第5話|静かな撤退
「神崎さん、今日のプレゼン資料、データが古いですね」
役員の冷たい指摘が、会議室に響いた。
レオの顔が青ざめる。慌てて資料をめくるが、確かに三ヶ月前のデータがそのまま使われていた。
私は、その光景を遠くから見ていた。
以前なら、前日の夜に全ての数字をチェックして、最新データに更新していた。
でも今回は、何もしなかった。
——私は、彼を攻撃していない。 ただ、支えることをやめただけだ。
そう決めるまでの、静かな撤退の記録。
◇ あの夜から一週間後・月曜日 ◇
「雨音、おはよー!」
いつものように、レオが明るい声で挨拶してきた。
先週の金曜日、私が「距離を置きたい」と言ったことなど、まるでなかったかのように。
彼の中では「一時的な情緒不安定」として処理され、週末を挟んでリセットされたのだろう。
「おはよう」
私は、いつも通り微笑んだ。
ただ一つだけ、違うことがあった。
彼のデスクに、コーヒーが置かれていない。
いつもなら、彼の分も一緒に買っていた。
ブラック多め、砂糖少なめ。彼の好みを、私が一番よく知っていた。
今日は、自分のカップだけ。
「あれ?コーヒー、俺の分は?」
レオが不思議そうに私のデスクを見る。
「ごめん、今日は自分のだけ買ってきた」
「そうなの?珍しいね」
彼は少し困ったような顔をしたが、すぐに笑った。
「じゃあ、今度から俺の分もお願いしていい?いつものやつ」
——いつものやつ。
私が毎朝、彼のために時間を使って買ってきたコーヒーも、
彼にとっては「いつものサービス」でしかない。
「レオくん、自分で買った方が好みの温度で飲めるよ」
「え?でも面倒じゃん」
「慣れれば大丈夫だと思う」
私は、それ以上何も言わなかった。
これが、撤退の第一歩だった。
◇ 火曜日の昼休み ◇
「雨音、一緒にランチ行こうよ」
彼が、いつものように誘ってきた。
以前なら、どんなに忙しくても時間を作った。彼の愚痴を聞き、相談に乗り、励ましていた。
でも今日は、違った。
「ごめん、今日は新しいプロジェクトのメンバーと食べる約束してるの」
「新しいプロジェクト?」
「市場調査の件。データ分析を任されたから」
「へー。でも、それより俺の相談聞いてほしいことがあるんだけど」
——それより、俺の相談。
私の仕事よりも、彼の悩みの方が重要だという前提。
「今度の時間があるときに聞くよ」
「今度っていつ?」
「分からない。忙しくて」
レオは、明らかに不満そうだった。
「最近、そういうこと多くない?前はいつも時間作ってくれたのに」
——前は、私が無理をしていただけだ。
「人には、一人になりたい時もあるよ」
彼は納得していない様子だったが、それ以上は何も言えなかった。
私は、新しいプロジェクトチームのメンバーと向かった。
「雨宮さん、いつもありがとうございます」
チームリーダーの田中さんが、心からの笑顔で言った。
「無理のないペースで進めてくださいね。体調第一ですから」
——体調第一。
レオは、一度もそんなことを言わなかった。
「ありがとうございます。頑張ります」
「雨宮さんの分析レポート、いつも的確で助かってます。本当に感謝しています」
——本当に感謝している。
心からの感謝。私の努力を、ちゃんと見てくれている。
——ああ、これが普通なんだ。
これが、健全な関係なんだ。
◇ 水曜日の夜 ◇
『雨音、今日飲みに行かない?愚痴聞いてほしいことがあるんだ』
夜八時。仕事を終えた彼からメッセージが届いた。
以前なら、疲れていても「いいよ」と返していた。
でも今日は、即答しなかった。
ソファに座り、お気に入りのドラマを見ながら考える。
——行きたくない。
その気持ちに、素直になることにした。
『ごめん、今日は疲れてるから家でゆっくりしたい』
送信ボタンを押す。
数秒後、返信が来た。
『マジか。最近、そういうの多いよね。俺と一緒にいるの嫌になった?』
——嫌になったか、という質問。
でも、「疲れている理由」や「大丈夫?」という心配はない。
『そんなことないよ。ただ、最近本当に疲れやすくて』
『そっか。まあ、ゆっくり休んで。また今度ね』
——また今度。
表面的な気遣いだけで、深く踏み込もうとはしない。
私は、スマホを置いた。
——この人は、変わらない。
そして私は、もう変わろうとしない。
◇ 木曜日の午後 ◇
「雨音、ちょっといい?」
レオが、私のデスクにやってきた。手には企画書の束。
「明日の会議の資料なんだけど、いつものチェックお願いできる?」
