▶︎家に好かれた人間
公園のベンチに座って見上げた空は、六月だというのに夏のように高く澄んでいた。
暑くもなく、心地よい風が吹いている。多くの人が笑顔になる良い天気だというのに、私の心は鬱々としていた。
アパートに住んでいた頃、下の階の住人から騒音に関する苦情を入れられた。
実家に引っ越して十日経ったが、いまだにそのことにショックを受けていた。
(両親は好きなだけ実家にいてくれていいと言ってくれたけど。大人だし、自立したいんだよね。でも、お金が……)
ボロボロだったけど、賃料が安かったアパート。
設備が古くて建物も傷んでいたので多くの不便を強いられたが、手取り収入十五万円でも暮らしていけたのは大いに助かった。
次も同じくらい安いアパートを借りたら良いのだろうが、また同じような人に目をつけられたらと思うと怖い。
(職場の女性達と話した時も、家賃が少し高くてもオートロックのマンションを選ぶって言っていたし。安全面を考えると、次はもう少し高めのマンションを借りた方がいいかな。でも、病気したり、失業したり、事故に遭った時に、家賃を払えなくなったら困るよね)
家賃が高い場合のデメリットを回避するために必要なお金を出せない自分に対して、重たい溜め息が漏れた。
(あーあ、取り柄のない私が真っ当に稼げる手段とかないかな?)
稼げるということは、多くの人の役に立てる人なのだと思う。
けれど、私は多くの人の役に立てるような人間ではない。今までも失敗ばかりしているし、失業だって一般的な人より多い。誇れるような特技もない人生だ。
資格を取ったからといって、それが万能パスポートになるわけではない。中途採用に何より必要な”経験”が無いためか、いまだに無職だった。
(ネットも、ハローワークも、条件に合う求人がないし。でも、お給料を妥協したら、一人暮らしを再開できないし)
ハローワークの認定日だから外に出たが、うまくいかない現実と将来への不安で足取りは重かった。つい、見知らぬ公園で休憩するほどに、なんだかグッタリしてしまった。
遊具がなく、のびのび遊べるスペースもない公園には、私以外誰もいない。
多くの人が一生懸命働いているのに、公園のベンチに座って休んでいる自分が罪深いことをしているような気がした。元々少なかった自信まで無くなってしまったように感じる。
俯いていると、ふと体の上に影が差す。曇ってきたのかと思った時、腰掛けていたベンチが重みで揺れる。顔を上げて隣を見れば、八十歳くらいのおばあさんが腰掛けていた。
おばあさんはニコリと笑って会釈する。それにつられるように、私も笑顔で会釈を返した。
おばあさんは杖に手を置いて、ふうと息を吐く。歩き疲れて休憩しているのか、目の前の景色をゆったりとした視線で眺めていた。
無職であることに後ろめたさがあるため、公共のベンチに座っていることも申し訳なく思えてきた。立ち去ろうと腰を浮かせた時、おばあさんがペットボトルを取り出して開けようとしたのが目に入る。
おばあさんは、なかなか蓋を開けられずに苦戦しているようだった。お節介かもしれないが、なんとなく手を伸ばした。
「よかったら開けましょうか?」
「ああ、ありがとうねぇ」
ペットボトルを受け取って蓋を回そうとするが、固くてなかなか開かない。顔が若干ゴリラっぽくなるのにも構わずに力を入れると、ペッドボトルの蓋はようやく回った。
手渡すと、おばあさんはニコリと可愛らしい笑顔を浮かべる。役に立てたことに嬉しい気持ちになって去ろうとした時、おばあさんが「ちょっとお願いがあるの」と鞄を探り始めた。何だろうと思っていると、おばあさんは取り出した小さな紙の包みを開けて私に見せる。
透明セロハンで個包装された、艶々とした小ぶりの黒糖饅頭が四つあった。
「よかったら一緒に食べてくれない? 私一人じゃ食べきれなくて困っていたの」
突然のお呼ばれに戸惑いながらも、私は腰を下ろす。おばあさんが素早く私の膝の上に饅頭を二つ置く。私が饅頭を手に取っている間に、おばあさんは包みを開けて饅頭をぱくりと食べていた。
おばあさんが「遠慮しないで食べて」と勧めるので、私は「いただきます」と言って一口食べる。ふわりとした黒糖の香りと黒餡の上品な甘味が口の中に広がった。
「美味しい!」
思わず声が出て、私はハッとする。おばあさんは嬉しそうに笑ってくれたが、子供のようなリアクションをとってしまったことが恥ずかしかった。
「別に恥ずかしいことじゃないわ。美味しいと笑顔で食べてくれることが一番嬉しいから。……でも、あなたはそうやって何でも許容してしまうから、変なものに好かれやすいのね」
おばあさんの笑顔が消え、細められていた目が少し開かれる。
私をじっと見つめる薄灰色の目。白内障というわけではなく、全体的に灰色がかった目の異質さに、私は息を呑む。何か見透かされるような、体の奥底から撫でられるような変な感覚がした。
「例えば、本来なら、あなたのような人が住んではいけない家とか」
「……住んではいけない家?」
何を言っているのかわからない。実家のことを言っているのかと思った時、おばあさんが首を横に振った。
「そうではないのよ。あなた、最近まで古い家に住んでいたでしょう。ボロボロで、人の手入れがされていない家。持ち主が大事にしていないような、そんな寂しい場所」
以前住んでいたアパートのことだと感じた。
大家さんは自分が所有しているのに、アパートを大事にしていなかった。
