」

 本題は見えてこない。だが、ムルエルファスは何か重大なことを言いそうな気配がある。

『クシャタラナト、そして旧友アールカイン、余の臣下である聖獣、大亀ターホヤトンを覚えておるかね?』

『当然だ』

『無論ですとも』

『あ奴が、死んだ』

 ───は?と。

 あっけない物言いに、沈黙が流れた。

『眠ったまま起きることなく、心臓が止まった。治癒を試みたが、駄目だった。外傷などではない。病気でもない。ただ、死んだ』

 何故、とはどちらの聖獣が漏らした声か。

 ムルエルファスはリィエルのために説明してくれた。

 大亀ターホヤトンとは、妖精郷ユクティラにおいてムルエルファス王に次ぐ年月を生きる巨大な亀の聖獣らしい。大きさは山ほどもあり、歩くだけで地震が起こるのだとか。そして、その大亀ターホヤトンは、非常に長い休眠期を持つのも特徴だった。なんと五千年に一度、千年の眠りにつくのだ。眠っている間に体の上に植物が生え、土が乗り、動物が住み着いて本当に山と一体化してしまったこともあるという。

『休眠期には早いはずが、最初は本当に眠っていたのだ。寝息をたてているので不思議に思ったが、早めの休眠に入ったのだと思っていた。そうして一年ほど経って、あ奴の心臓の音が聞こえなくなった。まるで老衰で死ぬような、穏やかな逝き方だったよ』

 老衰など無い聖獣ならば、その死に様は幸福に見えただろうか、不幸に見えただろうか。

『老いて死ぬなどあり得ぬ。だから死因を調べたが、無意味だった。本当にただ死んだのだ。それからまた少し経って、今度は麒麟馬インリュカインが眠った。これも時期が早すぎたので、皆と一緒に慌てて叩き起したのだ。当のインリュカインは気持よさそうに目を覚ましおったがな』

『なんと・・・』

『それで、ある結論に達した。ユクティラは、退屈によって滅亡する可能性がある、と。いや真面目な話だぞ』

 それから注意深く観察していると、ある日ふと、ごく自然に休んでいた聖獣がいつの間にか眠っているという現象が続いたという。全て叩き起してから、これはまずいと気付いた。そして議論した。

 結論の通り、確かにこの現象は長く生きた聖獣ほど顕著だった。倦怠と退屈が、彼らから生気を奪ったのだ。

 そして彼らは賢く、直ちに対策を見つけた。

『極めて重要なお願いだ。是非考慮して欲しい。・・・このユクティラの主、ムルエルファスの名において、フィルラント王国との密な同盟関係を結びたい。もちろん、両者の交流も兼ねてという内容になる。たまにこちらに、我がユクティラの民を遊びに赴かせたいのだ。無論、それが人間の国家にとってどういう意味を持つことなのかは承知している。その上で、無理を通しての願いである。どうだろうか』

 妖精郷ユクティラという楽園に辿り着くまでに、その国に住まうことになった聖獣達はどれほどの戦乱をくぐり抜けただろうか。奔放なる時代とムルエルファスが称した荒ぶる世界に生を受けて、過酷な戦いの果てに勝ち取った平和の国。

 だが、八千年の平和は彼らから生き続ける意味を喪失させてしまった。頭で考えてもどうしようもない、本能に根ざす現象だ。遠大なる生に飽いた彼らの魂は、静かに存在意義を見失おうとしている。

 そして眠り、死という穏やかな本当の平和へと旅立つ。

 不死であるはずの聖獣が、唯一その不死を必要とされなくなった時に迎える現象なのだろうとムルエルファスは語った。

『ターホヤトンの声を聞いたのはいつだったかな。もう、どんな声だったのかも覚えていない。寡黙な奴だったが、相応しく温厚で優しく、偉大な聖獣であったのに。だが、それ故にあ奴だけは、真に幸福の内で逝けたと思いたい。戦を好む性格では無かった。背に動物たちが巣を作っていくのを、まどろみながら楽しむような奴だった。だから悲しくもない。ただ、せめて一度でいいから最期に言葉を交わしておきたかったくらいだ』

 そう言うムルエルファスだったが、声音はしんみりと沈んでいた。

 リィエルは、この事態を深く受け止めて熟考する。

『最も近い国がフィルラントなのだ。かつて交流もあった。余とて、時に他にすがることもあると思い知った。・・・国から持ち出せるものであれば、フィルラントにはいくらでも礼をしよう。ただ、余の臣下の退屈を消して欲しいのだ。それが例え一時しのぎに過ぎずとも、このままみすみす放置しているのは耐えられぬ』

