第7話|遅すぎた理解
「神崎さん、来期の主任昇格候補から外れました」
人事部長の冷たい宣告が、会議室に響いた。
レオの顔が青ざめる。手に持った資料が、小刻みに震えていた。
私は、その光景を廊下から偶然見てしまった。
以前なら、胸が痛んだだろう。彼を慰め、励まし、挽回策を一緒に考えただろう。
でも今は、何も感じなかった。
——当然の結果だ。
私という「見えない支柱」が消えて、彼の本当の実力が露呈しただけ。
そして今夜、その事実を彼も理解することになる。
◇ その夜、午後十時 ◇
インターホンが鳴った。
モニターに映ったのは、見る影もないレオだった。
髪はボサボサで、目の下には深い隈。スーツはシワだらけで、いつもの自信に満ちた笑顔はどこにもない。
——ここまで追い詰められるのに、どれだけ時間がかかったんだろう。
「雨音……話を、聞いてほしい」
モニター越しの掠れた声。
私は、数秒間画面を見つめた。
——これが、最後の対話になるだろう。
チェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開けた。
「どうしたの」
冷静な声が出た。自分でも驚くほど、感情の色が薄かった。
「ごめん。本当に、ごめん」
レオは、ドアの隙間に向かって深く頭を下げた。
「最近、本当にダメでさ……仕事、全然うまくいかないんだ」
——やっぱり。
最初の言葉が「君は大丈夫?」ではなく、「俺が大変」であることに、すぐ気づいた。
「ミスばっかりで、昇格も見送られて。クライアントにもきついこと言われて……」
彼は、震える声で続けた。
「前はさ、こんなじゃなかったんだよ。もっとできてたはずなんだ」
「それ、多分違うよ」
思わず、口を挟んでいた。
「……え?」
「前と今で変わったのは、レオくんじゃない。私が、支えなくなっただけだよ」
レオの表情が、凍りついた。
「……分かってる。分かってるんだよ」
しばらく沈黙した後、彼が絞り出すように言った。
「雨音が、どれだけ俺を支えてくれてたか。どれだけ助けてもらってたか。
最近になって、やっと分かった」
——最近になって。やっと。
「データも、スケジュールも、資料チェックも……。全部、雨音がやってくれてたんだよな」
ようやく、そこに気づいたらしい。
「今、自分でやろうとしても、全然回らなくてさ。
俺、思ってたほど仕事できなかったんだって、痛感した」
——思ってたほど、仕事できなかった。
その通りだ。
「だから、その……戻ってきてほしい」
来た。予想していた言葉。
「俺には、雨音が必要なんだ。君がいないと、ダメなんだ」
——君がいないと、ダメ。
一見、愛情深く聞こえるフレーズ。
でも、今の私には別の意味にしか聞こえなかった。
「自分が困るから、戻ってきてほしい」
言葉の中心にあるのは、やっぱり彼自身だけだった。
「レオくん、聞いてもいい?」
私は、チェーン越しに静かに質問した。
「私の誕生日、覚えてる?」
「え?誕生日?」
明らかに動揺している。
「えっと……」
——覚えていない。
「私の好きな食べ物は?」
「好きな食べ物……和食?」
——違う。イタリアンだ。
「私が今、どんなプロジェクトに参加してるか知ってる?」
「プロジェクト?えっと……」
——何も知らない。私のことを、何一つ知らない。
「レオくん、あなたは私のことを愛してない」
「そんなことない!」
「愛してるのは、『便利な私』だけ。『人間としての私』には、興味がなかった」
レオは、反論できなかった。
全てが、事実だったから。
「雨音、もう一度チャンスをくれないか?」
彼は必死に続けた。
「これからはもっとちゃんとするから。感謝もちゃんと伝えるし、雨音のことも大事にする」
「『ちゃんと』って、具体的にどうするの」
「えっと……その、もっと『ありがとう』って言うとか?」
——表面だけ。
「今までみたいに頼りっぱなしじゃなくて、雨音の愚痴とかも聞くしさ」
彼の中での「改善」は、全部上っ面だった。
「レオくん」
私は、彼の目を見た。
「私が欲しかったのは、『ありがとう』の回数じゃないよ」
「……え?」
「私の時間を、私の人生を、ちゃんと『人間のもの』として扱ってほしかっただけ」
