第9話|彼は、何を失ったのか(番外編)
※レオ視点の番外編です。
雨音がいなくなってから、三週間が過ぎた。
正確には、いなくなっていない。同じオフィスにいるし、朝礼にも出る。
すれ違えば「おはようございます」と挨拶もする。
ただ——俺の隣に、いない。
仕事は回っている。会議に出て、資料を作って、クライアントと話す。
俺は今も"社内のエース"のはずだった。
それなのに、数字が一つ抜ける。出典が一つ足りない。
以前なら、絶対に起きなかった小さな綻びが、最近やけに目につく。
「神崎さん、このデータのソース元、記載されてないんですけど」
部下の指摘に、俺は資料をめくった。確かに、出典が抜けている。
「……悪い。今、直す」
俺はその場でPCを開き、出典を探し直した。
小さな手間を「後で」に回してきた癖が、もう通用しない気がした。
「最近、運が悪いな」
俺は、本気でそう思っていた。
デスクに戻ると、違和感があった。
机の端が、妙に広く感じる。前はそこに、小さな付箋の束が置かれていた。
『A社:木曜はNG』『B社:辛いもの苦手』『神崎さん、金曜の会議9:00〜』
色とりどりの付箋に、細かいメモ書き。
いつの間にかそれは消え、今は散らかった書類と、飲みかけのペットボトルが置かれているだけだ。
共有フォルダも、どこか雑然としている。
『新規』『ほんとの最新』『本当に最新こっち』
自分でつけたふざけたファイル名が、今はひどく見苦しい。
前は、もっと整理されていた気がする。
フォルダがきちんと階層分けされ、ファイル名も一目で意味が分かった。
コーヒーを買いに行こうとして、小銭がないことに気づく。
以前は、雨音が毎朝俺の分も買ってきてくれた。俺の好きな温度、好きな濃さで。
火曜日の朝、総務から電話が入った。
「神崎さん、今日の午前十時からの会議室予約、ダブルブッキングしてますよ」
「え?」
慌ててスケジュールを確認する。確かに、同じ時間に二つの会議が入っていた。
A社との商談と、社内の定例会議。どちらも重要で、どちらも動かせない。
「すみません、すぐ調整します」
結局、定例会議を後輩に任せ、自分は商談に向かうことにした。
だが、移動時間を考慮していなかったことに気づいたのは、オフィスを出てからだった。
「やべ……A社、先月移転してたんだった」
スマホで検索すると、新オフィスは電車で片道一時間。今すぐ出ても、確実に遅刻する。
タクシーを拾って何とか間に合ったが、会議室に入った時には息が上がっていた。
スーツは汗でよれ、髪も乱れている。クライアントの視線が、明らかに冷たかった。
「神崎さん、大丈夫ですか?」
「す、すみません。少し……」
以前なら、余裕を持って到着し、事前に資料を並べ、クライアントを笑顔で迎えていた。
雨音のカレンダー入力には、必ず『移動時間:60分(余裕みて)』と書き添えられていた。
さらに、乗り換え案内アプリのURLまで貼ってあった。
俺はただ、その通りに動けばよかった。
何も考えずに、敷かれたレールの上を歩けば、完璧に目的地に着けた。
「なんでこんなに手間がかかる?」
心の中でそう呟いた瞬間、自分で自分の言葉に殴られた気がした。
この手間を、ずっと誰かがやっていた。俺の代わりに。
俺が「面倒だ」と一度も言わずに済んできたのは、その誰かが黙って引き受けていたからだ。
その週の木曜日。重要クライアントとの定例会議。
「では、今期のプロモーション戦略についてですが」
俺が口火を切る。滑り出しは順調だった。
しかし、質疑応答で雲行きが怪しくなった。
「神崎さん、このターゲットセグメントなんですが、昨年のキャンペーン時と比べた差分の数値は?」
「あ……」
口が、止まった。
昨年との比較。言われてみれば当然の質問だ。