「ムルエルファス様・・・」

『十五。クシャタラナトが生まれて十六。クシャタラナトが出ていってまた十五。ターホヤトンが死んで十四。共に戦乱を生き抜いた、真に愛する仲間達なのだ。あ奴らがもう生涯に飽いたと言おうとも、余はあ奴らを生かす。でなければ、ユクティラはまた消えてしまう。永遠の国が遠のいていく』

 理想の国、楽園には守護者が必要だ。永遠の時を土地と共に生きて、そこに生きる全ての生命を守護する番人が。

 ムルエルファスは己と、十四の仲間にその使命だけを課してユクティラという国を作った。その崇高な信念をしるべに八千年という歳月を、確かに使命を果たし続けた。

 十五の王に守護される楽園。

 偉大とか、そういう簡単な言葉では言い表せない。

『このままいけば、次はクシャタラナト、お前の愛するお前の母、黒晶龍マディエリエインだ。既にまどろみは始まっていた』

『なっ・・・!』

『・・・だが、彼女はそれもいいだろうと言う。余はそんなのは嫌だ。愛する者たちと共にこれからもずっと生きていたい。故にフィルラント国王陛下、どうか頼む。我らが時折立ち寄ってここで少しばかり過ごす、そのことを受け入れてくれないだろうか。そう、守護聖獣が十五匹ばかり臨時で増えるようなものと思えばいい。決してこの国の害になるようなことはしないと誓う』

 この世において今や恐らく最も長く生きる聖獣の王が、十歳の少女に懇願していた。

『君たちを試したのは、悪かった。信頼に値する国か、信頼に値する王か、余も慎重になりすぎていたかな。リィエル陛下、君は余にとってまったく信頼に値する、素晴らしい君主であると知った。故に、余は君に頼りたい』


 武力に物を言わせ、再びこの世に戦乱を招くことは容易いだろう。十五の、混迷の世を生き抜いた地上最強の軍団が、退屈しのぎのために世界に惨劇をもたらし、暴虐の限りを尽くして生きる充足感を満たす。きっと、そうすれば再びその後に彼らはユクティラを再建し、また八千年を平和に過ごすのだろう。

 その選択肢を捨てた。だからこの王は偉大なのだと、リィエルは確信した。


「お話はよくわかりました。同盟のこと、是非受け入れたく思います。妖精郷ユクティラを助けるため、できることをさせてください。微力すぎることとはお思いになるでしょうけど、わたしも精一杯お手伝いしますから。だから、そんなに思いつめた顔をしないで、ムルエルファス様」

『・・・・・・──────おお!!』

 リィエルは後ろを振り向いて、自分の臣下たちの顔を見回した。

 皆、わかっていますと言うように頷く。

「それでよろしいですか、皆さん。この場でわたしだけで決めてしまうのは、拙速だと思います。けれど、独断でも、わたしはそうしたいと思いました。お城に戻ったら他の皆さんにもお伝えしましょう。ご理解いただけますか」

 きちんと言葉に出して。言わずとも分かっていることだが、リィエルは律儀だった。

「どうか陛下のお心のままに。私どもも賛成いたします」

「異論ありません」

「私もです。陛下のご判断は間違っていないと思います」

 シュナ、フォガリ、レアが賛同し、兵士たちも頷く。

 ムルエルファスはそれを見て、感極まって俯いた。

『・・・ありがとう。本当に、・・・もう駄目かと思っていた。心より感謝する、フィルラント王国の民よ』

 小さなニワトリが、更に小さな涙を流した。聖獣の王は泣いていたのだ。

 これほどの心労をこの数日隠して。

 そこに偽りは無い。策略も無い。彼ら聖獣は嘘をつかない。

 聖獣は嘘をつかないからこそ聖獣とよばれるのだ。そして、嘘をついた聖獣はその瞬間から正気を失う。正気を失った聖獣は変貌し、魔獣と称される邪悪な存在へと堕する。だが、同時に彼らは不死性をも喪失するのだ。そして時間切れになるまで、悪逆を尽くす。

 一万年までは覚えていると言った。それ以上生きていることになる。

 一万年以上、嘘をつかないでいられる知性体。それは人間にとって絶対に到達し得ない境地である。

「共に在りましょう、ムルエルファス様。私たちが永遠と呼ぶ時間が過ぎても、あなたたちが永遠と呼ぶその時まで、私の国はあなたたちと共に。わたしはそのために尽力しようと思います」