彼は、理解できない顔をしていた。
「私のSOSを、『大丈夫でしょ?』で潰さないでほしかった。
私が『距離を置きたい』って言ったとき、
『今それ言う?』『落ち着いたら話そう』って先送りしないでほしかった」
——あの夜のことを、私は忘れていない。
「それを、私が壊れそうだって伝えた、あの時に考えてほしかった」
レオの表情が、絶望で染まっていく。
「あなたは今も、自分のことしか考えてない」
私は、静かに告げた。
「さっきから、何度も『俺が』『俺には』『俺がダメ』って言ってるよ」
レオは、はっとした表情になった。
自分の口から出た主語に、初めて気づいたのだろう。
「私のこと、『いなくなって寂しかった』とか、『苦しませてごめん』とか、一度も言ってないよ」
「それは……」
「結局、レオくんが困ってるから、私に助けてほしいだけでしょ」
図星だった。
彼の表情が、崩れていく。
「あなたが求めているのは私じゃない。**『私という機能』**を求めているだけ」
——これが、核心だった。
「……俺、最低だな」
レオは、顔を覆った。
「雨音のこと、全然見てなかった。本当に、最低だ」
——ようやく、理解したらしい。
でも。
遅すぎた。
「もう一回だけチャンスをくれないかな。今度こそ、ちゃんと向き合う」
「レオくん、それって普通のことだよ」
「え?」
「恋人なら、最初からそうあるべきだった。それを『これからやる』って言われても」
私は、小さく息を吐いた。
「もう、疲れたの」
「雨音……」
「私、レオくんを照らす役を降りたの。もう、戻る気はない」
——静かな宣告。
「遅いよ」
私は、はっきりと言った。
「今、レオくんが一番つらいのって、"自分が落ちていく"ことだよね」
図星を刺された顔だった。
「私に謝ってるようで、一番つらいのは『自分がこんな状態にいること』っていう話ばかり」
「……」
「私のこと、心から心配してくれてるわけじゃない。自分の不便さを嘆いてるだけ」
レオは、何も言い返せなかった。
——この人は、最後まで変わらない。
私は、チェーンに手をかけた。
「レオくん、私ね、怒ってないんだ」
「え……?」
「本当に。恨んでもない」
それは、嘘ではなかった。怒りも恨みも、とっくに通り過ぎていた。
「ただ、もう戻りたくないだけ」
カチリ、と小さな音がして、チェーンが外れる。でも私は、ドアを開けない。
「レオくんが困ってるのも、つらいのも分かる。でも、それを助けるために、また私の時間と心を全部差し出すつもりはない」
「……雨音」
「もう、ここには戻らない」
レオの肩が、目に見えて落ちた。
「……そう、だよな」
彼の声は、ひどく小さかった。
「気づくの、遅すぎたよな」
やっと、自分でそれを言えた。
「俺さ、ずっと"太陽"だと思ってたんだ。どこ行っても明るくて、場を回せて、評価されて」
それは、確かにかつての彼の姿だった。
「でも違った。俺が光って見えてただけで、光を当ててくれてたのは、全部雨音だったんだ」
——やっと、その言葉が出てきた。
「でも、それに気づいたのが、"もう照らしてもらえなくなった後"っていうのが、俺らしいよな」
彼は、自嘲気味に笑った。その笑い声が、妙に空しく響いた。
「さようなら、レオくん」
私は、静かに告げた。
「元気でね」
「待って……雨音……」
彼の手が、ドアに向かって伸びる。
でも、私はもうドアを閉めていた。
背後から、彼の泣き声が聞こえた。
でも、振り返らなかった。
部屋の中は、静かだった。
胸の奥に、重たいものはなかった。涙も出なかった。
ただ一つ、はっきりと分かったことがある。
——この人は、最後まで「自分の物語の主役」だった。
そして私は、そこから静かに降りたのだ。
誰かの物語の、都合のいい「照明係」でいることをやめた。
窓を開けると、夜の風が吹き込んできた。
不思議なくらい、心が軽かった。
スマホを取り出し、設定画面を開く。
『着信拒否設定:神崎レオ』
——完了。
私は、ようやく自分の人生を取り戻した。
そして彼は——
失ったものの大きさを、これから一生かけて理解するだろう。
でも、もう遅い。
手遅れだ
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