第二話 疑念
「ようやく捕らえたディーラーをおめおめ逃がして、立派に職に殉じた柊を…誇り高き無駄死ににしてやったんだな? お前は」
「………」
申し開きもなく立ち竦む萩刈の前で、初老の男性が語調に怒気を込めていた。
ナイフで刻んだような眉間のシワが一層深まっている。
「萩刈、お前は捜査官失格だな。同時に柊の師としても大失格だ。そんなお前が穴埋めの捜査官を推薦か……。新しく使い捨てのお弟子ちゃんを見つけてきたのか?教育熱心だな」
矢継ぎ早に飛んでくる嫌味に対して、萩刈は苦々しい表情で俯くに他ない。
「でぇ? お前が推薦した巡査二人だが………なんだかパッとしないな。秀でた経歴は無し。まあ、この長縄という男の、飛んでる小蝿の動きを捉える優れた動体視力と、それを捕らえる瞬発力は書いてある通りなら確かに有用だが……これ、ただ殺虫剤使っているだけじゃないのか? 渡利とかいう男が貸したと言っているが。というか、この渡利という男、何もしていないじゃないか。こいつが特別捜査官などありえんぞ」
長縄と渡利の素性や経歴などに関する書類と推薦状に目を通しながら、最もなことを指摘してきた。
確かにその両名は「ベルゼブブ特別捜査官」としては適格とは言い難い。
長縄なら、捜査官に任命されてからでも訓練次第で輝けるかもしれないが、渡利は年齢の観点から考えても明らかに肉体が衰えていて、今から訓練しても遅い。
だがしかし、萩刈の狙いは別にある。
「長縄が小蝿を捕らえたことを申告しましたが、私は少々怪しいと考えています」
「ほぅ」
上司の男は発言を促した。
「当時、長縄たちには家宅に寄ってくる野次馬の侵入の制限と状況の説明を頼んでいました。恐らく家宅を背にする形であったはずで、野次馬の対応に集中していたはずです。その間、背後の玄関の扉からひっそり出てきた三匹の小蝿に気づけるかは甚だ疑問です。件の小蝿はミリ単位のサイズであり目視しづらかったはずです」
上司の男は相槌も入れず、真摯に聴いている。
先程は萩刈を捜査官失格と詰られていたが、本来、萩刈は優秀な捜査官である。
最悪のミスを犯して尚、その言葉には傾聴の価値があると、上司の男は判断していた。
「そのため、彼らのいづれか、若しくは両名がその小蝿を介してベルゼブブと契約を交わしたのではないかと考えています」
「………ふむ」
「ただ、『小蝿ディーラー』の疑いのある人間の家宅捜索が行われているなら、背後を気にしてしまうのも頷けます。ただ単に視力が良かったから見つけられた可能性もあるでしょう。ですから、彼らを「ベルゼブブ特別捜査官」に任命し、任命式で行われる『天使との誓約』を以て盟神探湯とします」
天使との誓約が成功すれば二人は潔白。
誓約中に天使が違和感を覚えれば、そいつは悪魔契約者だとはっきりする。
「潔白が証明されれば、長縄は柊の後任として。渡利に関してはハジけば良いでしょう」
「なるほどな。流石、転んでもただでは起きないか」
流石、と言うがその言葉に感心は乗っていても、賞する意図は無い。
「まあ、捜査官不適格くらいには格上げだな」
◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇
「や—…………バレてるかな…………」
僕は凄まじい後悔の中にいた。
腹の中にはぶぶぶんと遊飛する不快な三つの何かがいる。
魔が差した、と表現することは適切ではない。
僕の行動は自身の正義に身を委ねたが故であったからだ。
あのとき、僕の優れた動体視力は固くから逃避する小蝿の一匹を目撃した。
家宅からは怒号が聴こえたし、萩刈さんと柊さんが何かしくじったのだと直感した。
その小蝿は決して逃がすわけにはいかないが、捕まえるには小さすぎるし、それ以外にも逃げた蝿がいるかもしれない。
そこで僕が下した決断は、小蝿———ベルゼブブと契約することだった。
その小蝿を匿い養ってやる契約で、己の胃に捕らえた。
ベルゼブブによる大量鏖殺を未然に防いだのだ。
しかし、どんな言い訳があっても、悪魔と契約することは法律で許されていない。
毒をもって毒を制すことは許されない。
「悪魔」の対を為す「天使」が警視庁に力を貸しているからだ。
悪魔契約者は逮捕されると大抵は契約解除を強制され、悪魔との契約は罪状から除かれた上で、罪を裁く。
契約解除が困難な場合は、問答無用で極刑の判決が下される。
これが平素の対応だ。
しかし、ベルゼブブのような大悪魔は話が違う。
ベルゼブブとの契約は小蝿を介して気軽に結ぶことができるのに対し、一度行えば死刑である。
外患誘致罪と同様、契約してから悪事を計画し未遂であったとしても、契約成立時点で死刑確定である。
「どうしたもんか………」
長くて納豆みたいな粘ついた溜め息を吐いた。
僕はカバンのポケットを弄り、家の鍵を取り出して鍵穴に差し込む。
かちゃりという音も立てぬように、慎重に玄関の戸を開けた。
背を丸くし縮こまる姿は、熊の寝床に闖入するが如くである。
リビングの扉をソロソロ開けると妻が卓に座して、スマホをいじっていた。
食卓には空になった惣菜の容器が散らばっている。
睨めつけられた。
何か音がしたから見た、という程度の無関心の視線だ。
「…………ただいま」
蚊の鳴くような声だった。
惣菜は妻自身と子どもたちの分しか用意されていないことは分かりきっているため、買ってきていたコンビニ弁当を食卓に置いた。
妻は大げさに溜め息を吐いた後、舌打ちした。
「あのさ、とっとと風呂入ってくれる? 洗濯あるんだよね。あと臭い」
「……わかったよ」
「金庫以下の価値だわ、ほんと」
脈絡のない収入に関する罵倒を背に受けながら、風呂場に向かう。
扉を開けると、洗面台の前に歯磨きをしている長女がいた。
流し目でこちらを見ると無言のまま、手早く歯磨きを終える。
そして、眠そうな半眼でこちらを一瞥することもなく、僕の横を抜けていった。
僕はキリキリと痛みだしたお腹を押さえて、目的地をトイレに変更した。
僕にとって、家は安寧ではない。
常に不機嫌な妻と無視してくる娘二人と引きこもりの息子が一人。
子どもは一人だけつくる予定だったが、三つ子で生まれてしまったため、部屋が埋まってしまっていて自室という聖域はない。
むしろ仕事場の方が、比較的に落ち着ける場所になってしまっている。
そんな仕事でさえ、ベルゼブブという胃痛案件を抱えることになってしまった。
「ほんとにどうしよ………」




