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▶︎騒音加害者



「にゃーお」

 

 外からだろうか。猫の大きな鳴き声がする。

 最近、アパートの周りで猫を見かけるようになった。野良猫なんて今までいなかったのに、誰かに捨てられてしまったのだろうか。


 お腹を空かせていないか心配しながらも、私はスマホ画面に映し出されているオンライン授業へと意識を戻した。


 三週間前、働いていた販売店が経営不振のために店舗を畳むことになった。予定外に無職になってしまったが、雇用保険を受給できるのは幸いだった。求職活動をしながら、再就職に有利になるように資格取得を目指せるのだから。


(学生の頃はあまり好きじゃなかったけど、こうして久々に勉強すると楽しいな)


「うるさい!!」


 オンライン授業の音声を掻き消すほどの怒鳴り声に、私はビクリと肩を跳ね上げる。声の出所は下の階の住人のようだ。猫が鳴く度に、何度も怒鳴り声を上げていた。


(え、怖。まさか、猫に危害を加えたりしないよね?)


 そう危ぶむほどの怒鳴り声。

 私は勉強を中断してイヤホンを外し、ハラハラとしながら下の階から聞こえる音に注意を向ける。ドタドタと部屋を徘徊するような足音はするが、窓が開けられる様子はない。猫が鳴き止んだことで、怒鳴り声は聞こえなくなった。


(猫が逃げてくれたのかな? 何もないならよかった。でも、下の階の人って怖い人なのかな?)


 思えば、二ヶ月前に下の階の住人が変わってから、度々大きな物音がするようになった。深夜に室内を徘徊する足音や窓を勢いよく閉める音で何度か目を覚ましたことがあった。


 初めはびっくりしたが、このアパートは交通量の多い道路に面しており、四六時中騒音がある。繊細な人なら絶対に暮らせないだろうが、学生の頃から住んでいた私はもう慣れてしまった。


 下の階の住人も今までは動作が荒いだけの人だと思っていたし、騒音はお互い様だからと気にしていなかった。しかし、二十三時に聞こえる怒鳴り声は、かなり危険だと感じる。


(下の階の人、ずっと働いていないみたいなんだよね)

 

 私がまだ働いている頃に有給を使って家にいる時も、下の階の人はずっと家にいるようで、大きな物音がしていた。

 私が無職になって家にいるようになってからも、下の階の住人は常に家にいる。在宅ワークの人かとも思ったが、このアパートは木造で音が筒抜けだから個人情報が漏れる可能性があるし、通信環境も不安定だから不向きだろう。


 気にはしながらも、私は勉強を再開する。すでに試験の予約も入れてしまっている。受験料もバカにならないし、何より早く就職したいので絶対に受からなくては。


 集中して勉強していたからか、気づけば日付が変わり、深夜一時を過ぎてしまっていた。


(眠いなと思ったら、もうこんな時間。そろそろ寝なくちゃ)


 私は床に(かかと)をつけないように静かに歩き出す。深夜なので、音が大きく響く踵歩きにならないように気をつけなければならない。トイレに向かった後、寝支度を整えて、私はベッドに横になった。


 ふうと息を吐いて、明日の予定を考えていると、ゴオンと壁に何かが勢いよくぶつかる音がする。

 また下の階の人が壁に体をぶつけてしまったのだろうか。大丈夫かなと思いつつ、勉強で疲れた頭はすぐに眠りへと落ちた。



 次の日の夕方。

 家で問題集を解いていると、スマホが振動した。画面を確認すれば、管理会社から電話がかかってきている。


 管理会社からの連絡は、大抵は手紙だ。直接電話がかかってきたことを不思議に思いながらも、私は応答ボタンを押す。簡単な挨拶の後、管理会社の人は言いにくそうに話を切り出した。


「今二階に住んでいる皆様にお願いしているのですが、深夜の足音や電話、テレビの音は控えていただきたくて」


 私は首を傾げながらも、「わかりました」と答えて電話を切った。


(こういうのは初めてだな。下の階の誰かが苦情を入れて、二階に住む人達に伝えているのかな?)


 私も昨日一度トイレに行ったが、気を付けていたので苦情を入れるほど大きな問題ではないだろう。


(隣の人は夜勤だから、深夜や早朝に足音やお風呂の音はするけど、それは仕方ないと思うんだよ。二つ隣の男性も優しい感じの人だったし。新しく入った留学生の人は、部屋が離れ過ぎててわかんないけど)


 考えていると、下から着信音らしきものが聞こえた。下の階の住人の声が大きいため、会話が聞こえてくる。聞こえないようにした方がいいだろうと、私はイヤホンケースを手に取った。


「ありがとうございます! もう本当に上の住人には迷惑してたんで助かります! また何かあったら、厳しく注意してください!」


(え?)


