第三話 拝命
「長縄ヒロムシ、渡利ゲンモク。お前たちの、先日の『小蝿ディーラー』の家宅捜索において、容疑者宅から逃走した小蝿三匹を捕獲した功績を評価して、『ベルゼブブ特命捜査官』に推薦させてもらった。意識調査をさせてもらった後、任命式を行う。式の内容には『天使との誓約』も含まれる」
早朝に呼び出しを受けた僕と渡利は、盾原警察署の一室に呼ばれた。
話しているのは萩刈捜査官である。
「あの………なぜ私たちが推薦を受けたのですか? 大したことはしていないと思うのですが……」
「大したことをしていないなど、とんでもない。義務教育を受けていれば、小蝿を野放しにしてしまうことのリスクはよくよく理解しているはずだが」
「それは……そうですが」
待ち望んだ昇進であるというのに、僕は気もそぞろであった。
このまま、「天使との誓約」が行われれば、悪魔と契約していることがバレてしまう。
「納得がいかないか? なにかこだわりでもあるのか。ふん」
萩刈は顎に手をやって、思案した。
どう説得したものかと考えているようだ。
「あ、あの!私、もう四十でして、学校の悪魔史の授業内容を忘れてしまっているかもです!」
「そうか。では、改めてベルゼブブについて話そうか」
おいしすぎる昇進の話が無くなることを恐れた渡利が、しぶる僕を説得できるように萩刈に助け舟を出した。
警官の端くれとは言え、悪魔史を忘れたと抜かすなどとんでもないことであるが、意外にも萩刈はその発言に食って掛かることはなかった。
「ベルゼブブとは、蝿を媒介としてこの世界に干渉する悪魔界のビッグネームだ。知らない奴は居ないと言っても良いな。主に媒介とするのは蝿・アブなどの双翅目だ。極稀にだが、蜂や蟻みたいな膜翅目でも目撃されているが、あまり居ないな。ま、ここは任命式後の講習で細かくやる」
萩刈は熱のこもって居ない説明を続ける。
目が合うたびに、見透かされているような不安が湧きだす。
「で、ベルゼブブが殊に恐れられるのは、コスパが良すぎるからだ。五十年前、メキシコから来た不法移民に親類を殺されたアメリカ国民三名が、その生命と全てを捧げた結果、メキシコ国民一億三千万人が蝿に食い殺された。たったの数名が国家転覆を成した初めての事例だ」
柊もベルゼブブとの契約履行によって殺害されたが、その代償は中指一本だった。
他の悪魔ならば、人間一人の殺害は片腕一本や臓器一つが相場である。
「お前らの行動はこれらの惨劇と同じ轍を踏むことを阻止していたんだ。その行為を偉業と言わずしてなんと表現すべきか、俺にはわからないな」
「………そう……かもしれないですね……」
萩刈が最大限の称賛を送ってくれていることは理解できるが、真顔で話されると怖い。
犯罪者であるという自覚が精神を揺りかごみたいにしているのに、中身が明らかになっていない人間の鉄仮面は恐怖心の増加に拍車を掛けている。
僕の言葉の歯切れの悪さに、萩刈は少し眉をひそめた。
その眉間のシワは好感情ゆえに生まれたものではないだろう。
「ふん………まぁ、とりあえずは捜査官になるにあたって、『天使』について教えておこうか。講習でも一応、習うはずだが——————アズライル」
飾り気のない淑やかな金属の音。
間延びしたその音は尻すぼみになって消えていく。
「生で見る機会はあまり無いだろうからな」
『呼ンダ?』
萩刈の周辺からぼんやりと聞こえた高めの声。
しかし、僕は出どころ不明の声に意識が向かないほどの衝撃的な光景に、目を奪われていた。
萩刈の背から現れたように見えた純白の細腕が彼の身体に絡みついている。
腕はマネキンを思わせる白さと二つほど肘関節があって、人外のそれであると確信させてくれる。
ある腕はマフラーの如く巻き付き、ある腕は頭や肩の上に垂れ下がり、ある腕は腹を抱いていた。
ホラー映画の演出のような登場にぎょっとしてしまった。
しかし、萩刈はその腕に対してあまりに無警戒であったため、恐怖より好奇心が勝ってそれを凝視してみた。
天使は警察の下っ端程度ではそうそう目撃できる存在ではないからだ。
「天使を生で見せたくて名を呼んだだけだ。貴方はもう帰ってもらって結構だ」
『ソレダケー? 天使遣いアラーーイ』
名残惜しそうに萩刈の無精髭をひと撫ですると、するするとアズライルの腕が萩刈の背に消えていった。
「今のが、警察庁と協力関係にある天使の一人だ。残りはアラエル、サハクィエルがいる。特別捜査官に任命されると同時に誓約するのは、アズライルを含めたそのいづれかだ」
「その…………天使は選択できるものなんですか?」
「ん…………興味が少しはでてきたか?」
僕は無意味かとも思ったが質問を投げかけた。
悪魔契約者である以上、天使と誓約した時点で露見するが、天使の特性次第では上手く隠し通せるのではないかという希望を抱きたかった。
「先程言ったが、意識調査を実施する。その結果で天使との適性を考える」
僕は適当な相槌を打つことすらできなかった。
仮に、隠し通せる都合の良い天使が先の三名の中に居たとして、その天使を引き当てられる意識調査の結果を意図的に出すことはできない。
そもそも天使の情報は機密事項であって、天使の名前を教えてくれたことさえ驚きだ。
「どうだ………? つらつら話したが、捜査官をやる気にはなれないか?」
僕の脳内は堂々巡りだった。
ここで受ければ高い給金が得られて家族も養えて、より悪魔契約者を捕まえて世の平和に貢献できて、出世街道を闊歩できる。
ただ、天使との誓約をの超えられなければ、財布の中身を満たすことも信念を貫くことも成し得ず、絞首台に立つだけ。
死に勝る恐怖はなかろうと人は思うかもしれないが、僕に言わせれば、ここで断って田舎の交番でじっとして、家では肩身の狭い思いをして一生うだつの上がらない、しょうもない生を噛み締め続けることの方がよほど、恐ろしい。
だから僕は、
「特別捜査官………やらせてください」
こう言うしかなかった。




