第3話|気づいていないのは誰か
既読がついたのは、三時間後だった。
『雨音、明日の会議資料の件なんだけど』
私はスマホの画面を見つめて、すぐには返信しなかった。
——いつもなら、秒で返していた。
シャワー中でも、料理中でも、寝る直前でも。彼からのメッセージは最優先事項だった。
でも今日は、違った。
コーヒーを一口飲んで、わざと時間を置いた。
もし返信が遅れたら、「どうしたの?」「何かあった?」と心配してくれるかもしれない。
そんな淡い期待を込めて、私は待った。
三時間。
でも、心配の言葉なんて一つもなかった。
◇ 月曜日の朝 ◇
「雨音、おはよー!」
いつも通りの彼の声。いつも通りの笑顔。
私の三時間の「抵抗」なんて、彼は気づきもしていない。
「おはよう」
短く返す。
「週末どうだった?俺、久々に大学の友達と遊んでさ、マジ楽しかった!カラオケでオール!」
——週末、私は彼の企画書を三パターン作り直していた。
「そうなんだ」
「雨音はゆっくりできた?」
彼は本気で聞いている。
私がどう過ごしていたか、考えもしていない。想像もしていない。
「まあ、それなりに」
「よかったー!リフレッシュできたね」
彼は満足そうに頷いた。
私の言葉を、聞いていない。
昼休み。
「雨音、ちょっといい?」
彼がデスクにやってきた。手には例の企画書。
「来週のプレゼン資料なんだけど、いつものやつお願いできる?」
——いつものやつ。
私が徹夜で作った資料も、彼にとっては「いつものやつ」だ。
「今、別の案件で手一杯なんだけど」
初めて、断る言葉を口にした。
彼の動きが、一瞬止まった。
「え、マジで?でも、これ今週中に仕上げないとヤバいんだよね」
「レオくんも、自分でやってみたら?データは共有フォルダにあるし」
「いや、でも俺、あの手の細かい作業苦手じゃん。雨音の方が絶対うまくできるって」
——苦手だから、私に丸投げ。
その構造に、ようやく気づいた。
「今回は、ごめん。本当に手が回らない」
「……そっか。まあ、仕方ないか」
彼は少し不満そうに引き下がった。
でも、「なぜ手が回らないのか」は聞かなかった。
その日の夕方。
『雨音、やっぱ資料お願いできない?他に頼める人いなくて困ってる』
メッセージが届いた。
——他に頼める人がいない。
つまり、私は「最終手段」なのだ。
『今週は本当に厳しい。来週なら手伝えるかも』
返信を送る。
既読がついた。
でも、返事は来なかった。
◇ 水曜日のデート ◇
久しぶりに二人でゆっくりできるはずだった。
「でさ、次のプロジェクトなんだけど」
カフェに入って早々、彼はノートパソコンを広げた。
「ここ、どう思う?雨音の意見聞きたくてさ」
——デートでも、仕事の話。
「……ねえ、レオ」
私はカップの縁を指でなぞりながら、小さく言った。
「今日は、仕事の話はやめない?少し疲れてて」
これは、私にとって精一杯の拒絶だった。
しかし、彼はキーボードを叩く手を止めなかった。
「えー?でもこれ、金曜までに詰めたいんだよ。雨音に見てもらうのが一番早いし」
彼は画面から目を離さずに続ける。
「疲れてるなら甘いものでも頼みなよ。ここのケーキ美味いらしいじゃん」
——違う。そうじゃない。
私が欲しいのは、糖分じゃない。
「私も最近、自分の仕事で手一杯で……」
「雨音の仕事?事務処理とかでしょ?俺のプロジェクトに比べれば余裕だって」
その瞬間、何かが胸の奥で音を立てて壊れた。
悪気はない。本当に、悪気はないのだ。
彼は本気でそう思っている。私の仕事なんて、彼の華やかなプロジェクトに比べれば「取るに足らない雑用」だと。
「……そうだね」
私は笑うしかなかった。
その夜、帰り道。
「ごめん、頭痛いから今日はもう帰るね」
駅の改札前でそう告げた。
「あ、そう?薬飲んで早く寝なよ。お大事にー」
彼はそのまま、スマホを取り出して誰かに連絡を始めた。
「送っていくよ」も、「大丈夫?」もない。
背中を向けた彼を見送りながら、私は確信した。
彼は、私を見ていない。
私という「機能」を見ているだけだ。
◇ 金曜日の朝 ◇
「雨音、ちょっといい?」
彼が、いつもより硬い表情で近づいてきた。
「最近、冷たくない?」
——来た。
「冷たい?」
「うん。なんか、前みたいに協力してくれないし、返信も遅いし」
私は、彼の目を見た。
「レオくん、私も自分の仕事があるんだよ」
「それは分かってるけど、でも前は大丈夫だったじゃん」
——前は大丈夫だった。
つまり、私が無理をしていたことに、気づいていない。
「前は、無理してたんだと思う」
「無理?そんな風に見えなかったけど」
——見えなかった。
見ようとしなかっただけだ。
「最近、疲れてて」
「疲れてるの?」
一瞬、心配そうな顔をした。でも——
「大丈夫でしょ?明日ゆっくり寝れば回復するって」
——大丈夫でしょ?
それは質問ではなく、決めつけだった。
「じゃあ、無理しなくていいから、落ち着いたら手伝ってね」
——落ち着いたら、手伝って。
結局、私が疲れているという事実は、彼にとって「一時的な障害」でしかない。
「……うん」
私は、それ以上何も言えなかった。
その夜、一人の部屋で。
暗闇の中、天井を見上げる。
「楽だな」
独り言が漏れた。
恋人と一緒にいるより、一人でいる方が楽だと感じてしまった。
それは、終わりの始まりだった。
スマホが震える。
『雨音、明日時間ある?やっぱ君のアイデア必要だわ』
私の頭痛のことなんて、もう忘れている。
私は画面を見つめながら、ゆっくりと文字を打った。
『ごめん、明日は無理』
送信ボタンを押す指が、少し震えた。
——これまでは、どんなに無理をしてでも「いいよ」と返していた。
数秒後、返信が来た。
『えーマジか。珍しいな。じゃあ明後日は?』
彼はまだ、気づいていない。
私が単に「忙しい」から断ったわけではないことに。
私の心が、彼から離れようとしていることに。
この小さなSOSを無視した代償が、どれほど大きいか。
彼はまだ、何も知らない。
私はスマホを伏せて、深く息を吐いた。
「少し、距離を置きたい」
その言葉が、頭の中で響いた。
でも、言う勇気はまだない。
——もう一度だけ、チャンスをあげよう。
もう一度だけ、彼が気づく機会を作ろう。
それでもダメなら——
私は、静かに目を閉じた。
その時はもう、支えることをやめよう。
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