 共に永遠の国を。

 ムルエルファスは改めてこの少女王の矜持に胸を打たれたか、深く静かに礼を送った。

 リィエルもまた頭を下げ、共栄を誓う。

 聖獣の国との同盟。天体イゥスィーリアにおける人類史において、前代未聞の革命はこのようにして慎ましく成立した。

『・・・・・・王、よ』

 クシャタラナトが震える声で言う。

『フィルラント国王・・・名はリィエルだったか』

「はい、クシャタラナト様」

『・・・では、リィエル陛下』

「!・・・はい!」

『・・・今この時より私、クシャタラナトはそなたの剣であり盾であることを誓おう。東の守護者として全霊を捧げよう。今一度、この王国との契約を結びたく思う』

「はい!その申し出をありがたく思います、クシャタラナト様」

 おお、と群衆から歓声が漏れ聞こえた。

 リィエルは、ここにきてクシャタラナトが自分を受け入れてくれたことに喜び、思わず涙をこぼしながら満面の笑みを浮かべていた。

『契約の条件はこれまで通り、湖を汚さぬこと。その理由は、既に察してくれたことと思う』

「全く依存はありません。湖の主として、国境の守護者として、この湖が澄んでいることはクシャタラナト様の誇りであると、わたしはそのように了解していますから」

 素直に感謝と誠意を見せたリィエルに、だがクシャタラナトは少ししかめ面をしたようだった。とはいえそこに悪意は微塵も無い。

『・・・・・・・・・王は、無邪気であらせられるな』

 そう言い残してクシャタラナトは水中に消えて行った。

「はい?」

 そして直後、大人たちの笑う声。シュナやフォガリは腹を押さえて、ムルエルファスなどは腹の底から爆笑していた。

『ぶっはぁっははははは!あっ、あ奴、クシャタラナトのやつ、照れておったわ!』

「ぶふっ・・・・くくっ・・・」

「ははっ、聖獣の御仁でも照れ隠しはあるのですね」

 先日の、官舎へ赴いた時のようにリィエルは首を傾げた。

 大人たちが何故笑うのか、彼女には理解が及ばない。

「??」

 ひぃ、苦しい!とまで叫び笑い転げるムルエルファスはともかく、兵士たち含めリィエル以外の皆がこの出来事に笑っていた。

「あぅ・・・またわかんないです」



『本当によくやったな、エリー。ムルエルファス王を下すとは、このアールカインでも少々驚いた』

 小鳥がさえずって低い声を響かせる。多少ギャップのある状況だが、リィエルはすんなりと慣れたようだった。

 はい、ありがとう。と幼少からの友に笑みを送る。

 そろそろ帰り支度を、という時刻になっていた。戦いの余波でも馬車はなんとか無事だったため、今は散らかった道具や皆の所持品などを探して掻き集め、馬に積んでいるらしい。

 弓兵などは自分の放った矢を全て回収するまで帰れないそうだ。そういう規則なのだとか。

 ムルエルファスは騎竜の所に居るようだった。シュナが連れてきたゲマトルダットは、先日からムルエルファスが宿泊する竜舎にて飼育される一頭。その内の雄である。どうやら仲良くなったそうで、子分のように扱っていると聖獣の王は痛快そうに言っていた。

 リィエルがアールカインと話していると、フォガリがやってきた。シュナとレアも一緒かと思ったが、彼女たちは馬車のほうで荷の積込みなどの手伝いをしている。

「お疲れ様でした、陛下」

「はい、騎士団長さんも」

「ふふ・・・」

 フォガリは赤髪を風に靡かせて、何かを想っていた。剣をぽんと叩き、ふぅ、と息を吐く。

「アールカイン様。宜しければこのセイル・フォガリに教えていただきたいことがあります」

 小鳥がピィと鳴いた。

 聖獣と直接対話することを、リィエル以外の誰もが不慣れだと言える。そうあるものだと認識してこれまで生きてきたのだから当然だろう。だが、ムルエルファスの来訪によってその慣習にも少々の変動が生じていた。

 礼節さえ保てば、気安くはなくとも聖獣との対話はあり得る。

『いいだろう。エリー以外は、と思っていたが特別に答えてやる。なんだね?』

 ありがとうございます。と前置いてフォガリは遠くを見つめながら口を開いた。

 リィエルがその視線を辿ってみれば、ゲマトルダットの姿がある。ムルエルファスを見ているのだ。

「ムルエルファス様は、本来の能力を封じておられたそうで」

『そうだな。あれは力そのものを自在に操る聖獣。微細な制御すら思いのままだ。故に、己の体内、脳の中身をも自らの力で触れることで、能力を減衰することを可能としている。とはいえ、放置すれば数日で治癒してしまうらしいが』