前なら、想定問答集の中に「昨年比」の答えを用意していた。
「だいたい、若年層で一二〇%程度の伸びが……」
「"だいたい"ではなく、具体的な数字をお聞きしたいのですが」
担当の表情が、僅かに曇る。
「す、すみません。後ほど改めて——」
「神崎さん、前はこんなことなかったですよね?準備不足じゃないですか?」
会議室の空気が凍りつく。
以前なら、雨音が横からサッとメモを差し出してくれた。完璧な数字と、的確な補足説明付きで。
今は、誰もいない。
会議後、部長に呼び出された。
「神崎くん、最近どうした?前はもっと、緻密だったと思うんだけどな」
「すみません、立て直します」
「頼むよ。君はエースなんだから」
——前は、もっと。
その言葉が、胸に引っかかった。
廊下を歩いていると、給湯室の方から声が聞こえた。
「ねえ、神崎さんって、最近ちょっと粗くない?」
「分かる。前はもっと完璧だったよね。質疑応答とかさ」
「誰か裏で支えてたのかな。雨宮さんとか?」
「えー、でもあの人、地味だし」
「地味だからこそ、そういうの上手そうじゃない?」
笑い混じりの会話が、やけに耳に残った。
昼休み、一人でデスクに残って資料を見直す。何が足りないのか、分からない。
ふと視線を上げると、遠くの席で雨音が新しいプロジェクトチームのメンバーと笑っていた。
楽しそうに話している。彼女の笑顔は、以前より明るく見えた。
胸がざわついた。——妬みなのか、安堵なのか、自分でも分からなかった。
夜の十時。オフィスには俺一人しか残っていなかった。
明日の商談資料を探していた俺は、共有フォルダの奥深くにあるバックアップを開いた。
画面に並んだファイル名を見て、息が止まった。
『202X_04_クライアントA社_嗜好・注意点まとめ.xlsx』
『202X_05_会議用_想定問答集_v1.docx』
『202X_06_神崎さんプレゼン用_補足データ集.pptx』
整然と並ぶファイルたち。俺は震える手で、一つ目をクリックした。
『A社部長:甘いもの苦手/手土産は煎餅推奨』
『B社課長:娘さんが受験生(1月〜3月は話題に注意)』
『会議室:空調が効きすぎるため、夏場でもジャケット必須』
「これ、全部……」
記憶が蘇る。半年前の会食だった。
俺が手渡した手土産を見て、気難しいA社の部長が破顔した瞬間。
「おや、神崎さん、よくご存知で。私は甘いものが苦手でね。この煎餅が大好物なんですよ」
「ええ、事前にリサーチしましたので」
俺は得意げに答えた。
同席していた上司も「さすが神崎くん、配慮が行き届いてる」と俺の肩を叩いた。
——あの時、雨音はどうしていた?
末席で、静かにお茶を注いでいた。俺が自分の手柄のように振る舞うのを、ただ微笑んで見ていた。
否定もせず、主張もせず。まるで、俺が輝くことが自分の喜びであるかのように。
今日の会議で俺が答えられなかった「昨年比データ」。
それも、以前のフォルダには『補足資料_昨年比較.xlsx』として完璧にまとめられていた。
メール履歴を遡る。三ヶ月前の深夜二時。
『神崎さん、三パターン用意しました。
A案:従来の堅実プラン
B案:少し冒険したデザイン
C案:データ重視プラン
もし先方の反応が薄ければ、C案の15ページ目のグラフをご覧ください。——雨音』
俺はあの日、B案を選んでそのまま提出した。そして「俺が徹夜で考えた」と吹聴した。
深夜のオフィスで、俺はマウスから手を離した。胸の奥が、ぎゅっと音を立てて痛んだ。
もう一つ、ファイルを開く。
『神崎さん_体調管理メモ.txt』
何だこれ、と思いながらクリックした。
『・風邪気味の時は無理させない(本人は言わない)
・頭痛薬:ロキソニン派
・コーヒーは午後三時以降NG(夜眠れなくなる)
・会議後は糖分補給(チョコ常備)』
——え?
