第4話|選ばなかった分岐点
三ヶ月後——
「神崎さん、最近元気ないですね」
同僚の心配そうな声が、オフィスに響いた。
彼は、一人でパソコンに向かっている。いつもの華やかさはなく、疲れた表情で画面を見つめていた。
私は、その光景を遠くから眺めていた。
——私は、彼を壊したわけじゃない。 ただ、照らす役をやめただけだ。
でも、そう決めるまでには、一つの決定的な夜があった。
◇ 三ヶ月前・金曜日の夜 ◇
「雨音、今日はありがとな!」
レオが、満足そうに伸びをした。
私たちは彼のアパートにいた。テーブルには、私が作った手料理が並んでいる。
彼の好物のオムライスと、栄養バランスを考えたサラダ。
「やっぱ雨音の飯、最高!コンビニ弁当とは格が違うわ」
「……そう」
私は、箸を置いた。
今夜、言わなければならない。
もう限界だった。このままでは、私は壊れてしまう。
「レオ」
「ん?なに?スマホ見てるから、手短にお願い」
——手短に、お願い。
私の人生で一番大切な話を、「手短に」済ませようとする。
「私たちのこと、話したいことがあるの」
「俺たちのこと?なになに、結婚の話?」
軽薄に笑う彼。でも、目はスマホの画面に向いたまま。
私は深呼吸をした。
——これが、最後のチャンス。
「最近、私ばっかり頑張ってる気がして」
「あー、また始まった」
彼は、面倒くさそうにため息をついた。
「雨音、俺だって頑張ってるよ?仕事でさ、めちゃくちゃストレス溜まってるんだから」
「私の話を聞いて」
「聞いてるって。で、何が言いたいの?」
——聞いてない。完全に聞いてない。
「レオは、私のこと『便利』だと思ってない?」
「便利?」
ようやく、彼がスマホから目を上げた。
「この前、『俺専用のAI』って言ったよね」
「あー、あれ?冗談だって。褒め言葉のつもりだったんだけど」
——冗談。褒め言葉。
私の傷ついた心は、彼にとって「冗談の誤解」でしかない。
「私、疲れたの」
はっきりと告げた。
「レオのサポートばかりで、自分の時間がなくて。それに——」
言葉を選ぶ。慎重に、慎重に。
「少し、距離を置きたい」
——言った。
ついに、言ってしまった。
部屋が、静まり返った。
テレビのバラエティ番組の笑い声だけが、虚しく響いている。
彼は、数秒間私を見つめた。
そして——
「今、それ言う?」
最初に出た言葉は、心配でも謝罪でもなく、不満だった。
「え?」
「せっかく週末でリラックスしてるのに、なんで今、空気悪くするようなこと言うわけ?」
——空気を悪くすること。
私の限界は、彼にとって「空気を悪くすること」だった。
「今言わないと、伝わらないと思ったから」
「いや、タイミングってものがあるじゃん。
俺、来週大事なプレゼンがあるんだよ。それが終わってからじゃダメなの?」
——終わってから。
先送りだ。
「来週が終わったら、また次の仕事があるよね」
「そりゃそうだけど……」
彼は頭をガシガシとかいた。
「あのさ、雨音。考えすぎじゃない?」
「考えすぎ?」
「生理前とか?なんか情緒不安定になってない?」
——生理前。情緒不安定。
私の真剣な訴えを、ホルモンバランスのせいにした。
その瞬間、何かが胸の奥で音を立てて壊れた。
「とりあえず今日はもう遅いし、落ち着こうよ」
彼は、私の手を軽く叩いた。
「来週のプレゼン終わったら、ちゃんと話聞くからさ。な?今は俺を集中させてくれよ」
——俺を集中させて。
私の心の叫びよりも、彼の仕事の方が大切。
「それまで、変なこと考えないで普通にしててくれる?頼むわ」
——普通にしててくれる?
私が壊れかけていることを「変なこと」と表現し、「普通に」振る舞うことを要求する。
私は、その瞬間に理解した。
——この人は、変わらない。
どれだけ私が叫んでも、泣いても、彼は自分の都合のいいようにしか解釈しない。
ここが、分岐点だった。
そして彼は、向き合わない道を選んだ。
「……分かった」
私は、静かに言った。
「おお、さすが雨音!やっぱ君は話が分かるよな」
彼は安心したように笑った。
——話が分かる。
私が「分かった」と言ったのは、彼の言い分を理解したからではない。
「もう期待しても無駄だ」と分かったからだ。
「じゃ、来週の資料チェック、よろしく!愛してるよ!」
——愛してる。
その言葉が、これほど空虚に響くなんて知らなかった。
その夜、一人になったとき。
私は、ベッドに倒れ込んだ。
涙は流れなかった。
むしろ、憑き物が落ちたように心が軽かった。
もう、頑張らなくていいんだ。
彼が私に向き合うことを放棄した瞬間、私の義務も消滅した。
スマホを取り出し、彼の連絡先の設定を開く。
『着信音:デフォルト』に変更。 『通知:オフ』に設定。
——さようなら、私の「太陽」。
あなたが輝いていたのは、私が照らしていたからだと、いつか気づく日が来るでしょう。
でもその時、私はもういない。
私は、静かに「スイッチ」を切った。
翌朝、目が覚めたとき。
スマホには三件の未読があった。
『おはよー!昨日はごめんな』 『今日も一日頑張ろう!』 『来週の資料、例の件よろしく!』
——何も分かっていない。
昨日あれだけ話したのに、また仕事の依頼。
私は、一つも返信しなかった。
——これが、静かな撤退の始まりだった。
◇ 現在 ◇
あの夜から三ヶ月。
彼は、一人でパソコンに向かっている。
資料作成に四時間かかり、プレゼンは失敗続き。人は離れ、評価は下がった。
私がいない世界で、彼は初めて「自分の実力」を知った。
同僚が心配そうに声をかけるが、彼は気づいていない。
自分が何を失ったのか、まだ理解していない。
私は、新しいプロジェクトチームで働いている。
「雨宮さんの分析、いつも的確ですね」
「ありがとうございます」
ここでは、私は「便利なAI」ではない。
一人の人間として、評価され、感謝され、大切にされている。
——私は、彼を壊したわけじゃない。
ただ、照らす役をやめただけだ。
それだけで、彼の世界は暗くなった。
そして私の世界は、明るくなった。
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