「そうですか・・・・・・なら、今日見せていただいた力とは、本来のものと比べてどれほどなのです?相当に縮小していると察しているのですが、あの方の実力を私は知りません』

「そうですね。どうなのでしょう、カインさん。ムルエルファス様、とってもお強かったけど、なんとかなってしまいましたよ?」

 アハハハとアールカインは笑った。とても愉快そうな笑い声だった。

 ひとしきり笑ってからアールカインは小鳥を介して話してくれる。

『まあ、そうだな。確かに今回は相当抑え込んでいたようだ。本来であればエリー、お前でも無理だ』

「やっぱりですか・・・」

「・・・具体的には?」

 ふふん、と小鳥がまた笑う。

『あれに全盛期などというものは無いことだし、今も当時と変わらぬはず。ならば、本気のムルエルファスであれば・・・』

「あれば?」

『一撃でこの国を、地盤もろとも吹き飛ばして焦土どころか巨大な湾にでも変えてしまえる。それくらいかな』

 沈黙が流れた。

「いっ・・・一撃で、それほど?」

「まあ。じゃあ、ものすごーく抑えてくださったのね」

 親しい友の前だと素のリィエルだ。幼い口調にアールカインは妙に上機嫌で、フォガリの質問にもぺらぺらと答えてくれる。

 とはいえ、あまりこれ以上聞きたくなくなっているのも事実だった。恐ろしく薄い氷の上を走らされていた、そんな風に考えてフォガリはぶるっと身震いをする。

『ふふ、そう恐れずともよい。あれは聖獣の中でも特別慈悲深い性格をしているからな。無意味にこの国を吹き飛ばすようなことは無いと、このアールカインが代弁しておこう。意味があってもやるまい。そういう聖獣なのだよ』

「なるほど・・・」

「へぇ・・・」

 納得した様子のフォガリを見て、アールカインの操る小鳥はもう一度ピィと鳴いた。

『そなたの案ずる心もわかる、騎士団長。ユクティラの民が心変わりをせぬとも限らぬからな』

「あ、いえ・・・」

『だがその時には、我らが居る。このアールカインと、ここ東の国境のクシャタラナトが。国の守護者の末席として、我らは決して契約を違えることは無いだろう』

 そう言い残してアールカインの操る小鳥は飛び立った。

 リィエルが手を振って彼を見送り、フォガリが感謝に礼を送る。

 ・・・やっぱり変な感じですねぇ、あのお姿だと。

 陛下もそう思われますか。

 などと談笑して。



 帰路に着く馬車の中、リィエルの腕に抱かれるムルエルファスはずっと大人しくしていた。赤く染まった空を眺めながら、時折翼の毛繕いをしてはまた黙り込む。

 ぽつり、と呟いたのは王都が間近に見えた頃。

「む、そうだ」

「はい?」

「やはり駄目ではないか、リィエル陛下」

「ええと、何がです?」

 毛繕いの終わった翼をばさりと拡げ、自分でもしげしげとそれを眺める。

 リィエルとレアも、その炎のような紋様の翼を見た。何が駄目なのだろうか。

「この翼だよ。やはり余は手が欲しい」

「どうしてです?」

「これでは、愛する我が子を叱ってひっぱたいてやりたくとも無理だ。やはり手のほうが便利じゃないか」

 大真面目にそんなことを言う。

 レアは思わず「ぶはっ」と噴きだしてしまっていた。肩を震わせてくっくっと笑いを堪えている。

 はぁ、とリィエルは素直に言葉を受け取った。そして即答する。

「あら、じゃあやっぱり翼のままで良かったと思いますよ」

 ムルエルファスは首を上げてリィエルの顔をまじまじと見つめた。

 リィエルはきょとんと首を傾げて、そこに他の腹積もりなどありそうにもない。

「お母さんはわたしを叱る時は、おでこをちょんってつつくの。叩かれたら痛くて泣いてしまいます」

 思い出すようにそんなことを言う。

 リィエルの生い立ちのことは知っていた。それでも、リィエルは無邪気に言う。

 誰かを叱る時でも、痛かったり辛かったりするのは嫌ですね、と。

「・・・・・・・・・フハハ、やはりリィエル陛下には敵わぬなぁ」




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