思い出した。去年の冬、酷い風邪を引いた時のことだ。
どうしても外せない会議があって無理をして出社した朝。
机の上に、栄養ドリンクと風邪薬、そしてのど飴が置かれていた。
『無理しないでくださいね。
会議の議事録は私が取っておくので、神崎さんは座っているだけで大丈夫です』
付箋の文字。
会議中、俺が咳き込みそうになると、絶妙なタイミングで水が差し出された。
俺が言葉に詰まると、さりげなく補足資料が提示された。
終わった後、俺は言ったんだ。
「やっぱ俺、気合いでなんとかなるわ!」
雨音は、何も言わずに微笑んでいた。
「そうですね、神崎さんの気合い、すごいです」
——違う。気合いじゃない。
彼女が、俺が倒れないように全方位から支えてくれていたんだ。
俺の体調不良が周囲に悟られないよう、完璧な黒子に徹してくれていたんだ。
俺はその優しさを、「俺の人徳」だと思っていた。
胸が、締め付けられる。
悪気はなかった。本当に、悪気なんてなかった。
俺は彼女に感謝していたし、「ありがとう」も言っていた。
でも——対等ではなかった。
『俺専用のAIみたいだよな。マジ便利』
あの時、俺はそれを最上級の褒め言葉だと思っていた。
でも、人間に対して「便利」なんて言葉、一番言ってはいけないものだった。
彼女が「距離を置きたい」と言ったとき、俺は「落ち着いたら話そう」と逃げた。
彼女が「疲れた」と言ったとき、俺は「俺も疲れてる」と返して終わらせた。
受け止めなきゃいけなかった言葉を、俺は全部、軽く扱った。
「便利だったのは……俺のほうか」
俺が彼女を使っていたんじゃない。
俺が、彼女の優しさに寄生して、ただ生かされていただけだった。
翌週。俺は新しい企画書の作成に取り掛かっていた。
雨音はもういない。誰も助けてくれない。
自分で市場調査のデータを集める。ネットで検索し、数字をExcelに打ち込む。
地味で、根気のいる作業だ。一時間もすると目が痛くなり、肩が凝る。
「こんなこと、ずっとやってたのか……」
深夜三時。ようやく形になった。
出来上がった企画書を見返す。
以前の俺の資料に比べれば、デザインも野暮ったいし、論理構成も甘い。
これが、今の俺の実力だ。
翌日のプレゼン。結果は「可もなく不可もなく」だった。
「ああ。……今の俺には、これが精一杯だよ」
初めて、虚勢を張らずに本音を言えた気がした。
会議室を出ると、昨日ソース抜けを指摘してきた部下が、資料を片付けていた。
「神崎さん、お疲れ様でした」
「……佐藤」
俺は足を止めた。
「昨日の件、指摘してくれてありがとう。助かった」
俺は初めて、素直に頭を下げた。
部下は目を丸くしていた。
以前の俺なら、「なんで事前にチェックしなかったんだ」と逆に彼を責めていただろう。
「い、いえ……こちらこそ。神崎さん、最近なんか変わりましたね」
「……そうかもな」
変わったんじゃない。ようやく、元の自分に戻っただけだ。
誰かの光を借りていない、ただの凡庸な俺に。
帰宅後。俺はスマホを取り出した。
『雨宮 雨音』の名前を見つける。
『今さらだけど、ありがとう』
『全部、雨音のおかげだったって分かった』
『本当にごめん』
指が止まる。
違う。これは、俺が楽になりたいだけの言葉だ。
俺は、バックスペースキーを長押しした。一文字ずつ、文字が消えていく。
「……元気で」
画面に向かって、声に出さずに呟いた。
かつて俺は、自分が太陽だと思っていた。だが、俺はただの石ころだった。
彼女という光を受けて、輝いているように見えていただけの、ただの石。
彼はようやく、自分の光源を知った。それが、もう二度と自分のものではないことも。
それでも彼は、立っていた。今度は、誰の影にも頼らずに。
【番外編・完】
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
光を失ったあとに立つということを、
少しだけ書いてみたくなりました。
物語はここで終わりますが、
それぞれの明日が、静かに続いていきますように。




