第一話・プロローグ
『プロローグ』
フィルラント王国暦3190年、冬。
天体イゥスィーリアの北方、ヤヌアフ大陸の沿岸に位置する通称「学問の聖地」がここフィルラント王国である。冬が長く続き、夏が極端に短いこの国には目立った特産物が無い。代わりに発展したのが”秘術”の研究。
王立学院には毎年多数の外国籍留学生が訪れ、難関の試験をパスした者達は世に通用する秘術学者として巣立っていく、そんな国。道行く人々も高い教育水準に支えられ、規模としては小国ながら田舎臭さを感じられない垢抜けた雰囲気と、それに加えて長い歴史と平穏に裏打ちされた穏やかな空気が漂っている。
降りしきる雪が城下町を染め上げ、この毎年変わらぬ景色にも慣れ親しんだ人々は冷え込んだ街並みにあっても寒そうに、そして活気は失わずに城下の賑わいを保っていた。その賑わいとは例えば今日の昼に食べた新鮮な魚のことであったり、どうしても嵩んでしまう暖炉の薪の値についてであったり、近隣で起きた恐ろしい事件の話であったり、そしてもはや諦めのついたこの国の王についてであったり。
王城に近いだけに高価な衣服を身に着ける人々も、そこに配達か何かの仕事で訪れる仕事中の男であっても、パンを焼く街角の職人であっても、路地裏でお恵みを請う哀れな者達までもが同じく思い、同じく白く宙を曇らせた。
その賑わいを真ん中から裂くように、王城の正門が巨大な木の扉をきしませて開いた。堀の向こうの門、まずその中から出てきた二人の兵士を目にし、人々はおや、と目を開いた。彼らが手にしているものが右はホルン、左はラッパだったためである。
すう、と左の兵士が息を吸い込みラッパを高々と掲げる。それは王の外出を知らせる号令だった。
鳴り響くラッパの音と共に城内から響く蹄の音と車輪の音。出てきたのは見事な意匠の装飾が施された一台の馬車と、護衛につく十数名の兵士。
先導する二人の兵士の掲げた王旗は道を示し、道行く人々は足を休めて王の道を空け、礼を送る。そしてその中の、あるいはほぼ一様に皆が己の前に漂うため息の痕跡に気付き、動揺して更に一歩後ずさる光景があった。
珍しく王妃を伴って、あの放蕩王は今日はどこへ行くのやら。そんな声ならぬ声が聞こえた気配すらあって、軍馬に跨る兵士らは居心地の悪いものを感じながら任務をこなしていく。
王の列が過ぎ去った後には再び、そこかしこで聞こえてくるため息の音。列の末尾にあってそれを聞き、心の内でそっと同じく息を吐いたのは若く、そして女性にして親衛隊隊長を務めるシュナ・ミュテス・ルゼ嬢だった。彼女の体を包む秘術の編みこまれた白銀の鎧と剣は、新任に際して王から賜った逸品である。だが彼女は己の地位も、この剣と鎧もまた少しも喜べないまま、任命より一年近くを過ごしている。
王はシャルテ・フィルラント。まだ若くして放蕩に耽り政務を放棄する愚王としてしか名の知られぬ、ある意味においての傑物とされた人物。それは傑出ではなく、傑作という揶揄のみが込められた言葉だったが。ともあれ、いかなる俗物であっても王であることに変わりなく、王族が世襲で選ばれる以上誰も彼に否やを唱えることなどできない。
シュナは生真面目に馬車を見守りながら、もう一つ心の中のため息をこぼした。想うもう一人は王妃、いやあれは王族に並べられる人物ではなくむしろ、そう、妾や愛人のような。慈愛と美貌で王を癒し、しかし政治を知らず。王を疑わず、ただそこにあればよいというだけの、飾り。寵姫とでも言うべきか。決して悪人でないことが最大の救いだろう。
ふう、とシュナの口元が白く霞んでしまった。どきりと胸中を慌てさせ、視線でそれを誰も見なかったことを確認して、安堵のため息を必死に堪える。が、どうやらあの白い霞は息では無かったらしい。体の下で我が愛馬が珍しい、くしゃみのような動きを見せた。その濃い吐息は霜のように白く立ち昇る。冷えてきたらしい。
気象観測官と騎士団秘術士隊の隊士、そして王立学院の学芸員は口をそろえて今年の厳冬ぶりを懸念しているらしい。北に聳える霊峰シュエレー神山の豪雪は麓に及び、牧草地に迷い出た牛の数頭が凍死して見つかったのはつい先日だったか。
馬車が道を曲がり、城下を貫く二本の大通りの一つに入る。今日の行き先はさる貴族の開く晩餐会だが、最近では珍しい普通の晩餐会だと把握している。普通でないものがどういった内容か、女性であるシュナにはそれを思い出すことが苦痛でしかなかった。
つまり、恐らくこれは滅多に外へ出向かない王妃の機嫌取りだ。常日頃柔らかく微笑むあの王妃も、夫にわがままの一つも言いたくなることがあるのだろうか。
馬車の速度が上がった。この大通りの中央はほぼ馬車専用であり、かなり遠くまで続く一直線と車輪揺れを考慮された長大な石畳を馬車で駆け抜けるのは、目抜き通りの華やかさが流れるように窓を飾り、貴族以上の身分の者達の娯楽の一つにもなっているとか。同じ貴族であるシュナは武家の出であり、その楽しみとやらに興じたことも、そのつもりも無いが。
上がっていく馬車の速度に合わせてシュナは短く号令を発し隊列を整えると、軽く手綱を走らせて馬を走らせ始めた。
前方に高く、嘶く声。
シュナは一瞬だけ手綱に落としていた目線を急いで戻した。
何が、そう言おうとして目を見開いた。馬車を引く四頭の馬が、御者と牽引する左右の兵士の抑えを振り切って駆け始めたために。それは何故か、シュナはこれを即刻理解していた。いや、シュナだけではない。
雹が降っていた。通り雨のようなものだろう、たまに雪に混じって大粒の雹が降ることはある。シュエレー神山のもたらす気流が生む、空の気まぐれ。だが、それがよもや今この時に限って。
背を乱打された四頭の馬は驚いたのか、痛みに悶絶したのか、ともあれ大きく蹄を振り上げると次の瞬間には全力で駆け出してしまったのだ。
その場の全員が蒼白になった。御者は馬車を制しきれず速度は更に上がっている。
「追えっ!!」
シュナの命令でやっと、唖然としていた兵士らは馬に鞭を入れた。だが四頭立ての馬車は速い。既に兵士らは取り残されており、暴走した馬車は速度を緩める素振りも見せずそれどころか更に加速して彼らを引き離す。当然、単騎の兵士らの速度を上回るものでなくとも、今から追って追いつけるまでに何十秒を要するのか。
そして次の瞬間、この寒さと雪で凍結した地面が馬車の車輪を捕らえ、その挙動を乱した。絶句するシュナら兵士達。眼前で横滑りし、更に僅かな路面の起伏によって跳ね上がる車体。
全ての光景がゆっくりと、目に焼きついていくようだった。
「陛下!!」
悲鳴に近い叫びだった。