第6話|主役の空白
「神崎さん、今日の会議、ダブルブッキングしてますよ」
総務の女性が、困惑した表情で言った。
レオの顔が青ざめる。手帳を慌てて開くが、確かに同じ時間に二つの会議が入っている。
「す、すみません!今すぐ調整します!」
私は、その光景を遠くから見ていた。
以前なら、彼の予定は全て私が管理していた。ダブルブッキングなど起こるはずがなかった。
でも今は、何もしていない。
——私は、彼を妨害していない。 ただ、支えなくなっただけだ。
それだけで、彼の世界は音を立てて崩れ始めた。
◇ 月曜日の朝・第一の亀裂 ◇
「おはようございます」
レオが、いつもより遅く出社してきた。
以前なら、私が前日の夜に「明日は早めの会議があるよ」とリマインドしていた。
今日は、何も言わなかった。
「やべ、遅刻ギリギリだった」
彼は慌ててデスクに着く。そして、コーヒーがないことに気づいた。
「あ……」
小さく声を漏らす。でも、私に頼むことはしなかった。
ようやく、学習したらしい。
自動販売機に向かう彼の背中が、少し小さく見えた。
午前十時。
「神崎さん、企画書の提出期限、今日ですよ」
上司の声が、オフィスに響いた。
「え?今日でしたっけ?」
「先週、メールで確認したはずですが」
「あ、すみません!今から急いで仕上げます!」
以前なら、私が三日前から準備して、前日に最終チェックを済ませていた。
彼は慌ててパソコンに向かう。でも、データの場所が分からない。参考資料も見つからない。
四時間後、ようやく提出した企画書に上司の厳しい声が響く。
「神崎さん、この企画書、データが不足してますね。修正して、明日の朝イチで再提出してください」
以前なら、私がデータを補完し、論理構成を整え、完璧な状態に仕上げていた。
彼が「自分で作った」と思っていた資料の、実に七割は私の手によるものだった。
そして今、その七割が消えた。
◇ 火曜日の昼休み・評価の変化 ◇
「雨宮さんの市場調査レポート、役員会議で高評価だったそうですよ」
私は、新しいプロジェクトチームのランチに参加していた。
田中さんが、嬉しそうに言った。
「本当ですか?」
「ええ。部長が『雨宮さんの分析力は社内トップクラスだ』って」
——社内トップクラス。
私の能力が、初めて正当に評価された。
「次のプロジェクトも、雨宮さんにリーダーをお願いしたいって話が出てます」
「リーダー……ですか?」
「もちろん、無理のない範囲で。雨宮さんのペースを尊重しますから」
——無理のない範囲で。 ——あなたのペースを尊重。
レオは、一度もそんなことを言わなかった。
その頃、別の休憩室では——
「神崎さん、最近元気ないね」
同僚の声が響いていた。
「昨日、終電まで残業してたでしょ?見たよ」
「ちょっと、仕事が溜まっててさ」
レオは笑って誤魔化したが、目の下には隈ができていた。
「雨宮さんに手伝ってもらえばいいのに。彼女でしょ?」
その言葉に、レオの表情が曇った。
「……最近、忙しいみたいで」
「そうなの?前はいつも一緒にいたのにね」
——前は、私が彼に付き従っていただけだった。
◇ 水曜日の夜・照明が消えた舞台 ◇
「じゃあ、乾杯ー!」
部署の飲み会。レオは、いつものように場を盛り上げようとしていた。
「最近どう?調子は?」
「まあまあかな!」
でも、会話が続かない。
以前なら、私が話題を提供し、相手の好みを事前にリサーチし、場の空気を読んで適切なタイミングで話を振っていた。
「でさ、俺がその時ビシッと言ってやったわけよ!」
レオが得意げに武勇伝を語る。
いつもなら、ここで私が絶妙な合いの手を入れていた。
「さすがレオくん!それで相手はどうなったの?」
私の一言が場を温め、他の人たちもそれに乗っかって盛り上がる。それが「いつものパターン」だった。
しかし、今日は私がいない。
「へえ、そうなんだ」 「すごいねー」
反応が薄い。会話が続かない。沈黙が流れる。
自分が「ムードメーカー」でいられたのは、自分の話術が凄かったからではない。
私が「聞き上手」として、場の空気をコントロールしてくれていたからだ。
主役を輝かせていたのは、照明係だった。
照明が消えた舞台で、主役はただの「痛々しいピエロ」だった。
◇ 木曜日の午後・決定的な評価 ◇
「神崎くん、ちょっといいかな」
部長が、レオを会議室に呼んだ。
私は、ガラス越しにその光景を見ていた。
部長の厳しい表情。レオの縮こまった姿勢。
明らかに、叱責されている。
十五分後、レオが会議室から出てきた。顔色が悪い。
そのタイミングで、廊下から聞こえてきた声。
「神崎さん、最近どうしたの?」
「なんか余裕ないよね」
「この前のプレゼンもボロボロだったらしいよ」
そして、決定的な一言。
「神崎さんって、こんなに仕事できなかったっけ?」
——こんなに仕事できなかった?
その言葉が、レオの胸に突き刺さった。
「前はもっとバリバリやってたイメージだったんですけどね」
周囲の評価が、変わり始めていた。
◇ 金曜日の夜・最後の一撃 ◇
「神崎さん、クライアントとの会食、手土産の手配は?」
上司の確認。
「あ……」
レオの顔が青ざめた。
完全に忘れていた。
以前なら、私がクライアントの好みを調べ上げ、最適な手土産を三日前に手配していた。
「今から手配します!」
「会食は今日の夜ですよ?間に合いますか?」
結局、コンビニで買える程度のものしか用意できなかった。
その夜、会食から帰ってきたレオは、完全に打ちのめされていた。
「クライアント、めちゃくちゃ不機嫌だった……」
デスクに突っ伏す彼。
「手土産がコンビニのお菓子って、舐めてるって言われた」
以前なら、私が全て完璧に準備していた。
だから彼は、「準備すること」の難しさを知らなかった。
私は、定時で帰る準備をしていた。
レオの視線を感じた。助けを求めるような、でもプライドが邪魔をして言葉にできない、そんな視線。
私は、何も言わずにオフィスを出た。
エレベーターの中で、スマホが震えた。
レオからのメッセージ。
『雨音、最近本当にうまくいかない。なんでだろう』
——なんでだろう。
本気で分かっていないらしい。
私は、返信しなかった。
もう、教えてあげる義理もない。
その夜、レオは散らかった部屋で一人考えていた。
——なんで、こんなにうまくいかないんだ。
仕事も、人間関係も、生活も。全てがうまくいかない。
でも、まだ気づいていない。
自分が輝いていたのは、誰かが陰で照らしていたからだということに。
失ったものの大きさに。
そして、それを取り戻すには——
もう、遅すぎるということに。
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