 私は手を止めて床を凝視する。どうやら、苦情を入れた人物は、私の真下の住人のようだ。


 真下の住人が二階の騒音について苦情を入れるとしたら、私か、私の隣の住人。隣は今日は朝方に帰ってきたようだし、テレビの音がしたことはなく、電話の声も私の知る限り、最近は聞こえていない。


 私が深夜にトイレに行った次の日に連絡があったということは、苦情相手は自分だろう。


(嘘でしょ!? 私が騒音を出した側なの!?)


 下の階ほど大きな足音や物音を立てていない筈。それに、家にテレビはない。電話があったとしても二十時までには終わるので、下の階の人の言葉には納得がいかなかった。


(自覚していなかっただけで、私も騒音を出してた? でも、外で毎日のように深夜まで騒いでいる留学生や大学生達ではなく、私に苦情を言うなんて……。もしかして、変な目のつけられ方をしたのかも)


 数日前、部屋でオンライン面接を行った。その声で、私が女性であると知ったのだろう。

 過剰に考えたくはないが、私相手ならば強気に出ても仕返しされないと感じたのかもしれない。


(怒鳴り声も怖かったし。目をつけられたのなら、あまりここに長くいない方がいいかもしれない)


 悲しいことに、今は無職。新しく賃貸契約を結ぶために必要な『収入』という信頼はない。両親に迷惑をかけるかもしれないが、実家に避難する方が良いだろう。


(まさか、この歳で実家に帰ることになるなんて……)


 実家の両親に負担をかけたくなくて、大変な時が多くても乗り越えて一人暮らしを続けていたのにと肩を落とす。しかし、身の安全を考えれば、引っ越す方がいいに決まっている。


 実家に連絡すると、両親はすぐにでも帰ってくるようにと言ってくれた。

 その後の勉強は身が入らず、自分が騒音加害者となってしまった事実に落ち込んだ。


(本当は今夜も勉強したかったけど、早めに寝るようにしたほうがいいよね……。明日から早く起きて勉強すれば間に合う……のかな?)

 

 食事や家事、入浴も早めに済ませ、二十二時にベッドに入る。早く寝なければと思うが、昨日寝るのが遅かったからか、なかなか眠れなかった。


 ──ドン! ドスドスドス、ドン!


 苦情を言われて過敏になってしまったのか、私も下の階の物音が気になってしまうようになった。

 ゴオンと壁にぶつかる音がする。今までは下の階の住人が体をぶつけたのかなとしか思っていなかったが、これは世に言う壁ドンではないのだろうか。


(嫌なドキドキしかない。壁ドンなんてしたことがなかったから、そんな発想はなかったな。このアパートは古いのに、これ以上、壁が傷んだらどうするつもりなんだろう?)


 身じろぎすらせずに静かにベッドに横たわっていると、鳥が止まったのか屋根からミシッと音がする。それが聞こえたのか、またゴオンと壁を叩く大きな音がした。下の階の住人は、私が出した音だと思ったのだろう。あちらもイライラしているのだろうが、こんなことをされては、流石に私も怒りが湧く。


(音は上に響くもの。木造住宅は、一階の物音も二階によく響くのを知らないのかな? こっちに苦情を言うのなら、そっちも気をつけて欲しいのに)


 こちらも苦情を入れたくなるほど、今日も下の階からの足音や物音がよく響く。理不尽さを感じるが、ぐっと堪えた。


 また猫の鳴き声が聞こえる。

 ドンという大きな物音と共に、猫の異様な鳴き声が聞こえて怖くなったが、きっと大丈夫だと思いたい。



 なかなか勉強に身は入らなかったが、なんとか無事に資格試験に合格した。

 安堵する間もなく、引越しの準備を進めていく。


(明日引っ越しなのに、なんだか実感ないや)


 引っ越し前日。電気を消してベッドに横たわった後、自分の部屋を見回す。

 住み慣れた一人暮らしのアパート。九年も住んでいたため、思い入れがある。


(事前に部屋を内見できなくて、でも家賃が安くて駅も近いからって、ここに決めたんだよね)


 大学に近くて、治安がいい場所。バイト代で生活できることや交通に便利なところ。それで選んだ。

 引っ越してみたら、いろんな場所が壊れてて、想像以上にボロボロだった。古くて不便だけれども、自分で修理して、毎日掃除して、大事に手入れしていた。

 

 窓から見える、建物の裏にある丘。春には、たくさんの桜が咲いていて、桜吹雪が舞う景色がとても綺麗だった。夏に咲く名前の知らない黄色の花の群生、秋の夜の鈴虫の声も心地よく、冬は暖かい部屋から雪化粧された景色を眺めるのが好きだった。

 

(ついに、お別れか)


 引越し当日。

 自分の荷物が一個もなくなった部屋を、今までの感謝を込めて隅々まで綺麗に掃除する。ガスや水道業者、管理会社の立ち会いも終わらせて、私は部屋を出る。


 外階段を降りて、アパートを振り返る。引っ張られるような思いもあるが、もう断ち切らなければならないだろう。


(さようなら。今までありがとう)


 私は心の中で別れを告げて、長く住んだアパートを後にした。


 

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