外観だけが整備されたアパートの内部は、放置していたら建物が傷むような場所に大きな穴が空いていたり、窓やドアが閉まらないなどの設備不良が多かった。
管理会社に修繕を依頼した後に大家さんが来たが、「二束三文で売られていたアパートを買い取って、利用者に安く貸し出すようにした。だから、傷んでいるのは仕方ない」と話していた。家賃が安いからいいだろうとばかりに修繕を拒否されて放置された。もし、大事にしていたのなら、私が入居する前にでも直していただろう。
「あなたは自己犠牲が染み付いていて、自分以外を大事にする人ね。でもね、大事にできるものには限りがあるから、選ばなければならないの。あなたは本来は大事にしてはいけないものまで大事にしてしまった。その寂しい家のように。不幸なのは、家も本来は悪いものではないということ」
おばあさんの話は、私には理解できない分野だった。けれど、何故かじっと耳を傾けてしまうような何かがあった。
「本来、家は人に悪さをしない。だけど、とっても寂しがり屋。人に大事に愛されたい、愛した人を守りたい。それが家の本質だから。寂しかった家は、あなたが足りない愛を満たしてくれる存在だとわかって執着してしまった。あなたは何度か離れようとしたけど、家が必死に引き留めたの。それが悪いことだとは判断できずにね」
私は息を呑む。
住みにくいアパート。学生時代ならまだしも、長く住んでいたのは、引っ越そうとした時にトラブルが起こることが多くて、結局は引っ越せなかったから。
卒業前に企業から内定が出ていたのに、流行病の影響で急に取り消しになった。就職できて引っ越し資金が貯まった時に家探しを始めて、ひき逃げに遭ったり。就業先が閉店になったことも、一度や二度ではない。それに、人間関係の悩みが尽きず、病気になって退職したこともあった。
「本来は長く持たない家。あなたがいなかったら、二年前の地震で崩れていたでしょう。あなたの身を守るために頑張って耐えていたのは素敵なことだけれど、その家はやりすぎね。生き物にとって、居場所は本当に大事なの。本来いるべきではない場所にいると、苦難に遭いやすくなり、周囲に軋轢を生む。自分の持っている運を活かせない。まあ、結局はあなたの強運に負けて、繋ぎ止められなくなったのだけれど」
(私が強運? それはないんじゃないかな……)
今まで生きてこられたので、運は悪くないとは思いたいが、強運だと言われるとそれも否定したくなる。順風満帆とは言い難い人生だ。
「あなたは間違いなく強運よ。そして、あなたの強運と、あなたが使命を果たす時を待っている存在達が、縁切りのための人物を寄越した。あなたがその家に居られないようにしたの」
私はハッとする。
思い当たる人物といえば、前のアパートの下の階の住人だ。肯定するように、おばあさんは頷いた。
「一見すると不幸に見える人物との出会いは、実はより幸せな場所へ向かうための布石だったりするの。まあ、そんなことを当人は考えていないでしょうけれど。その人は、あなたと家の縁を切った。家があなたに向ける執着と同じように、あなたへの強い悪意という力をもってね」
「そ、そこまで恨まれてたってことですか!?」
「理不尽でしょう? でも、世の中にはそういう人がいるの」
そんな世の中嫌すぎる。でも、接客業をして色んな人に会っているから、納得できてしまう。
「今は色々悩むでしょうけれど、心配しなくていいわ。あなたが自分を理解し、いるべき場所へ向かうなら、とてつもない追い風が吹く。今まで無駄に思えてきたことや悲しみも全てが繋がって、あなたの人生を支えてくれる。今までは周りの犠牲になりすぎたせいで、本来あなたが受け取れるものを受け取っていなかっただけ。これからは存分に受け取りなさいな」
おばあさんが笑顔で言った後、「お饅頭、食べて」と勧める。私は回らない頭で、勧められるがまま饅頭を食べた。
「餡子は邪気払いの力があるの。あなたへ向かう悪意を消してくれる。引き留めてごめんなさい。生きている内に、存分にその命を活かしてね」
おばあさんの笑顔に見送られ、私は立ち上がる。不思議と体が軽くなったのを感じた。私はおばあさんに御礼を言って、どこか夢心地のまま家路へ向かった。
***
自分の半世紀も生きていない若い子を笑顔で見送った後、私は宙に浮かぶ黒い糸を見据える。縋るように伸ばした手のように見えるそれは、行く宛がわからずに彷徨っていた。
「無駄なのよ。あの子を求めても帰ってはこない。お前とあの子の縁は千切られた。いずれ、あの子はお前を思い出すこともなくなる。自分の使命を果たすために、今までの遅れを取り戻す分、忙しくなるだろうからね」
黒い糸が私へと向かってくる。首に巻きついた糸から伝わってくるのは、怒りを纏った深い悲しみだった。
首を絞める力もないほど弱々しい糸に、私は溜め息を吐く。
「愛し方に正解なんてないだろうけれど、それでも愛に我を出しすぎるのは違うわ。あの子に執着するよりも、自分の使命を全うしなさい」
黒い糸が力を失ったように、空気に溶けて消えていく。
私はふうと息を吐き、空を見上げた。
愛する人間を失った寂しい家。悲しみは憎しみや怒りへと形を変えて、恐ろしい力となる。その力は、一体どこへ向かうのか。
私は杖を支えに立ち上がる。
「まあ、あの子にも私にも関係ないことだわね」
愛、優しさ、関心。それは誰にでも何にでも振りまくものではない。大事ではないものを大事にしないのは、身を守る術の一つであると思うから。