——いつものチェック。
私が徹夜で誤字脱字を修正し、データを検証し、論理構成を整えることも、
彼にとっては「いつものサービス」だった。
「今、別の案件で手一杯なの」
「えー、でも明日の朝イチなんだよ。俺、細かいとこ見るの苦手だし」
「レオくんも、自分でやってみたら?」
「いや、雨音の方が絶対うまくできるって。お願いします」
——雨音の方が、うまくできる。
つまり、「面倒なことは雨音に丸投げ」の言い換えだ。
「ごめん、今回は無理」
「……マジで?」
レオの表情が、困惑から不満に変わった。
「前はやってくれてたよね?なんで急に?」
——前は、もっと。
私の「機能」が低下したことへの不満。
「レオくん、それはレオくんの仕事だよ」
「分かってるけど……でも、彼女なら手伝ってくれるのが普通じゃない?」
——彼女なら、手伝ってくれるのが普通。
恋人関係を、無償労働の根拠にしている。
「普通って何?」
「え?」
「私が無償で働くのが、普通なの?」
レオは言葉に詰まった。
「無償って……そんな言い方しなくても」
「じゃあ、有償?」
「……分かったよ。自分でやるから」
彼は不満そうに去っていった。
まだ、気づいていない。
自分が何を失おうとしているのか、全く理解していない。
◇ 金曜日の朝 ◇
「神崎さん、今日のプレゼン資料、データが古いですね」
役員の冷たい指摘。
レオの顔が青ざめる。
私は、その光景を遠くから見ていた。
以前なら、前日の夜に全ての数字をチェックして、最新データに更新していた。
でも今回は、何もしなかった。
「す、すみません!確認不足でした!」
「次から気をつけてください。最近、神崎さんのミス多いですよ」
会議後、彼は一人で資料を修正していた。
その姿を見ながら、私は何も感じなかった。
同情も、罪悪感も。
——私は、彼を攻撃していない。 ただ、支えることをやめただけだ。
その日の夕方。
「雨音、最近本当に冷たいよな」
彼が、直接的に言ってきた。
「冷たい?」
「うん。前はもっと、いろいろ気にかけてくれたじゃん」
——前は、もっと気にかけて。
私が彼のために尽くすことを、「気にかけること」と呼んでいた。
「レオくん、私も自分の人生があるから」
「それは分かってるけど……でも、俺たち付き合ってるんだろ?」
「付き合ってるからって、私があなたの世話を全部しなきゃいけないわけじゃないよ」
「世話って……そんな風に思ってたの?」
レオは、本気で驚いているようだった。
彼にとって、私の献身は「愛情の自然な表れ」だった。
私にとって、それは「重い負担」だった。
この認識の差に、私たちは今まで気づかなかった。
「思ってたよ。ずっと」
「……そっか」
彼は、何か言いたそうにしたが、結局何も言わなかった。
言葉にできないのは、反論できないからだ。
その夜、一人の部屋で。
私は、スマホの設定画面を開いた。
彼との共有カレンダー。
『レオの誕生日』 『記念日デート』 『レオの実家へ挨拶』
未来の予定がいくつか並んでいる。
私は、静かに操作した。
『共有を解除しますか?』
『はい』
画面から、彼の名前と予定が消えた。 私のカレンダーが、真っ白になった。
不思議なくらい、清々しかった。
数分後、彼からメッセージが届いた。
『カレンダー見れなくなってるんだけど、バグ?』
私は、通知をスワイプして消した。
もう、説明もしない。
バグだと思っていればいい。 システムエラーだと思っていればいい。
本当のエラーは、この関係そのものなのだから。
鏡の前に立つ。
——変わったな、私。
以前は、彼のことばかり考えていた。 今は、自分のことを最優先に考えている。
以前は、彼の笑顔のために動いていた。 今は、自分の心の平穏のために動いている。
これは、冷たくなったのではない。 ただ、正常に戻っただけだ。
ベッドに入り、天井を見上げる。
静かな撤退は、完了した。
怒りも、涙も、説教も。 すべては「期待」があるから生まれるもの。
期待が消えたとき、そこに残るのは静寂だけ。
そして私は、その静寂の中で、自分の人生を取り戻した。
明日から、彼は「空白」と向き合うことになる。
私がいない世界で、初めて自分の実力を知るだろう。
そのとき彼は気づくのだろうか。
自分が輝いていたのは、誰かが陰で照らしていたからだと。
でも、気づいたときには——
もう、遅い。
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